空想落下症

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青少年の健全な遊び

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 駅前のデパートのチラシと、遊園地のチラシ。

「中学生の健全な遊び場としてより適切なのは、いずれでしょう」
「は?」

 紙切れ二枚を突きつけて唐突に問いかけて来た小野に、俺はついうっかり素で聞き返してしまった。
 こういうとき、不可解だと言いたげな反応を隠しもしない蓮はいまだ荒い息を整えている。ひなたに至っては素直なものだから「健全……適切……ううーん」と真剣に悩んでいる。

 ――混沌だな。

 突拍子もない小野と素直すぎるひなたでは話が見えてこない。場を落ち着かせようと、俺は手のひらを突き出した。

「ええと、小野さん。ずいぶんと急な質問だね。どうしたの?」

 オブラートに包んで、優しく遠まわしに接する。そうすることで人間関係はスムーズに進むし、嫌悪感も抱かれにくい。
 はずなのだが。

「急に何を言い出したんだ、意味わからんこいつ、とおっしゃりたいようですね」

 小野にすぱっと言われて、俺はうっかり本音が口に出ていたのかと焦った。けれど笑顔の裏のその焦りさえも読み取ったらしく、小野は眼鏡を押し上げて平然と続ける。

「いえ、唐突なことは承知しておりますし、説明が不足していましたね。これはひなたさんの今後に関わる話、かもしれません」

 俺は眉が寄るのを感じながら、表情をとりつくろっていられなかった。

「それは、どういうことだ」

 思わず低くなった俺の声にもひるまず、小野は淡々としたものだ。

「部室で聞き取りした情報を元に推測したことですが、ひなたさんが発症するのは精神が不安定になった状態が多いのではないでしょうか」
「あ、ああ……まあ、そうかもしれないかな?」

 言われて、記憶を振り返れば、なるほど小野の指摘は外れていないように思えた。

 ――はじめて発症したときをのぞけば、確かに不安底、というか不安そうなとかばっかりかもしれないな。

 幼稚園のあの日以降、ひなたが空想に沈みかけたのは、検査のために入院した病院をこわがったとき。診断結果が出てから何度か発症したのは、必ずそばに身内がいたときだ。 

 ――あれは両親の不安が伝播して、ってことはありうる。それなら、両親と軟禁状態で暮らしていた小学生の間、症状がひどくなる一方だったのも納得がいく。

「ひなた」

 二枚のチラシを見比べてはうなるひなたに声をかけた。くるりと振り向いた顔は楽しげで、一見しただけでは不安があるのか否かわからない。

「ひなたは今……」

 ――不安なのか、なんて聞いたところで本当のことは言ってくれないんだろうな。

 そう思うと、続ける言葉が見つからなかった。

「なあに? ユウくん、どうしたの?」

 きょとりと目を丸くして首をかしげるひなたは、いつだって笑顔だ。
 
 熱が出ていても、足の小指をぶつけても、心無い言葉を投げつけられても、ひなたはにこにこ笑っている。それはもう不自然なほど。
 きっと周りの、俺たちの態度がそうさせたんだろう。

 続ける言葉を見つけられなくて黙り込んだ俺の代わりに、小野がするりとそばに来た。

「ひなたさんにとっての楽しいことを探そうという話です。まずは近場で、と思いこの二点を提案させていただいたわけですが、ほかに行ってみたい場所や、してみたいことなどありましたら」
「ううん! あたし、どっちもはじめてだもん。どっちでもうれしいよ!」

 小野をさえぎったひなたは、二枚のチラシをうっとりと見つめる。

「デパートって、大きなお店やさんなんでしょう? 服屋さんも、本屋さんも、ごはん屋さんもひとつになってる大きなお店! でもでも、遊園地も行ってみたいな。遊園地って絵本で見たことあるけど、いろんな乗り物があるんでしょう? 車みたいに速いのかな、空の近くにも行けるんでしょ!」

 ひなたが外の世界に触れていたのは幼稚園のときまで。

 ――小学校にあがる前の春休みに遊園地へ行こうって言っていた約束は、そういえばけっきょくうやむやになったままだったなあ。

 中学生になってから一緒に暮らすようになったけれど、去年一年間は家と学校の往復をしながら『ふつうの暮らし』に慣れるだけで過ぎてしまった。

 どんな影響があるかわからないからと、車に乗るのも実家からハルさんの家に向かうときだけ、最低限しか乗っていない。
 もちろん、飛行機なんて地上から見上げるだけ。
 両腕を広げて目を輝かせるひなたの目には、どんな風に世界が見えているのか。

 ――俺も、見てみたいなあ。

 どうして空想症は伝染しないのだろう。そんなことを考えてしまった俺をよそに、小野はひなたの手にあるチラシを指さした。

「では、両方行きましょうか。ちょうど昼時なので、まずはデパートで腹ごしらえでも」
「……歩いて行くのはぜったいヤダよ」

 門にもたれてうなる蓮は、学校から走ってきた疲労がまだまだ抜けないらしい。

「じゃあさ、あれ!」

 きらん、とひなたの目が光る。

「あれ乗りたい! バス!」

 ***

「わあ! ぷしゅうって! なんの音? なんの音なの? わっ、ドアが勝手に開いたよ!」

 通学路から一本向こうの大通りに出ると、間もなくバスがやってきた。
 道路に身を乗り出そうとするひなたの手を引いて下がらせるけれど、それでも前のめりだ。

「先に小野さんと蓮が乗ってもらえるかな。ほら、ひなた。ふたりのやり方を見てから乗るんだよ」
「うんっ」

 素直にうなずくひなたは、ふたりの一挙手一投足を見逃すまいと目を見開いている。

「……見られてると思うとやりづらいな」
「気にするから気になるんですよ。さあさ、四人で座るなら一番後ろへ行きましょうか」

 やりづらそうな蓮の背を押して、小野がバスに乗車する。ふむふむうんうん、と頷いていたひなたもまた、小野のあとに続いてステップを登った。

「わあ! 椅子がいっぱい。これ、この環っかなあに? 傘を下げるとこ?」

 ひなたは初めて見るバスの車内に興奮している。
 つり革をつついて、あちらこちらを見回すひなたを小野が「こっちです。一番後ろ、ここに並んで座りましょう」と手招いて、おとなしく座ってくれたことにほっとした。

 ――他に客のいない時間帯で良かった。

 運転手からの怪訝な視線はこの際、無視だ。
 蓮、小野、ひなた、俺の順に横並びで座ったのを確認してから、バスが動き出す。

「はわあ、ふかふか~」

 ひなたは立ち上がりこそしないが、座面で身体を弾ませて遊んでいる。
 無邪気な姿がかわいいと思うと同時に、不意にその身がクッションをすり抜けて空想に沈み込んでしまいやしないかと不安になる。

「ひなたさん、他の方も利用する場ですから、はしゃぎまわるのは控えめにお願いします」
「は! そうだった。てぃーぴーおーね。ハルさんとお約束したこと!」

 小野の一言でひなたはぴしりと背筋を伸ばし、きりりと顔を引き締めた。

 ――まるで引率の教員だな。

 俺の感想が聞こえたわけじゃあないだろうに、小野はひなたの横顔を通り越して俺に声をかけてくる。

「木許さんも、無邪気な娘さんがかわいく思えるのは理解できますが、保護者としての勤めはお忘れなきよう」
「娘? 保護者……」

 ――いや、そこは彼女だろう。

 反論しようとする俺の手を握り、ひなたがひそひそ声を弾ませる。

「ねえねえユウくん。あれ、あのボタンなあに?」
「あれは降車ボタンだね。バスは乗る人や降りる人がいないと止まらないんだ。だから、降りたいバス停が近づいたら自分であのボタンを押すんだよ。今はまだ押しちゃだめ」
「へえ~!」

 うきうきした顔で指を突き出すひなたが、うっかり降車ボタンを押してしまわないよう手でガードしつつも説明をしている最中、たしかにこれは保護者の振る舞いでは? と思ってしまってショックを受けた。

 ――いいや、いいんだ。俺はひなたが喜んでいればそれで。

 気持ちを切り替え、俺はひなたとつないだ手をゆるく揺する。

「えへへへへ」
「楽しそうだな、ひなた」
「うん! ユウくんとお出かけするの、幼稚園以来だし。お友だちとお出かけするのなんて、はじめてだし!」
「今からそんなにはしゃいでると、途中で疲れるよ」

 蓮があきれたように言うと、ひなたはあわてて背もたれに身体を預けて目を閉じた。
 明らかに力を抜いている蓮の姿勢を真似しているらしい。
 けどだらりと身体を預けている蓮に対して、ひなたはぴしりと姿勢正しく目を閉じているものだから、ちょっとおかしい。

「ひなたさん、そろそろデパートが見えてきましたよ。起きておかないと、降車ボタンを押しそびれますよ」
「え、やだやだ。早く押さなきゃ一生バス暮らし!」 

 慌てて飛び起きたひなたがボタンを押すのを後目に、連は「意味わかんない」と気だるげに瞼を持ち上げた。

「降りそびれたら一生閉じ込められると思ってるなんて、かわいいだろ」
「本気で言ってる?」
「同意しかねます」
「ひええ、ビーッて鳴ったあ! 大丈夫、これ? なんか怒られたりしない?」

 蓮と小野には胡乱な視線を向けられ、ひなたには悲鳴をあげて助けを求められ。わあわあと騒がしい車内に、本当に人がいない時間帯で良かった、としみじみ思った。





 たどり着いたのは、駅前のデパート。
 市内で一番の大きな店舗だとは思うが、ここは田舎だ。

 ビルの高さは八階建て。各フロアもそんなに広くはないため、見て回る場所はそんなにない。
 とはいえ、全部の階を見て回るのは面倒臭いので、まずは入り口の壁に貼られた案内板の前で足を止める。

「ええと、レストランがあるのは八階ですね。蕎麦屋さん、寿司屋さん、ステーキ屋さん、あと洋食、中華、和食、ラーメン屋もありますけど、何にしましょう」

 読み上げた小野が振り向いた先に、ひなたはいない。俺と繋いだ手を目いっぱいに伸ばし、ひなたが凝視しているのはデパートの入り口ガラスの外。

「……すまん、あっちのハンバーガーショップが気になるらしくて」

 そう、ひなたが見つめているのはデパートの向かい側にあるハンバーガーのチェーン店。
 赤い看板に黄色い文字が山を描くあの店だ。

 ガラス張りの店内はここからでも客の姿がよく見えて、ひっきりなしに出入りする人の群れを眺めてはひなたが目を輝かせる。

「ひなた、ハンバーガーは食べたことあるだろう。ハルさんがときどき買って来てくれるやつだよ」
「でもでも、いつも食べるのはお家だもん。お店でああやって、みんなでテーブル囲んで食べてみたい!」

 ああやって、とひなたが指さした先では、ハンバーガーショップのガラスの向こうで笑う一団が見える。

 大学生くらいだろか。
 私服の集団は四人組で、制服を着ていない点をのぞけばなるほど俺たちと同じようなグループに見えなくもない。

 ――せっかくはじめてのデパートで食事を、と思っていたのに。

 申し訳ない気持ちになる俺とは裏腹に、小野は「興味を引くものを見つけたのは良いことです」と眼鏡を押し上げた。

「正直なところ、自分は食事にあまりこだわりがありませんので。ひなたさんが行きたいのであればハンバーガーであろうと喜んでいただきます」
「僕はどこでも構わないし。安いならむしろ歓迎するよ。このあと遊園地にも行くんでしょ? だったらなおさら、安く済ませたいね」

 蓮もまた反対しないという。

 ――気を遣わせたか、いやむしろ中学生の小遣いでデパートのレストランに入る方が気を遣うな。

「ひなた、行こうか」
「あのね、ひなたね、自分で注文したいな!」
「注文かあ。そうだなあ。じゃあ、いっしょに行こうか」
「うん!」

 先を歩く俺たちの後ろに、小野と蓮が続く。

「まるっきりおつかいでしょ。子どもが生まれてはじめてするやつ」
「動画取るべきです? 木許父さんが泣いてしまうところまで収めておきましょうか」

 わいわいと喋りながら入店した。そこまでは順調だった。

 ――なんだ、何が起こるかわからないから、なんて言ってひなたを町に連れてくるのをためらっていたのが、馬鹿みたいだな。

 あまりにも穏やかに過ぎる時間に、ふと油断をしていた。

「次の方、ご注文をどうぞ」

 呼ばれて、ひなたを促し店員の前へ。目のまえの台に置かれたメニュー表を指さしてひなたと商品を選んでいく。

「ええと、ええと、ハンバーガーがこれで、えっと、いっしょにポテトも食べたい。それから野菜も食べなきゃだから、サラダもつけて……あ、あとシェイク! お店でシェイク飲んでみたいな!」

 選び終えたひなたが笑顔を向けると、店員もにっこりと営業スマイルを返してくる。

「すべて単品でよろしいでしょうか。それともセットにポテトをお付けしますか? その場合は、ポテトのサイズを選んでください」

 マニュアル通りなのだろ、するすると飛び出てきた言葉に、ひなたが目を白黒させた。

「え、えと? たんぴ、ええと、ポテト? サイズ? あれ……?」

 事前に決めていた通りのこと以上に尋ねられて、ひなたは軽くパニックを起こしたのだろう。慌ててきょろきょろと当りを見回して、自分たちの後ろにできた列に気がついたらしい。

「あ、あたし……」

 待っている客の視線におびえたのか、待たせていることに罪悪感を覚えたのか。
 わからないけれど、不安に揺らいだ瞳から光が消え、ひなたの足元がじわりと揺らいだのを見て、俺はとっさにひなたの腕を引いて列を外れた。

「悪い」

 真後ろにいた小野と蓮には異変が伝わったのだろう。
 焦りもせず緩く首を振って、小野が一歩前に出た。

「いいえ、同じもので良いですね?」
「ああ」

 小野は俺の返事を聞くが速いかさっさと注文を始める。

「席取っといて。小野と注文して持って行くから」

 蓮もまた小野のとなりに並んで、しっしとばかりに手を振るものだから、俺はありがたくひなたを連れて店の隅に向かう。
 運よく、四人掛けの席があいていて助かった。


 すぐに気づいたおかげか、そこまで不安定になってはいなかったのか。ひなたの足はしっかりと店の床を踏みしめている。
 そのことに安堵しながらひなたに座るよううながして、カラフルな椅子にふたりで腰を下ろした。

 ――デートなら向かい合わせで座るんだろうけど。そうすると手が繋げないからな。いまは落ち着かせるのが先決だ。

 少し震えているひなたの身体を抱き寄せて、肩を叩く。

「びっくりしたな。思ってたよりいろいろ話しかけられて、後ろに人も並んでたから焦っちゃったな。お店のひと、ひなたがあんまりスムーズに注文するから、慣れてると思っちゃったんだよ、きっと」
「ひなたポンコツなんだって、お店のひとにバレちゃったねえ」

 青ざめた顔のまま笑って見せるひなたは、痛々しい。

「そんなことないよ。初めてなんて、誰だってうまくできないものだから。気にしすぎないほうが良い」
「そうですよ」

 カタン、と小野が手にしていたトレーをテーブルに置いた。
 そのままひなたの向かい側に座った小野は「こちら、お二人のぶんです」とトレーを俺たちのほうへ押し出してくる。

「失敗したならば次回に活かせば良いのです。キャラ立てを指摘されたならキャラが立つように。展開の遅さに難があるなら展開を」
「小野、もっと席つめて」

 ぶつぶつと言い出した小野の目の前にトレーを置いて、蓮が遠慮なく言い放つ。

 小野の自由さと、蓮の無遠慮さは相性がいいのだろう。
 お互いに好き勝手に振る舞ったところで相手が気にしないのだから、気楽で良いのかもしれない。

「ありがとう、助かったよ」

 さわやかな笑顔で告げたのに、小野は見向きもしない。
 すでにハンバーガーの包み紙を開いてかぶりついて、もう片方の手でポテトをつまみあげている。

「いくらだったかな?」
「はい」

 問えば、連がレシートをトレーの上から取り上げた。
 金額を見て、ひなたと俺の分を小野に差し出すけれど、小野は「ふいふい」と口をいっぱいにして頷くばかり。
 仕方なしにテーブルの端に置いておく。

「野菜もなしにご飯が食べられるなんて信じられない」

 そう言って、蓮はサラダのパックを手にしてぱくつき始めた。

 ――俺は、サラダとパイひとつで腹が満たされるお前が信じられないけどな。食が細いから蓮は成長しないんじゃ……。

 思っていても言わないのが優しさというものだ。
 一心不乱に食べている小野と小動物のようにサラダをかじる蓮は置いておいて、俺はひなたに向き直る。

「ほら、ひなたも食べよう。せっかく買ってきてくれたんだから、シェイクが溶けないうちに飲まないともったいないよ」
「うん、そうだね!」

 応えるひなたの声にもすこし張りが出てきた。顔色も、さっきまでよりずいぶんと良くなったように思う。

 繋いだ手はそのままに、左手で紙コップを持ち上げ懸命にシェイクを吸い上げるひなたの姿にほのぼのしながら、俺もテーブルに目を向けた。

 ――さて。俺も食べるか。

 実は俺もはじめての、友人との外食である。
 小学生の間はひよりの面倒をみたりひなたの顔を見に行くので忙しく、中学生になってからはひなたをひとりにはできないため、いつも家で食べていた。

 ――まあ、別にそんなにワクワクしてるってわけでもないけど……。

 誰にともなく言い訳めいたことを思いながら、トレーに伸ばした俺の手はぴたりと止まる。
 トレーの上に思わぬものを見つけたからだ。

 プラスチックのトレーの上、中央あたりには包装紙に包まれたハンバーガーが二つ並んでいる。
 どちらも同じ包み紙なので、これはひなたと俺とで同じものということだろう。
 ハンバーガーの向こう側には赤い紙パックにぎゅうぎゅうに詰められたポテトが湯気をたてている。これも、同じものが二つ。そこまでは良い。

「小野さん……これは何だろうか」

 俺は問題のもの、牛乳パックを持ち上げ問いかけた。
 そう、牛乳パックだ。ハンバーガーに牛乳。
 ドリンクメニューに『ミルク』とあるのを目にしたことはあった。幼児がジュースがわりに飲むのだろうと気にも留めていなかった物体が、今俺の手のなかにある。

「もしかして、オーダーミスかな?」

 さわやかな笑顔を心がけたけれど、どうにも顔が引きつりそうだ。
 だというのに、小野は無表情に俺を見返してきてむしゃむしゃもぐもぐむぐむぐ、ごっくん。咀嚼が長い。

「いいえ、故意です」
「ああ?」

 思わず低い声が出た俺は悪くないと思う。
 とはいえ、学校関係の相手には愛想よく振舞うという俺の信条に反するため「こほん」と咳払いをひとつ。にっこり笑顔を貼り付けた。

「失礼。それで、故意ってどういうことかな? 小野さん。俺はひなたと同じメニューで良いって伝えたつもりだったんだけど」
「ええ、聞こえていましたよ。なので、わざと頼んだ、ということです」

 にこりともせずに答えた小野に、ひなたが目をぱちくりさせている。
 そんな様子を目の端にとらえ、かわいいなと思う。思うが、今は小野を問い詰めるのが先だ。

「それはどういう意図があるのかな?」
「いたずらです。悪ふざけとも言います。せっかく注文を任されたのですから、ふつうに頼んでは面白くないでしょう」

 さも当然、と言いたげな小野の顔にむかついて、いよいよ俺の笑顔も売り切れだ。

「だからってハンバーガーに牛乳は無いと思わない?」

 半分ほどキレながら問いかけたというのに、小野はむしゃりとハンバーガーをひとくち。

「木許氏、どうぞ、素の振る舞いをなさっていただいて構いませんよ。自分は木許氏に夢を見てはおりませんし、恋愛的な期待も抱いてはいませんので。強いて言うならキャラ設定の参考にしたいので、学校で披露しているさわやかな振る舞いのコツなどありましたら聞きたくはありますが」
「……小野、ほんと意味わかんねえ」

 いい加減に疲れてしまってぼやけば、なぜかひなたは「千明っちとユウくん仲良し、うらやましい~」と笑っている。

 ――喧嘩するほど仲が良いってことか? 俺はひなた以外と仲良くしてる余裕はないっていうのに。

 蓮は例外だ、と思いながらムカついていると、小野がコーラを音を立ててすすって口を開く。

「至極わかりやすいと思いますが。自分の行動原理は創作活動に活かせるか否かですから」
「創作ってあれ? 文芸部のやつ?」

 ポテトをもぐもぐするひなたの手が油で汚れていたので、紙ナプキンをそっと手元に置いておく。

 俺の行動原理はひなただ。
 だから小野なんてどうでもいい。

「そうとも言えますし、そうではないとも言えます。自分はゆくゆくは小説家として身を立てていきたいと思っているので、文芸部に所属しているのはその一環ですから」
「はわあ、それが千明っちの夢なんだね!」

 うれしそうに顔をあげたひなたの口の端にmハンバーガーのかけらがついている。
 つん、と突いて教えれば、照れたように笑う。

「夢というより目標ですね。今日のこの時間もまた、学生生活の描写の糧になる有意義なものであると思います」
「うんうん。なんだか難しそうだけど、がんばれっ。レンレンの夢は……」

 頷いたひなたはちらりと正面に目を向けて、にへと笑う。

 蓮はまだ、せっせとサラダをほお張っているところだった。
 小野もまたハンバーガーをほお張りながら、蓮に視線を向けている。

 ――一生懸命に食べてるだろうに、食べるのが遅いのもまた小動物みたいだな。

 俺が抱いた感想と、ひなたと小野の胸に浮かぶ思いはたぶん似たようなものだろう。三人で蓮を温かく見守って、食事に戻る。
 とはいえ、あまり早く食べすぎると蓮が取り残されるので、会話も交えてのんびりと。

「ひなたさんには夢や目標、やりたいことなどありますか?」

 ――いい質問だ、小野。それは俺も聞いておきたい。

 ハンバーガーをかじりながら、それとなく俺の意識はひなたに集中する。

「ええ~? やりたいことはいっぱいあるけど」
「思いつくものから教えてください。ぼんやりしたものでも構いません、言葉にするということは形を定める第一歩ですから」
「ええっとねえ、お友だちとお出かけでしょ、みんなでご飯、それから遊びに行って……」

 考え考え、指折り話していたひなたはふと気が付いたように目を大きくした。

「あれ? もしかしてぜんぶ今、叶ってる!」
「良かったな、ひなた。他にはもっと、なにかないのか?」

 驚き喜ぶ姿がかわいい。もっとうれしい顔をみたい、と聞いてみれば、ひなたは「ん~」と横目で俺を見てうなってから、ぷいとそっぽを向く。

「あるけど、ないしょ! あたしが自分で叶えるんだもん」
「え! 教えてくれないのか」

 ――ひなたが面と向かって俺に隠し事なんて……!

 はじめての出来事にショックを受けていると、小野がにやにやと口元を緩めながら俺を見る。

「おやおや、反抗期ですか? それとも……」
「それとも、なんだよ小野。はっきり言え」

 ひなたの隠し事と、小野の思わせぶりな態度に思わず動揺している俺をよそに、ふたりは顔を見合わせてくすくす笑う。面白くない。面白くないが、ひなたが楽しそうでうれしい。

 ――ずっとやりたかったことが叶って良かったな。

 食べ終えたトレーを片付けるため、小野と連れ立って席を立った日鉈を眺めていると。

 ブーッ、ブーッ。
 不意に、俺の鞄が振動した。振動の正体、携帯電話の画面を見るとハルさんからの着信だ。

「なに、そろそろ帰る時間?」

 ようやく食べ終えた蓮に問われて、俺はとっさに通話をキャンセルボタンを押した。

「いいや、昼ごはんをどうするかのメールだと思う。もう食べてる、って連絡しておくし、帰るのは夕方になるって伝えておけば、大丈夫だから」
「……ふうん。ユウがそう言うなら、まあいいけど」
「ああ。ほら、蓮も片付けて行こうか。次は遊園地だろ。ひなたたちが待ってるぞ」

 歯切れの悪い蓮を促して、俺も席を立つ。
 再び振動をはじめた携帯電話は電源を切って、鞄の底に押し込んだ。

 ***

「うっわぁああああ!」

 遊園地を前にひなたが歓声をあげる。
 駅前から徒歩数分、市内で唯一の遊園地は川沿いにぽつんとあった。

 そう、ぽつんと。

「……貧相。なに、乗り物四つしかないじゃん」

 入口に置かれたラックから『園内案内図』を引き抜いた蓮があきれたように言う。

「観覧車、メリーゴーランド、コーヒーカップにジェットコースターですか。最低限のラインナップですね。他には軽食屋にアイスショップ……は夏季限定と。のこりのスペースはほぼゲームセンターですか」

 横からのぞきこんだ小野が言って、ひなたに目をむけた。

「初心者向けとは聞いていましたが、想像以上でした。物足りないようであれば、場所を変えましょうか。さいわい、入場料は無料ですし……」
「なんで!? すっごいうれしいよ! だって遊園地だよ。見て見て、観覧車がまわってる! なんかすっごいカラフルでかわいーよ!」

 声を弾ませるひなたの目はきらっきらに輝いている。
 弾んでいるのは声だけじゃない。
 興奮をおさえきれないらしく、俺の手を握ったままぴょんぴょん跳ねるものだから俺の身体もゆらゆら揺れる。

 ――いうほどカラフルでもないと思うけど。

 正直に言えば、遊園地は古びていた。

 いつからここにあるのかわからない門扉は、いたるところでペンキが剥げ、そのたびに安いペンキを買って来ては塗り直しているのだろう。
 色褪せたうえからちょっとずつ違う色味が塗り重ねられ、なんとも安っぽい。

 ひと目で見渡せてしまう四つの遊具も、どれもまだらにペンキが塗り直されていて、そのうえどれも輝きを失くして久しいようで、長い時間の経過を感じさせる。
 入口そばにある売店も、フードショップという色あせた看板が立っているが、これは売店だ。良く言えばレトロ。率直に言えば古めかしい。

 ――でも、ひなたが喜んでいるならそれが正解だ。

「千明さん、ナイスチョイスだ」

 空いた手でぐ、と親指をあげて見せれば、小野は「はあ」とあいまいにうなずいた。

「喜んでもらえたなら幸いです」
「まあ、待ち時間なしで遊べるのは良いんじゃない? すっごい幼稚だけど」

 蓮の言うとおり、平日の昼過ぎという微妙な時間帯のせいか、客の姿はない。なんならスタッフの姿もない。

 チケット売り場で乗り物の回数券を買ったら、売り場のスタッフがさっそうと外へ出てジェットコースターと観覧車がある方面へ向かったのは、たぶん気にしたら負けなんだろう。

「ねねね、何から乗る? 何から乗っちゃう!? あたしはね、まずはコーヒーカップ派!」

 コーヒーカップ派もなにも、ひなたが遊園地に来るのは初めてだ。

 ――小学生のとき、俺がこっそり渡した遊園地のパンフレット眺めてたもんな。いっぱい楽しい時間を思い描いていたんだろうな。

 しんみりとした気持ちになる暇はなく、ひなたに手をぐいぐい引かれて俺たちはコーヒーカップの元へ。

「おや、ひとつのカップの乗員は二名までとありますね」

 乗り口の手前で小野が声をあげる。

「ってことはグループ分けしなきゃだね! えっとねえ、組み分けは~」
「組み分けも何も、君たちはペアだろ」

 あきれたように蓮が言うのに、小野は首をかしげた。

「乗り物の数は十ほどありますし、現状無人ですし。グループにせずとも、ひとりずつ乗っても問題ないのでは?」

 小野の言うとおり、コーヒーカップで遊ぶ客はゼロだ。
 そのせいか、コーヒーカップは回っていない。俺たちの動きを見て乗り口に立ったスタッフが口を挟む。

「ひとりひとカップでも、おふたりひとカップでも構いませんよ。乗り物チケットの枚数は人数で決まりますから」
「なら僕はひとりで乗るよ。好き勝手に回されると気持ち悪いからね」

 即座に言ったのは蓮だ。
 つんと澄ましているけれど、乗らないという選択肢がないあたり良いやつである。

「自分もひとりで乗りましょうかねえ。乗ったことが無いので、どんなものかわかりませんし」

 眼鏡を押し上げた小野に、ひなたが体当たりする。

「ええー! だったらあたし、千明っちと乗りたい! あたしもはじめてだもんっ」
「なっ……、ひなた……!」

 ひなたが俺から離れようとしている。
 突然のことで動揺した俺の手を離し、ひなたは小野に抱き着いた。

「ね、ユウくん。いいでしょ?」

 上目遣いのひなたが期待の眼差しで俺を見てくる。いつもの癖であわててひなたの足元を見るけれど、空想に沈む様子はない。

 ほっとすると、今度は空っぽの右手の寒さが気になった。

 ――ひなたが、俺の手から離れて……友だちを作ろうとしている……。

 喜ぶべきことだ。
 ひなたの世界が広がるのは、悪いことじゃない。
 俺だって小学生のあいだ、ひなたが両親と家に引きこもって暮らすのをどうにかしたいと思っていた。

 だから自分の両親と、おばであるハルさんまで巻き込んで、今の暮らしを手に入れたというのに。

「……ああ、くれぐれも、症状が出たときには気をつけてくれよ、千明さん」

 感情を押し殺して出した声は、ひどく抑揚に欠けていた。閑散としているとはいえ、遊園地に不釣り合いだ。

「了解しました。油断せず、万全の体制で遊具を楽しみます」

 まったく気にせず返事をする小野の態度が、今はありがたい。

「ん! 行こ行こ、千明っち!」
「ええ。ではお先に」

 言って、小野がスタッフに乗り物チケットを渡す。するとスタッフが電源を入れ、優雅な音楽が流れはじめた。

「わあ! どうしよ、なに色にするー?」
「色による差異よりも形状の違いのほうが大きいと思うのですが。いや、もしや色によって制限速度に違いがある可能性も……?」

 はしゃぎながら乗り込むカップを決めに向かうひなたと小野の背中が、どんどん遠ざかっていく。

 ――できることなら今すぐ追いかけたい……でも。
 冷えた右手をぐっと握りしめて、俺は立ち尽くしていた。

「よく我慢したね」

 意外そうな声をあげたのは蓮だ。

「てっきり止めると思ってたよ」
「だって、ひなたが自分で一歩を踏み出したんだ。俺が止めるわけには……」
「まあ、ユウがそれでいいなら僕はどうだっていいけど」

 それきり興味をなくしたように、蓮はスタッフにチケットを渡して歩き出す。

 ひなたと小野はようやくカップを選んだらしい。乗り込んだひなたが、まだ動き出してもいないのに満面の笑みでこちらに手をふっている。
 俺は精一杯の笑顔で手を振りかえし、スタッフにチケットを渡してコーヒーカップへと歩いて行った。

 ***

「たーのしかったねーーー! ぐるぐるびゅーん!って!」
「思っていたよりも速度が出て、回転数もあがりましたね。子ども向けとあなどっていましたが、全力を出せばなかなか楽しめる乗り物です」
「きもちわる……」

 コーヒーカップを終えての、三者三様の反応である。

 ひなたは開始早々、カップ中央にあるハンドルを全力でまわしたらしい。
 優雅にまわる空のカップのあいだを異様な速度と回転数で駆け抜けるひなたの笑い声が、まだ耳に残っている。

 見ているほうが目を回しそうな回転のなか、小野はいつも通り何を考えているかわからない顔でぶんまわされていた。
 が、降りて早々の言葉を聞くにたぶん、悪くなかったんだろう。

 眼鏡のくせに乗り物に強いとは、意外だった。
 そして一番ダメージを負っているのは、間違いなく蓮だ。

「おいおい、大丈夫か?」
「むり……きもちわるい……」
 
 真っ青な顔でよろける蓮を支えようと伸ばした手は、ぺしりと叩き落とされた。

「僕じゃないでしょ、君が手をのばしたいのは……うぅ」

 よろけながらもベンチにすがりついた蓮の言葉で、俺はひなたを振り向いた。

「あわわ! レンレンが死んじゃう!」

 ぐったりとした蓮を見ておろおろとするひなたが立つのは、俺から三歩離れたところ。
 隣にいるのは俺じゃなく、小野だ。

「飲み物を買って来ましょうか」
「そだ! そうしよう。あたし行ってくる! レンレン、何がいい? 何なら飲めそう?」

 ――なあ、ひなた。俺はここにいるよ。

 立ち上がり、視線に想いを込めて見つめるけれど、今にも駆け出しそうなひなたが見ているのは蓮ばかり。

「牛乳? お水? あったかいのと冷たいのと、どっちがいいのかな!」

 ――ひなた、ひなた。俺の右手が寒いんだ。

 空っぽの右手を握りしめるけれど、ひなたが無邪気に尋ねた先にいるのは小野だ。

「牛乳は、自動販売機で取り扱っていない気がします。冷たいもののほうが胸がすっとするでしょうけれど、この場合は水よりも炭酸飲料がおすすめでしょう」
「わかった、じゃあ買いに行くね! ユウくん、レンレンのことよろしくねっ」

 ――よろしく、って。じゃあ、ひなたはひとりで……?

 ひなたが軽やかに告げるものだから、隣に立とうとしていた俺は脚を踏み出せずに立ち尽くす。
 そのままひとりで歩き出したひなたの隣に、小野が素早く並んでちいさな手を取った。

「自分もお供します」

 小野がちら、と俺に視線を向けてきたことはわかっていたが、俺の足は動かない。
 ひなたの笑った横顔が遠ざかるのを黙って見ているだけ。

「ねえねえ、どうして炭酸がいいの? しゅわってなるから?」
「そうですね。概ねその考えで間違っていないかと思います。詳しく話しますと、乗り物酔いは空腹時に起きやすいため、炭酸でお腹を膨らませることによって症状が軽減すると――」

 ひなたと小野はふたりで顔を寄せ合い、楽し気に会話を続けながら遠くなっていく。
 俺はずっとその姿を見つめていた。見つめていたのに。

 ――どうして振り向いてくれないんだ、ひなた。俺を置いてひとりで行くなんて……。

 呆然と立ち尽くす俺の横で、蓮が身じろいだ。

「子離れの練習、てわけでもなさそうだね。その顔を見る限り」

 青ざめた顔のまま、けれどいくらか落ち着いてきたのだろう。
 ベンチに座り直した蓮が俺の顔を下からのぞき込むようにしてため息をついた。

「意外だな。『俺の手を離すな』って追いかけるかと思ってたのに」
「だって、ひなたは俺を振り向かなかった。ひなた、俺に蓮を見てるようにって……」

 答えた声は自分でも驚くほど弱弱しい。
 いっそ泣き出しそうな声に、蓮も驚いたのだろう。ただでさえ美少女めいた大きな目をさらに見開いて俺を見つめ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「君のほうがよっぽど依存してるんだな」
「依存……?」
「矢野は君が居なきゃ、寝て起きて生活をする普通の暮らしすらできやしないんだろ。だからてっきり、矢野が君に依存してると思ってたんだけど」
「はは」

 蓮の言葉に俺の口から乾いた笑いが漏れた。
 力ない笑いに引きずられるように、俺はつぶやく。

「ひなたは、本当は俺なんていなくても大丈夫なんだよ」

 だって発症から一度だって、寝ている間にひなたが空想に沈んだことはない。

 ひなたの母親が不安がって夜も抱きしめて離さなかったから、それを真似て俺は手をつないでいるだけ。
 起きている間も同じ。もしかしたら、ひとりきりのときには症状が出ないかもしれない。
 けれど試していない。試して何かがあったらと思うと、試せない。

 ――大丈夫じゃないのは俺のほう。

「あいつ、親に閉じ込められてた間も、笑ってたんだよ。『あたしは大丈夫だから、そんなに心配しないで』って。笑って、親をなだめてた」

 ――だけどあいつの母親はそれじゃダメだった。目を離したらひなたがいなくなるんじゃないかって怖くって、見えるところにいないと不安になって。それは、俺も一緒だ。

「だけど矢野の親は閉じ込め続けたから、優の家族が引き離したんでしょ? そこは聞いたよ」
「ああ、そうだったな」

 蓮にはじめてひなたのことを話したのは、小学校高学年にあがるころ。
 俺の話を静かに聞いてくれる蓮だったから、家族以外では唯一ひなたの話ができる相手だった。

「ずっとのろけみたいなことばっかり聞かされてた相手が、同じ中学に入るから友だちになってやってほしい、なんてさ。しかもずっと手を繋いでなきゃいけないから、学校で孤立しないようフォローしてほしいなんて。優もたいがい囲い込みがひどいと思うけどね」

 蓮が呆れたように言うけれど、俺が返せる言葉はない。

 実際、俺はひなたの母親といっしょだ。
 知らない間にひなたがいなくなるんじゃないか、瞬きの間に空想の世界に落ちて行ってしまうことが怖くて、彼女の世界を広げることに二の足を踏んでいた。
 
 ――そんな本音を、ここまできても腹のうちに隠すなんてな。それも蓮相手に。

 自分があまりにも愚かしくて苦笑がもれた。
 蓮なら俺のどんな醜い願望を聞いたところで軽く流して、興味なさげに頷くだけだろう。
 そうとわかっていてなお、俺は本当のことを告げない臆病者で、卑怯者なのだ。

 俺がそれ以上は口を開かないとわかったのだろう。蓮はベンチに腰かけて頬杖をつき、視線をどこへともなく投げる。

「そもそも君たちの関係は歪だよ。正直、君は矢野を囲い込んで、矢野は君に依存してると思ってた」

 そう思われるような行動をしていた自覚はある。
 
 ――これじゃ、なんのためにひなたを家族から引き離したか、わかったもんじゃないな。
 自嘲した俺に、連が続けてかけたのは諫める言葉ではなかった。

「まあ、歪でもなんでも君が良いと思っているなら、それで良いと思うけど」
「え」

 ぽかんと見下ろした俺の顔を見て、蓮は「すんごい間抜けな顔。学校の女子たちに見せてやれば?」とつまらなそうに言ってから続ける。

「君の望むようにするって僕は決めてるから。友だちごっこでも二人で逃避行でも、やる前に言ってよ。僕に手伝えることなら手伝うから」
「蓮……」

 素っ気ない態度をとりながらも、手放しで俺を支持する発言に、なんと返すべきなのか。
 わからないでいるうちに、遠くから声が聞こえてきた。

「おおーい、レンレーン! 買ってきーたよおー!」
 ペットボトルを持った両手を大きく振り回すひなたの隣では、小野が何か言っている。
 近づいてくる二人を一瞥した蓮は、眉を寄せて俺を見た。

「炭酸ジュースを振り回さないよう教えておいたほうがいいんじゃない?」

 ***

 振り回した炭酸ジュースなんて飲めたものじゃない。
 蓮はそう言いながらも、ひなたからペットボトルを受け取って鞄にしまうと、立ち上がった。

 座って話しているあいだに回復したのか、青白かった顔色はもうすっかり元に戻っている。

「まだ何か乗り物に乗るの? 僕はもう勘弁なんだけど」

 とはいえ、精神的にはまだまだ疲労がとれていないらしい。きっぱりと主張する蓮に、ひなたが眉をへしょりと下げる。

「えっとね、えっと……」

 ちらちらと動く視線が向けられている先にあるのは、遊園地の中央にそびえる巨大な輪。観覧車。

 あからさまな未練がましい態度に小野を見れば、小野もまた俺に視線を寄こしていた。

「自分はちょっと用事を思いつきましたので、別行動でお願いします。あ、園からは出ませんしすぐに済む用事ですので、観覧車の下で待ちあわせしましょうか」
「……小野さんもたいがい、マイペースだよな」

 ここで「では一緒に乗りましょう」と言わないあたりが、クラスで今ひとつ馴染めていない理由なんだろう。
 そもそも用事は思いつくものじゃないと思うんだが。

「他人のペースに合わせることを悪とは考えませんが、自分は自分の時間を第一に考えて行動しますので」

 きりっとした顔で言われてしまえば、いっそすがすがしい。「では、後ほど」と小野は振り向きもせず去って行く。
 向かう先は入り口方面。園の外には出ないと言っていたから、売店に向かったのだろうか。

 蓮もまた歩き出したが、向かう先は小野とは別の方向だ。

「レンレン、どこ行くのー?」
「休憩」

 簡潔な返答の通り、蓮の進む先にはベンチがぽつんと置かれている。
 素っ気ない態度ながら、観覧車に一番近いベンチを選ぶあたり蓮らしい。

 小野が立ち去り、蓮が行ってしまえば残されるのは俺とひなたのふたりきり。
 いつものことなのに、ずいぶん久しぶりのような落ち着かない気持ちになる。

 ――手を、つながないと。

 右手を持ち上げようとした俺の左腕に、ひなたが飛びついた。柔らかな身体がぎゅっと寄せられ、いつもの笑顔が俺を見上げる。

「じゃあさ、ユウくん。いっしょに乗ってくれる?」
 
 ――いつもの笑顔、だろうか。

 明るい声は耳になじむ聞きなれたもの。

 ――そうだろうか。

 一度離れて、そして改めて寄り添ったひなたは、俺の知っている少女ではないような気がしてならない。
 守ってあげなければならない雛鳥の顔の下に、ちらりと見えるのは艶やかで強かな――。

「ね、乗ろ?」
「ああ……」

 絡めた腕を引かれ、俺とひなたは観覧車へと歩いていく。

 にぎやかしのためだろう、まわりに置かれたプランターがよけいにチープさを強める観覧車は、どれも無人のままゆらゆらと回っている。
 俺たちを待つスタッフにひなたがチケットを差し出すと「お好きな色を言ってください。
 ほかにお客さまもいませんから、好きなゴンドラに乗っていただけますよ」とにこにこ笑う。

 ――この顔、コーヒーカップのとこでも見たような……。

 遊園地の経営はそうとう厳しいのだろうか。
 そんなことを考えかけた俺の意識を引き戻すように、ひなたは観覧車を指差した。

「あれが良いな。あの鳥の絵がある白いの。ね、ユウくん、良いかな?」
「あ、ああ。ひなたの好きなやつにしよう」
「ありがと、うれしい!」

 なんだろう。いつもの笑顔のはずなのに、何かが違う。

「あ、ほら来たよ。乗ろう、乗ろう!」

 俺が違和感の正体を探っているうちに、観覧車は近づいてくる。
 ぐい、と腕を引かれて気がついた。

 ――そうか、いつもと逆なんだ。ひなたが俺を引っ張ってる。

 ずっと俺が手を引いてきたつもりだったのに、今はひなたが俺の手を引いている。
 無邪気に駆け出す幼児のようなそれではなく、明確な自身の意思を持って。

 俺はそれに抗えない。

「はい、どうぞ」

 スタッフが白いゴンドラの扉を開けた。
 ひなたは「ありがとうございまーす」なんてにこにこ笑いながら俺の手を引く。

 ふたり、乗り込んだゴンドラのなかでひなたがおれの胸を押して椅子に座らせ、自分は向かい側にちょこんと座った。

 つないだ手はそのままだ。

「では、ごゆっくり。空の旅をお楽しみください」

 決まり文句なのか、スタッフが告げて扉が閉められる。
 ガチン、と大きな音を立てて外から鍵が閉められて、ゴンドラは俺とひなたを閉じ込めてゆるゆると昇っていく。

 ゆっくり上昇しているせいだろう、高いところへ向かっているという感覚はうすい。
 ただ、ゴンドラの揺れが今の俺たちは地上にいないんだと教えてくる。

 ゆらゆら、ゆらゆら。
 ゴンドラの進みはひどく遅い。

「ねえユウくん」

 つないだ手がするりと離される。
 やわらかな指が遠ざかるのをぼうっと見送りながら、顔をあげた。

 ちかり、射し込む夕陽がまぶしくて、窓の外を見つめるひなたの横顔はよく見えない。

「ほんとはあたしね、ひとりでも大丈夫なんだよ」

 いつものはしゃいだ声はどこへいったのか。落ち着いた、まるで大人の女の人のようなひなたの声。

「ユウくんがやさしくしてくれるのが嬉しくて甘えてたんだ」

 いつの間にかゴンドラはてっぺんまで上り詰めていた。
 射し込む光がいっそうまぶしくひなたを包み込み、そして光が弱まりはじめれば、あとは下に向かうばかり。

「でも、ひよりちゃんを泣かせてちゃだめだよね。あたし、お姉ちゃんなんだもん」

 苦笑するような笑い方。
 そんなひなたの声ははじめて聞く。

 強い夕陽が落とす影は濃く、俺のほうを向いたひなたの顔がよく見えない。
 だというのに、聞いたこともないやわらかな声で、ひなたが笑っているのが俺にはわかった。

 見たこともないような、大人びた笑みを浮かべてるんだろう。
 噛みしめるような、懐かしむような気配をにじませたひなたが、ゆっくりと口を開くのが見えた。
 同時に、ゴンドラの床にずぶりと沈むひなたの足元も。

「だからさ、もう」
「ひなた!」

 だから俺はひなたの手を取り、繋いだ手を引き寄せて、目一杯の明るい声をあげるんだ。
 ひなたがひとり、空想の世界に沈まないように。
 やさしげに見える笑い方なら、いくらだって練習してきたから、大丈夫。

「今日は楽しかったな! みんなでご飯食べて、遊園地にも来て。小野が乗り物に強いの、意外だよな!」
「ユウくん……」

「蓮はまあ、あんまりこういう場所好きじゃなさそうだとは思ってたけどさ。思った以上に苦手みたいだから、おどろいたよ。見てなかったかな、蓮のカップ、一回もハンドル回してないんだぞ?」

 ――いやだ、終わらせたくない。今の俺たちの関係を、終わらせたくない。

 その一心で俺は必死に口を動かす。

「俺もあんまりぐるぐる回るのは得意じゃないけど、蓮はよっぽどだな。よっぽどと言えば小野のマイペースはすごいな。あそこまで自分のペースを保てるのは、いっそ感心するレベルじゃないか!」

 べらべらと喋りながら、俺は俺自身を客観的に見て冷めていく心を感じていた。

 穏やかな終わりを迎えようとするひなたと、それを終わらせまいとする俺。
 ひなたをさえぎるために、無理に明るく振る舞う姿は滑稽だ。
 せめて無邪気に見せられていれば、マシなのだろうか。

 ――無邪気に、なんて。それじゃまるで、俺のほうがいつものひなたみたいじゃないか。

 そう自嘲して、気がついた。

 ひなたも俺と同じように、あのぬるま湯のような時間を望んでいたのだ。
 望んでいてくれたから、ことさら明るく振舞って俺たちの関係が壊れないようにしていたに違いない。

 ――だったら……。

「なあ、ひなた」

 ひなたの手を取った。
 強引につかんで引き寄せ、引きずられたひなたの顔にずいと額を寄せる。

「俺とひなたは幼なじみだろ。今までもこれからも、仲の良い幼なじみだ。なあ?」

 ――俺にもすがらせてくれよ。

 願いを込めて見つめる、ひなたの瞳が揺れている。

「……おさな、なじみ?」

「そうだ。だから俺はお前といっしょにいるんだ。別におかしくなんかない」

 震えるひなたの声を塗り替えるように、俺はきっぱりと言い切った。

「仲良しだから、いっしょに居ても良いの……?」
「ああ、そうだ。何もおかしくない。俺たちはずっといっしょにいる。今までも、これからも、ずっとずっと、その先も」
「ずっと、ずっと……」

 くす、と笑うひなたは今にも泣きそうで。
 それもまた、俺の知らない笑い顔だと思って、俺の胸がずきりと痛む。

「それじゃまるで、プロポーズだね」
「そう思ってくれてもいいよ」
「ふふっ」

 うつむいたひなたの膝にぱらぱらと散った雫は気づかないふり。

 窓の外へ目をやって、チープな明かりに包まれた地上が迫っているのを見て、大げさな声をあげてやる。

「ああ、もう着いちゃうな! もっと空にいたかったのに。残念だ」
「ほんとだ! 楽しい時間はすぐ終わっちゃうって、ほんとなんだねえ」

 ひなたもまた、いつもの底抜けに明るい声と笑顔で俺に応えた。
 繋いだ手にぎゅっと力を込めたのは、どちらが先だっただろう。

「あ、ほら。レンレンが見えるよ! おーいレンレーン! 楽しいよー!」
「ああ、これくらいゆっくり回ってれば蓮も平気かもしれないな」

 地上に着く間際になって、そろって手を振る俺たちに蓮は呆れ顔だ。

 ひなたがはしゃいで、俺がその隣で笑って、連が呆れた顔をする。いつもの俺たちらしい関係に戻ってきて、ようやく息ができた気がした。

「はい、お疲れさまでした。足元に気をつけて降りてくださいね」

 スタッフがゴンドラの扉を開けて、俺たちに降りるよう促す。
 俺はひなたと手をつないだまま先に立って降り、もう一方の手をひなたに差し出した。

「さあ、行こう」
「……うん!」

 俺の手を取ったひなたの笑顔に、にじむためらいは見ないふり。
 ひなたとつなぎなおした手が離れないよう、俺は歩き出す。

 ――終わらせない。まだ終わらせたくないんだ。だからこの歪な関係を、もう少しだけ……。
 
 ***

「ひなたさん、これを」

 小野がジャージのポケットから取り出したなにかをひなたは手のひらで受け止めて、首をかしげる。

「なあに? ブレスレット?」

 ひなたの手のひらのうえ、チャリとかすかな音を立てたのは不揃いの石が連なる飾り。
 深い緑色をした石はちいさいけれど、独特の重みを感じさせるものだ。

「透輝石、ダイオプサイドと呼ばれる石です。パワーストーンの一種で、石言葉は『幸せの道しるべ』涙を浄化させトラウマを昇華させる石、とも言われているようです」

 ――石でトラウマを消す? 胡散臭い。胡散臭いうえに意味がわからない。

 なんだって急にそんなものを。
 そうぶつける前に、ひなたが「わあ!」と歓声を上げた。
 渡されたブレスレットを両手で持ったひなたは、空にかざして目を輝かせる。

「きれいだね! 太陽に透かすとキラキラのとこと色の濃いところが混ざってるのがわかって、すごく素敵! これ、あたしに?」
「はい」
「でもあたし誕生日じゃないよ。何でもないのにこんな素敵なものもらうなんて……」

 そわそわするひなたに、小野は手のひらを突き出した。

「いえ、さほど高いものではありませんし、仮説の検証といいますか自己満足の一環のようなものですから。受け取っていただくほうがありがたいです」
「かせつ?」
「はい。昨日、これまでの話を伺いまとめたところ、ひなたさんに必要なのではと思われる事柄がいくつか推測されたのですが。早急に対処可能なものを検証してみるべきかと思いまして」
「んんんんん?」

 ひなたが首をかしげすぎて倒れそうだ。
 小野の言葉は回りくどくてわかりづらすぎる。

「もう少しわかりやすく言えないのか」
「では、友好の証だと思っていただければ」
「お友だちのしるしってこと! うれしいなあ!」

 飛び跳ねて喜ぶひなたの手前、怒鳴りつけるわけにもいかなくて湧き上がる感情が、腹のなかでぐつりと行き場をなくす。

 ――だから検証って何のことだよ、それと友情とやらがどう関係するっていうんだ!

「えへへへ。お友だちからプレゼント、あたしはじめて!」

 ひなたが小野になついている。
 肩に頭を擦り寄せて頬を染めるひなたに、小野は「はじめてですか」と眼鏡を押し上げた。

「うん、そうなの! あ、もちろんユウくんからはたくさんもらったけどね。ユウくんはお友だちっていうより、もうユウくんだから」
「距離感の違いですね。しかしはじめてならば、小洒落た包装なりリボンのひとつもかけてもらうべきでした」

 小野の表情は変わらない。でもどうやら少し後悔しているようで、わずかに眼鏡がずり落ちて見える。

「ううん! うれしいよ! ラッピングしてあったらきれいにきれいに剥がさなきゃだから、すぐに見られなかったもん」

 手のひらで大切に包み込んでいたブレスレットを光にかざして、笑うひなたは子どものようだった。
 その笑顔になにを思ったのか、ブレスレットをつまみあげた小野は、ひなたの手首にするりと嵌めて指先でなぞる。

「……次に会うときは、より厳選した贈り物にしましょう。包装もリボンも、とっておくに値する凝ったものを探します」
「だったらさ! 次はプレゼントの交換こしよう!」

 自身の手首に触れる小野の手ごと握りしめて、ひなたが声を弾ませた。

「あ、でも一緒にお買い物に行っておそろいを選ぶのもやりたいな。ヘアピンとか、キーホルダーとかね、ちっちゃいのでいいから」

 期待いっぱい、不安をちらりとのぞかせたひなたの願いに、小野が力強くうなずいた。

「わかりました。では、候補地を考えておきます。ところでひなたさんへの連絡手段は」
「俺だ。俺の携帯電話に連絡すれば、となりにひなたがいる」
「なかなかの束縛系彼氏ですね」
「はあ? 喧嘩売ってるのか」
「いいえ、素直な感想です」

 さらりと返してくる小野は本当にいい性格をしている。

 ――こんなやつをそばに置いたら、素直なひなたに悪影響が出るんじゃないか? いやでもせっかくひなたが友だちができたって喜んでるんだから、もうしばらく見守るべきか……。

 俺の悩みなんて気にもしていないんだろう。小野は「さて」とマイペースに空を見上げた。

「陽が暮れてしまいました。今日はもう帰りましょう」

 ***

 帰りのバスのなか、小野は言った。

「というわけで、総評です」
「は?」
「なになに? 総評ってなあに?」

 あまりの唐突さにあっけにとられた俺の横で、ひなたがなぜかわくわくしたように小野の言葉を待っている。

 窓際に座った蓮は、バスでさえ乗り物酔いが再発しそうなのか、窓の外を見つめて黙り込んでいたが、呆れ顔で首を回し、反対の窓際に座る小野を見た。

「小野は前置きが無いよね。結論から話すのは嫌いじゃないけど、自分のなかで話を進めすぎ」
「おや、これは失礼いたしました。そうですね」

 ずばずばと言われて、小野は気にした風もなく眼鏡を押し上げる。

「何度か言ったつもりでしたが、本日デパート、遊園地へ足を運んだのには理由がありまして。自分のなかでひなたさんの症状への仮説を立て、それを検証するために皆さんにご足労願ったわけです。そして、その結果を自分なりにまとめたものをお伝えしようと思いまして」
「小野さん、お前……」

 言いたいことはいろいろあった。

 勝手にひなたを使って実験するんじゃない、とか。だったら俺たちにも相談しろよ、とか。純粋に遊ぶのを楽しみにしてたひなたの気持ちをもてあそんだのか、とか。

 でも、小野は眼鏡をぐいぐい押し上げながら続けた。

「まあ、それとは別に友人と遊ぶ、という経験してみたい下心もあってお誘いしたわけではあるのですが」
 
 ぐいぐい、ぐいぐい。

 眼鏡越しの無表情は感情が読みづらいが、これは、もしかして照れている、のだろうか。
 俺と手を繋いだまま、ひなたがぷるぷる震えて小野に体当たりした。

「下心、うれしいっ! あたしもね、千明っちに誘ってもらえてうれしかったよ!」
「そうでしたか。それは何よりです」

 心なしかほっとしたように言って、小野は咳払いをひとつ。

「それでですね」

 いつもどおりの調子を取り戻して話を続ける。

「仮説、ひなたさんの精神がネガティブに傾いた時に発症するのではないか、についてですが。本日、ひなたさんが楽しいと感じられる行為を繰り返すなかで、発症は認められませんでした。よって、おそらくこの仮説は肯定できるものと思われます」

 言われて、記憶をさらってみる。
 確かに、そろって昼食をとったときも遊園地で過ごしている間も、行き帰りのバスのなかでも、半日以上の時間、ひなたに症状は現れていない。

 ――観覧車のなかで沈みかけたのは、あのときはひなたが俺と離れようとしていたから。別れを覚悟する精神をネガティブなものだとすれば、小野の言ってる通りなのかもしれない。

 あの時間を小野たちと共有するつもりはないから、口にはしないけれど。
 俺は肯定の意味を込めてうなずいた。

「たぶん、その考えで間違ってないと思う。振り返ってみれば、ひなたが落ち込むようなことがある時によく症状が出てたはずだ。けど、それがわかってどうするんだ」
「ネガティブにならないように生きる、なんて無理だよね。生きてる以上、あれこれ色んなことがあるわけだし。ポジティブなことばっかりに囲まれて生きるなんて、やろうと思ってできるなら誰も苦労しないんだし」

 蓮が言うと、小野は何でもないように「はい」と答える。

「人生は山あり谷ありと言いますから、ネガティブポジティブ入り乱れていてしかるべきです。それに人の感情は本人であっても容易にコントロールできるものではありません。ですから、提案したいのはひなたさんの生活に引っかかりを作ることです」

 ――こいつ、日本語うまいのか下手なのかよくわかんないな。

 きっぱりと言われて、俺の頭に浮かんだのは失礼な想い。
 でも蓮もひなたも同じような感想を抱いてるんだろう。露骨に呆れた顔をする蓮をよそに、ひなたがきょとんと首をかしげる。

「引っかかり? ってなあに?」

 わからないことを素直にわからない、と言えるひなたは、思考が突っ走る小野ともしかして相性がいいのかもしれない。

「引っかかり。未練。心残り、と言い換えても良いのだと思います。ようは、発症した際に踏みとどまれる何かが欲しいんです」
「何かって、何さ」

 蓮が聞けば、小野はあっさりと首を横にふる。

「わかりません」
「は」

 ――ふざけてるだろうか。

 俺がうっかり不機嫌な声を漏らしそうになった、その前に小野は「ですが」と続けた。

「それをいっしょに探していけたら良い、とは思っています。ひなたさんが良ければ、ですが」

 ぐいぐいと眼鏡を押し上げるのは、もしかして小野が照れたときのしぐさなのだろうか。
 表情はいつもどおり無のまま、顔色が変わるでもなく、視線が泳ぐでもないまま、小野はただただ眼鏡を押し上げ続ける。

「もっちろん! ヤなわけないよ!」 

 どん、と小野にぶつかりに行ったひなたは、小野のぶんまで顔を紅潮させているのか。
 やわらかそうなほっぺたをにこにこと緩ませて、ご機嫌だ。

「あ、ボタン押して」

 蓮が不意に言い、俺は一瞬意味がわからなかった。素早く反応したのはひなただ。

「よろこんでー!」

 元気に答えながらぽちっと押したのは降車ボタン。ブーッとブザー音が鳴り、バスの運転手が「次、停まります」とアナウンスをした。

 ***

 バスは俺たちが暮らすハルさんの家の最寄りのバス停で停まった。
 並んでおりた俺たちの後ろに、何も言わずに蓮と小野が続く。

「蓮はバス停ひとつぶん向こうだからいいとして、小野さんは近所なのか?」

 それにしては、朝の通学時に小野の姿を見た記憶がない。
 朝から下校時まで、ジャージ姿を貫く小野は目立つはずなんだが。

「いいえ、まったく近くありません。むしろ学校を挟んで正反対と言えるでしょう」

 きっぱりと言われても、もう遅い。すでにバスは発車してしまい、瞬く間に道を曲がって見えなくなった。

「じゃあなんで降りたのさ」

 蓮が咎めるように言うのも当然だ。
 大通りからすこし外れているこのあたりは、バスの本数も多くない。
 一本逃せば次に来るのは一時間後、なんてこともよくある。

 ――どういうつもりで降りたんだ。

 不可解な小野の行動に眉を寄せていると。
「ひなたさんに伝えておきたいことがまだありましたから」
「なあに、どしたの?」

 きょとんとするひなたの正面に立ち、小野はまっすぐにひなたを見つめて言う。

「ひなたさんには、現実との接点が少なすぎるように思いました。ですので、地に足をつけるために今後も様々な経験を重ねていけたらよいのでは、と考えております」
「ん? うん?」

 小野の言い回しがよくわからなかったのだろう、ひなたは頷きかけて首をかしげる。
 小野はひなたを見つめながらも、ぐいぐいと眼鏡を押し上げている。

 ――今のはわかったぞ。

「小野さん、また遊ぼうってさ」

 ひなたにささやいてやれば、わかりやすく頬を染めてぱあっと表情を明るくする。

「うん! あたしも、いっぱい遊びたい!」
「そうですか。それは、その、うれしいです」
「うん! うれしいねえ!」

 にこにこと笑いながら、ひなたは手首で揺れるブレスレットをやさしく見つめた。

「いっぱい思い出、つくろうね」
「はい。では」

 こっくりうなずいた小野は、驚くほどあっさりとひなたに背を向ける。

 そのまま去ろうとするものだから、あっけに取られていると、俺たちの横に立っていた蓮が「はあ」とため息をひとつ。
 軽やか、とは言い難い足取りでその背を追った。

「小野! 家どこ」

「ですから学校を挟んで反対側の、そうですね。公立図書館を御存じでしょうか」
「わかるよ。図書館なら大通りまで行けばバスがあるね。いっしょに行く」
「いえ、自分は家まで走って帰ろうかと思っていたのですが」
「はあ!? ふざけてるの。もうすぐ夜になるの、わかってる? バスに乗るからね。バス停までなら僕も行くから」

 どうやら蓮が送って行ってくれるらしい。
 振り向かないまま後ろでにひらひらと手を振る蓮に胸の内で感謝を告げて、俺はひなたと手を繋ぎ直した。

「小野さんは蓮が送っていってくれるって。俺たちも帰ろうか」
「うん」

 ひなたとふたり、手を繋いで家路を歩く。
 日の暮れた時間にひなたと出歩くのなんてはじめてで、ただよいだした春の夜風の冷たさも気にならない。
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