魔女の托卵

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絶望に伸ばされた手

呼び声に応えたのは

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「助けて、ライゼ!!!」

 リッテルが叫んだ、その瞬間。

 どおおぉぉんっ!!!!
 建物がびりびりと揺れるほどの轟音とともに、暗い部屋のなかにバラバラとなにかが落ちてきた。床にぶつかってごん、がつんと固い音を立てるそれらは、覆いかぶさっていたシェンダリオンの体のおかげでリッテルに傷をつくることはない。がつん、ごつんと音がするたび、シェンダリオンのうめき声が聞こえるばかり。

 しばらくして落ちてくるものがなくなると、暗い暗い部屋の天井に、ぽっかりと夜空が現れた。

「なっ、なにごとか!」

「シェンダリオンさま、お怪我は!?」

 慌てふためくふたりの声をどこか遠くで聞きながら、リッテルは久しぶりの空を見上げていた。

 ―――ああ、今日は月がない夜なんだ。

 濃い闇色の空にくっきりと見える星々の明かりを見て、そんなことを思う。夜空に照らされて、ずいぶん高いところまでこの部屋の壁が続いているのが見える。

 ―――もしかして、ここはあの塔の中? 教会の真ん中にあった、あの高い塔の中なのかな。

 わけのわからないことばかりの現実から逃避していたリッテルは、ふと、高い高い壁の天辺、崩れたところに立つ人影が見えた。

 星空を背にした誰かの姿は、暗くて遠くてよく見えない。けれどもしかして、とリッテルが希望を抱くのと、その人影が飛んだのは、同時だった。

 何かを覚悟する様子もなく、とん、と軽く壁のふちを蹴った人影が、みるみる近づいてくる。呆然と見守るリッテルの視界のなか、塔のなかほどまで落ちたところで影がちいさく声をあげた。

「あ」

 思わず出たのだろうその声は、なぜかリッテルの耳にはっきりと聞こえてきた。そして、その間の抜けた声が聞きたかったそのひとの声だとわかったときには、人影はすぐ目の前まで落ちてきていた。

 ごっ、だん!
 落ちてきたライゼは寝床にぶつかる寸前で体をひねり、けれど避けきれずにシェンダリオンを巻き込んで寝床のしたへと落ちて重く、にぶい音を立てる。

「いやあっ、シェンダリオンさま!!」

 悲鳴をあげたジュンナが折り重なって倒れるふたりのそばへ駆け寄り、うえに乗っていたライゼを片手で放り投げてシェンダリオンを助け起こしている。

 放り投げられたライゼは空中で器用にくるりと一回転すると、軽く飛び跳ねてリッテルの元へやってきた。

「ライゼの名前、呼んでくれた。ありがとう。うれしい。ライゼ良かったね。おめでとう、ライゼ」

 にこにこ笑いながら顔をのぞきこんでくるライゼのその顔が、おかしな物言いがあまりにも相変わらずで、思わずリッテルの胸に熱いものがこみあげてくる。

「名前くらい、いくらでも呼ぶよ。ライゼ、あなたに会いたかった……」

 あふれそうな思いを押さえながら言って彼に触れようと手を伸ばしたリッテルだったが、ゆるく持ち上がった手は無粋な鎖に縫い留められて、彼に届かない。

「あ……」

 がちり。無機質な音とともに腕が引き留められて、一瞬この鎖の存在をわすれていたリッテルは声をもらした。それを見て、ライゼはぱちりとまばたきをする。

「それ、いる? いらない?」

「いらないっ! 嫌いなの。外したい。あたしは自由になりたい!」

 不思議そうに首をかしげたライゼに、リッテルは望みを告げた。すると、彼はうれしそうに笑う。にこにこ笑っていることの多いライゼだけれど、いまリッテルの望みを聞いた彼は本当にうれしそうに、幸せそうに笑っていた。

「きみのその願い、ライゼが叶えるよ。望まれて幸せだね、ライゼ。叶えられてよかったね、ライゼ」

 言いながら、ライゼがじゃらりと右手を戒める鎖を持ち上げて、両手で握り左右に引いた。

 ぱぎんっ。
 耳障りな音を立てて、鎖がちぎれた。歪んでちぎれた鎖を落とすとライゼはすぐに左手、右足、左足と手を伸ばし、そのたびほんの瞬きの間に鎖を壊していった。そのたび、リッテルは自由になった箇所を動かして体を起こしていった。

 じゃらん。最後の鎖が地に落ちると、リッテルはすでに自由だった。手首にはまったままの鉄の輪とそこから伸びるちぎれた鎖の残骸は重たかったけれど、寝床から起き上がり、足を床につけ、立つことができた。
 自分の意思で立って、動ける。

「ああ、ああぁ」

 そのことにリッテルは感動を覚えていた。寝かされてばかりだった体はぎしぎしきしみ、踏みしめた脚はふらつくけれど。そんなことなど気にならないほどに、足の裏に感じる床の冷たさが、立ち上がった体が感じる重みがうれしかった。

「ああ、ライゼ……」

 ありがとう。絶望を叩き壊してくれた彼にそう伝えようと顔をあげたリッテルは、笑顔のライゼの背後の暗闇で跳躍した獣の姿に息を飲んだ。

「あぅううるぅぅあああぁぁっ」

 吠え声とともに、異相の獣の牙がライゼに迫る。瞬きの間に肉薄した獣に、ライゼの血肉が食い散らかされる未来を思いリッテルは声も上げられず、目を閉じることもできず、ただ身を固くした。

 けれど、ライゼはリッテルの絶望をふたたびやすやすと打ち砕く。
 獣の牙が肉を裂く一瞬前、ライゼはその場で踵を軸にくるりと回って獣の牙を避け、ついでのように肘を打ち出して獲物を見失った異相の獣の横っ面に一撃をいれた。

「ぎぃっ」

 強打をくらった獣は、短い悲鳴をあげながら寝床のうえを吹き飛んで、にぶい音とともに床にぶつかってもまだ止まらず、暗がりのなかへと転がっていく。その姿が見えなくなったのは、寸の間。

「ぅがあああぁっ」

 まばたきののちには、咆哮をあげて異相の獣が暗がりから飛び出した。けれどそのままライゼに向かうことはせず、寝床のうえに降り立って鼻づらにしわを寄せて威嚇する。
 血走ったひとの瞳に見据えられて身震いするリッテルをその背に隠し、ライゼが油断なく構える。

「……ひとと、獣が混じったのか。ひとの理性は残っていないのか」

 相対する獣から目をそらさないままにライゼがつぶやけば、寝床の向こう側で獣の鎖から小刀を抜き取ったジュンナが倒れたシェンダリオンの上半身を助け起こしつつ笑う。

「ふふふ、どうなのかしら。それは、愛した女の遺した獣とずっとともにありたいと、望んだ愚か者理性なんて、もとからなかったのかもしれないわ。その願いの果てに生まれたひとでもない、獣でもない哀れな呪われた生き物に、食い殺されるがいいわ!」

 ジュンナは笑いながら、呪いのこもった声とともにその手に握った小刀を放った。

「おっと」

 一瞬のうちにリッテルを抱えて宙に飛び、難なく小刀を避けたライゼだが、避けた先を狙って獣が四肢をしならせ襲い掛かる。

「わわっ」

 着地する間もない連撃に慌てたライゼは、間の抜けた声をもらしながらもリッテルを寝床のうえに放り、自身は迫る獣の頭に踵を落としてさらに高く飛ぶことで迫る鋭い爪から身をかわした。

 再度、獲物に逃げられた獣は口端から血をこぼしながらも、地に落ちてすぐ、ライゼを狙うべく後脚に力を込めて飛びかかろうとしている。そこへ、間髪いれずジュンナの声が飛ぶ。

「命令よ、小刀を抜きなさい!」

「ぅるあうっ」

 刺すようなジュンナの声に、獣はびくりと体を震わせた。苛立つような声をあげつつ、けれど逆らうことはできないのだろう。指示されたとおりすぐそばの床に突き立てられた小刀に食らいついて、牙がきしみ血が滴るのも構わず力の限りに引き抜いた。

 ごりゅんっ、鈍い音を立てて、やせ細った男を縫い留めていた鎖が解き放たれた。そして、再びジュンナの声が響く。

「動きなさい! あなたを痛みから救ってくれる者を手に入れなさいっ」

 ジュンナが言うが早いか、這いつくばってうめいていた男がずるりと体を持ち上げた。

「あ、あああいぃっぃぃいいいいたいいたいいたすけったすけていたいぃいいいぃ!」

 膝立ちになった途端、男は悲鳴をあげて落ちくぼんでにごった瞳から涙を流す。けれどその目の真ん中に捉えられて、寝床のうえに座り込んでいたリッテルは身動きが取れなくなる。

「たす、けったいいいたいい、その力、ちょうだいたぃ、たすけて、力ほしいたいのいぃぃいいやああぁぁ!」

 やせ細った男は異様な叫び声をあげながらリッテルに向かって這いよって来る。ライゼは異相の獣を相手に戦ううち、暗がりに移動してしまったらしい。激しい物音は聞こえるが、その姿は見えない。

 逃げ場を探して振り返った背後には、ジュンナとシェンダリオンがいる。ライゼもろとも床に叩きつけられたシェンダリオンは、額から血を流しながらも意識はあるようだ。片手で頭を押さえ、ふらつきながらも立ち上がろうとするのをジュンナが支えている。

 ―――あのふたりの横をすり抜けられるだろうか。

 ジュンナがいつも出入りしていた扉は、おそらく彼らの背後にあるはずだ。ジュンナたちにリッテルは気づかれないようそろり、と寝床から腰を浮かした。
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