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第一章
第三話 わかろうとする
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午前四時半、飛び起きると、冷や汗が額から吹き出していた。両手を強く握りしめていたのか、少し伸びた爪が食い込んで手のひらが痛い。自分の息が震えているのに気がついて、呼吸を整えようと意識すると、さらに荒くなった。もう一度ベッドに横たわって、頭上にある窓のカーテンを開け、外からかすかに聞こえる鳥のさえずりに気を向けると、呼吸は落ち着いた。ゆっくり起き上がりながら、シーツやスウェットが肌に擦れる感触を全神経で受け止める。ようやく、早まっていた鼓動が落ち着きを取り戻した。
ここ数日、ストレスのせいか良くない夢ばかり見る。毎晩、昔の後悔していることを、夢の中で鮮明に再現していた。両親が亡くなったとき、妹をいじめていた下級生を突き飛ばしたとき、神学校で仲良くなった友人が、司祭の道を諦めると言い出したとき。夢の中では、相手にひどく責め立てられる。親も妹も、友人も、そんなことを言う人たちじゃない。俺が俺自身を許せないだけだ。疲れが取れない状態が続くと、ネガティブ思考が加速する。
「おはよ~」
毎朝、六時前後にヘドロは教会へ来る。今日も能天気なアホ面でスキップしながら、俺に駆け寄ってきた。
「はよ」
「あれ? 史織、なんか顔色悪いね。体調良くない?」
「……あ?」
自分で思ったよりも低い威圧感のある声が出てしまった。ヘドロを見ると、俺の声に怯える様子はないが、やけに心配している表情だった。知り合って数週間の相手に、心身の機微がわかるものだろうか。
「大丈夫?」
出会って間もない、ましてや(ヘドロが距離を詰めてくるため忘れがちだが)仕事に関係する人間に、疲れを気づかれてしまうとは。たまに、ヘドロは静かに、見透かすように見つめてくることがある。俺はそれが怖いような、不安になるような心地がした。
「ねー、史織?」
「入り口付近に立ってんじゃねえ。座れ」
ヘドロを顎で追い払って、俺は深くため息をついた。足元に目線を下すと一匹、蟻が聖堂に向かってまっすぐ進んでいた。なぜかその小さい存在が、ひどく羨ましく思えた。
朝のミサは終わったが、日曜であるため、まばらに人が残っている。信者の方とお話したり、来訪者があればその都度対応したりと、俺の気は休まらなかった。
昼時になると、信者たちは帰り、ようやく静かになってきた。掃除をしようと立ち上がると、ヘドロが駆け寄ってくる。
「史織~、お掃除手伝う?」
「ああ? 別にいい、外で遊んでれば」
「じゃあ、お庭のお掃除する! ほうき貸して!」
「おい、待て!」
返事を聞く前に、ヘドロは外の倉庫に走っていってしまった。
「くそが、俺の話なんて聞きやしねえ」
普段の仕事も環境が変わって大変なのに、ヘドロの相手までしていると、一日の疲れは相当だ。切実に、勝手に動かないでほしいと思った、何かまずい失敗をされると困る。庭の方が気になってしょうがないので、聖堂の掃除を素早く済ませて様子を見に行くことにした。
「おまえ、そんなとこで何してんだ」
ヘドロが表にいなかったので探していると、裏口の段差に座って、蟻を枝でつついて、いたずらしていた。
「あっ、史織。中のお掃除終わったの?」
「庭の掃除はどうした」
「え? なあに?」
なんで、そんな刹那的に生きれるんだ。ヘドロはすっかり掃除のことを忘れていた。悪気のない純粋な目で、不思議そうにこちらを見つめる。間抜けな顔を見ていると、怒る気は失せていった。
「はぁ……どっか行ってろ。ヤニ吸うから」
「やだ! ここにいる」
ヘドロは足元の蟻にいたずらするのをやめて、今度は砂利をコンクリートの段差に並べている。
「あっそ。じゃあ勝手にしろ」
俺はヘドロから少し離れた壁に背をもたれて、空を仰いだ。雲ひとつなく、ずっと見ていると吸い込まれそうな、まっさらな薄い青。不安をかき消すように、煙草に火をつけて、ゆっくり吸い込んだ。
うざったい視線が刺さる。横目で一瞥すると、ヘドロがきらきらとした目でこちら、というより煙草を持つ手を、凝視していた。
「んだよ」
「えっ! や、そのぉ、かっこいいなあと思って」
何を照れているのか、ヘドロは体をくねらせている。煙草がかっこいいと思うのは、夢を見過ぎている。そんな俺だって煙草は憧れと好奇心から始めたことだ。軽い煙草で苦い苦いと言いながら吸っていたのに、いつの間にか手放せない心の拠り所になっていた。ただ憧れて手を出さないなら害もないし、賢いまである。手を出して、はまって、それなしでは正常に生きられなくなった俺は馬鹿だ。
「ねえ史織。やっぱり最近、疲れてない? なんか、いつもと違う」
「しつこいな」
自分の状態くらいは気づいている。しかし、ここでそうだと言って、自分が疲労を溜めて精神的に参ってると、認めたくなかったのかもしれない。
「でも」
「おまえには関係ない」
「っ……そんなこと言わないで!」
近くの木の枝にとまっていた鳥たちが飛び立って逃げるほどの声量で、ヘドロは叫んだ。地雷を踏んだのだろうか。睨みつけてくるヘドロから目を離せないでいると、大きな目が潤み、涙がぼろっとこぼれ出した。
「あうっ。ごめ、う……ひぐっ」
「おい、どうしたんだよ……」
狼狽えた。怒鳴るように叫ぶほど、俺の「関係ない」という言葉が刺さるとは思わなかった。どうしたら泣き止んでくれる? どうして嫌だったんだ? そんなことをくるくると考えている間も、ヘドロはぐしゃぐしゃに泣き続ける。
「あー、くそっ」
泣いている人間は苦手だ。どう接するべきか、最適解を見つけられない。俺はヘドロの背中をぎこちなくさする。それしかできない自分に嫌気がさすが、泣いてる理由がはっきりしないので仕方ない。
泣きじゃくるヘドロの肩を抱えて、俺の部屋まで連れて椅子に座らせる。落ち着かせるために、ブランケットをかけてやったり、紅茶を淹れたり。俺はなぜか、異様にあわてていた。思いついたできることを全てやりきって、そのあとはただ、そばで黙って背中をさすった。
ヘドロが泣き止むまで、一時間はかかった。ほっとしたと同時に、疲労がどっと押し寄せた。
「ふう、ごめんね。泣いちゃって」
「ん。落ち着いたなら、今日はもう帰れ」
ヘドロに帰ることを促すと、一瞬、表情がこわばったように見えた。
「わかった、じゃあまた明日」
へらりと笑った顔に、寂しさが滲んで見え、今帰すべきではない気がした。咄嗟に、俺はヘドロの腕を掴む。
「あー、悪い。その、やっぱり……少し話そう」
「へっ? あ、うんっ。わかった」
ヘドロは柔らかく微笑んでから、椅子を引いて座り直した。
「紅茶、追加するか」
「うん、お願い」
「昨日お前が持ってきた茶菓子は」
「食べる。ありがとう」
引き留めたはいいものの、何をどう話すべきか悩む。紅茶と、ヘドロが手土産に持ってきた小さな焼き菓子を並べて、準備が出来上がってしまった。
沈黙がしばらく続く。ヘドロは俺の方を気にしながら、紅茶をちびちびと飲んだ。俺は、気まずさを感じながら、ヘドロにかける言葉を考える。頬についた手に汗が滲んできた。直球で聞いてしまった方がいい。
「……ヘドロ。さっきの、いやだった理由を教えて欲しい」
「あっ。ええと、いやってわけじゃないけど」
ヘドロの目が宙を泳いだ。落ち着かないのか、手を組んでぐにぐに蠢かせている。
「その、なんかね、史織とは、友達になりたくて」
「……」
「とっ、友達が元気ないと、心配だしどうにかしたいなってなるから、でも関係ないって言われて、できることがないのは、悲しくて」
友達になりたい、と思われるのはそう悪くない気持ちだが、そもそも疲労感の原因の一部はヘドロにあった。こいつの言動に、俺は振り回されている。しかしそのまま伝えるとまた傷つけかねない。
「ヘドロ、俺はお前のこと、まだよくわからない」
「んぇ」
ヘドロはアホみたいにポカンとして俺を見上げた。どういう感情なんだその顔は。わからなくて、神経がひりつくような、ストレスを感じている。だからって、こいつを遠ざけたいとは、どういうわけか、思えない。接するのが難しく複雑な人間はずっと嫌いだったのに。
「えと、わからないから、いや?」
「違う。わからないけど、わかろうとはしてんだよ」
「あ! 史織は、それで疲れてたの。僕のことわかるために」
変に鋭いところも、ムカつく。俺は照れくさくなってそっぽを向いた。
「じゃあ、それじゃあ、僕、どうしたらいいかな。少しお休みしなきゃだよね。僕がいると休めない、よね」
「まぁ、そうだけど。いや、でも……」
明らかに寂しそうな顔で聞いてくるヘドロを見て、しばらく教会へ来るな、なんて言えないと思った。
「やっぱ、しばらく来ない方がいいかな。ちょっと一週間くらい別のことしてるよ」
「え、おい待て。それは」
「僕、ほかにもお友達いるし。大丈夫だよ心配しなくても」
ヘドロの良くないところだ。たびたび、人の話を全く聞かなくなる。自分に言い聞かせるように喋り続けるヘドロの頬を、パチンと音がするくらいの勢いをつけ両手で挟んだ。
「話を聞け!」
「ふぁい……」
俺は大きくため息をついた。俺が止めなければ、しばらくは最初に親が言っていた、良くない人付き合いに戻るんだろう。何も詳しいことは知らないが、ヘドロは毎日教会に来ているし、そのお友達とやらより、ここの方が居心地はいいということだ。
「人の話を聞かないのがお前の一番良くないところだ」
「良く言われまひゅ」
「それを少しでも気をつければ、俺はここに来ることに文句はない」
「んぇ、れも」
「いいか、人と関わるときは相手の気持ちを少しでも考えろ。俺はお前が来ても構わないと言っている」
両手で挟んだヘドロの頬をむにむに押しながら伝えて、照れ隠しをした。
「で。難しいかもしれないが、相手を理解すると同時に自分の気持ちにも正直になるべきだ。お前、本当はどうしたい。別の友達と久しぶりに遊びたいならそれでいい」
ヘドロは、涙が溢れそうになったのを必死に抑えようと、顔をしかめながら、首を勢いよく横に振った。
「……ここがいい」
「ん。仕事の邪魔すんなよ」
話が終わる頃には、夕方のミサの時間になっていた。
今日の業務を終えて、夜、一人寝る準備をしていた時にふと気づいた。いつもより疲れが軽い。ヘドロと話し合っただけなのに、こんなに違うものなのか。考えても仕方ないと思い、就寝する。
夢を見た。両親が亡くなる前に、自分の寂しい悔しい気持ちを伝えられた。妹をいじめていたやつらを殴る前に、妹の話を聞いた。神学校の友人から悩みを相談された。最後には、ヘドロが出てきて、俺の話を嬉しそうに聞いている。わかりやすい夢だ。
俺が疲労だと思っていたものは、自分の気持ちを伝えられない、相手の気持ちを聞けない不安だったのかもしれない。
馬鹿みたいだ。いつから俺は、こんなに寂しがりになったのか。
ここ数日、ストレスのせいか良くない夢ばかり見る。毎晩、昔の後悔していることを、夢の中で鮮明に再現していた。両親が亡くなったとき、妹をいじめていた下級生を突き飛ばしたとき、神学校で仲良くなった友人が、司祭の道を諦めると言い出したとき。夢の中では、相手にひどく責め立てられる。親も妹も、友人も、そんなことを言う人たちじゃない。俺が俺自身を許せないだけだ。疲れが取れない状態が続くと、ネガティブ思考が加速する。
「おはよ~」
毎朝、六時前後にヘドロは教会へ来る。今日も能天気なアホ面でスキップしながら、俺に駆け寄ってきた。
「はよ」
「あれ? 史織、なんか顔色悪いね。体調良くない?」
「……あ?」
自分で思ったよりも低い威圧感のある声が出てしまった。ヘドロを見ると、俺の声に怯える様子はないが、やけに心配している表情だった。知り合って数週間の相手に、心身の機微がわかるものだろうか。
「大丈夫?」
出会って間もない、ましてや(ヘドロが距離を詰めてくるため忘れがちだが)仕事に関係する人間に、疲れを気づかれてしまうとは。たまに、ヘドロは静かに、見透かすように見つめてくることがある。俺はそれが怖いような、不安になるような心地がした。
「ねー、史織?」
「入り口付近に立ってんじゃねえ。座れ」
ヘドロを顎で追い払って、俺は深くため息をついた。足元に目線を下すと一匹、蟻が聖堂に向かってまっすぐ進んでいた。なぜかその小さい存在が、ひどく羨ましく思えた。
朝のミサは終わったが、日曜であるため、まばらに人が残っている。信者の方とお話したり、来訪者があればその都度対応したりと、俺の気は休まらなかった。
昼時になると、信者たちは帰り、ようやく静かになってきた。掃除をしようと立ち上がると、ヘドロが駆け寄ってくる。
「史織~、お掃除手伝う?」
「ああ? 別にいい、外で遊んでれば」
「じゃあ、お庭のお掃除する! ほうき貸して!」
「おい、待て!」
返事を聞く前に、ヘドロは外の倉庫に走っていってしまった。
「くそが、俺の話なんて聞きやしねえ」
普段の仕事も環境が変わって大変なのに、ヘドロの相手までしていると、一日の疲れは相当だ。切実に、勝手に動かないでほしいと思った、何かまずい失敗をされると困る。庭の方が気になってしょうがないので、聖堂の掃除を素早く済ませて様子を見に行くことにした。
「おまえ、そんなとこで何してんだ」
ヘドロが表にいなかったので探していると、裏口の段差に座って、蟻を枝でつついて、いたずらしていた。
「あっ、史織。中のお掃除終わったの?」
「庭の掃除はどうした」
「え? なあに?」
なんで、そんな刹那的に生きれるんだ。ヘドロはすっかり掃除のことを忘れていた。悪気のない純粋な目で、不思議そうにこちらを見つめる。間抜けな顔を見ていると、怒る気は失せていった。
「はぁ……どっか行ってろ。ヤニ吸うから」
「やだ! ここにいる」
ヘドロは足元の蟻にいたずらするのをやめて、今度は砂利をコンクリートの段差に並べている。
「あっそ。じゃあ勝手にしろ」
俺はヘドロから少し離れた壁に背をもたれて、空を仰いだ。雲ひとつなく、ずっと見ていると吸い込まれそうな、まっさらな薄い青。不安をかき消すように、煙草に火をつけて、ゆっくり吸い込んだ。
うざったい視線が刺さる。横目で一瞥すると、ヘドロがきらきらとした目でこちら、というより煙草を持つ手を、凝視していた。
「んだよ」
「えっ! や、そのぉ、かっこいいなあと思って」
何を照れているのか、ヘドロは体をくねらせている。煙草がかっこいいと思うのは、夢を見過ぎている。そんな俺だって煙草は憧れと好奇心から始めたことだ。軽い煙草で苦い苦いと言いながら吸っていたのに、いつの間にか手放せない心の拠り所になっていた。ただ憧れて手を出さないなら害もないし、賢いまである。手を出して、はまって、それなしでは正常に生きられなくなった俺は馬鹿だ。
「ねえ史織。やっぱり最近、疲れてない? なんか、いつもと違う」
「しつこいな」
自分の状態くらいは気づいている。しかし、ここでそうだと言って、自分が疲労を溜めて精神的に参ってると、認めたくなかったのかもしれない。
「でも」
「おまえには関係ない」
「っ……そんなこと言わないで!」
近くの木の枝にとまっていた鳥たちが飛び立って逃げるほどの声量で、ヘドロは叫んだ。地雷を踏んだのだろうか。睨みつけてくるヘドロから目を離せないでいると、大きな目が潤み、涙がぼろっとこぼれ出した。
「あうっ。ごめ、う……ひぐっ」
「おい、どうしたんだよ……」
狼狽えた。怒鳴るように叫ぶほど、俺の「関係ない」という言葉が刺さるとは思わなかった。どうしたら泣き止んでくれる? どうして嫌だったんだ? そんなことをくるくると考えている間も、ヘドロはぐしゃぐしゃに泣き続ける。
「あー、くそっ」
泣いている人間は苦手だ。どう接するべきか、最適解を見つけられない。俺はヘドロの背中をぎこちなくさする。それしかできない自分に嫌気がさすが、泣いてる理由がはっきりしないので仕方ない。
泣きじゃくるヘドロの肩を抱えて、俺の部屋まで連れて椅子に座らせる。落ち着かせるために、ブランケットをかけてやったり、紅茶を淹れたり。俺はなぜか、異様にあわてていた。思いついたできることを全てやりきって、そのあとはただ、そばで黙って背中をさすった。
ヘドロが泣き止むまで、一時間はかかった。ほっとしたと同時に、疲労がどっと押し寄せた。
「ふう、ごめんね。泣いちゃって」
「ん。落ち着いたなら、今日はもう帰れ」
ヘドロに帰ることを促すと、一瞬、表情がこわばったように見えた。
「わかった、じゃあまた明日」
へらりと笑った顔に、寂しさが滲んで見え、今帰すべきではない気がした。咄嗟に、俺はヘドロの腕を掴む。
「あー、悪い。その、やっぱり……少し話そう」
「へっ? あ、うんっ。わかった」
ヘドロは柔らかく微笑んでから、椅子を引いて座り直した。
「紅茶、追加するか」
「うん、お願い」
「昨日お前が持ってきた茶菓子は」
「食べる。ありがとう」
引き留めたはいいものの、何をどう話すべきか悩む。紅茶と、ヘドロが手土産に持ってきた小さな焼き菓子を並べて、準備が出来上がってしまった。
沈黙がしばらく続く。ヘドロは俺の方を気にしながら、紅茶をちびちびと飲んだ。俺は、気まずさを感じながら、ヘドロにかける言葉を考える。頬についた手に汗が滲んできた。直球で聞いてしまった方がいい。
「……ヘドロ。さっきの、いやだった理由を教えて欲しい」
「あっ。ええと、いやってわけじゃないけど」
ヘドロの目が宙を泳いだ。落ち着かないのか、手を組んでぐにぐに蠢かせている。
「その、なんかね、史織とは、友達になりたくて」
「……」
「とっ、友達が元気ないと、心配だしどうにかしたいなってなるから、でも関係ないって言われて、できることがないのは、悲しくて」
友達になりたい、と思われるのはそう悪くない気持ちだが、そもそも疲労感の原因の一部はヘドロにあった。こいつの言動に、俺は振り回されている。しかしそのまま伝えるとまた傷つけかねない。
「ヘドロ、俺はお前のこと、まだよくわからない」
「んぇ」
ヘドロはアホみたいにポカンとして俺を見上げた。どういう感情なんだその顔は。わからなくて、神経がひりつくような、ストレスを感じている。だからって、こいつを遠ざけたいとは、どういうわけか、思えない。接するのが難しく複雑な人間はずっと嫌いだったのに。
「えと、わからないから、いや?」
「違う。わからないけど、わかろうとはしてんだよ」
「あ! 史織は、それで疲れてたの。僕のことわかるために」
変に鋭いところも、ムカつく。俺は照れくさくなってそっぽを向いた。
「じゃあ、それじゃあ、僕、どうしたらいいかな。少しお休みしなきゃだよね。僕がいると休めない、よね」
「まぁ、そうだけど。いや、でも……」
明らかに寂しそうな顔で聞いてくるヘドロを見て、しばらく教会へ来るな、なんて言えないと思った。
「やっぱ、しばらく来ない方がいいかな。ちょっと一週間くらい別のことしてるよ」
「え、おい待て。それは」
「僕、ほかにもお友達いるし。大丈夫だよ心配しなくても」
ヘドロの良くないところだ。たびたび、人の話を全く聞かなくなる。自分に言い聞かせるように喋り続けるヘドロの頬を、パチンと音がするくらいの勢いをつけ両手で挟んだ。
「話を聞け!」
「ふぁい……」
俺は大きくため息をついた。俺が止めなければ、しばらくは最初に親が言っていた、良くない人付き合いに戻るんだろう。何も詳しいことは知らないが、ヘドロは毎日教会に来ているし、そのお友達とやらより、ここの方が居心地はいいということだ。
「人の話を聞かないのがお前の一番良くないところだ」
「良く言われまひゅ」
「それを少しでも気をつければ、俺はここに来ることに文句はない」
「んぇ、れも」
「いいか、人と関わるときは相手の気持ちを少しでも考えろ。俺はお前が来ても構わないと言っている」
両手で挟んだヘドロの頬をむにむに押しながら伝えて、照れ隠しをした。
「で。難しいかもしれないが、相手を理解すると同時に自分の気持ちにも正直になるべきだ。お前、本当はどうしたい。別の友達と久しぶりに遊びたいならそれでいい」
ヘドロは、涙が溢れそうになったのを必死に抑えようと、顔をしかめながら、首を勢いよく横に振った。
「……ここがいい」
「ん。仕事の邪魔すんなよ」
話が終わる頃には、夕方のミサの時間になっていた。
今日の業務を終えて、夜、一人寝る準備をしていた時にふと気づいた。いつもより疲れが軽い。ヘドロと話し合っただけなのに、こんなに違うものなのか。考えても仕方ないと思い、就寝する。
夢を見た。両親が亡くなる前に、自分の寂しい悔しい気持ちを伝えられた。妹をいじめていたやつらを殴る前に、妹の話を聞いた。神学校の友人から悩みを相談された。最後には、ヘドロが出てきて、俺の話を嬉しそうに聞いている。わかりやすい夢だ。
俺が疲労だと思っていたものは、自分の気持ちを伝えられない、相手の気持ちを聞けない不安だったのかもしれない。
馬鹿みたいだ。いつから俺は、こんなに寂しがりになったのか。
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