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一章 別れと出会い
6、逃げたほうがいいのかな
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暗い路地のなかでも光があたらない場所を縫うように進んだヒアイは、やがてひとつの建物の前で脚を止めた。
すこし古びた煉瓦調の外壁はいくつも建ち並ぶビルの合間にあって違和感を覚えさせない。地上階にはいくつものネオンサインがピンクや黄色の明かりで主張をしている。それぞれのフロアにさまざまな店舗が間借りしていることがうかがえるが、ヒアイが脚を向けたのはきらびやかな入口ではない。
ゆめを抱きあげたままのヒアイは、ビルの明かりを避けるように建物脇の暗がりに踏み込んだ。そこには見落としてしまいそうな階段があり、華奢な手すりが地面のしたへ続いていた。
「着いたぞ」
ほんの数段を降りたところで、ヒアイがゆめをそっと下ろす。
未だ夢うつつに足取りのおぼつかないゆめの腰を支えながらヒアイは半地下にある扉を開いた。
喧騒、というには慎ましやかなにぎわいが、ゆめのぼやけた意識を呼び起こす。
「ここ、は……?」
窓のない室内は、入り口から全部が見渡せるほどの広さしかない。その控えめな店内の壁には余すところなく酒瓶が並べられていた。
酒を提供する店なのだろう。ほんの三つしかないテーブル席に座る男女の客は、色鮮やかな液体で満たされたグラスを揺らし、控えめな談笑を楽しんでいる。
不安げにあたりを見回すゆめの背をヒアイが押す。
(どうしよう、逃げたほうがいいのかな)
おかしな男に連れて行かれた店のなか、ゆめは精いっぱいの警戒心を働かせた。
背後の扉はすでに閉まっている。けれど閉じ込められたと感じないのは店内を満たす穏やかな雰囲気のためだろう。
談笑する客の抱く感情はアルコールを含んでなお穏やかで、ゆめの不安を淡くさせる。
「あれぇ、ヒアイじゃん。めずらし~」
ゆめが躊躇っているあいだに、カウンターの向こうの青年が来客に気づいて顔をあげた。
ひとの良さそうな笑顔を浮かべる彼に手招きされるまま、ヒアイはゆめの背を押してカウンターに向かう。
逃げ出す暇などないまま背の高いスツールに座らされたゆめの前で、黒いベストを身に着けた青年がにっこり笑う。
「きょうのご飯?」
にこにこと笑いながら青年が言う。
(注文を聞いてるの、かな? おかしな日本語)
不思議に思ったゆめだったが、不自然さは感じなかった。
青年の笑顔は人好きのするものであったし、一見日本人に見えるひとでも留学生だということもあると都会に出てきて学んだのだ。
そのため、目の前の淡い髪色をした青年もそのひとりなのかもしれない、と考えた。
けれど。
「いや、見破られた」
ゆめの隣に腰かけたヒアイが簡潔に述べた途端、青年の笑みが消える。
その瞬間の違和感は、きっとゆめにしかわからないだろう。
(このひと、笑ってるのに感情がすこしも感じられないんだ……!)
笑顔のときもそれが消えたときも、青年からは何の感情も受け取れなかったことにゆめは気が付き、ぞっとした。
固まるゆめの前に、青年がふと身を乗り出す。
間近にせまるガラス玉のような瞳は、ヒアイとよく似ていた。透き通った硬質な光に見つめられると、ゆめの意識は輪郭をぼやけさせ身体の自由がきかなくなっていく。
(また、眠気が……!)
意識を手放してしまうほどではない、けれど抗いがたい眠気と闘うゆめを見つめて青年がこてん、と首をかしげた。
「んん~、かんたんに眠らせちゃえるってことは、仲間ってわけじゃないみたいだねえ?」
「そんなのは見ればわかるだろう、キド。こいつの顔は凡庸すぎる」
「あっは! そーゆーことすぐ言っちゃうから、ヒアイはモテないんだよ~」
ヒアイの失礼な発言に怒る余裕はゆめには無かった。
ひとを凡庸と言い切るだけあって見目麗しい彼らの会話も容姿も、いまのゆめは気にならない。
ただ、キドと呼ばれた青年のおどけたようなしぐさは愛嬌を感じさせるはずなのに、キドの抱く感情がゆめには一向に伝わってこないことに意識が支配されていた。
(こんなこと、はじめてだ)
ひとがいるならばそのひとの数だけ。いや、ひとの数以上にそれぞれが抱える感情の数だけ思いが渦巻くのがゆめにとっての常だった。感情の塊こそがひととも言えた。
そこにきて、感情のつかめないキドやヒアイは、まるで透明人間だ。いるはずなのに姿が見えない。
十九年間生きてきたなかではじめて出会う生き物を前にして、ゆめは「ここで寝てはだめ」とぼやける意識と戦っていた。
そんなゆめを眺めていたキドが、ふと、顔をあげてテーブル席の男女に視線を向ける。ふたりはゆめたちの様子に気づいていないようで、朗らかにグラスを傾けていた。
「ねえ、お客さんたち」
急にかけられた明るい声に、男女は疑いもなく青年を見る。すると、キドが唇をゆるりと開いた。
「眠りに身を任せてごらん。恐がらなくていい、君たちはただ眠るだけだから」
やさしい声が告げるのと、男女がテーブルに突っ伏すのは同時だった。
瞬きの間に健やかな寝息をたてはじめたふたりから視線を戻したキドは、ゆめの顔をのぞきこんでにっこり笑う。
「ほら、これでだれも聞いてないよ。きみがどうやってヒアイのことを見抜いたのか知るために、ゆっくりお話しできるね」
明らかな異常事態を前にしてゆめの本能が警戒を叫ぶ。
体を支配する眠気に必死で抗って、ゆめは口を開いた。
「あなた、なにを……!」
「なにって」
キドの目がきょとんと丸くなる。かと思えばにいっと細くなり、彼はからかうようにゆめに顔を寄せた。
「眠ってもらったんだよ。きみ、知らないの? 獏はね、夢を食べるんだよ~」
「ゆ、め……」
「夢を喰う獏、聞いたことない?」
「架空の、いきものじゃ……」
ゆめがぼやけた意識で記憶を探り探り答えると、キドはうれしそうに笑いながらカウンターから身を乗り出した。
身動きのとれないゆめにキドがぐっと顔を近づける。吐息がくちびるに感じられるほどの距離で、キドはにっこり笑う。
「僕もヒアイも、実在する獏だよ」
すこし古びた煉瓦調の外壁はいくつも建ち並ぶビルの合間にあって違和感を覚えさせない。地上階にはいくつものネオンサインがピンクや黄色の明かりで主張をしている。それぞれのフロアにさまざまな店舗が間借りしていることがうかがえるが、ヒアイが脚を向けたのはきらびやかな入口ではない。
ゆめを抱きあげたままのヒアイは、ビルの明かりを避けるように建物脇の暗がりに踏み込んだ。そこには見落としてしまいそうな階段があり、華奢な手すりが地面のしたへ続いていた。
「着いたぞ」
ほんの数段を降りたところで、ヒアイがゆめをそっと下ろす。
未だ夢うつつに足取りのおぼつかないゆめの腰を支えながらヒアイは半地下にある扉を開いた。
喧騒、というには慎ましやかなにぎわいが、ゆめのぼやけた意識を呼び起こす。
「ここ、は……?」
窓のない室内は、入り口から全部が見渡せるほどの広さしかない。その控えめな店内の壁には余すところなく酒瓶が並べられていた。
酒を提供する店なのだろう。ほんの三つしかないテーブル席に座る男女の客は、色鮮やかな液体で満たされたグラスを揺らし、控えめな談笑を楽しんでいる。
不安げにあたりを見回すゆめの背をヒアイが押す。
(どうしよう、逃げたほうがいいのかな)
おかしな男に連れて行かれた店のなか、ゆめは精いっぱいの警戒心を働かせた。
背後の扉はすでに閉まっている。けれど閉じ込められたと感じないのは店内を満たす穏やかな雰囲気のためだろう。
談笑する客の抱く感情はアルコールを含んでなお穏やかで、ゆめの不安を淡くさせる。
「あれぇ、ヒアイじゃん。めずらし~」
ゆめが躊躇っているあいだに、カウンターの向こうの青年が来客に気づいて顔をあげた。
ひとの良さそうな笑顔を浮かべる彼に手招きされるまま、ヒアイはゆめの背を押してカウンターに向かう。
逃げ出す暇などないまま背の高いスツールに座らされたゆめの前で、黒いベストを身に着けた青年がにっこり笑う。
「きょうのご飯?」
にこにこと笑いながら青年が言う。
(注文を聞いてるの、かな? おかしな日本語)
不思議に思ったゆめだったが、不自然さは感じなかった。
青年の笑顔は人好きのするものであったし、一見日本人に見えるひとでも留学生だということもあると都会に出てきて学んだのだ。
そのため、目の前の淡い髪色をした青年もそのひとりなのかもしれない、と考えた。
けれど。
「いや、見破られた」
ゆめの隣に腰かけたヒアイが簡潔に述べた途端、青年の笑みが消える。
その瞬間の違和感は、きっとゆめにしかわからないだろう。
(このひと、笑ってるのに感情がすこしも感じられないんだ……!)
笑顔のときもそれが消えたときも、青年からは何の感情も受け取れなかったことにゆめは気が付き、ぞっとした。
固まるゆめの前に、青年がふと身を乗り出す。
間近にせまるガラス玉のような瞳は、ヒアイとよく似ていた。透き通った硬質な光に見つめられると、ゆめの意識は輪郭をぼやけさせ身体の自由がきかなくなっていく。
(また、眠気が……!)
意識を手放してしまうほどではない、けれど抗いがたい眠気と闘うゆめを見つめて青年がこてん、と首をかしげた。
「んん~、かんたんに眠らせちゃえるってことは、仲間ってわけじゃないみたいだねえ?」
「そんなのは見ればわかるだろう、キド。こいつの顔は凡庸すぎる」
「あっは! そーゆーことすぐ言っちゃうから、ヒアイはモテないんだよ~」
ヒアイの失礼な発言に怒る余裕はゆめには無かった。
ひとを凡庸と言い切るだけあって見目麗しい彼らの会話も容姿も、いまのゆめは気にならない。
ただ、キドと呼ばれた青年のおどけたようなしぐさは愛嬌を感じさせるはずなのに、キドの抱く感情がゆめには一向に伝わってこないことに意識が支配されていた。
(こんなこと、はじめてだ)
ひとがいるならばそのひとの数だけ。いや、ひとの数以上にそれぞれが抱える感情の数だけ思いが渦巻くのがゆめにとっての常だった。感情の塊こそがひととも言えた。
そこにきて、感情のつかめないキドやヒアイは、まるで透明人間だ。いるはずなのに姿が見えない。
十九年間生きてきたなかではじめて出会う生き物を前にして、ゆめは「ここで寝てはだめ」とぼやける意識と戦っていた。
そんなゆめを眺めていたキドが、ふと、顔をあげてテーブル席の男女に視線を向ける。ふたりはゆめたちの様子に気づいていないようで、朗らかにグラスを傾けていた。
「ねえ、お客さんたち」
急にかけられた明るい声に、男女は疑いもなく青年を見る。すると、キドが唇をゆるりと開いた。
「眠りに身を任せてごらん。恐がらなくていい、君たちはただ眠るだけだから」
やさしい声が告げるのと、男女がテーブルに突っ伏すのは同時だった。
瞬きの間に健やかな寝息をたてはじめたふたりから視線を戻したキドは、ゆめの顔をのぞきこんでにっこり笑う。
「ほら、これでだれも聞いてないよ。きみがどうやってヒアイのことを見抜いたのか知るために、ゆっくりお話しできるね」
明らかな異常事態を前にしてゆめの本能が警戒を叫ぶ。
体を支配する眠気に必死で抗って、ゆめは口を開いた。
「あなた、なにを……!」
「なにって」
キドの目がきょとんと丸くなる。かと思えばにいっと細くなり、彼はからかうようにゆめに顔を寄せた。
「眠ってもらったんだよ。きみ、知らないの? 獏はね、夢を食べるんだよ~」
「ゆ、め……」
「夢を喰う獏、聞いたことない?」
「架空の、いきものじゃ……」
ゆめがぼやけた意識で記憶を探り探り答えると、キドはうれしそうに笑いながらカウンターから身を乗り出した。
身動きのとれないゆめにキドがぐっと顔を近づける。吐息がくちびるに感じられるほどの距離で、キドはにっこり笑う。
「僕もヒアイも、実在する獏だよ」
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