神絵師、青春を履修する

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青春の一ページ目:クラスメイトとの交流

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 朝、登校してきた上江史郎(かみえしろう)は窓枠に置かれていた雑巾に気がついた。誰かが昨日の掃除の時間に使ってしまい忘れたのだろうと思って洗い、片付けた。
 自分も忘れることがあるだろうから、という軽い気持ちでしたことだったから、特別な善行を積んだつもりはない。なんなら午前中の授業を受けている間、忘れていたくらいの出来事だ。
(善行を積んだというほどのことじゃ無いけど、だからってこの仕打ちはふだんの俺の行いによっぽど問題があるってことなのか……?)
 忘れ去ろうとしていた自身の行いにすがろうとする史郎の目の前には、クラスメイトのギャル、猿渡楓花(さわたりふうか)が立っている。
 目いっぱいに首を曲げて壁を見つめる史郎の横顔をじいっと見つめてくる猿渡との距離は、史郎の軟弱な拳ひとつぶんもあるかどうか。
 ごくごく至近距離でキラキラした瞳に遠慮もなく見つめられて、史郎の意識は逃げを打つ。
(あのとき、あんなことをしなければ……)
 史郎が後悔するのはほんの数分前の出来事だ。

 昼休みになり教室のにぎやかさがぐっとボリュームを増す。
 最後列、それも窓際という最高の立地を有する史郎は、静かに優雅なひとりの時間を過ごすべくスマホを取り出した。
 スマホ画面を向いていればクラスメイトと目を合わさなくて済む、という理由から入学以来、史郎のスマホは毎日大活躍をしている。
(あの絵を今日中に仕上げられたら今月中にもう一件、依頼が受けられるな)
 史郎のスマホが活躍をするのは学校ばかりではない。スマホアプリを使って絵を描く彼にとって、手のひらに乗る一台はメールやネットを見る以上の役割を持つ物でもある。
 教室という史郎にとっての危険地帯。いつもなら当り障りのないウェブページを眺めるところにふと絵のことを考えたのは、安くない金額を出してでも自分の絵を望んでくれるひとがいることへの感謝の気持ちと、待たせている相手がいる気がかりから。
 いや待てよ、見たところで学校では描けないぞ、と気付くこともなく、史郎の指は無意識のうちに慣れた動作に入る。
 スマホを起動し指紋認証からのペイントソフト立ち上げ。画面を見なくてもできる、慣れた操作だ。そして描きかけの絵を選択して、表示された画面に目を落とした史郎の耳に。
「え、それ上江が描いたの?」
 女子の声が飛び込んだ。
(見られた!)
 とっさにスマホを机に伏せた史郎だったが、振り向いて後ろから聞こえた声の主を確認する余裕はなく、驚きのままに思考をぐるぐると回す。
(なんでこの位置にひとが? 掃除用具入れに用があったのか。どうして俺は後ろにひとがいるのに気づかなかった。周囲を確認していれば……いや、そもそもここは学校だ。なぜここで絵を開くなどという馬鹿なことをしたのか……)
 画面を見られてから後悔したところでもう遅い。
 あれこれ考える間に教室のざわめきが遠のいて、彼の頭をよぎるのは中学生のときの記憶。

「え、この絵お前が描いたの? うっわ、休み時間にひとりでこんなの描いてるとか、ひくわー。根暗ぁ!」
 そう言ったのは、史郎がスマホで描いていた絵を見かけたクラスメイトだった。名前は記憶にない。
 それは一般的に暴言と呼ばれる類のことばであった。
 けれど、史郎にとっては背中を押すことばであった。
 絵をからかう相手には何度も出会ったことのある史郎は物理的にいじめられたことこそなかったが、向けられる嘲笑に煩わしさはずっと感じていた。だから。
「俺は二次元で暮らそう」
 三次元はもう十分だ。他人とのやり取りはすべてメールで済ませられる、そんな世界の住人になろう。そこでひとりきり、絵を描いていよう。
 彼のことばはそう決意するための最後のあと押しになったのだ。

 史郎としては高校すらも行きたくはなかったけれど、就職のことを考えて地元から遠く離れた都会に出ることで妥協した。
 妥協して入学したこの高校でも同じことの繰り返しになるのだと絶望して、教室を飛び出した史郎だったけれど。
「え、なんで急に立つの? どこいくの? てゆーか、ねえ、ねえ! さっきの絵!」
 猿渡はふしぎそうについてきた。
(俺のいなくなった教室で好きなだけ俺を笑えばいいのに!)
 大変迷惑なことに、猿渡は先ほど目にした史郎のスマホ画面についてくちにしながらついてくる。史郎としては走り去りたいところなのだが、廊下は昼休みになり開放感に立ち歩く生徒でごった返していて願いは叶わない。
 せめても、と早足に人ごみをすり抜ける史郎に対して、猿渡は小柄な身体を活かして難なく後ろをついてくる。
(くっ、これだから三次元は!)
 ネットの世界なら粘着質な相手はブロックしてしまえば済むのに。三次元ときたら拒絶を具現化できない仕様で困る、などと胸のうちでつぶやきながら史郎はひと気のない場所を求めて足を進めた。
 教室を出て廊下を進み、下の階にある購買や自動販売機を求めて階段を降りていくひとの流れに逆らって、史郎は階段をのぼる。
(この先は何があっただろうか。たしか、文系の先生たちの部屋と……屋上か)
 息を切らした史郎が上階に着くと、一気にひとの数が減った。教科担当に用のある生徒がちらほらといるばかり。教師たちの居室の前に伸びる廊下を挟んだ向こうの階段を降りていけば、背後から来る人間と鉢合わせることなくこの場を去れる。
(一度視界から逃れれば、中肉中背黒髪の俺は生徒のなかに埋没するはず。あとは昼休みをどこか人目につかない場所で終わらせて……)
 そう思って気が緩み、足の運びを遅くしたのがいけなかったらしい。考えを巡らせる史郎の腕に、柔らかくて温かい手がしがみついた。
「んもーう、待ってってばぁ!」
 絡みつく指の細さに見合った甘い声に史郎は震える。何事か、と振り向く周囲の生徒たちの視線から逃れるために顔を伏せながら史郎は立ち尽くした。
(くっ……! 振り払いたいのに、なぜこうも振り払いがたいんだ! 俺は早く二次元に帰りたいのに!)
 ひとが少ないせいで目立ってしまっていることがわかりながら、絡まる手指の柔らかさに史郎の心が揺れる。日ごろは体験し得ない三次元女子との接触に動揺するくらいには、史郎は健全な男子高校生であった。
 苦悩する史郎の腕を捕まえたまま、彼の前に回り込んだ猿渡がぷくっと頬をふくらませる。
「さっきの、あたしちゃんと見たんだからねー!」
 猿渡の声がきっぱりと言うのを聞いて、史郎は観念して抵抗をやめた。目を合わせないように壁を見つめる史郎の視界の端で、猿渡の頭のてっぺんのアホ毛が揺れる。
(クラスの女子、だよな……名前がわからん)
 入学から三ヶ月が経っているというのに、史郎はクラスメイトの顔もろくに見ていないし名前を覚えてもいない。残念ながら三次元の人間への興味が薄いのだ。
 それでも自分を追い詰めた相手を確認しよう、とちらちら視線を向けた。
 明るく脱色した髪が細い肩口でふわふわと揺れ、頭のてっぺんではアホ毛がくるんと主張する。校則の膝下丈よりやや短めのスカートから伸びる脚には健康的に肉がついている。背丈は男子高校一年生の平均身長ジャストである史郎の目線よりやや下あたり。小柄で肉付きの薄い身体の女子が、史郎の腕にしがみついていた。
 ほんのりと頬が色づいているのはデフォルトなのか化粧なのか、史郎には判別がつかない。
(ラノベ系のイラストの参考にできそうな体型だな)
 ついそんなことを考えた史郎だったが、いま一番重要なのは相手がアホっぽそうだという点である。一瞬だけ目元に視線をやって「目が大きい……かわいいな」などと思ったことはいまは置いておく。
(アホ毛のあるキャラは抜けているのが定石。アホが相手ならば、俺が取るべき手段は)
「おっと、もうこんな時間! 昼メシを買いそびれてしまう。購買に急がなければー」
 言って、史郎はアホの子(仮)の手をすり抜けようと試みる。
「えっ! な、なんで? 上江いつもお弁当持ってきてたよね。あたしずっと見てたんだから! っていうか、あたし上江に話しかけてたよね? いま、ちゃんと目があったよねー!?」
 アホ毛のキャラが抜けているのは二次元のなかでのみだったらしく、史郎はあっさりと捕まった。両腕を伸ばした猿渡によって胴体を捕獲された史郎は、ガチリと固まる。
(抱きつかれてるっ!? アホの子の腕が俺に巻きついて、というか顔が俺の胸に当たってるんだが! 距離感バグってないか、このJK!)
 猿渡のストーカー的発言に気づく余裕もなく、史郎の意識は女子高生に抱きつかれているという現実に支配されていた。
「聞こえてるでしょー! 話聞いてよー!」
(耳の横でしゃべるな! 息がかかってる!)
 叫びたいが、周囲にはまばらだけれど生徒がちらほらいる。そして史郎の後頭部に刺さる視線や「なにしてんの、アレ」などとささやく声から察するに、見られている。
 つまり、女子生徒に抱きつかれている史郎の姿が不特定多数の学生たちに目撃されているわけだ。
 こんなとき、どうすべきか。史郎はよく知っていた。ネットの世界でよく見かける問題であったから、都会に行ったら気をつけようと心に刻んでいたのだ。
 史郎は潔く両手を開いて上にあげる。
「俺は無罪です」
 電車での痴漢冤罪のときには逃げたほうが不利だという知識を持っていた史郎は、無罪を主張したのだが。猿渡はアホ毛を揺らして首をかしげている。
「ええー? なに言ってるのー? あたしは上江の絵もがっ」
「その件についてですが」
 ホールドアップから勢いよくおろした手で猿渡のくちをふさいで間近にある顔を見下ろした。
 まん丸の目と視線がぶつかる。黒目がちで下がり眉。史郎と視線が合うとにへらと笑う。幼児のように赤い頬がゆるい喋り方と相まって、ますますアホの子にしか見えないな、と思いながらも史郎はさっと視線をそらした。
「うん! 上江のもがっ」
 喋り方のゆるさの割に、意外と俊敏らしい。
 視線をそらした途端に自分の手から逃げ出したアホの子のくちを再びふさぎ、史郎はすこし考える。
(たしか、屋上につながる扉には鍵がかかってるって学校案内で聞いたはず。行き止まりの階段ならひともいないだろう)
ひと目を避けるため、史郎は屋上につながる階段をのぼるべく歩き出した。アホの子は有無を言わさず引きずっていく、と言えれば良かったのだけれど、女子とはいえ同年代の人間ひとりを引きずれるほどの筋力が史郎にはない。
(なんでこのひとはこんなにくっついてきて、しかも抵抗せずついてくるんだ……やっぱりアホなのか?)
 今だけは猿渡のアホさが助かる、と思いながらふたり並んで階段をのぼる。史郎の考えたとおり屋上に向かう階段には誰もおらず、昼休みの喧騒は遠のいた。
「さきほどの件について、ですが」
 屋上手前の踊り場で足を止め、「静かにしててくれ」という気持ちを込めてゆっくり言う史郎を猿渡がきょとんと見上げた。史郎の頬に視線が刺さる。
「俺は上江ではありません」
 上江史郎史上最高の作り笑顔でにっこり笑って、くちをふさぐ手をそうっと離す。こういうとき、鼻のあたりに視線を向けると相手は目があっていると感じるというありがたい豆知識に従って、史郎の視線は猿渡の愛らしい鼻に向けられていた。
「えっ! あれ、上江じゃないの? え? あれ、あれ?」
(いいぞ、だまされろアホの子よ。あとうるさい)
 クラスメイトの名前を記憶していない史郎のなかで猿渡の名前は『アホの子』として記録される。そこには彼女のアホ毛だけでなく、コミカルな動きも多分に貢献していた。
 自身たっぷりな史郎の発言に戸惑う猿渡に、史郎は手ごたえを感じて続ける。
「はい。俺はただ気分転換に屋上にでも向かおうと思っていた生徒そのいちです。あなたの探している相手は、屋上に行くと言っていましたか?」
「えっと、言ってなかった、と思う……」
 途端に自信なさげにアホ毛をしおれさせる猿渡に、史郎は心のなかでガッツポーズを取る。
(これで誤魔化されるということは、彼女はやっぱりアホの子だ。まあ、俺だってクラスメイトであろう彼女の名前がわからないんだからひとのことは言えないが)
 三次元は名前の表示がないのが不便だ、と史郎は常々思っていた。SNSならコメントの前に名前が入るのに、三次元ではそれがない。小学生のころは名札という素晴らしい制度があり、中学校では体操服に刻まれた名字で個体識別ができたというのに。
(いやしかし、他人のふりをしようとしている現状では名前が表示されないことを喜ぶべきだな。このまま騙されてくれれば最高なんだが……)
「えー、でも顔が上江そっくりなのに。うーん、やっぱり上江だと思うんだけどなあ」
(近い近い近い近い!)
 史郎の顔を見上げながら猿渡が距離を詰める。ふたりの間に拳ひとつも入らないほど近づいても彼女の足は止まらず、やたら詰め寄る。
 下からのぞきこむようにぐいぐい近寄ってくる猿渡に押される形で後ずさった史郎は、屋上に向かう最後の階段にぶつかってバランスを崩した。
「うわっ」
「ひょわぁ!」
 階段に尻もちをついた史郎の胸に、いっしょに転んだ猿渡の顔が押し当てられる。腹から下にかけて感じるあったかくてやわらかい重みがあまりにも生々しくて史郎の心臓は大ダメージだ。尻や背中をぶつけた痛みすら脳に届かない。
「ちょ、はなれ!」
「楓花ぁー?」
 生身のぬくもりに慄いた史郎が猿渡を引き剥がそうとしたところで、階段下から声がした。ハスキーな女子の声が「おーい」と続き、誰かを探している。
 ぴょこん、とアホ毛を揺らして猿渡が顔を起こす。
「ここだよ~」
「は、ちょ!?」
(なにをのんきに返事しているんだ、このアホの子は! 返事をする余裕があるならはやく俺のうえから降りるべきだろう!)
 史郎の心の叫びはどこにも届くことなく、階段をあがってくる足音が虚しく響く。
「……あんたら、何してんの」
 階段下から聞こえた冷ややかな声に、史郎は倒れたまま恐る恐る視線を動かした。
 高長身の女子が半目で見上げているのがアホ毛越しに見えて、史郎はそっと目を閉じる。
 高い位置に結いあげられた長髪に見覚えがあるような無いような気がしたけれど、それを判断できるほど彼はクラスメイトと交流を持っていない。そして、いま現在においてはクラスメイトかどうかはどうだって良いことだった。
(クラスの根暗な絵を描く陰キャは不純異性交遊に勤しむ変態だなんて言いふらされたら、社会的に完全に終わる。父さん、母さん、せっかく都会の高校なら知り合いもいないからとひとり暮らしをさせてくれたのに、ごめんなさい。俺はもうおしまいです)
 ひと気の無い場所でクラスの陰キャ(男)と陽キャ(女)が密着している状況を客観的に見るとどう映るか。
 考えるまでもなく自身の不利を覚悟した史郎が心中で親への謝罪をしているとも知らず、猿渡は史郎の腹に乗ったまま顔だけで振り向いた。
「あ! ユーリちゃん!」
 うれしそうに笑った猿渡の下で史郎は、はやく降りろと念じながら身動きできずにいる。力づくで退けられるほどのパワーは史郎になく、女子生徒の身体をつかむ勇気もまた彼にはなかった。
「あのねー。上江にね、あたしの師匠になってもらうんだ!」
「は?」
「はあ?」
 史郎とユーリ、こと河津ゆうりの声がかぶる。本人たちは知るよしもないが、頭のなかの疑問符もかぶっていた。
 そんなふたりをよそに、猿渡は「あ!」と大きく開けたくちに手を当てる。
「うそうそ。今のないしょのことだった。ね、上江?」
 上半身を起こしながらにこっと笑いかけてきた猿渡に、史郎はいよいよ固まった。
(なにが「ね?」なんだ。というか、内緒も何も師匠の意味がわからん。しかもそんな雑な誤魔化しかたでいけると思ってるのか?)
 すこし前に他人のフリをして猿渡をやり過ごそうとしていたことなど棚にあげた史郎は、心のなかで彼女を罵倒していた。
 実際には、身体にまたがったままの猿渡を相手に下手に身動きをすることもできず固まったまま。唯一自由になる思考もぐるぐると回りに回って、導き出された答えはふたつ。
(こいつはやっぱりアホの子だ。こんなのがブロック不可の状態でうろついてるなんて、やっぱり三次元での生活は俺には難易度が高すぎる)
 見下ろしてくる揺れるアホ毛と輝く笑顔。足元から向けられる呆れたような怪訝そうな視線。
 ここからログアウトする術はなく、対処法も浮かばない。史郎にできることは、仰向けに倒れたまま目を閉じて力なくうめくことだけ。
「……に、二次元に帰りたい……」
「ええー! まだ昼休みだよ? 帰るの早すぎるよ~」
 史郎のうめきを聞き取って猿渡が口を尖らせる。
(そういうボケはいいから、俺の上からどいてくれ)
 虚空を見つめる史郎の願いを汲み取ってくれたのは、意外にもユーリだった。
「楓花、ほら」
 声とともに史郎の身体が軽くなり、温もりが遠ざかる。その温もりとやわらかさが名残惜しい、などと一瞬でも考えてしまった史郎は、冤罪を避けるため安全が確実なものになるまでじっとしていよう、と天井のシミを見つめていた。
 そこへ、呆れたような声が届く。
「で、あんたはいつまでそうしてんの」
 ハスキーボイスに促されてゆっくりと上半身を起こした史郎は、階段に座ったまま見下した先にポニテ女子に肩を抱かれるアホの子の姿を見た。
 化粧がばっちりすぎてすこしきつい印象を受けるポニテ女子と、頭のなかが反映されたようなゆるゆるふわふわアホの子のふたりが身を寄せ合っている。
 身長もそれぞれのキャラに合っていて、並ぶとまるで一枚絵のようなふたりだ。
「……百合か」
 思わずつぶやいた史郎をユーリがぎろりとにらむので、史郎は慌てて視線を壁に向けた。
(まずい、これでは俺が百合好きのようではないか。たしかにイラストで見るのは嫌いじゃないが、イラストとしての美しさや可愛らしさに惹かれて見ているだけであって、そもそも俺は二次元専門だ。三次元は印刷物になってから出直してほしい)
 厳しい視線から逃れるため、階段の壁のヒビを眺めてやり過ごす。今描いてる絵の背景、ベタ塗りだと面白くないから淡い色でヒビを走らせてもいいかもしれない、などと考えながら。
「……はあ。なんだかわかんないけど、楓花。ごはん食べる時間無くなるよ」
「え! やだ! おなかすいたあ!」
 くるん、と身体を翻し小走りに駆け出した猿渡にユーリの鋭い声が飛ぶ。
「楓花、走らない!」
(委員長か)
 史郎が抱いた感想はそれだった。
 廊下を走るな、と指摘するのは教師か二次元の委員長キャラだけだと思っていた史郎だが、見た目はギャルなユーリがそれであったらしい。中身は委員長気質とはなかなかにキャラが濃い、と記憶する。
 ぴた、と動きを止めた猿渡は、恐る恐るといった様子で振り向いて、にへらと笑う。けれどその顔がどこか強張っているように見えた史郎だが、ここでくちを挟めるほど三次元における会話のスキルが高くはないので、傍観者に徹してふたりのやりとりを静かに見守る。
「大丈夫だよ、ユーリちゃん」
「……本当に?」
 どこか力ない猿渡に対してユーリの声はさぐるようで、このふたり何やら訳ありらしい、と史郎は勘ぐる。
(人物相関図が欲しいところだ。いや、俺の場合はその前にキャラ表か。名前すらわからんからな。思えば小学校の名札という制度は、画期的だった)
 ぼんやりと考える史郎をよそに、ユーリが猿渡のそばに寄る。
「本当。あたしはもう大丈夫だから。ありがと」
 切ない顔で笑う猿渡に、ユーリは何かを言おうとしてことばに詰まり、かすかにうなずく。それを見た猿渡はにっこりと笑った。
「それじゃ、先にお弁当食べてるね。上江、またあとでね!」
 立ち去る猿渡。見送るユーリ。
 青春である。事情はさっぱりわからないが、青春だ。史郎に声をかけていったことを除けば、そのまま青春百合アニメに採用できそうな一幕である。
 青春は二次元だけで起きているのではないのだなあ、と史郎が感心していると、不意にユーリが振り向いた。
「上江、あんた勘違いするなよ」
 つり気味の目をさらに険しくしてそう言う。
(さっぱりわからん)
 ギャル委員長らしいきりりとした雰囲気での忠告だが、史郎は内心で首を傾げる。
「ああ、うん、はい」
 頭に浮かぶ疑問符を表に出さず、史郎が返したのは秘儀、なんかよくわからんが場を円滑に収めるための曖昧な返事。彼が面倒ばかりの中学時代を乗り切った技だ。
 案の定、ギャル委員長も不愉快そうな顔をしながらもことばを続ける気はなくなったらしい。
史郎に背を向け、長い髪をばさりと払って屋上手前の空間から出て行く。
(危機は去った)
 史郎はほっと息をついた。静けさを取り戻した屋上手前の空間をひどく愛おしく感じながら、わけはわからないままだけれど、ひとまず去った目の前の危機に身体の力を抜く。
(ふたりそろってクラスメイトだったか)
 猿渡とユーリの名前すらまともに認識していない彼が得られた情報はせいぜいそれだった。ふと、史郎は去り際のギャル委員長のことばを思い返す。
「……勘違いするなってなんだろう」
 勘違いしようにも、そもそも史郎は何が起きたのかさっぱりわからない。
 猿渡がくちにしていた「師匠になってもらう!」というのは、なんなのか。
(絵を見られた後だから、絵の師匠か? 昨今はウェブ上でいくらでも描き方動画が上がっているというのに、なぜ俺に?)
 疑問符だらけの史郎は、あれはやはりギャル流のジョークという線が濃厚だ、あるいはからかうための前哨戦かと結論づけた。
(やはり学校という場所は俺にとって好ましくない。学園ものの話は好きだけど、実際の学校は危険でいっぱいだ)
 ブロックもログアウトもできない状況を思い出して、史郎はぶるりと震える。
「描きかけの絵を見られ、わけのわからない絡み方をされるとは……」
 ストーリー展開に定石というものがない三次元に慄きながら、史郎はため息をついた。
「勘違い……転んでのし掛かられたくらいで好意を持たれていると思うとでも? まったく、ラブコメでもあるまいに」
 ぼやいた史郎はぐう、とちいさく鳴った腹をおさえて階段を下りはじめる。打ち付けた背中や尻が今さら地味に痛んで史郎の気をますます滅入らせた。
「二次元なら腹も減らないだろうに……身も心も二次元に帰る方法がはやく確立されないものか」
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