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 というわけで、俺は喫茶店で働くことになった。

 喫茶店は木曜日が休みで営業時間は十三時ごろから二十時くらいまで。定休日はあるが、開店と閉店の時間は前後するらしい。

 とりあえず明日は十三時に店に来てください、と言われたので、約束の時間に店に向かう。
 店の駐車場はお客さんのために空けておきたいからと、少し離れたところにある民家の庭先に車を置くことになった。

 この家の持ち主もまた、親父の知り合いらしい。

 敷地を使わせてもらうため挨拶に行くと、にこにこと笑う優しそうなおじいさんだった。親父の交友関係は、よくわからない。

 親父の知り合いがそこいらじゅうにいるのは今に始まったことではないので、深く考えるのはやめておく。

 そして出勤初日、手持ちの服から黒いジーンズと白い衿つきシャツを選んで店に行く。

 制服なんて無い個人の喫茶店だから、店の雰囲気を壊さない程度の格好ならば何でもいいらしい。

 マスターの服装を参考にした格好に、店でエプロンを巻けば即席喫茶店員のできあがり。
 エプロンはマスターの予備を借りる予定だから、少なくとも見た目は店にしっくりくる仕上がりになるはずだ。

 指定された時間より少し早く店に着くと、入り口近くの足元に小さな木の板があり「closed」と書かれている。かまぼこ板くらいの小さなこげ茶色の看板だから、昨日は気がつかなかったのだろう。

 引き戸を開けて店に入れば、カウンターの向こうで電気スタンドに照らされたマスターの真剣な表情が目に入る。和音は奥のテーブル席に腰掛けて、置き物のように無表情で座っている。

「おはようございます」

 挨拶をすると、和音はちらりとこちらを向いた。向いただけで、返事はない。

 今日の和音は白いブラウスに明るい茶色のズボン、こげ茶のエプロンをしている。ブラウスの衿もとに白い花柄のレースが付いていて、控えめながらも可愛らしい。
 白いシャツと黒い髪のコントラストは、いつ見ても良いものだ。

「おはよう、長谷くん。今日からよろしくね」

 マスターが、うつむけていた顔を上げてにこりと笑う。

 カウンター内側のテーブルには二枚の紙が敷かれており、その横には小ぶりなざる。それぞれの紙の上には灰色がかった豆が撒かれていて、瓶の中には豆が半分くらいまで入っている。
 マスターが片手に持ったピンセットには豆がつままれていて、どうするのだろうと眺めているとその豆はざるに入れられる。

 もしかして、あれはコーヒー豆なのだろうか。

 また豆をつまみ、新しい豆を矯めつ眇めつするマスター。
 次の豆は、傍に敷かれた紙に置かれる。その次も紙に。

 いくつか紙に除けられる豆が続いて、もう一粒がざるに入れられたとき、俺はまさかと思いながらもマスターに聞いてみた。

「あの、それってもしかして、一粒ずつコーヒー豆を選んでるとか……?」

 そんなわけないよな、と恐る恐る訊ねれば、マスターはなぜか照れくさそうに笑う。

「うちみたいな小さい店は、高い豆を買って高いコーヒーを出していてはお客さんが来ないからね。そこそこの豆を仕入れて、良い豆だけを選り分けて使っているんだよ。お客さんにおいしいコーヒーを飲んでもらいたいから、お金が無いぶん手間をかけているんです」

 高い豆を仕入れてしまえば楽なんだけどね、と言いながらもマスターは豆の選別を続けている。

 マスターの後ろにはいくつもの豆の瓶が並んでいて、その全てがこうやって一粒ずつ手作業で選ばれたものなのだと知ると、昨日のコーヒーのおいしさに有り難みが増すようだった。

 俺だったら、種類ごとに豆を煎るだけで嫌になってしまうだろう。
 うっかりマスターを拝みそうになったところで、本人から声がかかる。

「そうそう。長谷くんが使うエプロンが和音ちゃんの横にあるから、ちょっと合わせてみてくれるかな。たぶん大丈夫だろうとは思うんだけど」

 言われて、和音のそばに行く。

 自分の名前が出ても、俺が真横に立っても、相変わらずたいした反応は見せない。
 さらりと黒髪が流れたから、わずかに頭をかたむけたのだろうな、というのがわかるくらいだ。

「おはよう、木浦さん。今日からよろしくね」

 改めて挨拶をしつつ、彼女の隣りにある椅子にかけられた黒に近い茶色をした布を手に取る。
 広げてみると、腰に巻くエプロンだ。幾度か洗濯されて生地がいい感じに落ち着いている。

 これなら、この店の雰囲気から浮くことも無いだろう。

 腰のあたりに紐をくるくる巻きつけて、ぎゅっとしばる。これで見た目だけなら、喫茶店員の完成だ。

「ああ、いいね。かっこいいですよ。やっぱり若い子が着るとすっきりしてきれいだね」

 作業がひと段落したマスターが、そう言いながらカウンターから出てきた。
 そうして俺と和音のいる前までくると言った。

「さあ、それではお店を開けましょう」

 言い終わると同時くらいに、ぱちりと手を打ち合わせる。すると、横にいる和音がすっと立ち上がった。

 しゃきりと伸びた背筋に、きれいに揃えられた指先。さらさらの黒髪を揺らして、和音はにこりと笑う。

「おはようございます、今日もよろしくお願いします」

 突然の変貌にまた驚いたけれど、表情のある彼女はやっぱり可愛かった。

 そうして開店した店は、意外にと言ったら失礼かもしれないが、俺の予想よりも繁盛している。
 とはいえ、常連客の多い店なので、大半の客は案内するまでもなく自分から席を選びマスターに注文を告げてゆったりとコーヒーを待つため、話しかける隙はない。

 さらに席案内、注文受付といったひと通りの仕事は和音が請け負い、お金のやり取りはマスターが担当しているので、実際に俺が働く機会はあまりない。

 せいぜい、下げられた食器を洗ったりひとりでやってきてふと誰かと話したくなった常連さんと他愛のない会話に興じる程度。

 それもお客さんがちょこちょこやってくるため、そうそう話し込んでもいられない。
 初めての仕事になんやかやと慌ただしくしているうちに夕方になり、客足が途絶えだす。

 ぽつぽつといた客も席を立ち、やがて誰もいなくなってしまった。

 手の空いたマスターはまたコーヒー豆の選別。
 和音はロールパンやシュークリームなどを容器に補充している。ドーム型のガラス容器は、この店の雰囲気によく合っていると思う。

 さて、では新人アルバイトはなにをするかと考えてマガジンラックを整理したり、入り口近くの柱に掛けられた一輪挿しの花瓶の水を替えてみたりとしていると、ふと店の前に人が立つ気配がした。

 そっと入り口から離れると、がらりと引き戸が開けられる。
 古い床板をきしませて入ってきたのは、恰幅のいい男性だ。

 まとっている空気には貫禄があり、老人の域に達しているようにも思えるが、肉付きのいい顔にはしわが少なく、張りもあって年齢が予想できない。

 兎にも角にも来客だと、いらっしゃいませと俺が言えば、他の二人もそれぞれに来訪者に声をかける。

「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ」

 そう言って和音が席まで案内しないということは、この男性は常連客なのだろう。

「いらっしゃいませ。こんな時間に珍しいですね。お仕事はいいんですか?」

 マスターが茶化すように言えば、男性はカウンター席に腰を下ろしながら苦い顔をする。

「勘弁してよ、マスター。怖い人たちの目を盗んでようやく抜け出してきたんだからさ。ここに来たときくらい、仕事を忘れてゆっくりさせてよ」

 それなりの地位についていそうな男性だが、どうにも職場での立場はあまり高くなさそうな雰囲気を漂わせている。秘書が厳しいとか、そういうことだろうか。

 社会の仕組みなど想像の域を出ないお気楽な俺の頭に浮かぶ疑問符が見えたのか、マスターが男性客に俺を紹介してくれる。

「長谷くん、こちらは  畑野浦はたのうらさん。よく来てくださるお客さまです」

 自分の名前が出たので慌てて近寄り頭を下げると、俺があいさつする前に畑野浦さんのほうがおや? と首を傾げた。

「長谷というと、もしかして長谷さんの息子さん?」

 しげしげと俺を眺めながら言う彼に返事をする間も無く、彼はひとり頷きにこにこ笑いだす。

「いやあ、どことなく長谷さんに似ているね。あの人とはここで会うと、わたしのおしゃべりに付き合ってもらってるんだよ。畑野浦がゆっくり話したいと言ってたって、伝えておいてくれるかい」

 言われて、慌てて頷く。

「うちの父がお世話になっているみたいで、ありがとうございます。帰ったら畑野浦さんにお会いしたこと伝えておきます……畑野浦? あれ、畑野浦ってもしかして」

 その名からふと思い当たり俺が首を傾げていると、マスターが楽しげに笑いながら教えてくれる。

「そうだよ、畑野浦さんは畑野浦病院の院長をしていらっしゃるんだよ」

 さらっと言われた言葉に頭がついていかない。
 畑野浦病院といえば、市内随一の大病院である。そこの院長先生ともなれば相当な偉い方であるし、貫禄があって当然だ。
 そんな人と茶飲み友だちだというのだから、自分の親父ながら相変わらず謎だらけのおっさんだ。

 親父の不可解さに感慨を覚えている前で、畑野浦さんが口を尖らせてマスターに文句を言う。

「もう、ばらさないでよマスター。長谷くん、わたしのことはお父さんの友だちのおじさんだと思ってね。院長なんてただの肩書きで、怖い看護師さんたちにいつも怒られながら仕事してるんだから」

 畑野浦さんの言葉に肩をすくめたマスターは、いつものでいいですね、と一声かけてからコーヒーを淹れる作業に移ってしまった。
 注文をとらなくていい常連なので、和音も動かない。

 注文を終えた院長先生は、座ってにこにこと俺の方を向いている。
 これは、話し相手を期待されているのだろう。

 見るからに話し好きそうは顔をしているし、見た目こそ貫禄はあるが口を開けば話しやすい雰囲気の気のいいおじさんである。

 今日は怖い看護師さんたちの目を盗んで抜け出してきたということだし、ほかに客もいないので、僭越ながら話し相手を務めさせていただこう。

「畑野浦さんは、ここのお店に通いだして長いんですか?」

 隣に座るのもどうかと思われたので、カウンターの向こうに置かれていた砂糖壺の補充をしながら無難な話題を振ってみる。

 席に備え付けではなくて飲み物と一緒に出してまた下げるやり方なので、たくさんの砂糖壺が一つの盆に乗っていて、今みたいなときの作業にちょうど良い。

「そうだねえ、二十年くらいは通っているかな。君のお父さんもそれぐらい前から常連らしいけど、わたしが長谷さんと話すようになったのは、ここ数年だね」

 畑野浦さんからの情報で、親父がかなり前からこの喫茶店に通っていたことがわかった。

 そして、高校時代にちょくちょく俺を迎えに来てくれていたのは、もしかしてこの喫茶店に行くための口実だったのではないかと思い当たる。

 中学校のころはめったに迎えになんて来なかった親父が、俺が高校に通い始めた途端に進んで迎えに行こうか、と声をかけてきたのだ。

 なんでだろう、と不思議に思っていたが、高校の近くにあるこの喫茶店が目当てだったのだろう。

「ここ数年てことは、俺と弟がすぐそこの高校に通ってるから迎えに行くって口実でこの喫茶店に来てたんですね。まったく、感謝して損した」

 俺がそう言うと、畑野浦さんは楽し気に笑っていやいやと首を振った。

「ということは、わたしが長谷さんと会えたのは君と弟くんのおかげだね。いやあ、ありがとう」

 長いことお互いに常連だったのに出会えなかったからね、君たちに感謝しなきゃ、とにこにこ笑う。
 それからふと首をかしげて、不思議そうな顔で俺を見た。

「しかし長いことここに通っているけど、アルバイトの子を雇うなんてはじめてだよね。それも二人も。そんなに最近、忙しいの? マスター」

 急に話をふられて、コーヒーを淹れる手は止めないままにマスターが苦笑いする。

 ちらりと視線をやった先には、カウンターの中でひっそりと気配もなく置物のように佇む和音。
 今日見ていた限りでは、彼女はこういった雑談がどうにも苦手なのだろう。
 話しかけられれば相づちを打つが、ほとんどの場合は話しかけられる前にそっとその場を離れて他の用事を片付けている。

 今も畑野浦さん、マスターと俺が話している輪に加わろうとはしない。そんな和音を見つめ、少しの沈黙を挟んでからマスターは話し出した。
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