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第8話 情報はダダ漏れ、スパイがいっぱい

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 これまで見たこともない怖い顔をして問い詰める軍平に、めずらしく富久が慌て顔で弁解するには、
「昼過ぎに遠縁の『あるお方』がお忍びで参られたのです」
「あるお方?」
「もちろん、詳しい内容はおっしゃりません。ただ、あなた様が命をかけねばなし得ぬほど大事なご奉公に選ばれた。実に誇らしいことであるが、気がかりも生まれてしまったと聞かされたのです」という。そして、他言無用ではあるが家の存続に関わる重大時、当事者である「軍平さまの了解だけは早急に取っておくようおっしゃいまして」と、主張した。言われた当の軍平は首をひねった。
「おかしくありませぬか、それ」
「そ、そうかしら」富久も首をひねった。遠縁の人物の勢いに騙されたという意識はなんとなく生まれているようだ。しかし、ずさんな情報統制に対する軍平の絶望的な気分までは理解できないと見える。だから肝心の来訪者について聞いても、「あちら様にご迷惑をかけられませぬ」などと黙秘する。
 
 これ以上、声を荒げるのもばからしいので、いったん深呼吸ののち、生前の父から聞いた富久とその親の複雑な係累について考えてみた。庶出だとか再縁だとか養子だとか、こんがらがった系図の先に、ひとり怪しい人物が浮かんだ。目付をしている熊沢玄蕃だ。たしか、富久の身元を保証したのは、亡くなった熊沢の父親のはずだった。
(目付まで、一枚噛んでいるのか)そう考え、げっそりした。この国の目付に公明正大など期待しないが、それにしても酷すぎる。

 石田の探っていた、桑田に薪をくべている黒幕が熊沢である可能性も考えたが、わずかに人柄を知る軍平の印象では、かの男はもっと単純であり、人情の機微など本当に理解できるのかと疑問を抱かされたことがある。そういえば、どこか富久に似ている。
「えー、おっしゃりたいの整理してみます」軍平は言った。「かいつまんでいえば、私が死んでも須恵が跡をつげるよう、今のうちに準備しておけ、ですよね」
「まあ、軍平さま。そのような身もふたもないことは、いくらなんでも」
 しかし、富久の表情はとたんに明るくなった。そして、「実は」と打ち明けた。訪ねてきた人物が言うには、須恵にうってつけの相手を知っている。強いてとはいわぬが、軍平に後顧の憂いがなきよう話を進めておくのも「これまた奉公かもしれぬと、おっしゃってくださったのです」それでこちらからも、「是非よしなにと、お願い」しておいたと、投げた棒切れを持ち帰った犬みたいに得意げな顔になった。あまりの論理のアクロバットに、軍平は怒る気が失せた。
「それはめでたい」彼は投げやりに言った。「あ、わたくしのことならお気になさらず。武士ならば死を常に念頭に役目を果たそうとするのは当然です」
 義母は感激の面持ちでうなずいた。「ですが」軍平はいちおう尋ねた。
「あまりに早く話を進めすぎるのも考えもの。なにより、私が生きて戻ったら面倒なことになりませんか」
「そのときはそのとき、武士はなにごとも拙速を尊ぶと言われまして」
「はあ、さいですか」
 
 翌朝、軍平はほとんど逃げ出すように、実家を出た。いまわかっているのは、すでにあちこちに手は回っていて、彼はがんじがらめになりつつあるということだった。それに、情報はダダ漏れもいいところだ。
 ひとり考える場所が欲しくて、軍平は一日中、元の実家の裏山を歩いた。
 ここは薬草が豊富に自生するうえ、祖父が昔命じて栽培をさせた跡がある。いまは誰も手入れをしていないので雑草と入り混じってしまっているが、意外なものが残っているのだ。御産品所にはあらかじめ届けを出してある。今日一日は一人じっくり考えられる。

 裏山に分け入り、野草を見て歩く軍平は、昨晩の継母との会話をまた思い出した。
 婿取りと聞いて、以前に須恵本人から聞かされた話を思い出したのだ。
 妹はある日、誘われて友人らと紅葉狩りに出かけた。ところが、見知らぬ不快な男がいて、女たちは年長者たちに言われるまま、半ば強制的に彼と同席させられる羽目になった。醜男にせっかくの紅葉狩りが潰されたとおかんむりの須恵は、あの無礼な人間に心当たりはないかと聞いたのだ。
「うーん、ないなあ。ただな、人の価値は顔かたちだけではないと思うぞ」などと言ってみたところ、須恵は口をとがらせた。「もちろん心もひん曲がっていますし、態度も最悪。あんな顔をして若い女とみれば見境なく口説くのです、それも自信たっぷりに。兄様のように始終自信なさげにウツウツしているのもあれですが、自信がありすぎ、己の価値がわからないのも考えものです」
「お前も、なかなか言ってくれるなあ」

 その醜男は、なぜか身元についてはそらとぼけていたらしいが、親戚に「えらくて怖いひと」がいて、無礼な振る舞いをすれば、おまえらなど、すぐに捕まえてもらうなどと吹いてもいたという。
 これとは別に、前にカネから聞いた話もあった。
 富久を継母に迎える際に調べたところ、彼女につながる熊沢の一家についての話が出た。熊沢家の先代の弟たちはやたらと子沢山であり、本家ではほとほと困っている、富久にもそれなりの物を持してやりたいがその余裕がない、と恥じていたというのがあった。これらはすべて一直線につながる気がする。
 
 それはさておき、もし上意討ちが成功したら、軍平の生死にかかわらず妹の市場価値は高騰するはずだ。あわれな富久にはそこまで読めず、ご立派な遠縁の親切ぶった話を真に受けているようだった。軍平は言った。
「わかりました。私が本懐を遂げあの世に行った折は、すべて妹とその婿に譲るから家を存続させてくれ、とでも願い状をしたためておきましょう」
「まあ、そこまでずうずうしくお願いするつもりでは……」と、いいつつ富久はさらに上機嫌となった。
「しかし」軍平はつけくわえた。「ひとことだけ条件をつけさせていたださい」
「……どんなことでしょう」
「簡単なこと。須恵の意に染まない相手は、おやめください。だいいち、急いで縁組の必要はないでしょう。なぜなら」
「なぜなら?」
「ほかならぬ名誉のお役目のためであり、妻子のない私が死んでも家の後継については必ず配慮してもらえるはずですし、須恵が相手を選ぶのも難しくはない。なんならいまのうちに、義母上のほうからその「あるお方」に頼んで一筆もらっておきなさい。いえ、お目付ごときの署名ではないですよ。ぜひ御家老あたりを指名なさい。なに、きっと快く書いてくださいます」
「ま、まあ。さすが軍平様は、おっしゃることが違う」
 適当な軍平の話を、義母は素直に親切と受け取ったらしい。浮き立つような足取りで戻っていった。

 誰にも会わないまま、野山を散策した軍平は、自分の運命をあきらめる気分にはならなかったものの、昨日よりは落ち着いた気分になって人里に戻った。
 だが、日が暮れて、カネの家の離れに戻り着こうとするとき、家の前に腰をかけていた男が立ち上がるのが目に入った。痩せて貧相な男だった。
(ええっと、だれだったかな……)
 顔は貧乏神みたいだが、青白くはなくてむしろ良く日焼けしている。声の届くほどの距離に近づいてようやくわかった。郡方の先輩である谷川だった。
 普段は御用林の近くに建つ山小屋にいて、めったに顔を合わさない。職務に忠実で、政治的な動きには縁の薄い人物と思っていたのは勘違いだったようだ。彼はあいさつもそこそこに、いきなり聞いてきた。

「おぬし、いつのまに郡奉行の派閥に入ったのだ。あんな無定見な人物の」
「え、なんのことだか、さっぱり」
「とぼけていると、お主のためにならんぞ。陣屋に行っただろう。それも二回」
「用があれば顔を出しますし、重なることもあります。それより、私のような御産品所詰の若輩者を派閥に入れて、なんの得がありますか」
 普段おとなしい軍平が舌鋒厳しく反論するとは予想外だったようで、谷川はやや驚いた顔をした。「そう、おぬしは若輩である。だがな、その」
 と、もじもじした。軍平が黙っていると、谷川はしわぶきをひとつして、
「わかるだろう」
「えー、私の祖父に関係のあることですか」
「うむ。あのお方は、おぬしが知る以上に力があった」
「はあ」
 まさか妖しい方の力じゃないだろうな、と軍平は疑ったが、きまじめな谷川の顔を見ていると、その発想はなさそうだ。

「言いたいのは、まとまりの悪い古手を糾合するには、宇藤木の名はまだ馬鹿にできんということだ。群奉行ごときに使われたりしたら、まずい」
 谷川は、郡奉行をはじめ現在の指導者層にかなり遺恨があるらしく、四半時ばかり彼らの批判や身分や地位に恵まれない武士を立ち上がらせる術策を熱く語ったが、あまりに鈍い軍平の反応に、ようやく先走りだと理解したようだった。
 ふいにぎこちない笑みを浮かべると、
「いや、急にきて変なことを言ってすまなんだ」と謝った。「御産品所のごとき、百姓だらけで浮世離れしたところにいては想像もつかんだろうが、我々はみな風雲急を告げる情勢を前に、大変なのだ。いや失礼した。また会おう」と言って、山に向かって風のように帰って行った。

「浮世離れしてて、悪かったですね」痩せた背を見送りながら、軍平はあかんべえをした。自分たちだけが世の中の動きを理解していると、どうして思えるのだろう。馬鹿じゃなかろうか。笹子との関係は聞かなかったが、谷川は彼らとも反主流とも異なる第三極に相当するようだ。それでもムカつかせてくれる点においては、他の二派に勝るとも劣らない。
 軍平は、いったん部屋に戻った。しかし不快な気分がまさり、せっかくカネが用意してくれていた夕食を取り込むのを忘れていた。冷めてしまうではないか。あわてて飯とおかずの入った桶を取りに家の外に出ると、
「これは宇藤木様。お戻りでしたか」と声がかかった。
 おい、またかい。

 軍平は不承不承振り向いた。「今日はすこうし、寒うございましたな」
 声の主は意外な顔だった。御産品所で下働きをしている重吉である。小荷物を手に抱え、帰宅途中に見える。彼は白髪頭をゆっくりと下げると、自然な様子でそのまま歩み去った。普通の者なら、そのまま気にせず見送るだろう。
 しかし、軍平もいちおうは幼少から厳しい訓練を受けた武芸者の端くれである。平然さを装う相手から漏れてくる、慌てた気配は十分感じ取れた。
 姿を見られたかと疑い、とっさに自分から声をかけたのだろう。
(そうか、間者はあいつか)
 ちょっとぐらい脅してやろう。そう考えてあとを追ったが、すでに姿はなかった。逃げたのだ。
 この見事な消えっぷりからして、まさに忍びの後継たる戊亥衆の証である。気づかれたこと自体がダメだけど、と軍平は付け足した。

 重吉はふた月ほど前から産品所の手伝いとして顔を出していた。自然と軍平に親しみ、折に触れては彼と話をした。親切に指導したせいだろうと軍平が勝手な解釈をしていたのは間違いだった。彼がなにも気づかないまま、とっくに監視対象になっていたということだ。
 重吉は軍平が夜ごと木刀を振るう姿も観察し、報告したはずだ。
 若い軍平にとって稽古は習慣であり気晴らしである。ただ、誰も知らない流派が恥ずかしく、人目はなるべく避けるくせがついていた。その態度が誤解されたかもしれない。
(誰にも相手にされていなかったのに、急に千客万来じゃないか。それも、間者とか、そんなのばっかり)
 笑ってはいられない。自分が嵐の中心にいることに軍平は気がついた。
 それに、これまでの来客はおとなしかったが、これほど情報がだだ漏れなら、襲撃などの危険も考えねばならない。
 自分ひとりが迷惑するならまだしも、恐ろしいのは気のいいカネ一家に被害が及ぶことだ。
 軍平は飯も食わず、腕を組んで考え続けた。
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