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8. シュガーブルーの夜
しおりを挟む雨上がりの夕方、まだ少し波立つ港の向こうは鮮やかな茜の空が広がっていた。
潮の匂いも濃く、店のドアや窓を開けているとふわっと入ってくる。
子供の頃から見てきた港の空、海、そして匂い。同じだと、美鈴はほっとするように微笑み、胸いっぱいにその空気を吸い込んだ。
本日のディナータイムも満席になった。お洒落なOLさん達に、トラックドライバー、そして残業中か残業帰りの独身ビジネスマン。こそこそと待ち合わせをするような男達はもういない。
閉店前、ざっと通り雨が降った。雨が上がると月が見え、また濃い潮の匂いが開けている窓から入り込んでくる。
長いお喋りを終えたOLさん達が閉店時間と知って、最後に精算を済ませた。本日の営業が終了する。ドアにクローズの板を掛け、灯りを落とした。
美鈴はレジ締めと、パソコンに経理の記録。宗佑は片づけと明日の仕込みを始めている。
店内の照明も半分落としてほのかな灯りの中、レジ締めをする。開いている窓から、湿った蒸し暑い潮風が流れてくる。
でもこれは夏の始まりの匂い。もうちょっとするとオレンジティーがとてもおいしくなる。レジ締めのお供に作ろうかなと心が夏へと向かっていく。
潮風とオレンジの……。そして男臭い、湿ったジャケットの匂い? 千円札を数えていた美鈴はハッと顔を上げる。
灯りを落とした店の入口ドアに、黒い人影。一目でわかり、美鈴ははらりと千円札の束をレジに落としてしまう。
潮の香とオレンジの匂いと、彼の匂い。気のせいではなかった。
ドアがそっと開く。
「こんばんは」
もう息が止まりそうなほど驚き、言葉が出ない。
宗佑もドアが開いたため、キッチンから出てきて、彼が来たと知り驚きで硬直していた。
「お久しぶりです。閉店ですか、間に合いませんでした」
厳つい男と警戒していたのに、いまそこにいる彼の何もかもが穏やかで優しく見える。
男に表情もあった。憂いを含めた眼差しで、でも、申し訳なさそうな微笑みを湛えていた。
あの時のお礼を、美鈴が一歩、レジカウンターから出て彼に向かおうとした時だった。
「帰ってください。二度と、この店には来ないでください」
美鈴の背中から、宗佑の張りのある声が店内に響いた。
男も微笑みを消した。憂う眼差しだけが残る。哀しそうなその顔に、美鈴は悟る。『お別れに来たんだ』と。
「ご迷惑をかけたので詫びに参りました」
「迷惑などかけていません。むしろ……、姉を助けてくださってありがとうございました」
美鈴が先にしたかったのに、コックコート姿の宗佑が深々と頭を下げていた。
「無事で良かったです。あの男達が出入りしているのを見てしまったので、もしやと思って」
「感謝しています。本当は……また食べて頂きたいです。ですが、ご遠慮ください。お願いします。あのような組織の客を引き入れてしまい店は打撃を受けました。あなたは、あの男達に関わっているかもしれないのですよね」
警察からも彼についての報告は一切なかった。そして、彼はヤクザ達にもそうだったように、なにも答えてくれない。
それでも宗佑の腹は決まっていたのだろう。容赦ない店長からの通告。
「残念ですが、二度と、うちには来ないでください」
お願いします。頭を深々と下げるその姿が、宗佑の心苦しさを表していた。弟にとって、いちばんの常連客だった。自分の料理を愛してくれる人だった。その人を、身分ひとつで切り捨てる店長の決断。その苦さはいかほどか。
「わかっています。そう思って最後に……、図々しく、あと一度だけ、マスターの手料理を食いたかった。それだけだったんです。覚悟もしていました」
警察に追われているのに、弟の料理に別れを告げに来た。それがわかって宗佑が顔を上げると、一瞬の迷いを見せていた。やっぱりこれからも食べてもらいたいという料理人の気持ち、でも宗佑が選んだのは涙を呑んで、彼を見送ること。経営者としての決断だった。
「お姉さんもお元気で。ご姉弟でどうぞ頑張ってください。影ながら応援していますから」
男も一礼をしてくれた。そのまますぐに身を翻し、ガラス戸を開け出て行ってしまった。
「うそ、なんで来たの」
いまの弟とのやりとりを黙って見ていたのに。美鈴はいま正気になったようにして呟いた。
「いや……。待って……」
レジカウンターからやっと足が一歩動く。
姉ちゃん!
弟が叫ぶ声が後ろから聞こえたけれど、美鈴はエプロン姿で店の外に飛び出していた。
「待って!」
港の道を行く男の背に叫んだ。黒いジャケットの背中に。彼が立ち止まった。
港のライトが照らす道を美鈴も駆けていく。
「待ってください」
彼の目の前までやっときた。
「美鈴さん」
初めて彼に呼ばれ、美鈴は驚く。
どうして私の名前を? 聞かなくてもそんな美鈴の表情を彼は読みとってくれる。
「マスターがそう呼んでいたのを聞いたことがあったので。営業中に『姉さん』と呼ぶわけにはいかないからなのでしょう。自分はあなたの名が知れて嬉しかったけれど」
「私は、あなたの名を知らない!」
「知らなくていいでしょう」
彼がなにもかも諦めたような笑みを見せた。
「いままで、ありがとう。あなたの声に癒されていました。あなたと少しでも話せるのもとても楽しみだった。ここ最近いちばんの、俺の拠り所でした」
行っちゃう、この人が行っちゃう。美鈴の中に、あんなに格好いい男の姿を焼き付けて、匂いを記憶させて行ってしまう!
「お客さん、戻ってきたようで安心しました。もともと、あなたと弟さんがつくり出す爽やかな匂いと温かな空気はどなたにも伝わっていたのでしょう。これからも大丈夫ですよ」
事件後も見守ってくれていた? この人がどんな人かなんて、もう……。美鈴は彼の目の前でうつむき、そっと呟く。
「どうしたらいいのですか。私、困ります」
彼が首を傾げる。
「どういう意味で?」
「どうしたらいいかわからなくて……、これが最後だなんて」
頬から熱い涙が流れた。
「これが最後だなんて、いや!」
彼がとてつもなく驚き、息引いた様子が美鈴にも伝わってきた。
美鈴も涙をこぼす目で、彼を見上げた。
「自分はこんな男ですよ。どんな男かわかったでしょう」
「わかっています。でも、……いや、行かないで」
あの厳つい彼が、頬を染めたようにして目を見開き、そのまま黙っている。
港の波の音がしばらく二人の間で聞こえるだけ。
やがて、彼が肩の力を抜いてふっと笑った。
「いま、一緒に来られますか」
「行きます」
即答にも厳つい彼が面食らっている。
「弟さんが……」
美鈴の背後、向こうへと彼が目線を馳せている。美鈴も振り返るが、そこに宗佑はいない。店だけが見え、弟は追ってきていない。
弟がここまで追ってきて必死に引き留めに来ない。そうしてくれる意味を姉としても感じ取ってしまう。
「弟には妻がいるので大丈夫です」
一人きりにするわけではない。そしてわかっていた。『きっと今晩、一晩だけ』。それが宗佑が許してくれた猶予だと思った。
その途端、彼に抱きしめられた。
「嘘だ、こんなの、嘘だ」
あなたが俺のそばにいるなんて。抱けるなんて。
男の泣きそうな声が耳元で響いた。
あの匂いのジャケット、その胸元に美鈴もしがみついた。
おいで。
彼に手を引かれ、港の道をゆく。どこへ連れて行かれるのか、なにも怖くなかった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
弟と予測したとおり、彼の住まいはそんなに遠くはなかった。古い港町に入ったところにあった。
古いマンション、港が見渡せる。ワンルームの片隅に、とりあえず設置してあるような簡易ベッド。そこで素肌になったふたりが固く抱き合う。
この部屋は、美鈴がよく知っている潮の匂いがする。もうジャケットの匂いはないけれど、彼の皮膚の匂いに鼻先を擦りつけて、美鈴は彼の熱い皮膚に、入れ墨のある背中にしがみついて、もう喘いでいた。
彼も……。素肌になった美鈴を見るなり、もう堪らないといわんばかりの勢いで抱きついてきてくれた。
ベッドで重なってすぐ、彼が『俺のこと、怖くないのか』――と聞いてきたけれど、美鈴は『怖くない』と答えて彼に抱きついた。
挨拶のような口吻はなく、彼は美鈴の頬にキスをすると、そのままそっと耳元、首筋、そして胸元に優しくキスを落としてくれ……。そのあと乳房の先にキスをすると、赤い胸先をゆっくりと何度もちゅっと吸って、時々切なくなる甘噛みをされる。そうして優しくしつこく、大きな手が時々意地悪に乳房を弄んで、ずっと熱く愛してくれる。
彼の熱い舌を感じながら、美鈴の肌もしっとりと汗ばんでくる。
彼の背中の模様が、うねる海の嵐のように見えてくる。
美鈴の皮膚の上に、彼が舌を這わせた唾液の痕が筋になって見え、下半身へ降りていく。熱くてじっくりとした優しい愛撫なのに、美鈴の喘ぎはやまない。胸が張り裂けそうで、昂る涙が滲んでいる。
最後、彼のキスが美鈴の下腹で止まる。そこから先、躊躇っているのがわかった。
俺なんかとこんなことになっていいのか。でも俺は欲しい。欲しいけれど。黒い毛の茂みをじっと見つめて迷っている、そんな彼の憂う眼差し……。彼の黒い目、その目に美鈴の胸は甘く締めつけられる。
厳つい顔で店に来て、眉間に皺を寄せて険しさを身体一杯に漂わせて、なのに、品の良い言葉遣いに、優しさを含めたその黒目。
「私、あなたのこと信じてる」
入れ墨がある全裸で迷っている男に囁いた。
彼がまた、美鈴を申し訳なさそうに見る。
「あなたがどんな人でも、私、あなたのことは信じている。だから、ここまで来たんだもの」
「美鈴、さん……」
優しい声が美鈴の胸を切なくかき乱す。
「教えて、あなたの名前」
彼が美鈴の目線まで戻ってくる。肩から胸元に描かれている寅の顔と流れる風の模様、そんな彼の両肩に美鈴も触れる。寅なんて、彼にぴったりのような気さえしてくる。
「名も知らない男にこんなにされて……」
ほどいて乱れた黒髪を彼が撫でてくれる。美鈴の目を見つめて、彼が呟く。
「たける、です」
「タケルさん」
名字まで教えてくれなかった。それでもいい。これであなたのこと呼べる。
「タケルさんのこと信じてるの。だから、私のことも信じて……。もう怖くないの、お願い」
自分からこんなねだってしまうだなんて。寅にもキスをして……。あなたにもキスをして。
「このまま、お願い」
彼が溜め息をついている。寅にキスをする美鈴の頭を肩先に掻き抱いて。
「……そう、いわれると、ほんとうにそうしてしまう」
どれだけ強いの? あなたの寅は。私の中に来て。
タケルの目にそう呟いていた。男にこんなに求めたことはない。別れてしまったあの人にさえ。自信のなかったはずの自分がこんなに熱く男をねだれるだなんて知らなかった。
「タケルさんが寅を背負った人でも、私、タケルという男の人に惹かれたの」
その瞬間、タケルの目が燃えたのを美鈴は見る。
彼の逞しい腕が、美鈴の足を開いた。太くて長い指が黒い茂みの中に忍び込んでくる。
「あっ……」
彼の指が美鈴の小さな珠を見つけて撫で始める。でももうそこは肌をいっぱい愛撫された時に濡れそぼっていたから、彼の指先もすぐにぬるついてしまう。どうしようもない甘い痛みに囚われて、美鈴は悶える。やがて太くて長い指が熱いものがこぼれる中に挿しこまれる、もう男に貫かれたかのような狂おしさが美鈴の身体にひろがっていく。
男の指に翻弄される女を眺めている彼の目が怖い。すごく怖い顔している。でもいままで怯えていた怖さじゃない。美鈴を捉えて、狙って、襲う瞬間を見定めている真剣な目。
この人、自分はこれをやると決めた時、きっとこんな顔になるんだ。初めてそう思った。
彼が拳銃を構えた時のあの目、極限に迫る鋭利な目。そんな男に射ぬかれた気持ちになってくる。雄々しいこの人に撃ち落とされてもいい。そう高められていく。
彼もそんなに真剣になりながらも自分のほうも高まっているようで、美鈴ばかり見つめていたのに、理性をなくしたようにして美鈴の乳房を握りしめ、むしゃぶりつくように激しく貪り始める。彼の息もはあはあと荒くなってきている。
もうだめだ――。美鈴の肌にふとそんな息だけの声を感じる。美鈴の中から彼の指が引き抜かれる。ついに彼が美鈴の両足をもちあげた。彼の手が重量がありそうな塊を持った。彼の逞しい身体と肩にいる寅に相応しい雄々しさに、美鈴の胸が熱くざわめく。
「ほんとうに遠慮しない」
男の眼がどうしてか戦闘態勢を迎えた目になっている。美鈴もこっくりと頷いて、シーツを握りしめた。きっときっとすごく力強いものが襲ってくると予感したから。
男の尖端が自分に押し当てられる。熱くて、でも美鈴の中に押し広げるように挿ってくる、でもするっと……奥まで、泣きたいほど切ないものが渦巻いて美鈴を襲う。
「あっ、ああんっ、はあ……、た、たける……さっん……」
遠慮しないと美鈴の目に宣言した男の真剣さ、遠慮のない男の勢いが、美鈴の身体を侵していく。
鍛えている男の力いっぱいの律動が打ちつけられる。なのに、ふたりが繋がっているそこで、いやらしく濡れるて聞こえる音。男に力を注がれているのに淫猥に濡れた音がするのは、美鈴が彼をどんなにでも受け入れようと蜜をこぼして、奥まで誘っているから。
「みすず……、美鈴……」
彼もぼんやりした眼差しになってきている。美鈴の片足を担いで、大きく開いたそこ、濡れた黒い毛の中へと何度も向かう自分を眺めて、息を荒げている。
「綺麗な、声……、俺の、綺麗な鈴、ぴったりの名だって……」
うわごとのようにそう呟きながら、彼も男の行為に無我夢中になって……。
美鈴も彼の声を聞きながら、荒っぽい律動で下腹の奥が熱くなって、頬も燃えそうで、シーツを噛んであられもない声が響かないよう堪えた。
遠慮しないで。遠慮しない。
先のことなんてわからない。でも……。
きっと彼も同じ事感じていると思う。でも……。
恋だけ、愛は……? そこまで思いつかない。
それでも、私とあなたはいま、何にも囚われないで愛しあっている。彼が店に来て美鈴が店にいてお互いに気になっていた、でも、距離を取っていたこと、どことなくわかっていながらも。もうこんなに素肌が触れるまでに近づいてしまった。
欲しくて欲しくて触れた恋は、こんなに熱くて甘くて、そしてどこか切ない。潮の匂いと港の青い色――。
男の最後のひと押しが美鈴の中に注がれる。肩の寅が美鈴を見ている。
「あっ、んっ……、寅、寅がわたしを……見て……る」
「美鈴、俺を見て」
寅の模様ばかり見ていたからなのか、覆い被さってきた彼が美鈴にそう言って熱くて濃厚なキスをした。
なんの隔てもない交わりの最後……。男の体液の匂いと潮の匂いが混じっていた。
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