真白に魅了されし者

未知之みちる

文字の大きさ
上 下
3 / 3

後篇

しおりを挟む
 あの時、女と彼をびしょ濡れにした豪雨と突風の末に、突如雨は突然止んだ。

 彼は女が決して手に取ろうとしなかった自分のハンカチーフを握りしめていた。

 びしょ濡れの中、彼は妙な胸騒ぎを覚え、ぐしょりとしたハンカチーフを強く握りしめると、吸い込んでいた水分が地面へ滴る。

 風はなだらなものの、吹き続けている。

 俄かな風が夜空の曇天を動かしだした。

 雲の流れはやたらと早かった。

 薄い雲から俄かに月明かりが注ぎだし、仄かな幻想を誘う。

 薄明かりは神秘的な幻想を辺りに醸し出し、彼の心地が高揚した。胸騒ぎとは他所に鼓動が高鳴る。

 その後、高揚感とは裏腹に俄かな恐れのようなものも覚えた。

 女の全身を舐めるように、汚れのない裸足からすらりと細い脚、白いワンピースを辿り彼女の横顔まで視線をやった。

 彼が感じたものは、恐れではなく奇妙な違和感であった。

 彼の食い入るような視線を気にした風もなく、女が突然口を開く。

 白いワンピースは変わらず汚れを知らない。彼女の顔も汚れを知らない。

 整った目鼻立ちは華やかさというよりも淑やかさが先立ち、そのしなやかさへ彼は再び儚さを覚える。

「そう、もうすぐ。きっともうすぐだわ」

 やわらに呟かれたそれは、彼に投げかけたものではなかった。

 しかしはっきりと鮮明な音としてやたらと辺りに響いた。

 隠れていた月が顔を出した。

 欠けた月、満月のような明るさは持たないはずであった。しかし、満月に照らされているような、いや、それ以上の灯りが辺りへ降り注いでいる。

 注がれた月光により見つめていた女の顔がくっきりとすると、彼は心底驚いた。

 線の細い儚い女はまだ少女の面持ちであった。

 頭が追いつかない。背格好はか細く儚げに彼の肩あたりにあるままであったが、紛れもなく少女であった。

 先程まで見つめていた彼女は淑やかな大人の面持ちをしていた。

 少女はやはり美しかった。

 最初に女に覚えた神秘性はそのままに美しく、やはり崇高な雰囲気を纏う。

 漆黒の髪から水滴が風に乗って消えていく。一緒になびいた一房を綺麗な手で押さえたその仕草は、少女然とした可憐さが滲む。

 相変わらず、彼女の足元は汚れていない。

 彼は地面からゆっくりと視線を上げていきワンピースが汚れなき白であることを確認した末に、少女の面持ちを伺った。

 彼の瞳に映った少女からは儚さを覚えなかった。神秘的な美の存在はそのままに、儚さだけが消え去っていた。

 何かに満ち溢れた瞳で欠けた月を見上げている。そうしてあどけない微笑みを称えてる。

 月明かりとは思えぬ眩い光が昼間のように深い夜空から注がれ続ける。

 太陽ほどではないが、視界がしっかりと通るほどには明るい。

 夜とは思えない神秘的な光景に彼は目を奪われた。

 少女はこの光景が当たり前だというように微笑みを絶やさない。

「これを待っていた……」

 少女が呟く。辺りに清らかな声が響き渡る。

 やはり彼へ投げかけたわけではなかったようだが、彼女は初めて彼の方へ顔を向けた。

 清らかに婉然と神秘性を灯した漆黒の瞳が、柔らかく彼の瞳を捉えた。

 少女は彼の目をじいっと見つめる、視線を離さない。

 それは少女と化す前の女がじいっと夜空を見つめていたそれと同じだった。

 突如、柔らかな少女の微笑みに儚さが零れた。

 彼はこの後何が起こるのか何故か予測が付いてしまった。

 待ってほしいと少女のか細い腕を掴みたければ、抱きしめてしまいたい。

 しかし、少女の醸す崇高さが彼の行動を止めた。出来なかった。触れることは憚られた。

 神秘を手にその崇高な美は触れてはいけないものだと本能が訴える。

「貴方のおかげで、待ち遠しいもどかしさに耐えられた」

 そうして少女は一言、「さようなら」と告げた。

 永遠の別れだと男は感じとった。

 しかしこの邂逅をひと時の幻想として終わらせたくはなかった。

 彼の心は永遠の別れを拒絶した。

 白いワンピースは雨に濡れて彼女の身体にぴたりと張り付いていたのに、ふわりとふくらみを持ち靡いた。

 輝く真っ白な汚れなきワンピースが舞う。

 途端、彼は目眩のようなものを覚え、急激に襲った眩さに頭がくらりとした。

 一瞬瞑ってしまった目を開き、視界がはっきりすると、少女は忽然と消えていた。  

 切なさに視線を地に落とすと、輝くような何かが落ちている。

 先程までの眩い明かりはもう無く、暗闇が訪れた中、鮮明な一つの何かが落ちている。

 彼は一抹の期待と共に屈み込み、それを覗き込んだ。

 濡れを知らない汚れなき真っ白な絹のハンカチーフがふわりと落ちている。

 拾い上げ、彼はじいっと白いハンカチーフを見つめた。

 ここから彼の三年間の旅は始まった。

 このハンカチーフを元に、一度で構わないのだ、あの少女の儚い微笑みを再び得るために。

 そうして雨の降る様々な地を巡り歩く。

 このハンカチーフに込められたものが、感謝ではなく、再会の意味であると信じて。

 三年後に彼が辿り着いた一輪の月下美人という美しい人は、強い情熱のもと花開き、夜との逢瀬を重ね続けたいという強い意志を秘めながら萎んでいく。

 空が白み始め、花びらが閉じていく。

 かの人は消えるようにいなくなったけれども、かの人と重ねて見つめ続けていた月下美人は消えない。再び咲くために眠りに就いただけだ。

 男は合羽の下、腰に下げていた防水の巾着に手を伸ばした。

 後生大事に身に付けていた白い絹のハンカチーフを取り出すと、そっと萎んだ月下美人を包み込んだ。

 もう一度逢いたいという情熱的な意志を、不要となった白いハンカチーフによって伝えようとした。

 その崇高なる神秘の美が崇高な儘であり続けることを願うと、その場を後にした。

 三年の時を経て、彼の中に潜み続けていたかの人の存在が解き放たれた瞬間であった。

 少女は彼の前に二度と現れることはない、もう何処にもいない。幻想は消えてしまった。

 追い求めるべきものは白いワンピースと漆黒の瞳ではなかった。それは追い求めるものと出逢う為のきっかけでしかなかった。

 あの白いハンカチーフは再会を意味したものではなかったのだ。言葉通りの感謝と別れを意味したものでしかなかったのだ。

 それはあの場所に少女が佇んでいたという残像に近しい。

 もう彼が出逢うことのないかの人を探し続けることはない。幻想は消えてしまった。

 縛り付けられていたあの印象的な出来事から彼は漸く解放された。

 そうして眩みそうなほどに甘く優雅な快楽に襲われて止まなくなった。

 さあっと心に通り過ぎた風は艶やかな湿りを帯びていた。

 囚われていた三年前の幻想が消え、この夜に出逢った月下美人の真っ白な大輪が情熱的な新たな魅惑を彼にもたらした。

 数ヶ月後、再び彼は同じ場所で月下美人の開花と出逢う。

 夜の逢瀬は彼に恍惚とした至福を与え、何よりも得難いのに眼前に広がる神秘を湛えた快楽に浸る。

 いつしか彼の記憶からは、あれほど鮮明に映し込まれていたはずの少女がいなくなった。

 彼はあの幻想を忘れたがように新たなものへ情熱を注ぎ、追い求めはじめた。

 あの日の出来事はまるで烏有と帰した。 

 袂に縋っていた白いハンカチーフと月下美人という神秘の魅力によって。





《 終 》
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...