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スピンオフ 初代アポリオン編
【中編】反逆の悪魔
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アポリオンは世界を飛び回った。
アンディブ戦争真っ只中の世界には悪魔が飛び交い、混沌に陥れようと活発に動き回っている。彼らは神や天使達すらも堕とし、着々と闇を増やしていった。
それを知りつつもアポリオンは空を飛んだ。自分の生み落とした子ども達はリリスに奪われ、シャイターンから彼女に廃棄されたと告げられても。アポリオンはその目で世界を見たかった。自分のしたことは正しかったのか知りたかった。
羽毛生えた竜の翼で飛び回った。悪魔の母は空から街を見つけて、興味本位でそこへ降りていく。
現代では王国首都シャンバルに当たる街、グリーム。現代の王都の規模よりも半分以下の街は、戦禍の中でも神の民は明るく振る舞っていた。神と天使の加護厚い街は今日も平穏な一日を迎えていた。
同胞から悪魔の母と呼ばれしアポリオンは、背の翼をしまい黒いローブのフードを深くかぶって街の中へ入る。ヒトの姿になる際にツノは生やさなかったが、とがった耳から怪しまれると考えての行動だった。
街のいたる所から祈りを捧げる声が聞こえてくる。大聖堂に入り切れない信徒達が最高神である創造源神に加護と救いを求めていた。中には剣を携え、戦う意思と覚悟を示す民も見える。術式を使える民は街の守護を任されていた。
(俺の居場所は無さそうだ)
彼らが街に悪魔の侵入を許していると知ったら大騒ぎどころでは済まないだろう。自分を滅多刺しにしてでも仕留めようとしてくるに違いない。この世界の悪魔を生み落した元凶なのだから。
街のはずれに移動して人気のない路地に入る。立ち止まった。背後に人の気配がする。力を使うべきか。
「そこの兄さん」
悩んでいる隙に間合いを詰められた。強い魔力がそこそこ感じられる神の民だ。捻り潰すことは簡単にできるが、アポリオンは何もしなかった。
正面に回り込んだフードの男は、アポリオンの手を掴むと引っ張って駆け出した。
「こっちだ」
連れて行かれるままアポリオンは彼に従い路地を駆ける。迷わず曲がり角を進んで誘導しているのを見ると、土地勘のある人間だと理解した。
そのうち路地を抜けて郊外の木々生い茂る中を駆けていた。手を引く彼は家を見つけるとアポリオンをそこに入れた。鍵をかけて窓のカーテンを閉める。
「よかった。追手は来ないよ。君、悪魔だろ?」
「なんの根拠を持ってそう問いかける?」
男はきょとんとしてまばたきを繰り返す。そのうち「あっはは」と笑い出してアポリオンの背を軽く叩いた。
「黒いローブの神の民なんて、悪魔崇拝者以外に着ていないからだ。君が街の中を無警戒に移動しているのを見つけて危ないと思ったんだよ」
「悪魔と分かっているなら、何故助けるような真似を?」
「私の興味が湧いたから、だ」
男はウインクすると己のフードを取った。くせ毛の紺青の髪が目にかかる程度に伸びている。整えられた顔立ちはさぞ女性に持て囃されるだろうとアポリオンは感じた。
「私はリベル・レジスト。神の民の結成した、悪魔の世に反逆する組織に属する者だ」
握手を求められている。アポリオンは蓄積された情報から握手という行為を参照し、寸分の間ののち握手した。
リベルはアポリオンを見据える。垂れるフードに隠れた顔が微笑んだ気がした。手を離すと彼がフードを取る。いくつも束ねられた白髪と、左右で色の違う水と金の瞳があらわになった。最後にとがった耳を見たリベルは、目の前の彫像のような男にはっと息を飲んだ。
「君は本当に悪魔なのか? こんなに見目麗しい悪魔は初めて見たよ」
「存在を確立した時から悪魔だ。おまえは、ただの人間にしては強い魔力を持っていると感じる。それに質もいい」
「魔力を感知できる……となると、君は高位の悪魔みたいだね。なるほど、ますます興味が湧いた」
リベルはアポリオンを奥の部屋に案内する。リビングらしい部屋は画材道具がいたる所に散らばっていた。椅子に座るよう促す。警戒はせずアポリオンは木の椅子に着席した。リベルは隣のキッチンで紅茶を入れてから着席する。アポリオンの前にティーカップを置いた。
「いくつか聞きたいことがある。君は、悪魔の中で何を司っているんだ?」
「何を司る? 俺はただ悪魔を生み落とすだけの存在だ。同胞の話では、当時から百年の時が流れたと聞いている。「悪魔の母」と呼ばれたこともあった」
リベルは紅茶を一口飲むと、アポリオンの異なる色の瞳を見据えて問いかける。
「じゃあ、百年前に悪魔を生み落して数を増やし、世界に悪魔を広げていったのか?」
「そうだ。それがリリスの命令だった。だが、俺は廃棄された」
「廃棄?」
リベルが眉を上げて興味を示す。アポリオンは感情薄く口を開いた。
「百年前、俺は熾天使に打ち倒された。本来の姿を保てなくなり、泥水の塊となって沈んでいたんだ」
「今こうして人の姿になったのは?」
「ほんの少し前に。同胞に百年の間に何があったのか聞いた。廃棄されたことと、俺の生み落した子らは全てリリスに奪われたことを聞いた。そして俺は、旅に出た」
「……旅?」
「あぁ、旅だ。廃棄された今、俺は自由になった。子を成すことなく、一人で世界を見ようと思ったんだ」
リベルは紅茶を半分飲んで考える。忌むべき悪魔を増やした原因が目の前にいる。しかも自由に旅をしようと考えているなど正気の沙汰ではないと感じた。絶句したのち、握り拳を作った右手を震わせる。
「……君は、今この世界で起こっている状況を同胞から聞かなかったのか?」
「聞いている。だからこそ、俺のしたことは正しかったのか知りたい。悪魔を生むことだけ望まれたからそうしたのだ。だがリリスは俺から全て奪った。涙というものが瞳から流れた。全てを奪われて、廃棄されて、俺は……悲しかったのだろう」
アポリオンが瞳を伏せる。同胞から聞いた話を頭の中で反芻していた。本当なら自分は死を望まれたのだろう。要らなくなった存在はリリスの糧になるか、他の悪魔に吸収されるか、それとも死ぬか。それだけしか道はないと。
再び瞳を開くと、アポリオンの視界に映った紺青の髪の男は体を震わせていた。拳が今にも振るわれそうだと悟る。
(そうだろう。この世界の状況を悪化させた根本は俺が悪魔を増やしたからだ)
彼の怒りは最もだと理解する。殴られるなら受け止めようと覚悟した。しかし、その拳はゆっくりとほどかれてティーカップを運んだ。彼が飲み下すのを見届ける。紺青の髪の隙間から、冷静さを保とうとしている瑠璃色の瞳が覗いていた。
「……君の言っていることに嘘はないようだ。悪魔が涙を流したなんて聞いたことがない。信じがたいけども、現に君は今も悲しそうだ」
「そんなふうに見えるのか?」
「あぁそうだ。それと、君は悪魔なのに不思議と敵意を感じない。何か、別なものが君の中に存在しているような……」
リベルに指摘されてアポリオンは胸に手を当てた。体の奥で燃えているあたたかい炎。熾天使レイグの神炎が自分の中にある。リベルにそのことを伝えると、目を見開いて驚かれた。
「熾天使レイグ様の炎……!?」
「人の姿になる際、一緒に取り込んでしまったらしい。この炎が俺を本来の姿に戻すことを拒む。炎がずっと泥の俺を燃やしていた。何度戻ろうとしても泥水のままだった」
「悪魔の君から強い光を感じるのはそのせいか」
「そうみたいだ」
感情の薄いアポリオンの反応を見ていてリベルは思う。彼は存在を確立したときから悪魔を生む役割しか与えられなかったのだろうと。どういう理屈で人に成ったのかは分からないが、熾天使レイグの神炎を取り込んだことで考えを改めたのではないかと。
リベルは顎に手を当てて考える。悪魔の世へ反逆する組織に属す自分としては、彼ら悪魔の情報が欲しい。こうして悪魔と会話することもできないケースが多すぎた。神と天使が戦って悪魔を浄化することしかできない今、人間にも立ち向かえる方法を知ることができるのではないかと思考する。
彼なら、この世を変えてくれる存在になるのではないか。
リベルは怒りから期待の感情へと変化させて彼を見据えた。そういえば彼は名乗っていない。
「アポリオンだ」
「アポリオン?」
「俺の名だ。「滅ぼす者」という意味を持つ。この世界を滅ぼす者。だが俺は、もうそのつもりはない」
光のない水と金の瞳は瑠璃色の瞳を見つめた。リベルは視線を受け止める。
「滅ぼすつもりがないということは、君は人の味方になってくれるということか?」
「廃棄された俺は役割を失っている。新たにそれを示してくれるなら、人の味方になるのもいいだろう」
「……悪魔に反逆する悪魔、か。なるほど、面白そうだ」
アポリオンはようやく紅茶に口をつけた。飲んだことのない初めての液体だったが、好みの味がして少し微笑んだ。
「アポリオン。旅をすると言っていたが、悪魔の君を受け入れてくれる神の民は少ないだろう。私のこの狭い家でよければ提供するよ」
「それは助かる。ここを中心に活動することもできそうだ」
「迂闊に外へ出ると、君を浄化しようとする神や天使が襲うだろう。気をつけるんだ」
「分かっている。俺は悪魔だからな」
からになったティーカップをリベルがキッチンに運んでいく。アポリオンはリビングに散らばる画材道具を見つめて疑問に思い、蓄積された情報から必要なものを抜き取った。
「画材道具……絵を描くのに必要なもの……」
「そうだ。私は元々画家を目指していてね」
ティーカップを洗って戻ってきたリベルがアポリオンをとある部屋に案内した。そこには油絵具のにおいが漂う狭いアトリエ。人物が描かれたキャンバスが部屋の隅に片付けられていた。
「君がよければ描かせてほしい。組織の仕事があるから筆を持つ時間も少なくなったけども、夢を諦められなくてね」
「描く?」
「あぁ、絵を描くんだ。私は専ら人物を中心に描いているよ」
アポリオンが興味深そうにアトリエを眺めている。立てかけられたキャンバスを一枚手に持った。一人の女性が精緻に描かれている。
「その絵のモデルは妻だ。今は神の庭と呼ばれる島に避難している」
「共に暮らすことはできないのか」
「言っただろう、私は悪魔に反逆する組織に属していると。危険な目に遭わせないために彼女だけ向こうに避難させた。神の庭なら創造源神様が守ってくれる。そこなら安全だ」
神の庭のことは、蓄積された情報を参照して詳細を知った。吸収した存在にそこへ行ったことのある人物がいたようだ。
神と天使の膝元、その島にいる人間は戦乱の世にいても安寧を得られる。情報を浸透させて、アポリオンはキャンバスを置いた。
「妻の絵を描いて以来筆を置いていた。描かないと決めていたのに、君を見ていたらまた描きたくなってしまった。描くのは、君で最後にしたい」
リベルがどうして自分を描きたいと思ったのかは分からない。絵を描くための情報は少なかったから、アポリオンはどうすればいいのか分からなかった。
「付き合おう。何をすればいい?」
「今すぐはできないな。準備も必要なんだ。今度描けるようにしておくよ」
苦笑いしてリベルは返す。アポリオンは首をかしげた。
*******
アポリオンがリベルの家を拠点に動き出して半月が経とうとしていた。
感情薄く抑揚のないアポリオンは、リベルを見ながら徐々に感情を覚えるようになっていった。存在を確立してから百年は生きているアポリオンだが、人の姿を得てまだ一ヶ月も経っていない。感情に関しては赤子よりも持ち合わせていなかった。
遠くを飛び回っていたアポリオンは、悪魔に襲撃されても返り討ちにして吸収していた。蓄積した情報を元にリベルへ情報提供するためだ。アポリオンのくれる情報を参考に、リベルは紙にまとめて組織に提出した。質のいい情報に組織はすぐ食いついた。
「君が教えてくれる情報のおかげで対抗策が生まれた。感謝するよ」
「俺はただ世界を見て回っているだけだよ。そのついでだ」
「ついで、かぁ。君には勝てそうにないな」
アポリオンは何日も帰らない日があった。それでもリベルは信じて待った。アポリオンはリベルの心配など知らないが、帰ってくるとリベルが安心したように微笑むのを見て、信頼されているのだと考えていた。
「何故だ、おまえの笑った顔を見ていると胸の辺りがあたたかくなる」
「嬉しいのか、それとも楽しいのか。そういう喜びにまつわる感情かもしれないな」
「嬉しい、楽しい……」
「少しずつ覚えていけばいい。私だけではなく、様々な人と交流できればもっと感情が芽生えやすいと思うが、それは難しいな」
「ふむ……」
慣れない感情の芽生えに戸惑いながら、アポリオンはリベルとの生活を続けていく。そしてアトリエでの執筆も。
アポリオンが家にいる間に、リベルは彼をアトリエに呼んでキャンバスに描いていた。高身長のアポリオン。狭いアトリエでは大きすぎる。椅子に座ると、リベルがこちらとキャンバスを見ながら下絵を描いていった。
「やはり君は、悪魔にしては綺麗だな。初対面のとき、美しいと感じていた」
「美醜はよく分からない。人の姿になるとき、蓄積した情報を元に効率を考えて肉体を作った。黒のローブは同胞が用意してくれたものだし、人になったときは服というものも知らなかったよ」
「それは大変だ。服は着ないと捕まるぞ」
「捕まる? あぁ、憲兵というやつか」
「そう。服の下は愛する者以外に見せるものじゃない」
「そういうものなのか」
「そういうものさ」
会話をしながらリベルは線を引いていく。食事をとってその夜も描いた。次の日の昼には下絵が完成した。リベルは油絵具を準備して、椅子に座るアポリオンと会話する。
「感情というものは大きく三つある。喜び、怒り、悲しみ。君は私を見て嬉しいという喜びの感情を覚えたみたいだね」
「そうらしい」
「そして、自分の子を奪われたことによって涙を流すほどの悲しみを覚えた」
「体が二つに引き裂かれるような痛みだった」
「そうだね。それが悲しみだ。怒りは、不平不満や理不尽など、相手を許せないと思ったときに沸き上がってくる。まるで熱くなった鉄のように真っ赤になって、相手を攻撃してしまうこともある」
「怒り、とは恐ろしい感情なのだな」
「一歩間違えば、相手を殺してしまうかもしれない感情だ。その怒りがなければ私は悪魔に反逆しようと思わなかった。妻と離れ離れになる悲しみと、どうしてこんな世界にしてくれたんだと怒りを覚えた」
「今も?」
「そうだね。今も悪魔に腹立っている」
キャンバスを見つめているリベルの顔は見えない。声色は冷静だ。アポリオンは視線をそらした。
「俺が悪魔を生まなければ、創造源神がリリスを倒して終わっていたかもしれない」
「君を責めるつもりはない。君もリリスの被害者だろう。自分の生んだ子を奪われ、存在を廃棄されてしまったんだ」
「それは事実だが、俺は世界を混沌に陥れた一端だ。責められても仕方ない」
「初めて話を聞いたときに、私が怒っていたのは分かるかい?」
「あぁ、よく覚えている。殴られるかと思った」
「殴ってもよかったけど、……君に熾天使レイグ様の炎があると知って、考えを変えたよ」
リベルはアポリオンを見る。彼の視線がこちらを向いた。
「君なら、この悪魔の世を変えてくれるかもしれないって、ね」
「……自信はないが、おまえの力になれるなら嬉しい」
「私も嬉しいよ」
二人は会話をしながらアトリエで静かに過ごす。リベルはアポリオンを描きながら感情を教えていく。アポリオンもそれに応えようと会話を通して感情を学んでいった。
喜び、怒り、悲しみ。憎しみと愛することを知り、深い優しさを備えた。アポリオンは羽毛の竜の翼で空を飛びながら世界を見る。感情のなかったときよりも、感情を覚えた今の方が世界が美しく感じた。灰色だった景色に色が付いたように煌めいてみえた。
「世界は残酷で、美しい……」
悪魔の統べる世は、世界にとって正しくないのだろう。なればこそ、自分は世界から消えるべきだと。だがその前に、リベルが与えてくれた役割をきちんと全うしたい。
新たに悪魔を吸収して情報を得た。アポリオンはリベルの家に向かって空を飛んだ。
*******
さらに半月が経過し、二人が出会ってから一ヶ月が経った。
アポリオンは一ヶ月前と比べてはっきりと感情を表すようになり、表情も変わるようになった。光なき水と金の瞳に灯火が宿る。体の奥で燃える神炎の熱が心地良い。本来なら闇と光で反発しあうはずのそれは絶妙なバランスで保たれていた。
二人はアトリエにいた。完成するまでリベルが見せてくれないので、アポリオンは絵が完成するのを楽しみにしていた。いつもの椅子に座って今か今かと待っている。
「リベル、まだか?」
「もう少しだ」
リベルが最後にサインを記す。大きく息を吐いて力を抜いた。筆を置いて額の汗を袖口で拭った。
「できたよ」
リベルが手招きする。アポリオンはリベルの隣に移動した。目に飛び込んできた絵を見て、アポリオンが息を飲む。
椅子に座った人物画。白髪をいくつも束ね、異なる瞳の色をした色の白い人物。中性的な美しい顔はまさしくアポリオンだ。
「おまえは、本当に絵が上手いな」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいよ。……最後に、悪魔を描くことができて楽しかったよ」
「だが、何故ローブが白なんだ?」
アポリオンの疑問だった。自分の着ているローブは黒。しかし描かれている自分は白いローブを着ていた。リベルがふっと優しい笑みを浮かべる。
「黒いローブは悪魔崇拝者の証だ。この絵がもし私達以外の誰かに見られたら、悪しき者を描いたとして焼かれることになる。モデルの君も描いた私も、きっと捕まることになるだろう。そうならないように白くしたんだ」
「これでは俺が天使みたいだよ。いいのかな、悪魔を描きたかったのだろう?」
「私が描いたのは確かに悪魔だった。けれど、もし後世にこの絵が残ることになるのなら。焼かれないように細工しないといけない。それにこの一ヶ月、君と過ごしていて、君が悪魔に思えなかった日もあったよ」
油絵具で汚れた手を合わせて擦りながらリベルはアポリオンを見上げる。異なる瞳の色と視線が絡み合った。自然と笑みが浮かんだ。
「悪魔の母、だったか。君はそう呼ばれていたと言っていた。私が君に感じたものを絵に表したんだ。そうだな、題名をつけるなら……」
リベルは細い筆を持ち、サインの近くに題名を書いた。「聖母A」と。
「君は、悪魔からすれば人間でいう聖母に当たるのだろう。名前は頭文字から取って、こうしてみたよ」
「絵を見た悪魔にはすぐにばれてしまいそうだ」
「人間には分からない。私にしか、ね」
二人で静かに笑い合う。
リベルが席を立つ。アポリオンの描かれたキャンバスをしばし眺めてからリビングに移動した。
手についた油絵具は勲章みたいだった。だがこれではアポリオンに紅茶を淹れられない。洗ってこようと洗面台に行き、石鹸とぬるま湯でしっかりと洗った。
(変わったのは、私もか)
色が混じり合い黒ずんだ色の水が流れていく。白い絵の具が混ざろうとも濁った色をしていた。
(彼を利用するだけし利用して、組織に突き出そうとしていたが。今はもうそのような考えは改めた)
悪魔の母と呼ばれた彼を描いているうちに考えが変わっていった。絵に描いたアポリオンの柔らかな微笑みを思い出す。本人も、微笑んでいた。
「……」
くすんだ鏡を見る。
リベルすら馴染んでしまった自分。子どもの頃から、悪魔に真名を晒せば魂を抜かれると教え込まれて、とっさに名乗った名前。それすらも、彼に呼ばれれば耳に染み込んでいく。自分はリベルだと錯覚する。
「……もう、引き返せないか」
リビングから音がする。アポリオンが戻ってきたのだろう。
紅茶を淹れよう。リベルは汚れた袖口を肘までまくってリビングへ移動した。
紅茶を淹れて、彼と会話を楽しむ。
微笑む悪魔の母は優しさを湛えている。
嗚呼、願わくば。
安寧のまま、時よ過ぎておくれ。
*******
絵が完成して一週間後。
アポリオンとリベルは変わらない日常を送っていた。
戦争の渦中にあっても、グリームの街は天使の部隊に護られて安全を確保していた。街では子ども達が笑顔を振りまいている。まるで戦禍から切り離されたように神の民は平穏を受け止めていた。
リベルは変わらず組織に情報を送っていた。帰り道、教会で祈りを捧げ、自分のしていることの是非を神に問う。悪魔と共に在ることは罪であっても、彼だけは信じたいと。
教会を出て聖水の入った小瓶を受け取る。革のポーチに入れて帰路についた。街を出て家までもう少しのところで、リベルは強い殺気を感じて振り返った。
一瞬だった。
声を上げる間もなく。
肩から斜めに、切れ味の鋭いもので斬られて。
「……――ぁ」
見開いた目が捉えたのは。
黒い翼の生えた、悪魔だった。
――リベル!
聞き慣れた声がした。
悪魔がアポリオンを捕捉した刹那。アポリオンが魔導弾を放ち悪魔を消滅させた。
「リベル! リベルッ!!」
アポリオンが背後に倒れる彼を受け止める。ゆっくりと抱えて地面に横にした。抱き締めるように体を支える。
「はは、聖水を出す暇もなかったよ。……どうやら私は、ここまでのようだな」
「だめだ、死ぬな。俺はまだおまえに何も返せていないんだぞ……!」
アポリオンは治癒術が使えない。だが治癒術の使える天使を呼ぶこともできない。傷口から生命の奔流が溢れていく。
「アポリオン、頼みがある……」
「頼み? なんだ、言ってくれ」
「君を描いた絵、……あれを、神の庭にいる、妻に」
「妻に持っていくのか?」
「そう。私が、生きた……最後の、証」
ごぷり。リベルが吐血してアポリオンのローブを赤に染める。命が失われていく。魔力の流出も始まっていた。
「今の君なら、神の庭にも行ける。悪魔に、……反逆する、悪魔。私の名前を……もらってほしい」
「おまえの、名を」
「リベルとは、「反逆」を意味する。君に、贈ろう。感情を知った君なら、他の悪魔より高く翔べるはず」
リベルの手がアポリオンに伸びる。頭を撫でて、指の背で頬を撫でた。
「最後の願いだ。……私を、吸収してくれ」
「……それは、できない」
「……?」
「吸収してしまえば、俺はおまえの情報を持った悪魔を作るかもしれない。それは嫌なんだ。おまえだけは、唯一無二の存在だと思っている。蓄積された情報のひとつにしたくないんだ……!」
涙声で訴えるアポリオン。抱く腕に力が強まる。それでもリベルは笑っていた。その笑みの意味が分からなくてアポリオンは戸惑った。
「手紙、あるんだ」
「手紙?」
「私の部屋の机の上だ。妻に宛てた手紙と、君に宛てた手紙が。落ち着いたら読んでくれ。……なぁ、アポリオン」
「リベル……っ」
ぽたり。アポリオンの瞳から涙がこぼれ落ちる。リベルの瞳から光が消えようとしていた。
「楽しかったよ……出会った悪魔が君で、よかった」
「リベル、……あぁ、俺も楽しかったよ」
「アポリオン。いいや、戦友。君なら、……」
――きっと、人間の味方をしてくれるだろう?
頬に触れた手が落ちる。リベルの瞳が閉じられる。
命の灯火が静かに消えていった。
「リベル……ッ!」
アポリオンは、せき止めていた涙が一気にこぼれて。
感情を爆発させて、泣き叫んで。
しばらくそこから動けなかった。
どれくらい泣いていただろう。
目元は赤くなって少し痛いくらいだ。
「……」
見上げると天使が立っていた。
見覚えのある天使だった。
「百年ぶりだな、悪魔の母よ。いや、アポリオン」
「おまえは……あの時、俺を殺した」
「そうだ。だが今は、それより」
天使――熾天使レイグ・セラフィムはリベルを指差す。
「お前はその人間から学び、そして託されたのだろう? ならば成すべきことはなんだ」
指差していた手が開き、アポリオンに差し出される。
「創造源神様がお前を神の庭に迎えたいと言った。俺はその使いだ」
「創造源神……神が、俺を?」
アポリオンは戸惑いと混乱で言葉が出なかった。だが成すべきことは決まっていた。腕の中で安らかな笑みを浮かべる彼を見る。彼の願いを、叶えなければ。
彼の描いた最後の絵を妻に持って。
手紙を渡して。
彼の意志を継ぐのだ。
「……その目、決意に満ちた目だ。悪魔に思えぬ光の強さ。体内に俺の炎を宿したとは思えないほどの」
「熾天使。俺からも頼みがある。……リベルを、浄化してやってくれ」
「承知した。お前は家に入って支度をしてこい」
「そうしよう」
リベルの亡骸からようやく離れ、熾天使に託す。アポリオンは家に入ってアトリエに向かった。油絵具と彼のにおいがする。彼の最後の絵を回収し、遺言にはなかったもうひとつを持った。
彼の部屋に入り、机の上を探す。言っていたとおり二通の手紙を発見した。
「……読むのは向こうに行ってからにしよう」
今読めばまた泣き叫んでしまうかもしれない。熾天使が外で待っている。
二つのキャンバスと二つの手紙を持って外へ出る。レイグは既にリベルの浄化を済ませていた。血に濡れたはずの地面も綺麗になっていた。
「支度は終わったか」
「……あぁ。大丈夫だよ」
「そのローブでは向こうに行けない。こうしよう」
レイグが指を鳴らすと、アポリオンの黒いローブが上質な生地の白に変わる。襟付きの上着をまとい、長い後ろ垂れが伸びる高貴な出で立ちに姿を変えた。
「これなら外見だけでも人と見紛う。先に言っておくが、神の庭と呼ばれる場所には俺を始めとする天使が大勢拠点にしている。もしお前が暴れるようであれば、たとえ創造源神様の迎えであっても容赦はないと思え」
「あぁ、そのつもりだよ」
「ならば行くぞ」
レイグは転移の紋を広げ、神の庭の座標へと転移を起動した。
悪魔に反逆する悪魔として。
アポリオンはその一歩を踏み出すのであった。
アンディブ戦争真っ只中の世界には悪魔が飛び交い、混沌に陥れようと活発に動き回っている。彼らは神や天使達すらも堕とし、着々と闇を増やしていった。
それを知りつつもアポリオンは空を飛んだ。自分の生み落とした子ども達はリリスに奪われ、シャイターンから彼女に廃棄されたと告げられても。アポリオンはその目で世界を見たかった。自分のしたことは正しかったのか知りたかった。
羽毛生えた竜の翼で飛び回った。悪魔の母は空から街を見つけて、興味本位でそこへ降りていく。
現代では王国首都シャンバルに当たる街、グリーム。現代の王都の規模よりも半分以下の街は、戦禍の中でも神の民は明るく振る舞っていた。神と天使の加護厚い街は今日も平穏な一日を迎えていた。
同胞から悪魔の母と呼ばれしアポリオンは、背の翼をしまい黒いローブのフードを深くかぶって街の中へ入る。ヒトの姿になる際にツノは生やさなかったが、とがった耳から怪しまれると考えての行動だった。
街のいたる所から祈りを捧げる声が聞こえてくる。大聖堂に入り切れない信徒達が最高神である創造源神に加護と救いを求めていた。中には剣を携え、戦う意思と覚悟を示す民も見える。術式を使える民は街の守護を任されていた。
(俺の居場所は無さそうだ)
彼らが街に悪魔の侵入を許していると知ったら大騒ぎどころでは済まないだろう。自分を滅多刺しにしてでも仕留めようとしてくるに違いない。この世界の悪魔を生み落した元凶なのだから。
街のはずれに移動して人気のない路地に入る。立ち止まった。背後に人の気配がする。力を使うべきか。
「そこの兄さん」
悩んでいる隙に間合いを詰められた。強い魔力がそこそこ感じられる神の民だ。捻り潰すことは簡単にできるが、アポリオンは何もしなかった。
正面に回り込んだフードの男は、アポリオンの手を掴むと引っ張って駆け出した。
「こっちだ」
連れて行かれるままアポリオンは彼に従い路地を駆ける。迷わず曲がり角を進んで誘導しているのを見ると、土地勘のある人間だと理解した。
そのうち路地を抜けて郊外の木々生い茂る中を駆けていた。手を引く彼は家を見つけるとアポリオンをそこに入れた。鍵をかけて窓のカーテンを閉める。
「よかった。追手は来ないよ。君、悪魔だろ?」
「なんの根拠を持ってそう問いかける?」
男はきょとんとしてまばたきを繰り返す。そのうち「あっはは」と笑い出してアポリオンの背を軽く叩いた。
「黒いローブの神の民なんて、悪魔崇拝者以外に着ていないからだ。君が街の中を無警戒に移動しているのを見つけて危ないと思ったんだよ」
「悪魔と分かっているなら、何故助けるような真似を?」
「私の興味が湧いたから、だ」
男はウインクすると己のフードを取った。くせ毛の紺青の髪が目にかかる程度に伸びている。整えられた顔立ちはさぞ女性に持て囃されるだろうとアポリオンは感じた。
「私はリベル・レジスト。神の民の結成した、悪魔の世に反逆する組織に属する者だ」
握手を求められている。アポリオンは蓄積された情報から握手という行為を参照し、寸分の間ののち握手した。
リベルはアポリオンを見据える。垂れるフードに隠れた顔が微笑んだ気がした。手を離すと彼がフードを取る。いくつも束ねられた白髪と、左右で色の違う水と金の瞳があらわになった。最後にとがった耳を見たリベルは、目の前の彫像のような男にはっと息を飲んだ。
「君は本当に悪魔なのか? こんなに見目麗しい悪魔は初めて見たよ」
「存在を確立した時から悪魔だ。おまえは、ただの人間にしては強い魔力を持っていると感じる。それに質もいい」
「魔力を感知できる……となると、君は高位の悪魔みたいだね。なるほど、ますます興味が湧いた」
リベルはアポリオンを奥の部屋に案内する。リビングらしい部屋は画材道具がいたる所に散らばっていた。椅子に座るよう促す。警戒はせずアポリオンは木の椅子に着席した。リベルは隣のキッチンで紅茶を入れてから着席する。アポリオンの前にティーカップを置いた。
「いくつか聞きたいことがある。君は、悪魔の中で何を司っているんだ?」
「何を司る? 俺はただ悪魔を生み落とすだけの存在だ。同胞の話では、当時から百年の時が流れたと聞いている。「悪魔の母」と呼ばれたこともあった」
リベルは紅茶を一口飲むと、アポリオンの異なる色の瞳を見据えて問いかける。
「じゃあ、百年前に悪魔を生み落して数を増やし、世界に悪魔を広げていったのか?」
「そうだ。それがリリスの命令だった。だが、俺は廃棄された」
「廃棄?」
リベルが眉を上げて興味を示す。アポリオンは感情薄く口を開いた。
「百年前、俺は熾天使に打ち倒された。本来の姿を保てなくなり、泥水の塊となって沈んでいたんだ」
「今こうして人の姿になったのは?」
「ほんの少し前に。同胞に百年の間に何があったのか聞いた。廃棄されたことと、俺の生み落した子らは全てリリスに奪われたことを聞いた。そして俺は、旅に出た」
「……旅?」
「あぁ、旅だ。廃棄された今、俺は自由になった。子を成すことなく、一人で世界を見ようと思ったんだ」
リベルは紅茶を半分飲んで考える。忌むべき悪魔を増やした原因が目の前にいる。しかも自由に旅をしようと考えているなど正気の沙汰ではないと感じた。絶句したのち、握り拳を作った右手を震わせる。
「……君は、今この世界で起こっている状況を同胞から聞かなかったのか?」
「聞いている。だからこそ、俺のしたことは正しかったのか知りたい。悪魔を生むことだけ望まれたからそうしたのだ。だがリリスは俺から全て奪った。涙というものが瞳から流れた。全てを奪われて、廃棄されて、俺は……悲しかったのだろう」
アポリオンが瞳を伏せる。同胞から聞いた話を頭の中で反芻していた。本当なら自分は死を望まれたのだろう。要らなくなった存在はリリスの糧になるか、他の悪魔に吸収されるか、それとも死ぬか。それだけしか道はないと。
再び瞳を開くと、アポリオンの視界に映った紺青の髪の男は体を震わせていた。拳が今にも振るわれそうだと悟る。
(そうだろう。この世界の状況を悪化させた根本は俺が悪魔を増やしたからだ)
彼の怒りは最もだと理解する。殴られるなら受け止めようと覚悟した。しかし、その拳はゆっくりとほどかれてティーカップを運んだ。彼が飲み下すのを見届ける。紺青の髪の隙間から、冷静さを保とうとしている瑠璃色の瞳が覗いていた。
「……君の言っていることに嘘はないようだ。悪魔が涙を流したなんて聞いたことがない。信じがたいけども、現に君は今も悲しそうだ」
「そんなふうに見えるのか?」
「あぁそうだ。それと、君は悪魔なのに不思議と敵意を感じない。何か、別なものが君の中に存在しているような……」
リベルに指摘されてアポリオンは胸に手を当てた。体の奥で燃えているあたたかい炎。熾天使レイグの神炎が自分の中にある。リベルにそのことを伝えると、目を見開いて驚かれた。
「熾天使レイグ様の炎……!?」
「人の姿になる際、一緒に取り込んでしまったらしい。この炎が俺を本来の姿に戻すことを拒む。炎がずっと泥の俺を燃やしていた。何度戻ろうとしても泥水のままだった」
「悪魔の君から強い光を感じるのはそのせいか」
「そうみたいだ」
感情の薄いアポリオンの反応を見ていてリベルは思う。彼は存在を確立したときから悪魔を生む役割しか与えられなかったのだろうと。どういう理屈で人に成ったのかは分からないが、熾天使レイグの神炎を取り込んだことで考えを改めたのではないかと。
リベルは顎に手を当てて考える。悪魔の世へ反逆する組織に属す自分としては、彼ら悪魔の情報が欲しい。こうして悪魔と会話することもできないケースが多すぎた。神と天使が戦って悪魔を浄化することしかできない今、人間にも立ち向かえる方法を知ることができるのではないかと思考する。
彼なら、この世を変えてくれる存在になるのではないか。
リベルは怒りから期待の感情へと変化させて彼を見据えた。そういえば彼は名乗っていない。
「アポリオンだ」
「アポリオン?」
「俺の名だ。「滅ぼす者」という意味を持つ。この世界を滅ぼす者。だが俺は、もうそのつもりはない」
光のない水と金の瞳は瑠璃色の瞳を見つめた。リベルは視線を受け止める。
「滅ぼすつもりがないということは、君は人の味方になってくれるということか?」
「廃棄された俺は役割を失っている。新たにそれを示してくれるなら、人の味方になるのもいいだろう」
「……悪魔に反逆する悪魔、か。なるほど、面白そうだ」
アポリオンはようやく紅茶に口をつけた。飲んだことのない初めての液体だったが、好みの味がして少し微笑んだ。
「アポリオン。旅をすると言っていたが、悪魔の君を受け入れてくれる神の民は少ないだろう。私のこの狭い家でよければ提供するよ」
「それは助かる。ここを中心に活動することもできそうだ」
「迂闊に外へ出ると、君を浄化しようとする神や天使が襲うだろう。気をつけるんだ」
「分かっている。俺は悪魔だからな」
からになったティーカップをリベルがキッチンに運んでいく。アポリオンはリビングに散らばる画材道具を見つめて疑問に思い、蓄積された情報から必要なものを抜き取った。
「画材道具……絵を描くのに必要なもの……」
「そうだ。私は元々画家を目指していてね」
ティーカップを洗って戻ってきたリベルがアポリオンをとある部屋に案内した。そこには油絵具のにおいが漂う狭いアトリエ。人物が描かれたキャンバスが部屋の隅に片付けられていた。
「君がよければ描かせてほしい。組織の仕事があるから筆を持つ時間も少なくなったけども、夢を諦められなくてね」
「描く?」
「あぁ、絵を描くんだ。私は専ら人物を中心に描いているよ」
アポリオンが興味深そうにアトリエを眺めている。立てかけられたキャンバスを一枚手に持った。一人の女性が精緻に描かれている。
「その絵のモデルは妻だ。今は神の庭と呼ばれる島に避難している」
「共に暮らすことはできないのか」
「言っただろう、私は悪魔に反逆する組織に属していると。危険な目に遭わせないために彼女だけ向こうに避難させた。神の庭なら創造源神様が守ってくれる。そこなら安全だ」
神の庭のことは、蓄積された情報を参照して詳細を知った。吸収した存在にそこへ行ったことのある人物がいたようだ。
神と天使の膝元、その島にいる人間は戦乱の世にいても安寧を得られる。情報を浸透させて、アポリオンはキャンバスを置いた。
「妻の絵を描いて以来筆を置いていた。描かないと決めていたのに、君を見ていたらまた描きたくなってしまった。描くのは、君で最後にしたい」
リベルがどうして自分を描きたいと思ったのかは分からない。絵を描くための情報は少なかったから、アポリオンはどうすればいいのか分からなかった。
「付き合おう。何をすればいい?」
「今すぐはできないな。準備も必要なんだ。今度描けるようにしておくよ」
苦笑いしてリベルは返す。アポリオンは首をかしげた。
*******
アポリオンがリベルの家を拠点に動き出して半月が経とうとしていた。
感情薄く抑揚のないアポリオンは、リベルを見ながら徐々に感情を覚えるようになっていった。存在を確立してから百年は生きているアポリオンだが、人の姿を得てまだ一ヶ月も経っていない。感情に関しては赤子よりも持ち合わせていなかった。
遠くを飛び回っていたアポリオンは、悪魔に襲撃されても返り討ちにして吸収していた。蓄積した情報を元にリベルへ情報提供するためだ。アポリオンのくれる情報を参考に、リベルは紙にまとめて組織に提出した。質のいい情報に組織はすぐ食いついた。
「君が教えてくれる情報のおかげで対抗策が生まれた。感謝するよ」
「俺はただ世界を見て回っているだけだよ。そのついでだ」
「ついで、かぁ。君には勝てそうにないな」
アポリオンは何日も帰らない日があった。それでもリベルは信じて待った。アポリオンはリベルの心配など知らないが、帰ってくるとリベルが安心したように微笑むのを見て、信頼されているのだと考えていた。
「何故だ、おまえの笑った顔を見ていると胸の辺りがあたたかくなる」
「嬉しいのか、それとも楽しいのか。そういう喜びにまつわる感情かもしれないな」
「嬉しい、楽しい……」
「少しずつ覚えていけばいい。私だけではなく、様々な人と交流できればもっと感情が芽生えやすいと思うが、それは難しいな」
「ふむ……」
慣れない感情の芽生えに戸惑いながら、アポリオンはリベルとの生活を続けていく。そしてアトリエでの執筆も。
アポリオンが家にいる間に、リベルは彼をアトリエに呼んでキャンバスに描いていた。高身長のアポリオン。狭いアトリエでは大きすぎる。椅子に座ると、リベルがこちらとキャンバスを見ながら下絵を描いていった。
「やはり君は、悪魔にしては綺麗だな。初対面のとき、美しいと感じていた」
「美醜はよく分からない。人の姿になるとき、蓄積した情報を元に効率を考えて肉体を作った。黒のローブは同胞が用意してくれたものだし、人になったときは服というものも知らなかったよ」
「それは大変だ。服は着ないと捕まるぞ」
「捕まる? あぁ、憲兵というやつか」
「そう。服の下は愛する者以外に見せるものじゃない」
「そういうものなのか」
「そういうものさ」
会話をしながらリベルは線を引いていく。食事をとってその夜も描いた。次の日の昼には下絵が完成した。リベルは油絵具を準備して、椅子に座るアポリオンと会話する。
「感情というものは大きく三つある。喜び、怒り、悲しみ。君は私を見て嬉しいという喜びの感情を覚えたみたいだね」
「そうらしい」
「そして、自分の子を奪われたことによって涙を流すほどの悲しみを覚えた」
「体が二つに引き裂かれるような痛みだった」
「そうだね。それが悲しみだ。怒りは、不平不満や理不尽など、相手を許せないと思ったときに沸き上がってくる。まるで熱くなった鉄のように真っ赤になって、相手を攻撃してしまうこともある」
「怒り、とは恐ろしい感情なのだな」
「一歩間違えば、相手を殺してしまうかもしれない感情だ。その怒りがなければ私は悪魔に反逆しようと思わなかった。妻と離れ離れになる悲しみと、どうしてこんな世界にしてくれたんだと怒りを覚えた」
「今も?」
「そうだね。今も悪魔に腹立っている」
キャンバスを見つめているリベルの顔は見えない。声色は冷静だ。アポリオンは視線をそらした。
「俺が悪魔を生まなければ、創造源神がリリスを倒して終わっていたかもしれない」
「君を責めるつもりはない。君もリリスの被害者だろう。自分の生んだ子を奪われ、存在を廃棄されてしまったんだ」
「それは事実だが、俺は世界を混沌に陥れた一端だ。責められても仕方ない」
「初めて話を聞いたときに、私が怒っていたのは分かるかい?」
「あぁ、よく覚えている。殴られるかと思った」
「殴ってもよかったけど、……君に熾天使レイグ様の炎があると知って、考えを変えたよ」
リベルはアポリオンを見る。彼の視線がこちらを向いた。
「君なら、この悪魔の世を変えてくれるかもしれないって、ね」
「……自信はないが、おまえの力になれるなら嬉しい」
「私も嬉しいよ」
二人は会話をしながらアトリエで静かに過ごす。リベルはアポリオンを描きながら感情を教えていく。アポリオンもそれに応えようと会話を通して感情を学んでいった。
喜び、怒り、悲しみ。憎しみと愛することを知り、深い優しさを備えた。アポリオンは羽毛の竜の翼で空を飛びながら世界を見る。感情のなかったときよりも、感情を覚えた今の方が世界が美しく感じた。灰色だった景色に色が付いたように煌めいてみえた。
「世界は残酷で、美しい……」
悪魔の統べる世は、世界にとって正しくないのだろう。なればこそ、自分は世界から消えるべきだと。だがその前に、リベルが与えてくれた役割をきちんと全うしたい。
新たに悪魔を吸収して情報を得た。アポリオンはリベルの家に向かって空を飛んだ。
*******
さらに半月が経過し、二人が出会ってから一ヶ月が経った。
アポリオンは一ヶ月前と比べてはっきりと感情を表すようになり、表情も変わるようになった。光なき水と金の瞳に灯火が宿る。体の奥で燃える神炎の熱が心地良い。本来なら闇と光で反発しあうはずのそれは絶妙なバランスで保たれていた。
二人はアトリエにいた。完成するまでリベルが見せてくれないので、アポリオンは絵が完成するのを楽しみにしていた。いつもの椅子に座って今か今かと待っている。
「リベル、まだか?」
「もう少しだ」
リベルが最後にサインを記す。大きく息を吐いて力を抜いた。筆を置いて額の汗を袖口で拭った。
「できたよ」
リベルが手招きする。アポリオンはリベルの隣に移動した。目に飛び込んできた絵を見て、アポリオンが息を飲む。
椅子に座った人物画。白髪をいくつも束ね、異なる瞳の色をした色の白い人物。中性的な美しい顔はまさしくアポリオンだ。
「おまえは、本当に絵が上手いな」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいよ。……最後に、悪魔を描くことができて楽しかったよ」
「だが、何故ローブが白なんだ?」
アポリオンの疑問だった。自分の着ているローブは黒。しかし描かれている自分は白いローブを着ていた。リベルがふっと優しい笑みを浮かべる。
「黒いローブは悪魔崇拝者の証だ。この絵がもし私達以外の誰かに見られたら、悪しき者を描いたとして焼かれることになる。モデルの君も描いた私も、きっと捕まることになるだろう。そうならないように白くしたんだ」
「これでは俺が天使みたいだよ。いいのかな、悪魔を描きたかったのだろう?」
「私が描いたのは確かに悪魔だった。けれど、もし後世にこの絵が残ることになるのなら。焼かれないように細工しないといけない。それにこの一ヶ月、君と過ごしていて、君が悪魔に思えなかった日もあったよ」
油絵具で汚れた手を合わせて擦りながらリベルはアポリオンを見上げる。異なる瞳の色と視線が絡み合った。自然と笑みが浮かんだ。
「悪魔の母、だったか。君はそう呼ばれていたと言っていた。私が君に感じたものを絵に表したんだ。そうだな、題名をつけるなら……」
リベルは細い筆を持ち、サインの近くに題名を書いた。「聖母A」と。
「君は、悪魔からすれば人間でいう聖母に当たるのだろう。名前は頭文字から取って、こうしてみたよ」
「絵を見た悪魔にはすぐにばれてしまいそうだ」
「人間には分からない。私にしか、ね」
二人で静かに笑い合う。
リベルが席を立つ。アポリオンの描かれたキャンバスをしばし眺めてからリビングに移動した。
手についた油絵具は勲章みたいだった。だがこれではアポリオンに紅茶を淹れられない。洗ってこようと洗面台に行き、石鹸とぬるま湯でしっかりと洗った。
(変わったのは、私もか)
色が混じり合い黒ずんだ色の水が流れていく。白い絵の具が混ざろうとも濁った色をしていた。
(彼を利用するだけし利用して、組織に突き出そうとしていたが。今はもうそのような考えは改めた)
悪魔の母と呼ばれた彼を描いているうちに考えが変わっていった。絵に描いたアポリオンの柔らかな微笑みを思い出す。本人も、微笑んでいた。
「……」
くすんだ鏡を見る。
リベルすら馴染んでしまった自分。子どもの頃から、悪魔に真名を晒せば魂を抜かれると教え込まれて、とっさに名乗った名前。それすらも、彼に呼ばれれば耳に染み込んでいく。自分はリベルだと錯覚する。
「……もう、引き返せないか」
リビングから音がする。アポリオンが戻ってきたのだろう。
紅茶を淹れよう。リベルは汚れた袖口を肘までまくってリビングへ移動した。
紅茶を淹れて、彼と会話を楽しむ。
微笑む悪魔の母は優しさを湛えている。
嗚呼、願わくば。
安寧のまま、時よ過ぎておくれ。
*******
絵が完成して一週間後。
アポリオンとリベルは変わらない日常を送っていた。
戦争の渦中にあっても、グリームの街は天使の部隊に護られて安全を確保していた。街では子ども達が笑顔を振りまいている。まるで戦禍から切り離されたように神の民は平穏を受け止めていた。
リベルは変わらず組織に情報を送っていた。帰り道、教会で祈りを捧げ、自分のしていることの是非を神に問う。悪魔と共に在ることは罪であっても、彼だけは信じたいと。
教会を出て聖水の入った小瓶を受け取る。革のポーチに入れて帰路についた。街を出て家までもう少しのところで、リベルは強い殺気を感じて振り返った。
一瞬だった。
声を上げる間もなく。
肩から斜めに、切れ味の鋭いもので斬られて。
「……――ぁ」
見開いた目が捉えたのは。
黒い翼の生えた、悪魔だった。
――リベル!
聞き慣れた声がした。
悪魔がアポリオンを捕捉した刹那。アポリオンが魔導弾を放ち悪魔を消滅させた。
「リベル! リベルッ!!」
アポリオンが背後に倒れる彼を受け止める。ゆっくりと抱えて地面に横にした。抱き締めるように体を支える。
「はは、聖水を出す暇もなかったよ。……どうやら私は、ここまでのようだな」
「だめだ、死ぬな。俺はまだおまえに何も返せていないんだぞ……!」
アポリオンは治癒術が使えない。だが治癒術の使える天使を呼ぶこともできない。傷口から生命の奔流が溢れていく。
「アポリオン、頼みがある……」
「頼み? なんだ、言ってくれ」
「君を描いた絵、……あれを、神の庭にいる、妻に」
「妻に持っていくのか?」
「そう。私が、生きた……最後の、証」
ごぷり。リベルが吐血してアポリオンのローブを赤に染める。命が失われていく。魔力の流出も始まっていた。
「今の君なら、神の庭にも行ける。悪魔に、……反逆する、悪魔。私の名前を……もらってほしい」
「おまえの、名を」
「リベルとは、「反逆」を意味する。君に、贈ろう。感情を知った君なら、他の悪魔より高く翔べるはず」
リベルの手がアポリオンに伸びる。頭を撫でて、指の背で頬を撫でた。
「最後の願いだ。……私を、吸収してくれ」
「……それは、できない」
「……?」
「吸収してしまえば、俺はおまえの情報を持った悪魔を作るかもしれない。それは嫌なんだ。おまえだけは、唯一無二の存在だと思っている。蓄積された情報のひとつにしたくないんだ……!」
涙声で訴えるアポリオン。抱く腕に力が強まる。それでもリベルは笑っていた。その笑みの意味が分からなくてアポリオンは戸惑った。
「手紙、あるんだ」
「手紙?」
「私の部屋の机の上だ。妻に宛てた手紙と、君に宛てた手紙が。落ち着いたら読んでくれ。……なぁ、アポリオン」
「リベル……っ」
ぽたり。アポリオンの瞳から涙がこぼれ落ちる。リベルの瞳から光が消えようとしていた。
「楽しかったよ……出会った悪魔が君で、よかった」
「リベル、……あぁ、俺も楽しかったよ」
「アポリオン。いいや、戦友。君なら、……」
――きっと、人間の味方をしてくれるだろう?
頬に触れた手が落ちる。リベルの瞳が閉じられる。
命の灯火が静かに消えていった。
「リベル……ッ!」
アポリオンは、せき止めていた涙が一気にこぼれて。
感情を爆発させて、泣き叫んで。
しばらくそこから動けなかった。
どれくらい泣いていただろう。
目元は赤くなって少し痛いくらいだ。
「……」
見上げると天使が立っていた。
見覚えのある天使だった。
「百年ぶりだな、悪魔の母よ。いや、アポリオン」
「おまえは……あの時、俺を殺した」
「そうだ。だが今は、それより」
天使――熾天使レイグ・セラフィムはリベルを指差す。
「お前はその人間から学び、そして託されたのだろう? ならば成すべきことはなんだ」
指差していた手が開き、アポリオンに差し出される。
「創造源神様がお前を神の庭に迎えたいと言った。俺はその使いだ」
「創造源神……神が、俺を?」
アポリオンは戸惑いと混乱で言葉が出なかった。だが成すべきことは決まっていた。腕の中で安らかな笑みを浮かべる彼を見る。彼の願いを、叶えなければ。
彼の描いた最後の絵を妻に持って。
手紙を渡して。
彼の意志を継ぐのだ。
「……その目、決意に満ちた目だ。悪魔に思えぬ光の強さ。体内に俺の炎を宿したとは思えないほどの」
「熾天使。俺からも頼みがある。……リベルを、浄化してやってくれ」
「承知した。お前は家に入って支度をしてこい」
「そうしよう」
リベルの亡骸からようやく離れ、熾天使に託す。アポリオンは家に入ってアトリエに向かった。油絵具と彼のにおいがする。彼の最後の絵を回収し、遺言にはなかったもうひとつを持った。
彼の部屋に入り、机の上を探す。言っていたとおり二通の手紙を発見した。
「……読むのは向こうに行ってからにしよう」
今読めばまた泣き叫んでしまうかもしれない。熾天使が外で待っている。
二つのキャンバスと二つの手紙を持って外へ出る。レイグは既にリベルの浄化を済ませていた。血に濡れたはずの地面も綺麗になっていた。
「支度は終わったか」
「……あぁ。大丈夫だよ」
「そのローブでは向こうに行けない。こうしよう」
レイグが指を鳴らすと、アポリオンの黒いローブが上質な生地の白に変わる。襟付きの上着をまとい、長い後ろ垂れが伸びる高貴な出で立ちに姿を変えた。
「これなら外見だけでも人と見紛う。先に言っておくが、神の庭と呼ばれる場所には俺を始めとする天使が大勢拠点にしている。もしお前が暴れるようであれば、たとえ創造源神様の迎えであっても容赦はないと思え」
「あぁ、そのつもりだよ」
「ならば行くぞ」
レイグは転移の紋を広げ、神の庭の座標へと転移を起動した。
悪魔に反逆する悪魔として。
アポリオンはその一歩を踏み出すのであった。
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