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第13話 祖父の笑顔

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 夢とうつつの間を、軍平はさまよっていた。

 いま、彼がいる世界は、かつての記憶の中のようである。
 見晴らしの良い、小さな山に彼はいる。
 そこでいきなり袖を掴まれた。
「お願いです、お助け下さい」
 彼は薬草探しから帰るところだった。突然道に出てきた子供は、大声をあげて彼を認めると、泣きながら引っ張っていこうとする。
 まだ、彼は吉之助と呼ばれていて、ほんの少年だった。
 相手の顔は知っていた。津留付きの下女のくめである。子供のくせにすごい力で彼を引きずる。
「津留どのになにかあったか」一緒に走りながら聞いた。
「お嬢様は私と墓参りへ」
「その墓でどうかしたか」
「墓には花を」
「それではわからぬ」
 くめの話を要約すると、津留が里山の麓にあるくめの祖母の墓参りに行ってくれたが、そこで野犬の群れに囲まれた。叫んだが誰も助けにこず、津留はくめだけを逃した。くめは駆け続けて人をさがし、彼に行き当たったのだ。

 場所はすぐに見当がついた。山裾を駆け上がって小高い場所に立つと、犬の群れが目に入った。津留も無事なままでいた。くめを置いて坂を駆け下りると、津留は黙って軍平の方を見た。
「津留どの」 
 一声叫んで群れに飛び込む。そして津留を背にして犬に立ち向かった。
 最初、小刀を振り回して追い払おうとしたが、犬どもは素早く身を翻しては彼を取り巻き、さっき以上に吠え立てるばかりだった。歯をむき出し、飼い犬ではありえない凶暴な顔で吠える。
 
 軍平は、震えながら右手に小刀を持ち、左手には羽織を巻き付け、前に突き出した。
 そして、そのまま短く一歩前に踏み込み、特に大柄な犬を誘った。頭目と見たからだ。
 牙を剥いて犬が飛びかかってきた。
 その瞬間、彼は身を低く下げ犬の身体の下に潜り込む。刃はむき出しの腹を割き、犬は悲鳴をあげつつ斜面を滑って動かなくなった。
「吉之助さま」
 津留がはじめて声をあげた。
 群れはいったんひるんだが、またすぐ吠え立てた。今度は距離を測っている。

 軍平が振り向くと津留が大きな眼をしばたたかせていた。彼は一度大きく息を吸い、作り笑いを浮かべると、
「津留どの、しばし眼を閉じられよ」と言った。津留は彼の顔を正面から見、うなずくと、黙って眼を閉じた。
 脚が震えるのに堪えて犬どもを振り返り、また小刀を構えた。
 どうしても津留を護らねばならないが、敵が多すぎて剣術では間に合わない。頭の中で忙しく対策と祈る言葉をさがそうとして、自然と思いついた。
(あの時の呪文だ)理屈ではなく、確信だった。
 あれしかない。祖父の部屋で聞いた不思議の言葉だ。
 
 この前の、変な声の主よ。友になってやるから、手を貸してくれ。そして、犬を驚かせて、追い払ってくれ。
 そう念じつつ、刀を持った手を突き出しつつ、言葉をとなえた。いや、唱えようとせずとも、言葉が勝手に口からこぼれ出た。先日聞いたのとは心持ち違う気がしたが、まあ、いい。
「からさすの、ひがしのつちのしたにもゆるひよ、ひばなとなりて……」
 はじめは何も起こらず一、二匹が首を傾けただけだった。犬も不思議そうな顔をするんだな、と思ううち、目の隅でなにかが小さく光った。
 ------- あっ、これは鬼火か。
 そう思った後の記憶は軍平にはない。
 
 気がつくと祖父がいた。
 場所は里山の中腹で変わらず、犬の群れだけがいなくなっていた。
 一匹の死骸もなかった。
 草むらに、津留とくめが腰掛けるような姿で目を閉じていた。胸が上下しているので、ただ眠っているらしい。
 ほっとした。
 彼のそばで直立している祖父からは、なんとも言い難い迫力が押し寄せてきて、状況を尋ねたくても怖くて口がきけなかった。
「なにも言わずとも良い。娘らは大事ない。ようやった」
 その後、祖父と家に戻ったはずだが、詳しいことは覚えていない。津留にもまた会ったと思うのだが、それもよく覚えていない。
 あの時の出来事だけ、光があたったように残っている。
 
 いま、軍平は波にもまれているような感覚を覚えていた。ゆさっと空中に跳ねあげられ、また落ちる。
 ああ、おれはどこに行くのだろう。
 あらゆる色が点滅し、また消えた。真っ黒になった。
 すると、彼の脳裏に、遺言を伝えた日の祖父の姿がまた現れた。まぼろしのなかの祖父は、見たことのない優しい笑顔を浮かべていた。

「案ずるな。まもなくわしも彼岸へ渡り、そこでお前を護る一列に加わる。誰も味方がいないように思うかも知れぬが、決してお前はひとりではない。また、お前を信じて待つ者もいる。悲しむな、恐れるな。胸をはって生きよ。そしてもし、進退窮まれば、臆せずまことの術を用いよ。必ずやお前を救うであろう。いま一度言う。眼に見えぬだけで、お前は決してひとりではない」
「はい」
「それとな」
「はい」
「そろそろ目を覚ませ」
 

 慌てて身を起した。外は真っ暗だった。夜になっていた。
 近くに水の流れる音がしている。
「いてっ」声は出た。彼は全身引っかき傷だらけで、水辺に倒れていた。頭にふれると固まった血が手についた。
 胸のあたりにも血のこびりついたあとはあるが、傷は浅い。まるで、削れたあとに肉が盛り上がったようになっている。手も足も折れてはいない。
「ててて」声をあげながら身を起こした。
 さいわい、伝書と厨子をおさめた袋は体にしばりつけてあるままだった。衝撃を受けただろうと取り出してみれば、厨子は無傷だった。津留の根付もある。
「やはり、怪しい力を持っているのか、お前」軍平は厨子に話しかけたが、反応はなかった。あたりを見回しても場所はわからない。目が慣れてくると、どうも樹々に囲まれているらしいのがわかった程度だった。
 ここはどこで、いまは何刻だろう。時と所がさっぱりわからない。軍平は四肢がちゃんと動くのをたしかめながら、ゆっくりと身を起こした。

 翌日の早朝、西音寺という大きな寺の近くに現れた軍平に気づいて、張り込んでいた戊亥衆は驚愕した。彼は丸二日、姿を消していたからだ。
 血の跡があり、ところどころ破れた着衣を軍平は身につけていた。
 ただの親切な百姓のふりをして近づいた戊亥衆の一員に対し、
「ちょうどよかった。どこかで湯浴みはできませぬか」と頼んだ。
 そして自分から、「西音寺の近くまで参ります。待ち人がその近くにくるはずですから」と言った。
 そういう軍平は、破れた着物に傷だらけの顔をしているのに、まるで遊山でも行くようにのんびりとした顔に見える。ときどき額に手をあてるのは、発熱しているせいだと主張する。「寒くはないのですが、ちょっと。あなたがたは戊亥とお見受けします。よければどこぞで葛根湯を」
 正体を知られるのを極端に嫌う戊亥衆は、大慌てで軍平を連れて去った。

 
 日が暮れて、夜の闇があたりを覆った。
 道の途中に、幽霊屋敷のような半ば朽ちかけた廃屋がある。その中では、三人の男がじっと時を待っていた。
 うち、ふたりは月明かりだけを頼りに、間道を眺め続けている。そろって襷をかけ、篭手と脛当てをいかめしく付けていた。
 廃屋の周囲は林が取り囲み、少し歩かないとほかに人家はない。
 西音寺はここから半里ばかり離れたところにあり、笹子は必ずこの近くを通るという触れ込みだった。
 うっそうとした樹々に囲まれた廃屋は、昼間でも光が届きにくい。夜になると幽霊でも出そうな風情だが、こんなところに潜んだらかえって目立つんじゃないかと軍平は思っている。よほど理由がないと、いまの時間にここを出入りする人間はおらず、ましてやこんないかめしい格好である。
 日暮れにはじまった待ち伏せであったが、当初は無言だったのが夜半を過ぎると徐々に口数が増えた。
 いま、道を睨み続けていた二人、三浦と小磯がぼそぼそ言い合っているのは、明らかに口論だった。
 それはこの間道に笹子はやってくるという情報は信じられるのかという内容で、三浦は間違いないというのが疑わしいと言い、小磯は信じられずともここを通らねば道理に合わぬ、との意見を開帳し、堂々巡りを続けている。

 三浦は六尺ほどの手槍を大事そうに抱え込んでいた。小磯の方は肘を痛めてから自分で工夫したという棒状の武器を手元に置くほか、物を詰め込み膨らんだ頭陀袋を横に置いている。重そうだし、鎖ずきんとか鎖鎌とかだろう。
 軍平は鎖小手や鉢巻はしているが、武装はいつもの大小二刀だけである。その代わり、首から下げた袋には厨子と根付が入っている。攻撃技はともかく、危険が迫ったら教えてくれるのを期待してのことだ。
 前もって三人に知らされていたのは、すぐ先にある西音寺の住職は笹子らのひそかな支援者であり、こっそり国に戻った彼は今夜中にそこに入る。その後は仲間らとなんらかの準備をはじめるとの見込みである、ただそれだけだった。

 不審な動きがあれば連絡がくるはずなのだが、音沙汰はなかった。
 際限のない議論に、いったんは口を閉じた三浦は、今度は放心したように夜空を眺めている軍平に、意見を聞いた。
「貴公はどう思う」
「ええ、どこかおかしいような気がします」
「そうであろう。笹子は他に逃げたと考える方が自然だ。小磯はどうも思い込みが強すぎる」
「いえ、それよりも、こちらが罠にかけられた気がします」
「なに?」
「逆に、ここに集められて監視されているのではないでしょうか。討手の人数とか罠の有無を調べているとか。ただの勘にすぎませぬが」
 すると、とたんに顔をこわばらせた三浦は黙って小磯のところに行き、ひそひそとしゃべりはじめた。
 実のところ軍平は、転落後に目覚めて以降、ずっと熱に浮かされている気がしていた。実際にほおが熱く、風邪をひいたみたいに感じている。傷を負ったせいで発熱しているのだろうか。
 おかげで、以前のぴんと張った神経の緊張がだらんと緩くなってしまった。
(まえなら、もっと焦ってたと思うのに、焦る気にならんな……)
 
 小川沿いで目覚めたあと、結局は修験者は死んで助言をもらえずじまいだったのを思い出した。しかし、他を探してでも、という気力は起こらない。少なくとも、逸美岳に行く前に全身をとらえていた恐怖、悲嘆や怒りなどの激しい感情は、ずいぶん収まった気がした。そのかわり、全身がぼーっとしている。前とは自分が変わった気がしないでもないが、よくわからない。

「襲ってくるのならいいのだ。しかしもし、何もなくて一晩待ちぼうけだったら、そっちが沽券にかかわる」
 ふたたび軍平に近づいてきた三浦が、言った。
「そうですね。でも場所を間違えたのなら、それは我らのせいではありませんから。暗殺などせずにすめば、それにこしたことありません」
 正直な物言いに、三浦は怒るよりも笑い出した。小磯は向こうでフンと鼻をならした。
「わしははじめ、おぬしが逃げたと疑っておった」三浦は言った。
「その口ぶりなら安心だ。落ち着いている。しかし、今宵はそんな悠長なことを言っとられん。笹子を倒し、無事手柄を立てぬとな」三浦は、懐をさわった。彼が笹子に上意を伝える手はずであり、その書状が入っている。よく見ると三浦の目は赤い。遅参を恐れてろくに眠っていないのかもしれない。
「わしも、困る」向こうで小磯半蔵がいった。彼は得物を軽く振って見せた。棒の先に分銅がのびていて、片手で振っても十分な威力が出る。
「日夜神仏に祈って、ようやく宿願を果たすところまできた。また手の届かぬところに行かぬうちに借りを返さねばならぬ。討って出るなら、それもいい」
 家の落ちぶれ具合を数値にしたら、ふたりより軍平がひどいはずなのに、当事者意識は年齢の高い二人の方がずっと強いようだ。

 一方の軍平は、だんだん熱が上がって耳鳴りまでしてきていた。こりゃひどい。斬り合いなんてできるかな。
 頭もぼうっとして耳も熱い軍平だったが、変な気配は感じた。
「なにか、おります」
 手元にあった換えの草履を、軍平はごそごそ取り出すと、窓の外にぽんとほり投げた。
 ぽこん、と言う音がしたあと、顔を布で隠した男が立ち上がった。
「なにやつっ」小磯がうれしそうに得物を持って立ち上がると、
「敵ではござらん、報告にまいっただけ」と男は弁解した。
 覆面の男は、名乗らなかったが「御用の筋のもの」という言い方をした。彼は
 気持ちは察するが、敵はまだこの付近にはいないのを伝えにきたと言い、
「あせらずゆったりとお待ち下され。さすれば四肢も存分に動きましょう」
 偉そうにいい放つとあとずさりをはじめた。「では、ご武運を。我らは近くで見守り申す」
 軍平は声をかけた。「そんなに信用ならないなら、戊亥衆のみなさんが討てばよろしいでしょう。尾行や忍び込みもお得意のようだし、こっそり毒でも盛ったらいかがですか」
「大事を前に弱気が出たか。おふた方、ご油断めさるるな」さすがに覆面男が感情的になった。
「いえ、口ぶりが癪にさわっただけです。戊亥衆ならもっとしっかり働いていただかないと。知らせも遅いし、おかしくありませんか。たしかあなたは藤井様。お若いころ、拙者の家に報告にきておられましたね」
「そのような者、しらぬ」覆面の男は慌てて、そそくさと去ってしまった。

 残りの二人はしばらく唖然としていたが、ようやく小磯が言った。
「おぬし、聞いていたのと随分違うな。戌亥衆にたてつくとは、頼もしいぞ」
「それより、なんだかおかしくありませんか」軍平がまた言った。
「なんだ」 
「さっきの戊亥衆の態度です。いうべきことを言わずに逃げた気がします」
「それは、どういうことだ」三浦も食いついてきた。熱はますますひどい。横になりたい、と思いながら軍平は言った。
「だって、火矢が間も無く飛んできそうです」
「なんだと」
 半信半疑で外を見た二人の目が、闇の中にぽつんとした光をとらえた。
「いかん、敵襲だ」
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