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田舎の少年ナマリ

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 夜明け。うすい雲をはいた淡い色の空に舞う天鬼が一匹、二匹。
 ゆらゆらと流れるように通り過ぎていく姿を見上げ、ナマリは家のなかを振り向いた。

「今日は天気も悪くならなさそうだよ。天鬼もおだやかで、ほとんどいない」

 返ってきたのは母の笑顔。

「あら、うれしい。ナマリのおかげでお天気がわかって、助かるわ」

 天気を左右する半透明の鬼は、誰にだって見える。
 けれどその見え方は人それぞれ。
 淡い姿が雲にまじって見えるだけの者もいれば、ナマリのように天鬼の機嫌の良し悪しまでわかる者もいる。

 まれに、天鬼を操る力を持つ者も生まれるそうだけれど、ナマリはまだ見たことがない。
 村の年寄りに聞くところによると、雨女や晴れ男と呼ばれるそれらの人々は帝都へ招かれたり、地域で祀られたりする特別な存在。「こんな田舎に暮らしてちゃ、死ぬまで会うことは無いだろうなあ」と笑っていた。

 そんな小さな田舎の村でナマリは一番、天鬼を見るのがうまい。

「母さん、張り切って洗濯物干しちゃいましょ」
「じゃあ俺は段々畑に行くかな」

 父は村のそばにある傾斜地の畑へと向かうため、立ち上がった。

 ナマリたちの暮す辺境の村。
 隣国との間に広がる険しい山地のほど近くに位置する、名もなき貧しい村だ。

 山の斜面に畑を設け、谷あいを流れる川のほとりのわずかな土地に家を構える村の住人はおよそ百人ほど。
 小さく貧しい村だがそこに暮らす人々は気のいい者ばかりで、助け合い、穏やかな暮らしを送っている。

 この村で生まれ育ち、十四年。
 何もないけれどのどかな暮らしが、ナマリは大好きだった。

「俺は村はずれの畑を耕すよ」
「にーちゃについてくー!」
「いっしょ、いっしょ!」
「おっと」

 農具を肩にかつぎ出かけようとしたナマリは、脚にぶつかってきた小さな影を蹴飛ばさないよう足を止めた。
 右足にしがみつくのはニビ。左足にしがみつくのはカスミ。よく似た双子はナマリの幼い弟妹だ。

「あらあら。お兄ちゃんは遊びに行くんじゃないのよ。ふたりは家で待ってなさいな」
「やーだー!」
「いくの、いくの!」
「お、じゃあ父さんと行くか!」
「やーーだーー!」
「にーちゃといくの、いくのー!」

 母にたしなめられて、弟妹はますます脚にぎゅうぎゅうとしがみつく。
 父に誘われて、ふたりそろってぶんぶんと首を横に振る。

 おかげで父は肩をがっくり落として、今にも泣きそうだ。

「いいよ」

 ナマリは右手で農具をかついだまま、ふたりの頭に交互に左手を乗せた。


「ふたりが勝手に俺のそばを離れないって約束できるなら、ね?」
「うん! できる!」
「やくそく、やくそくっ」

 途端に、ぱっと顔を輝かせるふたごのかわいいこと。
 ニビがナマリの親指を握り、カスミが小指を握る。いまだ少年の域を出ないナマリの指だが、幼いふたりにかかればほど良く太い持ち手がわりになるらしい。

「じゃあ、三人分のお昼ご飯ね。ニビとカスミも自分の水筒を持って」

 母が双子の首にそれぞれ竹筒を下げる。
 ナマリの肩には竹筒と、握り飯の入った包みを下げて。

「次は父さんと出かけような? な?」
「あまり頑張りすぎないでね」

 見送る両親に手を振るよう双子に促して、ナマリは改めて歩き出す。

「夕方には帰ってくるよ」

 我が家をあとにする時、残したのはいつも通りの軽い返事だけだった。
 それが最後のやり取りになるだなんて、知りようも無かったから。

 ※※※

 家々の集まるあたりを抜け、川を渡る。父親と同じく仕事に精を出す村人たちにあいさつをしながら段々畑を抜けて、山の峰を越えて辿り着いたのは村はずれの畑。
 ぽつりぽつりとある木の無い地面の草をむしり、固い土を耕していく。
 この場所にはまだ何も植えられていない。
 村のみんなで少しずつ、手が空いた時に広げている最中の土地だった。

 畑が広がれば、収穫も増える。収穫が増えれば日々の糧に余裕が生まれ、村の暮らしも豊かになる。
 それを思えばクワをにぎるナマリの手にも力が入る。

「にーちゃ、むし!」
「うねうね!」
「ミミズは大事な畑の仲間だ。遊ぶのはいいけど、ちゃんと土に戻してやってくれよ」
「「はーい」」
 
 双子は機嫌良く畑のそばで遊び、ナマリはふたりの姿に笑顔を浮かべながら過ごす。
 そうして午前の仕事に区切りをつけ、持ってきた握り飯を三人並んでほおばった昼下がり。

 顔いっぱいに米粒をつけた双子の世話を焼いていたナマリは、ふと空を見上げて目を見開いた。

 天鬼が渦を巻いていた。
 半ば透けた体を持つはずの天鬼が空を覆い隠しているのは、それだけ多くが集まっているせい。
 ほんの一瞬前までおだやかに晴れていた空は、数え切れないほどの天鬼が荒れ狂うせいで見えやしない。

「なんだ、これは……」

 天鬼が荒れれば空模様も荒れる。
 寄り集まれば雲を呼び、雲が重なれば雨となる。
 それは何度となく目にしてきた。

 けれど、こんなにもびっしりと空を埋め尽くすことなど、ナマリは生まれてこの方見たことがない。
 隣国へと続く高い山の峰など、もはや黒い雲の中に呑まれて消えていた。

 朝はおだやかに晴れて、雨の気配などみじんもなかったというのに。
 あまりにも異様な光景に呆然と立ち尽くしていたナマリは、ハッとして双子を両腕に抱える。

「村に急ごう。みんなに知らせないと」
「ん! いそご」
「おしらせ、おしらせ!」
 
 ナマリひとりで駆けたほうが速い。けれど幼い弟妹を置いて行くわけにはいかなかった。
 垂れ込める暗雲は今にも雷雨をもたらしそうで、そんななか幼い子だけを残しては行けない。
 
 はやく、はやく。
 焦る気持ちと闘いながら、山道を登り村を目指す。
 抱えた弟妹を落としてしまわないよう、飛び出た枝葉で怪我させてしまわないよう気を配りながら、ようやく山の尾根に着くころには、雨が降り始めていた。

 ざあざあなどと生やさしいものではない。
 滝のような雨に視界を奪われ、足を取られながら山の傾斜をなかば滑るように降りていく。

 村の中を流れる川のそばまでやってきて、ナマリは立ち止まった。
 立ち止まらざるをえなかった。

「はし、ないね」
「ないない」
「橋が流されたのか……」

 かかっているはずの橋が無かった。根本の土ごと大きくえぐれているのを見るに、増水した川に流されたのだろう。
 いつもの穏やかさとは打って変わって、荒々しく水しぶきをあげる流れに双子もおびえてナマリの背に隠れてしまった。

 どうどうと流れる川を前に、ナマリたちは立ち尽くすほかない。
 こちら側でほかの村人たちと会わなかったのだ。雨でけぶって見えないが、皆、異変に気付いて家が建っているほうの斜面へ行ったのだろう。
 自分たちもなんとかして家屋のある方へ行けないものかと、歯噛みをしていると。

「ナマリ!」
「父さん!」

 対岸に父が姿を見せた。
 全身がぐっしょりと濡れ、あちらこちらを泥にまみれさせた父親は、流れの音に負けないように声を張り上げる。

「ちびたちを連れて山へ逃げろ!」
「父さんは!? 母さんはもう避難したんだよね?」

 ナマリも怒鳴り返す。
 脚にしがみつく幼い弟妹がびくりと肩を震わせたのが伝わってきたけれど、気遣っている余裕はなかった。
 父のそばに母が見えないのだ。他の村人の姿も、声も聞こえない。
 そのことがひどく気にかかっていた。

 返事を待つナマリに、父は笑った。
 びしょ濡れのまま安心させるように、にっかりと。

「みんな、先に避難してる。お前たちが戻ってこないか心配で、俺だけ戻ってきたんだ!」

 父の言葉にナマリはほっとした。

「だからお前たちも山の上へ!」
「わかった! 行こう、ニビ。カスミ」

 冷えたちいさな手を取り、斜面へと向き直る。
 その背に父の声が追いかけてきた。

「ニビ、カスミ! 兄ちゃんの言うことちゃんと聞くんだぞ」
「うん!」
「はあい!」

 幼子たちへの励まし。けれど父の声はそれで終わらなかった。

「ナマリ! お前はやさしいから苦労も多いかもしれないが、真面目に続ければ見てくれる人は必ずいるから」
「父さん?」

 何かがおかしい。
 傾斜をなかば上がりかけたところで足を止めたナマリは、父の言葉に振り向いた。

 雨と水飛沫にかすんでいるけれど、父は笑顔だ。笑顔のまま、さっきの場所から動いていない。
 
 空はもはや荒れ狂う天鬼と黒雲に覆われて夜かと思うほど真っ暗だ。
 なのに、父の笑顔だけがいやにはっきりと目に映る。

「父さん、それじゃまるで」

 別れの挨拶のようだ。
 茶化したくてつむごうとした言葉は、ナマリの口から出ることはなかった。

 うるさいくらいの水の音にまじって、ごごご、と地を震わす音が聞こえたせいだ。

「にいちゃん!」
「こわい! こわいー!」

 おびえる二人を抱えたナマリの背に、父の叫び声が届く。

「走れ、ナマリ! 山の上へ!」

 とっさに駆け出したナマリは、不気味な地響きが近づいてくるのを背中で聞いていた。

「走れ! 走れ! 生き延びろ! お前たちだけは!」
 
 父の声に背を押され、必死で駆けながらも振り向くと。
 川べりに立ったままの父の背後に迫る土砂が見えた。

「父さん!」

 叫ぶ声は聞こえないのか。いいや、背後に迫る土砂に気づかないはずがない。
 だというのに父は、その場を動かず笑っていた。
 まるで、子どもたちの姿を目に焼き付けようとするかのように。

 その背に迫る土砂。
 家屋を巻き込み滑り落ちてきたのだろう、土と柱と屋根材とがぐちゃぐちゃになった土砂。
 そのなかにちらほらと見える白いものは、人の腕、脚、そして……。

「ニビ、カスミ、見るな!」

 弟妹の頭をぐっと抱き込んで、ナマリは唇を噛み締める。
 白いものは人の体だった。そのなかにポツポツとあったのは村人の顔。
 よく笑うおばさんだった。真面目で無口な老人だった。気のいい青年に、面倒見の良い姉さんもいた。
 
 みんな、みんな泥の中にひと塊りになって虚な目に曇天を映していた。
 
 呑まれたのだ。
 ナマリは気づいてしまった。
 村は、村人たちは、みな土砂に呑まれてしまったのだ。
 父だけがどうにか這い出して、ナマリたちに逃げるようにと告げて。

 そして、その父もまた土砂に呑まれてしまった。
 弟妹の頭を抱き込みながら、ナマリはその瞬間をしっかりと目に焼き付けていた。

「逃げよう」

 生き延びろ、という父の言葉にすがってナマリが足を踏み出したとき。
 不意に怖気に襲われた。
 なんだ、と振り向いたナマリの背後、川の上流から駆け降りて来たのは真っ黒い獣。

 おびただしい数の天鬼をまとわりつかせた獣とともに、これまで以上に激しい風雨があたりを呑み込む。
 雷雲が迸らせた閃光を受けて、迫る濁流がおぞましいほどの輝きを放つ。

 なんだあの獣。
 逃げられない。
 くそったれ。

 ナマリの脳裏に浮かんだのはそのふたつ。
 濁流は斜面までも呑み込みながら、瞬く間に迫り来る。
 自然の脅威を前に人の身にできることなど、もはやなかった。

 だからナマリは睨みつけた。
 濁流を引き連れ迫り来る黒い獣と天鬼の群れを睨みつけ、双子を抱く腕に力を込める。

「来るな、消えろよ。災厄しかもたらさない悪鬼なんて、かき消えてしまえッ!」

 どっ、と濁流がナマリたちを襲う。
 それでも真っ直ぐに見据える視界の先で、天鬼の塊がぞわりと解けたのを認めた瞬間。
 叩きつけられるような衝撃を受けて、ナマリの意識は途切れた。
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