触れられない、指先

未知之みちる

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前篇

其の十一

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 風呂から上がり彼の体を拭き終えると、彼女はバスタオル越しにそっと彼を抱きしめた。標準的な身長の彼女が彼の胸板に頰を預けた。
 彼はまだ身体が濡れたままの彼女の背にそっと手を添えた。
 身体の触り心地も彼女の自分に与えてくれる全てが柔らかだと彼は思った。
 どうしてか涙が滲みそうだった。
 彼女の相手を受け入れる姿勢の在り方は安堵を齎らす。そうしてその美しさに羨望を覚えた。
 彼の中にいる美しい人へ、彼は憧れを抱き続ける。届くことない憧れとして存在する美しい人に対して、彼女は届くかもしれない存在だった。
 触れることを恐れながらも、少しだけ彼女に触れることが出来た。臆病な自身を棄てれば、もっと彼女の深いところへ届くのだろうか。
 あの人はあの人、彼女は彼女、重なる存在ではない。重ねようとも思わない。
 重ならない美しさに惹かれて、彼女の深い部分に触れたいという欲が芽生えた。けれども怖い。このままの彼女へ落胆を覚えたくない。それが自分の我儘に因るものだとしたら、自分に対する落胆も覚えることだろう。どれだけ惨めな思いをするか量り知れない。
「みんなが言うのとは全然違う。化粧師さんはとっても優しい人」
「……そうかな?」
 声が上擦ってしまった。けれども最早、彼女に対して何かを隠そうとする自分が彼は馬鹿らしい。
「だって、わたしをちゃんと見つめてくれるもの」
 次は? ゆっくりしたい、まるでその言葉通りに、顔を上げた彼女と彼は目を合わせると、ゆっくり長いこと口付けを交わした。
 豊かなひと時に彼の心がどんどんと解かれていく。
 自分を深く見つめてくれる彼女に縋りたいのとは違う。縋るのではなく、ただ見つめてほしい、見つめたい。知りたい、知ってほしい。
 彼は、彼女が彼に委ね続ける「次」を見つけた。
「ねえ、俺が拭いてもいい?」
 彼から離れた、身体に水滴の残る彼女へ彼は問いかけた。
「なんだか擽ったいけど、お願いしちゃおう。でもどうして?」
 彼女が尋ねてみると、彼はひどく穏やかな面持ちで言った。
「触れたいから」
「そう。わたしも。たくさん触れられたい」
 彼女の分のバスタオルを自ら手に取ると、彼は丁寧にそっと彼女の身体を拭いていく。それは、ベッドの上で彼女の肌に触れていた時のような、壊れたら怖いという感覚とはまるで違っていた。
 彼女は壊れない。そんな感覚を覚えてしまったら、優しく優しく触れたくなった。
「なんだか不思議な気分」
「どうして?」
「だってさっきは、身体を洗おうとしたらフラれちゃったもの。自分で洗ってさっさと湯船に行っちゃうんだもん」
「そんな気分だったんだもん」
 ゆっくり湯船に浸かりながら、彼女を見つめていたいとその時は思った。
 何をしていてもまるで美しい所作を振る舞う彼女は、身体を洗う、それだけでも美しかった。そんな彼女が見たかった。彼が求めるものと限りなく近しい感覚を持っていると思われる彼女の存在を、となりではなくて、少しだけ遠目に眺めてみたかった。それほど広くない風呂場だとしても。
 彼はその時、確かめたかった。美しいと感じた彼女がどれだけ美しいものか。
 本質的な美が彼女からは終始醸し出されていることを確認した彼は、彼女となら、と思った。
 愛を囁き合うことなんて要らない。仮初めの愛なども要らない。たった一回の逢瀬でそんな愛情を抱きつつあった。
 彼は本気の相手に決して触れようとしない。恋愛の情というものを以っては。只管に恐る故に興味を持とうとしない。
 彼の悦びは美の追求にある。
 美しいと思える恋愛を見つけたならば触れていたいとは思うだろう。しかし彼女へ抱いた情熱はそれとは違っていた。
 彼が求める情の正体は向き合える存在かもしれない。
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