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10. 奥様ですか?

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 今年のお盆は、お腹が大きいから東京の実家には帰らないと義妹が言う。
 あちらのご両親も初孫とのことで大変楽しみにしていて、娘にも会いたいがなにかあってはいけないからと盆帰省は諦めてくれた。
「うわ、助かるわー。盆もやってるとは思わんかったわ!」
 顔なじみのトラックドライバーが港のフェリーから降りて来店してくれた。
「いらっしゃいませ。今年は営業することにしたんです。ドライバーさんも年中無休で大変ですね」
「ほうよ、物流に休みはないけんな。いまからまた高知までよ」
 ここから高知までまだ三時間から五時間はかかかる。そのまえに腹ごしらえ、盆休みでいきつけのお店が軒並み休みだったと教えてくれた。
「うっそー、開いてる。よかった!」
 今度は常連のママさんがお子様を連れてやってきた。
「妹が帰省してきて、どこかでごはん食べようということになったんだけれど、ここに連れてきたかったのよ。でもマスターとお姉さんだけでしているからお盆も休みかと思ったのに」
「今年は営業することにしたんです。お盆なのに来てくださって、ありがとうございます」
 お盆なのに、いつも通りの来客数で忙しく過ごした。
 ただし通常定休日に、任されている墓参りや先祖供養もこなした。私がお嫁さんだから、これからやっていくんだからと、莉子が細々とこなしてくれたおかげだった。
 こうして若くても、三人で力を合わせていけばなんとかなるね。盆棚の位牌に手を合わせ、弟夫妻とそう話す。
 やはり、彼は来ない。もう夏も終わろうとしている。夜風が少し涼しくなって、でも潮の匂いも変わらないし、美鈴は彼のジャケットの匂いも、肌の匂いも覚えている。吐息の熱さも、彼が肩に飼っている寅の目も。まだ鮮烈に……。
 オレンジティーがお供のレジ締めをしていると、コックコート姿の弟がひと息ついてキッチンから出てきた。
「なあ、もう忘れられそうか」
「え?」
「ほら、あの人のことだよ」
 なにも聞かなかった弟が初めて、彼のことに触れてきた。
「だって。もう二ヶ月ぐらい? 経ちそうなのに、来ないんだろ」
 美鈴は素直に頷く……。
「莉子がなんか言ったみたいだけどよ。正直、俺はほっとしている」
 夫と妻の間でも、姉ちゃんの恋についていろいろ話していたようだった。莉子が『会いに来たらついていっちゃいなよ』と言ってくれたこと、弟にもそうしてあげて欲しいと彼女はお願いしていそうだった。
「もし。あの人が会いに来ても、姉ちゃんがどうしてもついて行くというなら、俺達とは縁を切ってくれ。子供も生まれるし、反社会的な親戚はいらない」
「わかってる」
「莉子が、……その、姉ちゃんの身体……、女として、その、なにも起きなかったみたいだと教えてくれたんだけど、……そっちも安心したというか」
 先月、無事に生理が来たことを言っているのだと思った。姉弟だからって、異性としてのデリケートな部分に触れるのはタブーであって、むしろ『生理』なんて平気で話せるのは義妹の莉子のほう。
 それでも莉子にわざわざ、彼と愛しあった後だけれど生理が来たよなんて告げていない。でも一緒に暮らしていると、そういう様子は女同士には判ってしまうもの。莉子はそうして知ってくれていたのだろう。
「だから、私ももう……。なんともないから」
「そっか……、ど、どうなるかと思った。あの夜、やっぱ引き留めるべきだったって」
「ありがとう。あの日、私を行かせてくれて。きっと……。死ぬ時まで忘れないと思う」
 千円札と一万円札を数えながらも、そう言いきった姉に弟がとてつもなく驚いている。
「そんなに……?」
 美鈴は静かに頷く。
「くっそ。なんで、なんで、ヤクザなんだよっ。そうでなければ俺だって!」
 美鈴だけではない。宗佑もいちばんの常連客を失ったのだから。彼に食べて欲しくて、でももう彼が来るはずもなく、自分で追い出してしまった虚無感に襲われてる。彼がこれを食べてなんと言ってくれるのか、怖い顔をしていても、あの人が食べて美味いと感じてくれた時には、ちゃんと表情がある。弟はそれを励みにしていた。
 彼に出入り禁止を通告した後、弟も苛立っていた時があった。あの人が来るから、こういうものを作ってみようと未だに思ってしまうこともあるようで、でもそうじゃないと溜め息をついていた。
「もう、いいじゃない」
「そうだな。これでお終いだ!」
 だから姉ちゃんももう忘れろ。念を押された。
 群青の空に溶け込む港、今日も静かに『Dining cafe Marina』の灯が落とされる。



 ―◆・◆・◆・◆・◆―



 夕にひぐらしの声。まだ夏の気配はあるけれど、夜になるとどことなく秋の気配。
 そろそろ閉店。今日もちゃんとオレンジティーを仕込んでおいたし、あともうちょっとで飲める。あとひと息! 最後のお客様の精算待ち、レジカウンターで美鈴はふと思う。いつのまにか『SV』という仕事への未練のようなもの、なくなっちゃったなあと。
 弟に店の回転と店内管理を任されて、姉ちゃんがいると料理に集中できると言ってもらえて、顔なじみのお客様も増えて……。港の匂いがする海が見える窓辺を眺められる楽しみとか、まだ身体の奥で熱いままくすぶっている恋を想ううちに、『OL時代』が過去のものになっていくことに気がついた。
 弟は料理人だけれど、莉子ももともとはパティシエの卵。フロア接客をしながら、デザートも手がけてくれていた。出産を終えたらまた勉強をして、お店のデザート担当になると張りきっている。
 そんな弟夫妻を見ているうちに、美鈴にも芽生えてきたもの。『私はコーヒーや紅茶の入れ方を覚えたいな』だった。
 既に下調べもしていて、この街の有名な老舗喫茶が『講習会』を定期的に開いていることを知ったので、それにまず参加してみようと申し込みをしたところだった。
 弟たちも、美鈴が彼のことで落ち込んだりせずに、新しいことに興味を持ったと安心したようだった。
 でも。美鈴の中ではちょっと違う気持ちがある。
 コンタクトセンターでの『SV』という管理職が、自分の人生で獲得したもののなかで最高のものだと思っていた。センター長という出世を見込まれたかっこいい恋人もいたから、女としてもいちばん輝いていると思っていた。お洒落もして、女子力最前線を追うように楽しんでもいた。
 なのに、恋人の栄転をきっかけに、女の自分だけ上手く軌道に乗れなくて、自分で勝手に脱落してめげていた。でも違う。あの人に出会ってから、美鈴の中にあるものががらっと変わってしまう。『私、こんなふうに見つけられるし、こんなふうに勇気が出るんだ』と知ったから。
 あの人とはもう会えそうにない。だけれど、彼が美鈴にそんなことを残してくれたと思っている。
 最後のお客様が精算を済ませた。
「オレンジティー、オレンジティー」
 待ちに待ったお茶タイム、まだレジ締めがあるけれど、それを楽しみにしてアイスティーにオレンジの輪切りを入れて冷やしてある。
「お茶する前に、灯り落として来いよ」
「もう、わかってるよ」
 弟に窘められ、美鈴はオレンジティーをグラスに注いでレジまで持っていき、ひとまず入口のガラスドアへと向かう。
 看板の灯りを落として、ドアの上の照明も落として、クローズの札にかけ直す。
「おしまいですか」
 静かな声に、美鈴はどきりとして振り返る。
 暗がりになる店先、そこに人がいる。
 だがあの人ではない。着物姿の女性だった。
「はい。たったいま。もしかしてお食事をお探しですか。よろしければ店長に間に合うか聞いて参ります」
 着物姿の女性が優しく微笑み、首を振った。
「ありがとうございます。ですが違います」
 だったら何故? 訝しむ美鈴をまっすぐ見つめるその女性が言った。
「このお店に通っていた人についてお聞きしたいのです」
「そうでしたか。わかりました。どうぞ、お入りください」
「ありがとうございます。お邪魔いたします」
 上品な口調に、柔らかな微笑み。少しふくよかでころんとした愛らしい女性。夏らしい紗の着物を着こなす奥様ふうの。どのような人を捜しているのだろうか。
 宗佑も戸惑っていたが、着物姿の彼女が座れるよう席を用意してくれた。
 テーブル席で向かい合い、美鈴にはオレンジティーが置かれる。彼女には、コックコート姿の弟がメニューを差し出す。
「よろしければ、是非。メニューからお好きなものお選びください。閉店したのでお代はいりません。サービスです」
「あら。ではせっかくですからお願いしちゃおうかしら」
「デザートもありますし、お食事も少しなら残っております」
「食事はしてきたの。そうね……、お醤油屋さんのバニラアイス?」
「この港町で江戸時代から続いているお醤油屋さんのたまり醤油をかけて食べて頂いております。塩アイスと似たようなものですけれど、風味が……」
 美鈴はそこまで言って黙る。
「風味が?」
「いえ、聞かずに食べて頂いたほうがおいしく感じられると思います」
 あの人の時と同じように言ってしまう。急に泣きたくなってきた。
「では、そちらと。アイスティーをお願いします」
「かしこまりました」
 弟がキッチンへ下がっていく。でも何事だろうかと肩越しに振り返り、気にしていた。
「突然に訪ねまして申し訳ありません。少々急ぐことがありまして、不躾に参りましたことお詫びいたします」
「いいえ。こんな夜遅くお客様が引くまでお待ちくださったようで、かえってお気遣いさせてしまいました」
 すると、彼女が嬉しそうに笑う。
「まあ、どのような方かと思っていましたけれど。もう良くわかりました」
「あの、なんのことでしょう?」
 美鈴がきょとんとしていると、涼やかな紗の着物の彼女が笑いを収め、今度は真剣な目つきに変わり、美鈴の目の前に一枚の写真を差し出した。
「こちらの男性に覚えはありますか」
 この男性が着物の彼女が探している人?
 そこに凛々しい警察官制服姿の男性が写っていた。その隣には着物姿の彼女が、男の腕に甘えるようにして寄り添っている。
 でも見覚えがない。品の良い彼女と同じように清廉そうな男前フェイスの人。あの人もこんな男らしい顔で、黒い瞳で……。そこで美鈴は、ゆっくりと目を瞠る。
 弟が醤油屋アイスとアイスティーを持って席にやってきた。
 彼女の傍らに置くと、弟にも彼女は問う。
「店長さんもいかがですか。この男性がこちらに通っていませんでしたか」
「おさがしの方ですか」
 宗佑もその写真を覗き込んだ。しばらく眺めて後、彼も気がついた。
「あの人? まさか」
 警官制服姿の彼を知り、宗佑は力が抜けたようにして美鈴の隣の椅子にへたりこんだ。
「姉ちゃん、ちょっと貸してくれ」
 震えてただただ呆然と写真を見ている美鈴の手から取りさる。写真をテーブルに置いた宗佑は、男の顔の下半分指で隠した。
 美鈴もそれを見て、疑いようもなくさらに驚かされる。
「うわ、あの人だよな。な、姉ちゃん」
 この店に来ていた彼はいつも不精ヒゲの厳つい顔だった。でも髭がなく制服姿の彼は凛々しく清潔感に溢れている男らしい人。
 弟の目が輝いた。でも、美鈴は震えが止まらなくなる。
 うそ、あの人……だって入れ墨があって?
 それに目の前にいる女性は? 彼の奥様? こんな制服姿の彼の腕に抱きつくようにして写っているのに。
 だからなの。だから、何も言ってくれなかったの?
 だったら。私はこの奥様にしてはいけないことを?
 宗佑もまだ飲み込めないのか、男の顔を半分隠しては眺め、全体の顔にしては眺めを繰り返している。着物の彼女がはたと何かに気がついた。
「あら。そうだったわ。いまその顔ではないかもしれません」
 ちょっと待ってくださいね――と、彼女が持っていたバッグからスマートフォンを取り出す。
「これですの、これ。娘と息子と写っているこれが最近のものですの」
 娘と息子!? もう美鈴はふらっと気が遠くなってきた。
 やだ、妊娠していたら良かったのになんて思っていた自分の首を絞めたくなってきた!
 また、痛い恋をしてしまった。後先考えず行動をするからこうなる。間違っていた! ほんとうに馬鹿だった!!
 もうこれで彼に会おうとか、会いに来てくれるだなんて問題ではなくなってくる。なかったことにしなくてはらならない! 
「これなんです。この子達、兄がこんな髭の顔になったの凄く嫌がっていたんです。ここ半年なんですよ。こんな顔にしたの。最近も剃らずにこんな顔で仕事しているのかしら」
 スマートフォンを差し出してくれたそこには、中学生ぐらいの男の子と小さな女の子が、黒いジャケット姿の彼と笑顔で写っているもの。彼の顔は美鈴と宗佑が知っている髭面の男だった。
「もうほんと、ただでさえ兄は無愛想なのに、こんな髭の顔になって……。でも面白いから写真を撮ろうと子供達がふざけて撮ったものなんです」
 もしかして、いまの兄はこんな顔でしたか?
 着物の彼女が愛らしい微笑みで聞いてくる。
「あのこの写真の男性は、お兄さん、なんですか」
 宗佑がまた唖然としながら聞いた。
 警官? 兄? じゃあ目の前の女性は妹さん? スマホの子供達は甥っ子に姪っ子?
 今度は違う涙が滲んできた。もう訳がわからなくて、じゃあ、もしかすると……、彼はもしかすると……、まだ、期待してもいい?
「はい。兄です。広島で警官をしております。私は妹の香江(かえ)と申します」
「お兄さんは、その、独身ですか?」
 もう言葉も出ない美鈴の代わりに宗佑が色々聞いてくれる。
「独身ですよ」
 何故か妹の香江がにっこりと美鈴に微笑んだ。

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