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第11話 妖術秘伝書

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 流雲寺のすぐ近くまできて、軍平の心にまた迷いが生じた。
 かなり長い間、ここに顔を出してはいない。突然に祖父の遺品を引き取りに行ったら不審を抱かれるかも知れない。
 正直に苦境を説明してもいいのだろうが、自分の口から上意討ちを言いふらすのも変な話だ。
 勢い込んで寺まできたものの、切り出し方を考えながら古びた寺の石段の端を選んで登っていると、人影が彼を見下ろしているのに気づいた。
「まさか、ここにまで間者か」と驚いたが、それは一瞬だった。
 人影には頭髪がなかった。

 六十にも七十にも見える宗仙和尚は軍平を認めると、やあやあと軽い感じに手を挙げた。
「なぜ、拙者の参るのをご存知で」それほど通力をもった和尚だったかなと思いつつ聞くと、
「いや、なに。これも御仏のお導き。正直にいえば仏となられた兵部どののお導き。あいかわらずおっかないじいさんよ。こちらの都合は聞いてくれぬ。こうもうるさいと、すておくわけにはいかぬて」
「えー、御住職。もしや祖父は、夢枕に立ってうるさいことを申したのですか」
 宗仙は苦笑すると、「なに、もとはといえば遠い昔に遡る。平たくいえば、拙僧は若年のみぎり、まさしく仏道の危機に面したことがあった。詳しく聞きたいか」
「いえ、別に」
「若いのに遠慮するな」
 
 勝手に説明をはじめた宗仙によると、若くて率直だった彼は先輩筋にあたる僧の著作に「忌憚のない意見を」と求められ、正直に批判したところ恨みを買った。そこで人を介して先輩のさらに先輩にあたるという僧正にとりなしを頼んだところ、相手は先輩とその昔、「極めて親密な」関係にあったらしく、その過去を知らなかった若き宗仙が不用意に漏らした一言をきっかけに話はこじれにこじれ、ついには生命の危機にさらされる始末となった。
「それをお主のじいさんに助けられた。じいさんもまだ若かったが、ほれ、実に腹が据わっておったからな。その頃の夢を実に久しぶりにみた。それも三晩続けてだ。ああ、借りを返せといいたいのだろうなと思って、待っておった。あの人のただひとつの気がかりが、お主だったからな、願いはひとつであろ」
 
 調子の狂った軍平を、住職は部屋に通した。
 そして、「ほい、これ」といった態度で油紙につつんだ包みと風呂敷包みを持ってきた。風呂敷は軍平の預けた未在願流の伝書とか祖父の遺品などだが、もうひとつは、
 「あの人の死の直前に届いた。邪魔だから墓に入れておいてもよかったのだが」と住職は言った。「雨水など染み込まぬよう、ちゃんとしまっておけと夢枕に立った。これが出てきた最初、向こう岸に渡られてまもなくのことだ。仕方ない。ちゃんと言いつけ通り御本尊の裏に隠しておいたぞ」
「その後も、祖父はよくお邪魔しているのでしょうか」我ながら変な質問だと思いながら、軍平は聞いた。
「まあ、これまでは忘れた頃にであったな。今度出てきたら、そんなに気になるなら直に孫の前へ化けて出ろと言ってやるわ」
 住職が油紙を開くと、美しい緑色の壷が出てきた。軍平に小さく耳鳴りがはじまった。ふたを開け、さらに内側にあった油紙の包みを取り出す。
「拙僧は、いない方がよかろう」僧は部屋を出て行った。
 一礼して中身を確かめた。
 耳鳴りは続いている。まるで、久しぶりに外気に触れた中身が興奮しているようだった。あの根付とも共鳴しているのかもしれない。
 震える手で何重もの油紙をはぐ。
 中に厨子とおぼしき多角形の金属の容器と、小箱があった。小箱は凝った螺鈿細工が施してあり、元の持ち主の在りし日の権勢を思い出させた。
 震える指で蓋を開く。金属製の首飾りのようなもののほか、袱紗が入っていた。黒い表紙で綴じた分厚い伝書が包んであった。

 思い切って伝書を開く。耳鳴りはいつのまにかやんでいた
 伝書には仮名と漢字、読めない文字と絵図が混在していた。記憶にあるのよりよりもびっしりと書かれて字も細かい。ある頁など、大きく描かれた五芒星に細々よくわからない文字が書き込まれていて、軍平は祖父がどこでこんな知識を得たのかをまず怪しんだ。
 丁重に読み進めると、横書きの不思議な文字のそばに説明を加えた箇所がいくつもあって、伝書というよりは調べた成果を記録したように思える。
 この伝書なら子供のころ、祖父が熱心に書き込んでいるのを見たことはあった。軍平にとっては穏やかな午後の記憶であったが、あらためて目にすると、記した祖父の熱意を思って読み飽きなかった。しかし、多忙だった祖父が、これだけの量をいつ、どこで書いたのだろう。
 いったん伝書を横において、今度は厨子を手に取った。金属を薄く伸ばし作ったとおぼしき小さな筒だ。そっと開くと中には、小さな杯のようなものが組み込まれ納められている。黒く冷たそうだが、材質はわからない。
 —— なんだろう。中は何もないとおなじだな…。
 じっと見ていると、古い井戸を覗き込んでいるようで、だんだん引き込まれる気がした。杯からも不思議な気配が寄せてきて、軍平はふと怖れを感じて、閉じた。
 
 厨子に関わる呪文が伝書のどこに記載されているかは、かろうじて教えてもらっていた。ただし、呪文というより、わけのわからない文章である。
 とりあえず姿勢を正し、音読してみる。
「むかし、むかし、むかしのこと。とおくとおく、とおいえらさるに人がいた。その人よ、われに理と力をあたえたまえ」
 口に出すと、ひどく変な感じである。最初は緊張していたのに、特に何も起こらない。自分がこっけいに思えてくる。
 いや、念じる気持ちが足らないのか、やはり夢で聞いたのではないが、「一波乱」がいるのだろうか。
 軍平は伝書と厨子を胸にあて、祖父の死ぬ前を思い出そうとしていた。

 風邪ひとつひいたことのなかった祖父は、長年仕えた藩主の葬儀を済ませてのち、急に衰えを見せた。
 半月ばかり寝たり起きたりの後、軍平だけを枕頭に呼び、誰にも触れさせなかった長持を開けるよう命じた。中には、早くに亡くなった軍平の叔母の遺品などに混じって、布に包んだ書物があった。
 
 その日の祖父は彼にしてはひどくざっくばらんで、声だけが別の場所から聞こえてくるような不思議なひびきがあった。
「我が一族の昔話は聞いておろう。先祖はかの徐福に従い海を越えてうんぬんと。まあ、愉快な法螺だ。だがな、何代かおきに変わった者が現れたのは嘘ではない。鳥と話したとか鬼を操ったとか、雨を法力で呼び衆集を救った者もいた。わしは若年のおり、それに興を覚え先祖の技を調べ、そこから発し時に他国までたずねて歩き、心願の術を得た」
 留学については聞いていたが、妖術を学びに行ったとは知らなかった。
「そのうち、最も大切なものを書き留めて伝書とした。これをそのままお前に譲る。あとは術の道具だ。ここに置いたままだと、間違いの起こりかねないものだ。なにを言っているか、お前ならわかるであろう」
 
 父が祖父の持ち物に興味があるのは知っていた。ただし目的は妖術でも剣術でもなく、もっぱら金銭的価値の有無についてである。
 祖父は利殖に興味がなく、長く権力を握っていたわりにめぼしい財産は別宅ぐらいだった。名画も名器も持ち合わせていなかった。
 すばらしい古刀を一振り、先の殿様から拝領したことがあったが、隠居と同時に返納してしまっていた。
「それとあわせ、いまから流雲寺の住職にあずけておく。あの和尚は万事雑だが約束は守る。おまえがひとり立ちできる歳になったら、おまえの父親をつっぱねられるようになったら、寺を訪ねて行って我が物とせよ」
 祖父からは半年ほど前から、剣術以外の「術」を教わっていた。しかし、それはなんとも不思議な技術だった。
 祖父の口伝えに呪文を唱えさせられたかと思えば、唄を唱和させられた。考えることも大事だが、声を出すこともまた、大切なのだと言う。あとは、瞬間的にいま必要なことを思い浮かべろ、というのもやらされた。これはいわば、あたまの武術であるとも言われたが、意味はわからなかった。
 しかし、祖父の体調悪化によって修行は完遂できなかった。

(ぜんぜん終わってないよ……)戸惑う軍平に、構わず祖父は続けた。
「察してはいたろうが、お前に授けようとしたのは剣術としての未在願流とは全く異なる。昔の剣術は同時に心法を修行したものだったが、それとも違うのはわかるな。剣術は、いわば体の声だ。学んで身につけやすく、とっさに役立たせることができるし、身体も丈夫になるな。だが、その力には限りがある。一方、心術はすなわち心の声だ。剣術より早くもなれば強くもなり、複雑である。学び使うには身体と心に重荷がかかる」
「心に、ですか」
「うむ。心術も、一からはじめるには身体から作らねばならぬが、おまえの身体は剣術が鍛えてある。そのまま休まず剣の稽古を続ければ、十分役に立つであろう。あとは心。これについてはお前次第。わしはできると信じておる」

 軍平が黙っていると、「実はな」祖父は力なく微笑んだ。
「前にも一度、吉之助に伝えようと書に手をいれたりした。覚えておるか。奉納試合のころだ。だが、まだ幼いと思って、やめた。もしも術に溺れ、せっかくのお前の優しい心を損っては元も子もない。それをわしは怖れ、つい後回しにした。もっと信ずるべきだったな。許せよ」
「心願の術とは、それほどに恐ろしいものなのでしょうか」
「欲に溺れての濫用などしなければ、さほどのことはない。術の力が人には大きすぎるのが、間違いを引き寄せたりするのでな」
「はあ」
「己よりも、先に人を思いやることがおまえにはできる。己を捨てられるだけの勁さを持っている。この心さえ、なくさねば大丈夫だ。なに、まず相性があってな、術が受け入れるかどうかが分かれ道となる。なぜなら、術の力はわしらの体から出るのでない。山奥の湖のように、人より先にあった存在を借りているようなものだ。だからこそ、人のなし難いこともできる」
 軍平が首をひねっているのにもかまわず、祖父は説明を続けた。
「わしは僥倖から太古の湖への近道を知った。そこにある書は地図のようなもの、寺に預けておく厨子は早船のようなものだ。あるいは井戸の蓋か。これ、難しいのは分かっておる。そうぱちぱち瞬かずとも良い。あともう少しだけ心と体が大人になれば、吉之助なら必ず術の方から使えと勧めにくる。この頃になって分かったが、術もおまえを気に入っていて、使ってもらいたがっている。つまり、年寄りが相手だと、術の使い道に代わり映えがなく、おもしろくないようなのだ」
 
 祖父はしばらく黙ってのち、言葉を継いだ。
「慎重に振舞ったのは、お前の父でしくじったせいもある。いまのお前と似た歳のころ、平蔵にも伝授を試みた。しかし凡庸なあれは、ただ惑乱した。そこで、術に関わる一切の記憶を奪った。以来あれはふぬけとなった。これも、お前に悪いことをした」
「記憶を奪う」という意味を考えながら、軍平は祖父に促されて書物を開いた。伝書なのに巻物ではなかった。祖父は、「寺にあずける厨子の使い方は、ここにある」などと簡単な説明を加えた。その時のことを思い出しながらもう一度、黒い革で綴じられた表紙をめくってみた。
 あの時の感情、記号やおかしな図でびっしり埋まっていたのを目にした時の驚きが蘇ってきた。あれから十年近く経っているのに、昨日のように記憶があらただった。それに、気のせいか前よりも、そしてさっきより親しく感じる。お互いに馴染んできたのかもしれない。とはいえ、まだわからないところだらけだ。

「わたしには、読めませぬ。いまからご教授いただけるのでしょうか」
 あの日、伝書を一読した軍平は祖父に訴えた。しかし祖父は、
「わしはくたびれた。もうあの世に行かせてくれ」と言った。「あとは、わしがしたように、お前が自身でなんとかしろ」
「そんな」
「案ずるな。術はすでにお前とともにある。必要な折には語りかけてくる。ただしそれは入り口、まことの力を振るうには結縁といおうか、信義を結ぶのがかかせぬ」
「術者ではなく、術そのものと信義を結ぶのですか」
「そうだ。剣術とはそこが違う。剣術とは理であり積み重ねが物を言う。だが心術は違う。術が心を持ち、それがことをなす。だからこその信義だ」
「魔物と信義……」別のこころに支配されるというのを幼い軍平は恐れた。
 
 しかし祖父はかまわず、「世に人外の力を得たと称する者は数多くいても、どれも目くらまし程度なのは入り口を本殿と勘違いしておるためだ。さっき申したように不思議の力を使うには身を術に投じて力に受け入れられねばならぬ」
「身を投じる?」
「おそれるな。一度、運命に身を預けよ。至誠が通じれば自ずと力がつながる。そしてお前なら、わしよりも高みにのぼろう。ただし」
 軍平が彼の瞳を見ると、祖父は続けた。
「術さえあれば、すべてができるとも思うな。もしもそうなら、お前の母や叔母が若くして亡くなることなどなかった。心願の術は凡庸な定めに抗うための技。しかし当然ながら、得手不得手はある」
「苦手もあるのですか」
「あたりまえだ。それは主に使う側のせいである。わしやお前のように武技が身に付いた者は、どうしても戦いに偏る。これは仕方ない。そうでなければ使えぬ術も多いのだから。つまり、術があるからといって油断するなということだ。それとな、死んだものを蘇らせるのは……時と場合によるが、やめておいた方がいいな」
 
 いまになって考えると、この最後のやりとりが軍平に妖術を難しくとらえさせてしまったのだろうと思う。祖父に気力体力があれば、「まずやってみろ」と手を取りつつ教えたであろうが、それができずに孫の心に恐れを植え付けてしまったのだ。
 そして、それがこの技を忘れ封じることにもなった。
 いまもどこかに、怖れる心がある。
 しかし、ここで前に進まなければ、恐ろしい現実に追いつかれて、食い散らされてしまう。「現実に喰われるより、妖術に身を捧げた方がまだましか」軍平はそんなことを考えたりした。
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