5 / 5
第一章
第五話 反吐
しおりを挟む
「ヘドロ……じゃない、よな? お前、誰だ」
「察しがいいなあ。オレがヘドロじゃないって、すぐわかった?」
ヘドロが見せないような、嫌味ったらしい含み笑いを浮かべている。
「誰だって、聞いているんだ。答えろよ」
「オレも、反吐路露の一部だからヘドロだと言ってもおかしくはないよ」
椅子の背にもたれて、ヘドロの形をした知らない人はおもむろに天井を仰いだ。
「それで納得すると思うか?」
「ええ? そんなあ。このくらい分かってくれると思ったのに」
偽物は、残念そうな顔をして肩をすくめる。何となく、この状況が何なのか、予想はついていた。しかし、まだ状況を飲み込めないでいる。出会ったこともないシチュエーションに、現実味がわかないのだ。
「もう少し詳しく言えばいい?」
にやにやしながらテーブルに頬杖をつき、ヘドロらしからぬ目つきで煽られて、俺は顔を歪めた。普段のヘドロの可愛らしさが微塵も感じられない。
「最初からそう言ってんだよ」
「わあ、怖いなあ。わかったよ」
適当に俺をいなすと、顔を近づけ、囁く。
「多重人格なんだ、オレたち。事故がきっかけなんだけど、これは父さんが言ってたかな」
「『怪我をした後から様子がおかしくなった』と言っていた」
「そ。あんたに会いにくるヘドロは、事故のショックでできた人格ってわけ」
そこまでは、信じ難いことではあったが、納得できた。しかし、まだ一つ、疑問が残る。
「今話しているお前は? 元の人格じゃあねえよな。親の話だと、昔は大人しい性格だったはずだ」
「やっぱ気づくかあ」
「お前、俺のことなめてるのか」
言葉がとげとげしくなった。ヘドロとはまた違った感触で、俺の神経が逆撫でされる。
「ごめんごめん、怒らないでよ。騙すのは無理だと思ってたし」
執拗に煽るくせに、上手いことかわされて、俺の怒りは行き場を失った。
「そうだよ。オレも事故の時できた人格だ。ヘドロと区別するために、反吐って、苗字で呼んでよ」
「反吐……ね」
俺は口の中で転がすように呟いた。
「反吐」
「なに?」
「元の人格はどうしてるんだ」
「ずっと閉じこもったままだよ」
「どうして」
反吐は肩をすくめて、すこし悩んでから、重く口を開いた。
「悪いけど、教えられない。オレはいいけど、二人は、あんたに知って欲しくないみたいだし」
「……」
何か重大な、言い難い理由なんだろう。適当な憶測はいくつか浮かぶが、ここで反吐に投げかけたところで、うまいことかわされるのがオチだ。それに、ヘドロが知られたくないことを無理に聞き出そうとすると、完全に心を閉ざされる気がして、恐ろしい。しかめっ面で悩む俺を見て反吐は乾いた笑いを漏らした。
「知りたきゃ親か、兄に聞いてもいいけどね」
さすがにそこまで過干渉にはなれない。きっと、こいつを問い詰めたところで、言うつもりは毛頭ないんだろう。それが伝わってきたので、十分だった。
「はあ……別に、聞かねえよ」
反吐は俺の返答を聞くと、ほっ、と聞こえるほどの息を吐き、安心した顔を見せた。
「ありがとう、助かるよ」
不安なら、煽らないで普通にお願いすればいいのに、面倒くさいやつだ。
「他にも、いろいろ聞きたいことはあるが……」
外はすっかり暗く、ぬるい風がカーテンを押している。
「うん。ヘドロを呼んでみたけど、疲れたのか応答ないし、帰るかな」
「呼べるものなのか」
「オレだけね、別人格に干渉できる」
「じゃあ、ヘドロに自分は神だって言い聞かせてたのは、お前か」
「ああ、その話、まだだったね。そうだよ、オレが言ってた」
反吐は、当然のように白状した。悪いとも思っていないようだ。
「何のためだか知らないが、変なことを吹き込むのはやめろ」
「うーん、そうだね。オレも表に出られることがわかったし、もう暇つぶしの必要もないかあ」
暇つぶしでヘドロに吹き込んでいたのか。俺が引き攣った顔をしているのに気づいて、反吐は苦笑した。
「ごめんって、ちゃんと他人に言わないようにって、釘刺してたんだけど」
「そう言う問題じゃねえだろ……」
ヘドロで遊んでいた事実に怒りが込み上げてくるが、これ以上なにも言う気にはなれなかった。
反吐は、帰り支度を済ませていた。というか、いつもほぼ身一つで来ているから、言うほどの支度はない。しゃがんで靴を履く反吐を見下ろす。ヘドロとは、履く仕草がどこか違う気がした。
「暗いな、送っていくか?」
後ろ姿に投げかけると、呆れたような、小さい笑い声が聞こえた。
「なんで? オレは大人だよ」
振り返った反吐の表情は、不機嫌なようにも、面白がってるようにも感じた。気だるげにに首を傾げている様から、不意に色気を感じて目をそらす。
「あー、悪い」
なぜ送って行くという選択肢が出たか、自分でもかわからなくて、困惑した。反吐は微笑んだ。
「怒ってないけど」
「そう、か」
「うん。じゃあね」
反吐がドアを開けると、足元から部屋の明かりと、二人の影が伸びる。背にした部屋から、寂しさがどっと押し寄せてきた。途端、反吐は思い出したように振り向いて、こちらをじっと見つめる。寂しさを悟られたかと思うようなタイミングにどきりとした。
「あんたこそ、一人で大丈夫?」
気まぐれなのか、それとも俺から何かを感じ取ったのか。
「はぁ? なんでだよ」
「だって、なんか……あ、猫背になってる? 覇気がなく見えるよ」
お前の身長になるべく合わせてんだよ、と文句を言うのも面倒で、俺は姿勢を正して、反吐を見下ろしてやった。
「わは、威圧感やばあ」
こいつ、完全に面白がっているな。揶揄われることが好きではないし、慣れてもいない俺は、着実に怒りを募らせていた。不機嫌を抑えようとすればするほど、表情が凝り固まっていく。こいつを怒鳴り散らしたところで、ヘラヘラするだけな気がするから、一旦発散しても問題はない。しかし、理性が強くなったのか、感情的に怒りをぶつけることをためらっている。昔似たようないけ好かないやつと喧嘩になったことがあるが、何が違うのか。もはやこれを相手にすることが、馬鹿なのかもしれない。
「……さっさと帰れ」
俺は、不機嫌が漏れた低い声で吐き捨てた。それを全く意に介さず、反吐は笑いながら手を振り、ドアを閉めた。やっと帰った。肩に入っていた力を抜いて俺は、鉄階段を下る甲高いような鈍いような、脳に響く音が消えるまで放心していた。
就寝の支度を済ませて、横になると、ヘドロのことが頭に浮かんだ。反吐は元気に帰っていったが、ヘドロは大丈夫だろうか。失言をしたことによるパニックで反吐に代わったようだった。もし明日来たとしたら、顔を合わせたときにぎこちない反応をされるかもしれない。反吐の存在を明かされた以上、こちらも完全に普段通り接するのは難しい気もする。予行練習のように、ヘドロの反応をいくつも思い浮かべた。
そもそも、ヘドロは本当に多重人格なのだろうか。多重人格の人間なんて実際会ったことがなかったし、そうそう居るものでもないと思う。もしかしたらヘドロの演技かもしれない、という可能性を消せないでいる。
ぐるぐると考えているうちに、俺は眠りに落ちていった。
次の日、ヘドロが来たのは朝のミサが終わった後だった。
「史織ぃ、おはよ……。ちょっとだけ、お話したいんだけど、いい?」
教会へ来てすぐ、ヘドロは深刻そうな顔で、俺を裏口に呼んだ。
「なんだよ」
俺は、努めて普段通りに振る舞った。ヘドロはもじもじしながらも、俺の目をじっと見つめた。
「その、昨日さ、ごめんね」
干してある俺の肌着が風に揺れて、隣に立つ、不安な表情をしたヘドロの頬に触れている。俺は目線を上に逸らした。
「ん、別に気にしてねえよ」
「ほんとう? よかったあ……」
視界の端で、ヘドロは胸を撫で下ろす。しかしすぐに、はっとして身を乗り出した。
「あ、あのね、いっこ聞きたいことがあって」
「どうした?」
「昨日の夜、途中から記憶がないんだけど、僕どうやって家に帰ったんだろう」
「あ? お前は寝てたから、反吐がそのまま帰ったぞ」
「反吐って、僕だよ」
「いや……ん?」
もしや、ヘドロは自分が多重人格だということを知らないのか。俺の発言を理解できず、首を傾げている。俺は愕然として、空を仰いだ。どう説明すればいいのか、どこから話せばいいのか、わからない。
そういえば、反吐は「オレも表に出られることがわかった」と言っていた。反吐は昨日、初めて表に出て反吐路露の体を乗っ取ったんだ。だから、ヘドロは今まで人格の存在に気づかなかった。そういうことか。
「史織?」
「なあ、ヘドロ。お前、たまに声が聞こえたりしないか? その、自分に話しかけてるような……」
言ってから、気味の悪い質問をしている気がして、言い淀む。しかし、それを聞いたヘドロは体を上下して興奮し始めた。
「なんで、なんでわかるの!?」
意味不明なことを聞いてしまい恥ずかしい、と思うことすら、こいつの前では無駄だった。
「神様のことも言われたんだろ」
「うん、そうなの! 他の人に言わないでって言われてたのに……怒ってるかな」
「平気だろ。他に、そいつから聞いたこととか、あるのか」
ヘドロは、口を開きっぱなしで宙を見つめ、しばらく考える。
「う~ん、あ! や、でも、これも内緒だ」
「そう言われると気になるからやめろって……もういい」
秘密があるとわかることが、こんなに寂しく、怒りが込み上げるとは思わなかった。もう、聞かない方がましかもしれない、とさえ思う。
「まってまって! いっこだけあった」
ヘドロは手招きをした。俺が顔を寄せると、左の耳元に口を近づけて、両手で覆う。左っ側の、音の世界が区切られた。静かなノイズがこもって、ヘドロの手の温度や、息の湿り気が充満した。
「話しかけてくる子はね。僕と、もう一人を守るためにいるんだって」
なるほど。反吐は、ヘドロという人格と、事故以前の、元々の反吐路露の人格を守るために存在している、らしい。明確な理由はわからないが、思い返せば、反吐は俺の攻撃性をうまくかわす気丈な性格であったし、精神的に強いのだろう。昨日の状況で出てきたことも納得できる。しかし、今まで追い詰められるような状況がなかったのか? 一つ理解すれば、また次の疑問が出てくる。きりがないな。
考え込んでいると、ヘドロは、俺の耳元でへへ、と漏らして、そのままの照れたような声で付け足した。
「もう一人って、誰なんだろうね……」
ヘドロの息が耳を掠めて、俺はぱっとヘドロから顔を離した。ヘドロは目を細めてはにかんでいる。
もう一人とは、元の人格のことだろう。その存在をヘドロは知らないのか。自身の多重人格について知らないなら当たり前であるが、昨日した反吐とのやりとりを思い出すと、矛盾が生じる。反吐は、閉じこもった人格が出てこない理由を二人とも知って欲しくないと言っていた。適当なことを言っている可能性もあるが、聞いてみないとわからない。しかし、反吐は変なことを吹き込むくらいなら、多重人格のことくらい言っておいてほしかった。
問題は、ここで俺が、お前は多重人格なんだと明かしていいのか、だ。元いた人格はお前が生まれた時からずっと眠っていて、語りかけてくる声も、お前と一緒に生まれた人格で、昨日はそいつがお前の体を使ってここから帰った、と言っていいものだろうか。それを知った時に、ヘドロはその事実を受け入れられるのか。深く考えるだけ無駄になる気もするが、軽率な言動で、ヘドロをまた傷つけてしまうのが、怖いんだ。傷つける恐怖を軸に、ヘドロと接している自分に気がついて、無性に腹が立つ。
考える俺を見つめていたヘドロが、不意に立ち上がると、鋭い瞳で静かに微笑んだ。
「察しがいいなあ。オレがヘドロじゃないって、すぐわかった?」
ヘドロが見せないような、嫌味ったらしい含み笑いを浮かべている。
「誰だって、聞いているんだ。答えろよ」
「オレも、反吐路露の一部だからヘドロだと言ってもおかしくはないよ」
椅子の背にもたれて、ヘドロの形をした知らない人はおもむろに天井を仰いだ。
「それで納得すると思うか?」
「ええ? そんなあ。このくらい分かってくれると思ったのに」
偽物は、残念そうな顔をして肩をすくめる。何となく、この状況が何なのか、予想はついていた。しかし、まだ状況を飲み込めないでいる。出会ったこともないシチュエーションに、現実味がわかないのだ。
「もう少し詳しく言えばいい?」
にやにやしながらテーブルに頬杖をつき、ヘドロらしからぬ目つきで煽られて、俺は顔を歪めた。普段のヘドロの可愛らしさが微塵も感じられない。
「最初からそう言ってんだよ」
「わあ、怖いなあ。わかったよ」
適当に俺をいなすと、顔を近づけ、囁く。
「多重人格なんだ、オレたち。事故がきっかけなんだけど、これは父さんが言ってたかな」
「『怪我をした後から様子がおかしくなった』と言っていた」
「そ。あんたに会いにくるヘドロは、事故のショックでできた人格ってわけ」
そこまでは、信じ難いことではあったが、納得できた。しかし、まだ一つ、疑問が残る。
「今話しているお前は? 元の人格じゃあねえよな。親の話だと、昔は大人しい性格だったはずだ」
「やっぱ気づくかあ」
「お前、俺のことなめてるのか」
言葉がとげとげしくなった。ヘドロとはまた違った感触で、俺の神経が逆撫でされる。
「ごめんごめん、怒らないでよ。騙すのは無理だと思ってたし」
執拗に煽るくせに、上手いことかわされて、俺の怒りは行き場を失った。
「そうだよ。オレも事故の時できた人格だ。ヘドロと区別するために、反吐って、苗字で呼んでよ」
「反吐……ね」
俺は口の中で転がすように呟いた。
「反吐」
「なに?」
「元の人格はどうしてるんだ」
「ずっと閉じこもったままだよ」
「どうして」
反吐は肩をすくめて、すこし悩んでから、重く口を開いた。
「悪いけど、教えられない。オレはいいけど、二人は、あんたに知って欲しくないみたいだし」
「……」
何か重大な、言い難い理由なんだろう。適当な憶測はいくつか浮かぶが、ここで反吐に投げかけたところで、うまいことかわされるのがオチだ。それに、ヘドロが知られたくないことを無理に聞き出そうとすると、完全に心を閉ざされる気がして、恐ろしい。しかめっ面で悩む俺を見て反吐は乾いた笑いを漏らした。
「知りたきゃ親か、兄に聞いてもいいけどね」
さすがにそこまで過干渉にはなれない。きっと、こいつを問い詰めたところで、言うつもりは毛頭ないんだろう。それが伝わってきたので、十分だった。
「はあ……別に、聞かねえよ」
反吐は俺の返答を聞くと、ほっ、と聞こえるほどの息を吐き、安心した顔を見せた。
「ありがとう、助かるよ」
不安なら、煽らないで普通にお願いすればいいのに、面倒くさいやつだ。
「他にも、いろいろ聞きたいことはあるが……」
外はすっかり暗く、ぬるい風がカーテンを押している。
「うん。ヘドロを呼んでみたけど、疲れたのか応答ないし、帰るかな」
「呼べるものなのか」
「オレだけね、別人格に干渉できる」
「じゃあ、ヘドロに自分は神だって言い聞かせてたのは、お前か」
「ああ、その話、まだだったね。そうだよ、オレが言ってた」
反吐は、当然のように白状した。悪いとも思っていないようだ。
「何のためだか知らないが、変なことを吹き込むのはやめろ」
「うーん、そうだね。オレも表に出られることがわかったし、もう暇つぶしの必要もないかあ」
暇つぶしでヘドロに吹き込んでいたのか。俺が引き攣った顔をしているのに気づいて、反吐は苦笑した。
「ごめんって、ちゃんと他人に言わないようにって、釘刺してたんだけど」
「そう言う問題じゃねえだろ……」
ヘドロで遊んでいた事実に怒りが込み上げてくるが、これ以上なにも言う気にはなれなかった。
反吐は、帰り支度を済ませていた。というか、いつもほぼ身一つで来ているから、言うほどの支度はない。しゃがんで靴を履く反吐を見下ろす。ヘドロとは、履く仕草がどこか違う気がした。
「暗いな、送っていくか?」
後ろ姿に投げかけると、呆れたような、小さい笑い声が聞こえた。
「なんで? オレは大人だよ」
振り返った反吐の表情は、不機嫌なようにも、面白がってるようにも感じた。気だるげにに首を傾げている様から、不意に色気を感じて目をそらす。
「あー、悪い」
なぜ送って行くという選択肢が出たか、自分でもかわからなくて、困惑した。反吐は微笑んだ。
「怒ってないけど」
「そう、か」
「うん。じゃあね」
反吐がドアを開けると、足元から部屋の明かりと、二人の影が伸びる。背にした部屋から、寂しさがどっと押し寄せてきた。途端、反吐は思い出したように振り向いて、こちらをじっと見つめる。寂しさを悟られたかと思うようなタイミングにどきりとした。
「あんたこそ、一人で大丈夫?」
気まぐれなのか、それとも俺から何かを感じ取ったのか。
「はぁ? なんでだよ」
「だって、なんか……あ、猫背になってる? 覇気がなく見えるよ」
お前の身長になるべく合わせてんだよ、と文句を言うのも面倒で、俺は姿勢を正して、反吐を見下ろしてやった。
「わは、威圧感やばあ」
こいつ、完全に面白がっているな。揶揄われることが好きではないし、慣れてもいない俺は、着実に怒りを募らせていた。不機嫌を抑えようとすればするほど、表情が凝り固まっていく。こいつを怒鳴り散らしたところで、ヘラヘラするだけな気がするから、一旦発散しても問題はない。しかし、理性が強くなったのか、感情的に怒りをぶつけることをためらっている。昔似たようないけ好かないやつと喧嘩になったことがあるが、何が違うのか。もはやこれを相手にすることが、馬鹿なのかもしれない。
「……さっさと帰れ」
俺は、不機嫌が漏れた低い声で吐き捨てた。それを全く意に介さず、反吐は笑いながら手を振り、ドアを閉めた。やっと帰った。肩に入っていた力を抜いて俺は、鉄階段を下る甲高いような鈍いような、脳に響く音が消えるまで放心していた。
就寝の支度を済ませて、横になると、ヘドロのことが頭に浮かんだ。反吐は元気に帰っていったが、ヘドロは大丈夫だろうか。失言をしたことによるパニックで反吐に代わったようだった。もし明日来たとしたら、顔を合わせたときにぎこちない反応をされるかもしれない。反吐の存在を明かされた以上、こちらも完全に普段通り接するのは難しい気もする。予行練習のように、ヘドロの反応をいくつも思い浮かべた。
そもそも、ヘドロは本当に多重人格なのだろうか。多重人格の人間なんて実際会ったことがなかったし、そうそう居るものでもないと思う。もしかしたらヘドロの演技かもしれない、という可能性を消せないでいる。
ぐるぐると考えているうちに、俺は眠りに落ちていった。
次の日、ヘドロが来たのは朝のミサが終わった後だった。
「史織ぃ、おはよ……。ちょっとだけ、お話したいんだけど、いい?」
教会へ来てすぐ、ヘドロは深刻そうな顔で、俺を裏口に呼んだ。
「なんだよ」
俺は、努めて普段通りに振る舞った。ヘドロはもじもじしながらも、俺の目をじっと見つめた。
「その、昨日さ、ごめんね」
干してある俺の肌着が風に揺れて、隣に立つ、不安な表情をしたヘドロの頬に触れている。俺は目線を上に逸らした。
「ん、別に気にしてねえよ」
「ほんとう? よかったあ……」
視界の端で、ヘドロは胸を撫で下ろす。しかしすぐに、はっとして身を乗り出した。
「あ、あのね、いっこ聞きたいことがあって」
「どうした?」
「昨日の夜、途中から記憶がないんだけど、僕どうやって家に帰ったんだろう」
「あ? お前は寝てたから、反吐がそのまま帰ったぞ」
「反吐って、僕だよ」
「いや……ん?」
もしや、ヘドロは自分が多重人格だということを知らないのか。俺の発言を理解できず、首を傾げている。俺は愕然として、空を仰いだ。どう説明すればいいのか、どこから話せばいいのか、わからない。
そういえば、反吐は「オレも表に出られることがわかった」と言っていた。反吐は昨日、初めて表に出て反吐路露の体を乗っ取ったんだ。だから、ヘドロは今まで人格の存在に気づかなかった。そういうことか。
「史織?」
「なあ、ヘドロ。お前、たまに声が聞こえたりしないか? その、自分に話しかけてるような……」
言ってから、気味の悪い質問をしている気がして、言い淀む。しかし、それを聞いたヘドロは体を上下して興奮し始めた。
「なんで、なんでわかるの!?」
意味不明なことを聞いてしまい恥ずかしい、と思うことすら、こいつの前では無駄だった。
「神様のことも言われたんだろ」
「うん、そうなの! 他の人に言わないでって言われてたのに……怒ってるかな」
「平気だろ。他に、そいつから聞いたこととか、あるのか」
ヘドロは、口を開きっぱなしで宙を見つめ、しばらく考える。
「う~ん、あ! や、でも、これも内緒だ」
「そう言われると気になるからやめろって……もういい」
秘密があるとわかることが、こんなに寂しく、怒りが込み上げるとは思わなかった。もう、聞かない方がましかもしれない、とさえ思う。
「まってまって! いっこだけあった」
ヘドロは手招きをした。俺が顔を寄せると、左の耳元に口を近づけて、両手で覆う。左っ側の、音の世界が区切られた。静かなノイズがこもって、ヘドロの手の温度や、息の湿り気が充満した。
「話しかけてくる子はね。僕と、もう一人を守るためにいるんだって」
なるほど。反吐は、ヘドロという人格と、事故以前の、元々の反吐路露の人格を守るために存在している、らしい。明確な理由はわからないが、思い返せば、反吐は俺の攻撃性をうまくかわす気丈な性格であったし、精神的に強いのだろう。昨日の状況で出てきたことも納得できる。しかし、今まで追い詰められるような状況がなかったのか? 一つ理解すれば、また次の疑問が出てくる。きりがないな。
考え込んでいると、ヘドロは、俺の耳元でへへ、と漏らして、そのままの照れたような声で付け足した。
「もう一人って、誰なんだろうね……」
ヘドロの息が耳を掠めて、俺はぱっとヘドロから顔を離した。ヘドロは目を細めてはにかんでいる。
もう一人とは、元の人格のことだろう。その存在をヘドロは知らないのか。自身の多重人格について知らないなら当たり前であるが、昨日した反吐とのやりとりを思い出すと、矛盾が生じる。反吐は、閉じこもった人格が出てこない理由を二人とも知って欲しくないと言っていた。適当なことを言っている可能性もあるが、聞いてみないとわからない。しかし、反吐は変なことを吹き込むくらいなら、多重人格のことくらい言っておいてほしかった。
問題は、ここで俺が、お前は多重人格なんだと明かしていいのか、だ。元いた人格はお前が生まれた時からずっと眠っていて、語りかけてくる声も、お前と一緒に生まれた人格で、昨日はそいつがお前の体を使ってここから帰った、と言っていいものだろうか。それを知った時に、ヘドロはその事実を受け入れられるのか。深く考えるだけ無駄になる気もするが、軽率な言動で、ヘドロをまた傷つけてしまうのが、怖いんだ。傷つける恐怖を軸に、ヘドロと接している自分に気がついて、無性に腹が立つ。
考える俺を見つめていたヘドロが、不意に立ち上がると、鋭い瞳で静かに微笑んだ。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】別れ……ますよね?
325号室の住人
BL
☆全3話、完結済
僕の恋人は、テレビドラマに数多く出演する俳優を生業としている。
ある朝、テレビから流れてきたニュースに、僕は恋人との別れを決意した。
楽な片恋
藍川 東
BL
蓮見早良(はすみ さわら)は恋をしていた。
ひとつ下の幼馴染、片桐優一朗(かたぎり ゆういちろう)に。
それは一方的で、実ることを望んでいないがゆえに、『楽な片恋』のはずだった……
早良と優一朗は、母親同士が親友ということもあり、幼馴染として育った。
ひとつ年上ということは、高校生までならばアドバンテージになる。
平々凡々な自分でも、年上の幼馴染、ということですべてに優秀な優一朗に対して兄貴ぶった優しさで接することができる。
高校三年生になった早良は、今年が最後になる『年上の幼馴染』としての立ち位置をかみしめて、その後は手の届かない存在になるであろう優一朗を、遠くから片恋していくつもりだった。
優一朗のひとことさえなければ…………
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
Endless Summer Night ~終わらない夏~
樹木緑
BL
ボーイズラブ・オメガバース "愛し合ったあの日々は、終わりのない夏の夜の様だった”
長谷川陽向は “お見合い大学” と呼ばれる大学費用を稼ぐために、
ひと夏の契約でリゾートにやってきた。
最初は反りが合わず、すれ違いが多かったはずなのに、
気が付けば同じように東京から来ていた同じ年の矢野光に恋をしていた。
そして彼は自分の事を “ポンコツのα” と呼んだ。
***前作品とは完全に切り離したお話ですが、
世界が被っていますので、所々に前作品の登場人物の名前が出てきます。***
林檎を並べても、
ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。
二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。
ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。
彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる