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9. マリンブルーの日々

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 彼が冷たいミネラルウォーターをシンプルなコップに入れて、ベッドまで持ってきてくれる。
 トラの尻尾が見える背中、裸のまま窓辺に行った彼が、少しだけ窓を空かしてくれる。
「クーラーがなくて申し訳ない」
 タオルケットにくるまっている美鈴がいるベッドに戻ってきてくれる。
「ここにずっと住んでいるわけではなさそう……」
 見るからに仮住まい。なにもかも簡単なものしかなく、家具はベッドとダイニングテーブルぐらい。
 そして彼はやっぱり答えてくれない。
 ベッドの下に脱いだ時に放ってしまったエプロンを彼が拾った。
「ほんとうに、なにも持たずに……。俺のところに」
 呆れたような溜め息を落としつつも、彼の目元が嬉しそうに緩んでいるのを見てしまう。
 彼を追いかけてそのまま。所持品はポケットにたまたま入っていたスマートフォンだけ。
「弟さん、心配しているんじゃないかな」
 彼が我に返ったようにして、美鈴のポケットに入ったままの電話をみつめている。でも決して手に取らない。美鈴も取らなかった。
「ちゃんと帰りますから」
 そして彼はなにも言わない。
 寅の尻尾しか見せてくれない背中、その背に美鈴はそっと頬を寄せた。
 この人、これからどこに行っちゃうんだろう。いずれ仮住まいのここを引き払ってしまいそう。なんのために、この港町に来たのだろう?
 一晩だけ。そう思ってきたけれど、女を連れ込むことなど想定外だった男の部屋に、女と隔てるためのものは準備されていなかった。
 なんの準備もなく愛しあってしまうことをわかっていて、それでも望んで。後先なんか考えずに。ふたり一緒に越えてしまった。
 なまぬるい潮風がベッドにいるふたりを静かに撫でていく。
「タケルって、どんな字を書くの」
 トラの尻尾を撫でていた美鈴へと、彼が肩越しに振り返る。
「尊の字、一文字でタケル」
 名字はと聞けなかった。聞いたらもしかして、なにもかもがわかってしまって二度と近づけなくなる気がした。いままで同様に彼からも、何も言わない。
「うちのお料理、食べに来てくれてありがとう。弟がいつもあなたのことを気にしていたの」
「彼の料理は、俺のような中年でも口に合ったからね」
 彼がにこりと笑った。あれ、どこかで聞いたことあると美鈴は思った。
「中年って……。尊さん、幾つなの?」
「はは、言いにくいな。美鈴さんの肌が若くて綺麗で堪らなくて……、俺には勿体ないけど、我慢できなかった。そんな歳だよ」
「え、わかんない」
 彼がちょっと楽しそうに笑って、背中にいる美鈴へと振り返り、そっと抱き寄せてくれる。
 店ではひとつに束ねていた黒髪をほどいているので、しっとりと肩先まで流れている。その毛先を彼が長い指に巻きながら、美鈴の目を覗き込みながら言う。
「あなたの身体が、若くて綺麗に感じる。黒髪も、触り心地がいい」
 そういいながら、また美鈴の肌、乳房にそっと触れてくる。そしてまるで美鈴になにも言わせないよう口封じをするようにキスをされる。
 またベッドに押し倒され、彼が美鈴の上に重くのしかかった。
 彼の目がまた、美鈴の真上で真剣に輝く。
「女を、こんなに欲しいなんて、久しぶりだったよ」
 そして彼が付け加えるように小さく呟いた。『40だよ』と。また何かを聞き返しそうな美鈴の口元が塞がれる、息苦しいキスを何度も繰り返され、美鈴も彼のことを知りたい気持ちがなくなっていく。
「あん、……尊、さん」
 久しぶりだという男の勢いは、夜遅くまで続いた。
 美鈴の柔らかな皮膚に、彼は何度もキスをして、痕を残して。汗ばんだ肌を優しく舐めて愛してくれた。





 少しだけ冷たい朝の海風。うっすらとした黄金の色が水平線にこぼれはじめる夜明け。
 彼が店の前まで送ってくれた。
「尊さん、素敵だった」
 別れ際、いつもの白いシャツに黒いスラックス姿の彼に美鈴はうつむき加減に呟く。
 彼の指がそっと美鈴の指に触れる。
「また会いに来るから、待っていて」
「でもお店にはもう……、弟が来ないように言っているから来られないでしょ」
 だから連絡先を教えて。そう言おうとしたのに。
「自分は誰とも連絡を取らないようにしているから。でも絶対に会いに来る」
「どうして連絡先、教えてくれないの」
「俺と関係している女とわかったら危険だから」
 そう聞いて、美鈴は愛おしく感じ始めていた彼の肩にある寅の顔を思い出し、再度の恐怖を感じた。
「また弟さんの店に迷惑をかけたくない」
 彼を通じて、あの店を危険に陥れたらいけない。美鈴もそれは絶対に避けたいことだった。それでも昨夜の弟はきっと『姉ちゃんはあの人を気にしていた。男として気にしていた』と感じ取っていて、だから『今夜だけだ』とばかりに送り出してくれた。気持ちが赴くまま行かせてくれた弟に、もう迷惑はかけられない。
 ほんとうはこれっきりで別れなくてならないはず。
 そして彼も、本当は? 優しいふりして、美鈴とこれっきりここで別れようとしている? 傷つけないように? 
 大人の女なら、うまく、綺麗に、優しく別れてくれ?
「うん、待ってる」
「じゃあ、美鈴」
 最後のキス。セックスの時の熱くて濃厚なあちこちを濡らされるようなキスではなくて、優しくて、でも別れを惜しむ甘いキス。
 ずるいと思った。でも彼の目が、美鈴が信じている惹かれた真摯な黒目。
 そう、私はこの人を信じると言ったんだから。
「いってらっしゃい、尊さん」
 彼がすこし驚いて、なんだか泣きそうな顔になってしまった。それって私を裏切るから泣きそうなの? 泣く泣く捨てるから? それとも……?
「行ってくる」
 あの厳つい顔に戻ってしまった。背を向け、寅を背負った男が去っていく。
 あの仮住まい。彼はここになにかがあって身を寄せているだけで、ほんとうはこの街の人間ではない。仕事なのか任命なのか、またどこかへ行ってしまうような人なんだ。
 でも美鈴は信じる。寅を背負っていても、彼は、尊さんはそんな人ではないと。



 ―◆・◆・◆・◆・◆―



 翌日からも美鈴は、いままでどおりに店の仕事をした。
 梅雨が明け、彼と別れてから一週間が経っていた。
「美鈴さん、四番テーブルのランチできたよ」
「はい、店長」
 弟も何も言わなかった。でも義妹の様子が、美鈴を心配するものに変わっていた。
 弟夫妻のふたりは、あの晩、きっととても心配して待っていてくれたのだろう。
 雨降りの季節が終わり、暑い陽射しが入り込む夏本番を迎えていた。
 湿気ていた空気が爽やかになり、閉店前のレジ締めのお供にはオレンジティーを作るようになった。
 千円札を数えている時、ふと潮の匂いがすると、美鈴は手元を止めてしまう。灯りを落とした店のガラスドアへ視線を馳せる。船のライトがちらつく港が向こうに見えるだけ。
 連絡先もない人を、もうこの店には訪ねてこない人を待っている。でも、彼が連れて行ってくれたマンションを訪ねると、借り手を求めるチラシが貼ってあった。
 あのあと引き払ってしまったようだった。それから不安に苛むようになる。
 やはりあれきりだった? 背中に寅のある男は女渡りも慣れていて、朴訥なふりして綺麗に遊んで別れられる人だった?
 私の身体の中に残していった、あなたの痕。それはどうなるの……。
 もし、妊娠していたら……。
 そうして不安になるのは当たり前であって、でも美鈴には不思議な感情も芽生えていた。
 もし妊娠していたら。あの人を捜せる? 引き留められる?
 打算的かもしれないけれど、謎ばかりの彼を捕まえられるのではないかという気持ちがあった。
 店締めを終えて、弟と二階の自宅に戻る。
 弟がお風呂に入っている時だった。女二人だけになったのを見計らったようにして、リビングでくつろいでニュースを見ている美鈴に、義妹の莉子が話しかけてきた。
「すずちゃん、あの……聞いてもいい?」
 ソファーでオレンジティーの残りを味わっていた美鈴も、ああ彼のことだとすぐにわかった。
「なに、莉子ちゃん」
「私は一目も見たことない男性だけれど……。その人、どうしちゃったの」
 答えにくかった。また会いに来ると約束したから安心してと言えば、姉がヤクザの男とこれからも関係していくことを示唆することになる。それをヤクザに店を荒らされ怒りを見せていた弟夫妻が許してくれるわけがない。あれっきりだと言えば、安心してくれるのだろう。その答を聞きたいに違いない。
 でも美鈴は彼が会いに来てくれると信じているから……。その気持ちを言えない。
 ほんわりおっとりしているお嬢様ふうの可愛い義妹が、泣きそうな顔で美鈴を見ているのが辛い。
「すずちゃん。宗佑もね、ヤクザでなければ、ほんとうに良さそうな男だったと凄く惜しんでいたよ」
「そう……」
「かまわないよ、私。彼が会いに来てくれたら、すずちゃん、私達のことはかまわないから、彼についていっちゃいなよ」
 義妹の意外な言葉に、美鈴は驚き固まった。
「すずちゃんが、後先考えられないほどに投げ出しちゃった人でしょ。気持ちが本物ってことなんでしょ。東京に行っちゃう元カレについていけなかったのは、それほどの気持ちが、最初からすずちゃんになかった。それだけだよ。なのに、あんな危ない男とわかっていても、すずちゃん、追いかけて行っちゃったんだよ。私達はなんとかやれるから、連絡先だけ教えておいてくれたらいいから、宗ちゃんは私が見ているから、すずちゃんも自分のことだけ考えて」
「莉子ちゃん……」
「わかるんだ、私。だって、私も、ずっと育った土地を出てもいいって思えるほどだったんだもの。いまはこの港の街が好き。大好き。私のあの時の気持ち、親に止められて諦めていたら、こんなふうにはならなかったし、泣いていたと思う。だから、ね。宗ちゃんには黙っておくから、ね」
 今度は美鈴が泣きたくなってくる。ほんとうに弟はいい子を見つけたなと思う。一緒に暮らせる女の子見つけてくれたなと思っている。
「ありがとう、莉子ちゃん。うん、会えた時に決めるね」
 莉子ちゃんが言ってくれたこともちゃんと胸の中に留めて、考えるね。そう伝えると、少しはほっとしてくれたようだった。
 だからって。もうすぐ子供が産まれるのに。慣れていない土地に来たお嬢様と、経営にいっぱいいっぱいの夫では、子育てですれ違わないか心配。
 そう考えると、ほんとうに『後先考えず』だった。自分の気持ちに正直に突っ走って彼にぶつかったこと、愛される満足は得た。でも、周囲の迷惑は……。それでも送り出してくれた弟、自分のことを考えてと言ってくれる義妹。やるせなかった。
 その数日後、生理が来た。
 終わったかも。私の恋。一瞬の恋。
 夏の遅い日暮れ。ディナータイムのお客様でフロアが賑わっている最中、美鈴は店の外に出て入口ドアの照明をつける。そっと港へと振り返る。あの人を追った道。
 港の夕凪を見つめて、美鈴の中に襲ってくるむなしさ。
 エプロンの上から下腹を静かに撫でる。ここにもし、彼との子ができていたら……。会えた気がしたのに。
 あの人はもしかすると、近くにいるくせに遠くから美鈴とこの店を眺めて、美鈴になにもなければそのまま去っていってしまうのかも。
 信じていると言っておいて、やっぱり不安。彼と離れてもうすぐ一ヶ月。美鈴は初めて涙を流していた。

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