神絵師、青春を履修する

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青春の三ページ目:友だちが家にやってきた

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 いつもより早く布団に入って、浮かれた気持ちで早起きした史郎は時間つぶしにSNSを開き、一件のDMで凍り付いた。
『今日、都内のビックカメラで絵を描いてたのキナリさんですよね? びっくりさせてすみません。でも、絵を描いてるとこすごかったです。ライブドローイングする予定とかないんですか?』
 差出人の名前には見覚えがあった。史郎の絵によく反応してくれるフォロワーだ。何度も感謝を込めて拝んだことのある名前とアイコンだから、間違いない。
「昨日、王子たちの後ろにいたひとか……!」
 思い浮かぶのはひとりの男性。細かな容貌までは記憶していないけれど、あの場にいたのは王子と猿渡と彼だけだった。そして、DMが送られてきた時間は史郎が家電量販店を後にしたのよりも遅い時間だ。
「死んだ。社会的に死んだ。二次元の人間に三次元の俺が目撃されてしまった。しかも生活圏内がかぶってるとか無理。家の外に出られない。もうおしまいだ。引きこもろう。社会が俺を忘れるころまで引きこもっていよう」
 史郎の頭のなかでは『キナリは根暗なくせに公の場で調子に乗って絵を描いていた』とSNSで拡散された世界が展開されていた。
 万一にもそんな書き込みを見つけるのが恐ろしくて、史郎は素早くSNSを閉じる。もらったDMへの返信はどうしていいかわからずそのままにした。
(アカウントを消したほうがいいだろうか?)
 ふと浮かんだ考えは、すぐに打ち消す。
(俺のアカウントはヒヨも知ってる。いきなり消したりしたら何かあったってバレて、家族総出でこっちに来るかもしれない)
 共働きの両親が自分のために有給をもぎ取ってくるのは心苦しい。そして、一人暮らしだから引きこもったところで、数日くらいなら両親にバレることもないだろう、と史郎は考えた。
 その数日の間に引きこもるための手立てを考えなければならない、と布団にもぐり込む。
(キナリのアカウントはそのままで、新しいアカウントを作ってそっちで活動するか……いやでも絵を見て俺だってわかったんだよな。新しいアカウントも絵柄でバレる? かといってそうそう絵柄を変えられるほど器用でもないからな……)
 社会的に終わったと言いながらも、絵を描くことをやめようとは思わない史郎である。なんとか逃げ込める二次元を確保しつつ引きこもって暮らせないものかと考えを巡らせる。
(在宅でできる仕事。中卒でも雇ってもらえるところがあるだろうか。このアパートの契約が来年の三月までは続くから、) 
 全力で引きこもるための算段を組み始めた史郎は「まずは今日、休むって連絡しなきゃ……」と学校の電話番号を探すところからはじめた。
 
 ~~~

 カンカンカン、と金属が立てる音で史郎はハッと窓に目を向けた。
「あ、もう夕方か……」
 布団にこもって引きこもり計画についていろいろ調べているうちに、かなり時間が経っていたらしい。朝も昼も食べ損ねた薄い腹がちいさく鳴る。
 二食も抜いたことを知られたら両親が食材を抱えて飛んでくるかもしれない。そうしたら引きこもろうとしていることなどすぐにバレて余計に心配をかけてしまう。
(そうならないためにも早急に引きこもるための計画を立てなければ)
 史郎が決意を新たにしたとき。
 ビーッ。ひしゃげたベルの音が来訪者を告げる。
(まさか、もうバレた?)
 それとも根暗の息子に友人ができたと聞いて両親が駆けつけてしまったのか、と史郎の心臓が大きく鳴った。
「かーみえー?」
(猿渡?)
「おーい史郎~。元気ー?」
(王子……)
 ふらふらと起き上がった史郎は玄関に向かい、昨日からかけっぱなしになっていた鍵を開けてドアノブを回した。細く開けた扉の隙間から夕焼け色の光が差し込む。
「上江! 看病しにきたよ! ひざ枕する? おかゆをふーふーあーんしちゃう? それとも……やーん!」
 隙間から飛び込んできた猿渡の元気な声に気を取られているうちに、扉がゆるやかに開かれた。
 さりげなく史郎の手をドアノブから外し、にっこりと笑顔を見せたのは王子だ。
「楓花ちゃんがいかがわしいことを言い出す前に、入れてくれる?」
「ひゃっ! いかがわしいだって! やだあ!」
 赤く染めた頬を押さえて体をくねらせる猿渡は、王子の言う通り何を口走るかわかったものではない様子だ。
「……どうぞ」
 戸惑いながらも史郎は場所をあけて、ふたりを招き入れた。
「おじゃましまーす」
「はわわわ! 上江の家にお招きされちゃったよー!」
「自分で来たんだから、お招きって言うより押しかけじゃない?」
「お、押しかけ女房って言いたいのね、王子! やだもう恥ずかしい!」
 狭い玄関で王子と猿渡が騒ぐ。主に騒いでいるのはどう見ても猿渡だ。
 隣近所に筒抜けになっては困るため、史郎は靴を脱いであがるよう促すほかない。
「あの、狭くても良ければどうぞあがってください……」
「じゃあ遠慮なく!」
 促されるがはやいか、意気揚々と靴を脱ぎにかかる猿渡の肩を王子が叩き、振り向いた猿渡にさわやかな笑顔を向けた。さわやかながら圧の強い笑顔だ。
「その前に、確認することあるでしょ?」
「そうだった。上江、具合どう!?」
「えっ……と……」
 たいへん今さらな質問に史郎はとっさに返事ができない。夜はぐっすり眠っているため顔色が悪いはずもなく、熱もなければ寝汗もかいていない。強いて言えば起きたときの格好のままではあるけれど、Tシャツと短パンを夏のパジャマにしている史郎だ。何をとっても具合の悪さを示すものはない。
 けれど猿渡は真剣な顔で史郎の返事を待っている。くちごもる史郎の返事を待つ様は、まるで待てをされた犬のよう。
「担任がね。『あいつひとり暮らしだから様子見に行ってやってくんない?』って。具合良くなさそうならすぐ連絡寄越せってさ。俺、担任と電話番号交換しちゃった。ここの住所も担任に聞いちゃったんだけど、事後報告でごめんね?」
「あ……」
 王子のことばで、史郎は担任に心配をかけたことにようやく気がついた。
 今朝、電話をかけた時点では『わかった、無理すんな。俺の番号言うから、メモしとけ』とだけ言っていたのに。電話口の声はいつもと変わらないだるそうな響きだったのに、そこにはしっかりと生徒を気遣う思いがあったのだと気がついて、史郎の胸に後悔が湧く。
 言いづらい。仮病で休んだのだと言いづらかったけれど、これ以上嘘を重ねられるほど史郎の神経は強くなかった。
「……えっと、具合は、悪く……ない、です」
 うつむいたまま告げた史郎は、ふたりの反応が怖くて目をつむる。
(呆れられただろうか。高校生にもなって仮病なんて、幼稚なやつだって。き、嫌われただろうか。わざわざ家まで来てくれたのに、俺みたいなやつに構うのはもう面倒だって、と、友だちやめるって、言われるんだろうか……)
 どんなことばが来てもいいように身構えるけれど、どれほど身体を固くしても心は守れないと史郎は経験から知っている。それでも、心に傷がつくのは何度経験しても耐えがたいとわかっていた。
 なのに。
「よかったあ!」
「んじゃ、遠慮なくおじゃましまーす」
 猿渡は心底安心した声で笑顔を見せ、王子はにこにこしながら靴を脱ぐ。
「え……」
 呆然と顔をあげた史郎の前に王子が手に下げていたビニール袋をかざして笑う。
「史郎が熱出して食べ物とか飲み物に困ってたら使えって、担任からお金預かってさ。でも俺おかゆ好きじゃないから、お菓子とジュース買ってきちゃったんだよね。楓花ちゃんが、史郎はぜったい自炊してるからお米なら家にある! って力説するし」
「そーそ。あたし、だてに上江のお昼ご飯チェックしてないからね! もし無かったら買いに行ってくるし!」
 胸を張る猿渡に、史郎はなんと言っていいかわからない。彼女のストーカー的な発言のためではなく、鼻の奥がつんと痛むせいだ。
(いま、くちを開けたらぜったい泣きそうなのがバレる)
 ますますうつむいて、けれどこらえきれずに鼻をすすった史郎の肩を王子が叩く。
「次からは担任にうまいこと言っとくからさ。連絡先交換しよ」
 あえて軽い調子で言ってくれる王子の気遣いに、史郎はとうとうにじんだ視界を拳でぬぐった。
「あたしも! あたしもお願いします! 悪用しないし、電話も一日一回で我慢するからお願いします!」
 今こそ便乗するとき、と挙手する猿渡の必死さが史郎の気持ちをほぐしてくれる。
「……うん。こちらこそ、お願いします」
「やったー!」
「史郎、毎日電話かかってきてもいいの? 用もなく毎日かかってくるって、もはやホラーじゃん?」
 拳をつきあげて喜ぶ猿渡の姿に、王子がこそこそと史郎のそばに顔をよせた。耳元でささやかれたことばに史郎は首をかしげる。
「用が無いのに電話なんてかけてこないだろ、ふつう」
「ぐああ!」
 史郎の常識発言が猿渡にダメージを与えた。
「上江に毎日電話したいのに用もないのに電話をかけたら上江に異常者だと思われるなんて、これなんて拷問!? あたしの心の衝動は毎日だって上江の声を聞きたいって叫んでるのにそれを止めるのもまた上江のことばだなんて……!」
 早口でうめく猿渡のことばは、史郎の耳には切れ切れにしか届かない。呪文めいたことをつぶやく猿渡とそれを不思議そうに眺める史郎を眺めて、王子はくすくす笑う。
「あ。えっと、座布団もなにもないんだけど、好きに座って。えっと、座椅子一個しかないんだけど……」
 ふと、立ちっぱなしだと気づいた史郎が敷きっぱなしの布団に手をかけながら促す。
 狭いボロアパートは来客を想定などしていないため、勧められるのは史郎が常用している座椅子だけ。申し訳なく思ったところでクッションのひとつも出て来はしない。
 畳まれる布団を名残惜し気に見つめる猿渡をよそに、王子は「じゃ、遠慮なく~」と畳の上にあぐらをかいた。
 一方、猿渡は良い笑顔で腕まくりをしている。
「彼のお家に訪問となれば、まずはお片付けイベント! うっかりエッチな本を見つけたりなんかしちゃって、ぐふふ。上江! 部屋の掃除を……?」
 勇む猿渡だったが、狭い部屋を見回して動きを止めた。
 史郎が住むボロアパートは狭い。狭いゆえに全体が見渡せる。見渡せるなかにあるものと言えば、部屋の一画に備えつけられたひとくちコンロと小さな冷蔵庫。そして布団一組に小ぶりな座卓と座椅子、それから本棚だけ。
 本棚には絵を描く際の資料となる本が詰まっていて、あえてエッチなものと言えば人体デッサン用の写真が該当するか否か微妙なところである。ベッドさえ置かれていない部屋では、物を隠す場所さえ見当たらない。
 それ以外の物品についてはすべて押し入れに仕舞われており、部屋のなかは史郎の手で定期的に掃除機がかけられているため埃もなかった。絵を描くために必然的に在宅時間の長い史郎は、居心地の良い部屋を心がけているのだ。
「くっ……! さすが上江、ちゃんとしてる。なんならあたしの部屋より整理整頓されててきれいだなんて……!」
「あはは。楓花ちゃんの部屋は物が多そうだよね~」
 悔し気に歯をかみしめる猿渡に王子が笑う。けれどこれでくじける猿渡ではない。
「上江、上江ご飯食べてないでしょ!? 具合悪いならおかゆ作るつもりだったけど、あたし卵焼きも作れるから!」
「えっと、お腹がすいたんですか? だったら……」
 拳を握りしめて目を輝かせる猿渡に、史郎は部屋の隅にある冷蔵庫を開けて見せた。
 ひとり暮らし用の小ぶりな冷蔵庫のなかには、ずらりと並んだタッパーがオレンジの庫内灯に照らされている。
「か、上江、これは……?」
 震える手で指さす猿渡に問われて、史郎は一番上にあるタッパーを手に取った。
「野菜です。俺、あんまり料理得意じゃないから毎日作るのは時間かかっちゃって。時間かかる野菜の下処理は土日にまとめてすることにしてるんです」
「あー。全部、切って火を通してあるんだ。味は?」
 ちょうだい、と手のひらを出してきた王子に、史郎はタッパーを開けて差し出す。中身はゆでただけの青菜だ。
「だいたいつけてない。お浸しにもできるし、ほかの具材と混ぜてレンチンして野菜炒めにもできるし、汁物に入れてもいいから楽なんだ」
 醤油と箸も受け取った王子は、タッパーの青菜に醤油を垂らしてもぐもぐ食べはじめた。成長期を自称する彼はいつでも腹をすかせているらしい。
 その隣では猿渡が床に膝をついて打ちひしがれている。
「上江のお料理テクが高等すぎる……! 卵焼きしか作れないあたしでは勝負にならない次元の違い!」
「楓花ちゃん、勝負しに来たんだっけ?」
 首をかしげながらも王子は史郎からおかわりをもらっていた。「食べそびれて余ったおかずが渋滞してるから」と史郎としても助かるようだ。醤油のほかにごま油やドレッシングを出しては王子に手渡している。
「あっ! あたしも食べたい!」
 うなだれていた猿渡が飛び起きたときには、残るタッパーはひとつだけになっていた。
「えっと、もやしのナムル、食べます?」
 差し出されたタッパーに手を伸ばしかけて、ふと猿渡は動きを止める。
「……これって、上江の晩ごはん……?」
「えっと、まあ。でも冷凍庫にきんぴらごぼうがあるから、困らないです」
「んんんんんんん!」
 史郎の手作りナムルを前に猿渡がうなる。たっぷり十秒ほど悩んだ彼女は、迷いを振り切るように固く目を閉じて手のひらを突き出した。
「それは上江が食べて! あたしが上江の晩御飯を奪うわけには!」
「はあ、じゃあ」
 猿渡の決死の覚悟をゆるく受け止めて、史郎はタッパーを冷蔵庫にしまう。そのほかのおかずを食い尽くした犯人である王子は「ごめーん、俺食べ過ぎちゃった。あした、なんかおかず買って渡すよ」と史郎に謝っている。
「ああ……上江の手料理が食べたかった……掃除もするとこないし料理の腕なんか見せられたもんじゃないし、せめて上江の愛のこもった手料理が……」
 壁にもたれて打ちひしがれる猿渡に、史郎は戸惑いながら声をかける。
「ええと、あの、座っていいですよ……?」
「ありがと。上江はほんとやさしいなあ」
 ぼやきながら座卓に近づいた猿渡は、ふと気がついた。
「どこもかしこも上江のプライベート……!」
 史郎の部屋なのだから、部屋のなかが史郎のプライベート空間なのは当然だ。けれどお宅訪問で浮かれた脳がその事実にようやく追いついた猿渡は、途端にそわそわしはじめた。
 その目が妙に輝いていたせいで、史郎が座椅子を勧め損なったことに猿渡は気づかない。勧めたら、何やら面倒くさいことになりそうな気がした史郎の勘は冴え渡っていた。
 王子と猿渡が畳にじかに腰を下ろし、座椅子は無人のまま残された。
 客が畳に直接座っているなか、自分だけ座椅子に座るという選択肢は史郎のなかにない。結果として、狭い部屋のなかで王子と猿渡、史郎と無人の座椅子が円陣を組んで座ることとなった。
「でさ。史郎、今日はなんで学校来なかったの?」
 気まずい沈黙が降りるよりはやく、王子が何気ない調子でたずねる。そこに責めるような響きはないけれど、後ろめたいところのある史郎はびくりと肩を揺らした。
「そーそー。昨日も急に走って帰っちゃったしさ。もしかして、見られたの気にしてる?」
 猿渡にまで気遣われて、史郎は引き結んでいた唇をのろのろと開いて閉じる。
(うまくことばにできない)
 けれど彼らの気遣いに応えたい、と考えた史郎が取りだしたのはスマホだ。
 今朝、見たきり閉じっぱなしにしていたスマホで開くのはSNS。ひとりきりでは覗く勇気が出なかったけれど、王子と猿渡がいる今ならば、と思えた。
「これ、このDMが……」
 震える手で差し出したスマホを王子が受け取り、猿渡とふたりでのぞきこむ。そこに書かれた内容を目にして驚く、かと思いきや。
「あ。これ、昨日のひとだよね!」
 猿渡が明るく受け止めた。意外な反応に顔をあげた史郎の視界で王子がうなずく。
「そうそう。史郎が絵を描いてたとき、俺たちの後ろにいたひと。あのひとねえ、史郎を驚かせちゃったって謝ってたよ」
「うん、あとめっちゃ褒めてた! 上江の絵すっごく好きで、いつもSNSで見てるからすぐわかったんだって~」
 親し気に語られる男の話に史郎はうつむいていた顔をゆるゆるとあげた。
「そう、なの……?」
「ファンだって言ってたよ~。恥ずかしがり屋だから史郎のこと言いふらさないでね、ってお願いしたら『もちろんです!』って言ってたし。史郎にもよろしく伝えてほしいってさ~」
 よかったねえ、と笑う王子の声を聞いて、史郎の緊張の糸が切れたらしい。正座の姿勢から後ろむきにふらついたかと思うと、畳んだ布団に倒れ込んだ。
「上江、どしたの!?」
 驚いて腰を浮かした猿渡が顔をのぞきこもとするのに、史郎は布団にもぞもぞと頭をつっこんで隠れてしまう。
「あーーーーーー……良かったああああああ……!」
 布団のなか、くぐもった叫びをあげる史郎に王子が苦笑する。
「あは、もしかしてめちゃめちゃ気にしてた? ネットで拡散されてるかもとか」
「……してた」
「今日休んだのもそれ関係だったりする? ネット見張ってたとか」
「いや、見る勇気はなくて。でも顔を見られてネットのアカウントもバレてるってなったらもう二度と外を歩けないと思って、引きこもり生活するにはどうしたらいいか考えてた」
「上江ぇ、それは考えすぎだよぉ」
 考えすぎて悩んじゃう上江、真面目でかわいい! と言いながら布団越しに史郎をぽんぽん叩いていた猿渡は、続く史郎のことばで固まった。
「いえ。俺みたいな明らか陰キャの根暗オタクが王子と美少女を待たせて絵を描いてるなんて……有罪以外の何者でもないに決まってるじゃないですか。ネットで晒されて誹謗中傷にまみれても文句は言えません」
「び、しょうじょ……!?」
 ナチュラルに褒められた猿渡の顔は真っ赤だ。
「あーあー。楓花ちゃん、活動停止しちゃったよ。無自覚に褒め殺しなんて、史郎も悪い男だねえ」
「え、え? なんか、ごめん……?」
 史郎の戸惑いはそのままに、王子はあぐらをかいたひざに頬杖をつく。
「史郎はさ、自己評価低いよね。なんでかな?」
「な、んで……って」
 問われて、史郎の脳裏に浮かぶのは過去に押しつけられたことばの数々。
『何書いてるのかと思ったら、アニメキャラかよ。しかも全然似てねー』
『うっわ、お前そんな顔して絵描いてんの? あれだ、理想の自分とか投影しちゃってんでしょ。ないわー』
 史郎の絵をけなすことば。
 絵を描く史郎を馬鹿にすることば。
 それだけならば、史郎は構わなかった。家に帰れば両親や妹が史郎のことを肯定してくれたから、学校でいくら心ないことばを投げつけられようとも耐えることができた。
 けれど。
 ことばは史郎のそばに居続けようとしてくれた友人たちにも向けられたのだ。
『上江のそばにいるのって、もしかして自分のことキレーに描いてもらおうとか思ってたりして。キモッ』
 そう言って笑われて、泣き出してしまった子のことを史郎は覚えている。
『うまいうまいって仲間うちで褒めあっちゃって馬鹿みてえ。思いあがってるといまに恥かくんだぜ、下手なくせに自信満々になっちゃってさあ』
 そう言われた子は真っ青な顔でうつむいて、絵を描くのをやめてしまった苦い記憶が史郎のなかにある。
(みんな、良いやつだったのに)
 からかわれる史郎を放っておけないやさしい子たちばかりだった。やさしいからこそ史郎を見捨てられず、傷ついてしまった子たちだった。
(俺が、描くことをやめられないせいで)
 心にひどい傷を負い、うつむいた顔が忘れられない。
 その姿を嘲笑う、冷たい瞳が忘れられない。
 いま、目の前で笑っている誰かがあの冷たい瞳に変わってしまうのが怖くて、史郎はいつからかひとの目を直視するのが怖くなってしまった。
 ゲームに例えるならば史郎のHPはずいぶん前から赤ゲージになっている。小学校の高学年からじわじわと削られ続け、中学時代に与えられた大ダメージが未だに尾を引いているのだ。
 瀕死の状態では寄ってくる者を敵か味方か判断する余裕などなく、今ではもう誰が敵かもわからなくなっていた。
 そのせいですべてに対して不用意に警戒して、余計に三次元が居づらくなっていると史郎自身も気づいてはいた。このままでは生きづらいとわかっているから、渋々ながらも高校に通う道を選んでここにいる。
 それでも、王子から差し伸べられた気遣いにすがるという選択肢は彼のなかになかった。
(言えない)
 怯える気持ちを正直にぶつけたところで王子たちを困らせるだけだ、と史郎はことばを飲み込んだ。
 黙り込んだ史郎に答える気が無いと気づいたのだろう。王子が困ったように笑ったとき、猿渡が復活した。
「そうだ! あのね、あのね。上江が言ってたアプリ入れてみたの!」
 ぱちん、と手を打ち鳴らした猿渡のおかげで淀みかけていた沈黙が消え去り、史郎は詰めていた息をこっそりと吐きだした。
「おー、もう何か描いてみたの?」
 王子も場の空気を変えたかったのだろう、猿渡が取りだしたスマホ画面をのぞきこむ。が、表示されているのはイラスト制作アプリのまっさらなキャンバスだ。
「ぜんっぜん描けない! 線を引くにもなんかぷるぷるするし。っていうか、まず何描いていいかわかんなくてさー」
 話題が自分の好きな分野に移ったことで史郎の肩の力も抜けた。
「そういうときは、まず線を引く練習からすると良いかと。ゼロから描くのは大変だから例えば自分の撮った写真や好きなキャラの絵をなぞるうちに慣れてきます、たぶん」
「んー。ひとの描いたやつをなぞるのって、アリ? 著作権とか、そういうのやばくない?」
 心配そうに眉を下げる猿渡に、史郎はゆるく微笑んだ。
「SNSにあげたらたぶんアウトです。が、個人利用の範囲内ならセーフなので、今自分で言ったこと、忘れないでください。著作権を気に掛けられるの、すごく大事だから」
 絵師に限らず、創作をする人間にとって大切なことだ。
 誰かが時間をかけて手に入れた技術によって生み出したものを横からかっさらうような真似は、してはいけない。
それは史郎だけが持つ信念ではなかった。数多くの創作者が唱えることばだ。
 インターネットの普及で誰でも気軽に自分の創作を世界に向けて発信できるようになったからこそ、守らなくてはならない一線がある。猿渡が教えられずともその気持ちを持っていたことがうれしくて、史郎の顔はゆるんでしまう。
「くぅっ、上江のはにかみ笑い……!」
「楓花ちゃんには効果バツグンだねえ。あ、史郎、持ってきたお菓子開けて良い?」
「え、うん、どうぞ」
 マイペースな王子の発言にうなずいた史郎に、猿渡がぶつかる勢いで顔を寄せる。
「一生ついていきます、上江師匠っ!」
「えっ、し、師匠はちょっと……」
 全力でのけぞる史郎を相手に猿渡は一歩も引かない。それどころか、さらにぐいぐいと迫る。
「戸惑う上江もかわいいっ」
「楓花ちゃんは暴走しているねえ」
 感情に振り回される猿渡を王子はにこにこ見守るばかり。彼は猿渡の百面相を眺めながら菓子をほお張ることにしたらしい。
 そうなると場をおさめられるのは史郎だけだが、困惑するばかりの史郎にそんな能力など在りはしない。
「えっと、絵を、描きます? やめときます……?」
「いいえ! 描きましょう、描くから手取り足取り教えてくださいー!」
「ふはっ、全力だねえ」
 はじめて友人を迎えた史郎のぼろアパートは、にぎやかに夕闇に包まれていった。
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