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本編のおはなし
<第三万。‐半解の神様‐> ③
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じめじめとした校舎裏のコンクリートが、そこに座る私の腰をひんやりと居心地悪く冷やしていた。
ハンカチを一枚敷いているために我慢できる程の冷たさではあるけれど、直接座ったらそこから身体が冷えて風邪でもひいてしまいそうである。
だけど移動する気にはなれない。
コンクリートからは歓迎されておらず、その冷たさで私を追い払おうとしているのかも知れない。
けれど周りに人影が存在しないこの場所は、独りになりたい今の私にとってはうってつけの場所だった。
(お弁当、どうしましょうか)
委員長という立場にありながらも授業をサボタージュしてしまったことへの罪悪感が、昼放課の開始に合わせて教室に戻ることを躊躇させた。
それに教室にはきっと吉祥伊呂波がいるのだろうし、あのようなことがあった後であの人の顔を見たくないという嫌悪感もあり、私は喧騒からはほど遠いこの場所まで逃げてきた。
教室の私の学生鞄の中には、お父様が作ってくれたお弁当が入っているはずだ。
自宅に帰ってから残っているお弁当を見たお父様を心配させることのないように、お弁当の方もどこかのタイミングで食べてしまわなければならない。
その為に、途中の購買部で買ったのはコッペパン一つとパック飲料のミルクティーだけに留めておいた。
普段はいつもお父様のお弁当があるために利用することの少なかった購買部であるが、昼放課の人混みは参加する身としては想像以上であった。
あの喧騒を傍から見たことはあったため、授業間の休み時間や放課後に利用するのが常であったけれど、今後あの時間に赴くのは控えようと思わせる程には大勢の人の群れでごった返していた。
確かに今はあの人いきれに辟易としているのが本音であるし、もう勘弁願いたいという気持ちが、初めて昼食の争奪戦に参加した感想の大部分を占めてはいる。
けれど、心のどこか隅の方には、あの無秩序な喧騒を楽しく思ってしまった気持ちも生まれていた。
本当はお昼時の購買部も、そしてそれだけではなく食堂にだって行ってみたい。
だけどそんな些細な私の憧れも、心の中で大人ぶっている別の私が『下らない』と一蹴して抑えつけてくるのだ。
私はやはり、とてもプライドが高いのだろう。
周りの誰かに『どう見られているか』を気にしていない風を装いながらも、その実、周りの誰よりも人一倍気にしている。
だからこそ、連れ添う相手もおらずに食堂で独りきりで昼食を取ることを恥じて、幼稚な考えだとか下らない願望だとかと、何かしらの理由をこじ付けて避けているんだ。
教室には、自分の席という守られた聖域があった。
自分の席であれば独りで昼食を取ろうとしていても、後ろ指を差されて笑われない、独りでいることを揶揄されないといった心の防衛を張ることが出来た。
それになにより、最近は身勝手な彼らがやってきた。
私の許可を碌に得ず、私の拒否の視線も意に介すこともなく、昼休みになるや私の机を勝手に囲い談笑を始める、クラスメイトの2人の男子生徒が。
心の奥で周囲からの奇異の視線を恐れている私は、女子1人と男子2人という人数構成が恥ずかった。だからせめて少しでも、私は同じ群れにいることを受け入れていないのだと、そう訴えるように努めていた。
その男の子たちの嫌でも耳に入ってくる騒がしい会話に耳を傾けるだけで、会話に参加することもなく黙々とお弁当を咀嚼して過ごしていた。
私の頭の中では、そこに居たのは3人ではなく、2人と1人であると言い聞かせていた。
だけど、周囲のクラスメイトから見れば、そこに居たのはきっと仲良く賑やかに談笑し合う3人の姿が映っていたのだろう。
クラスメイトからはそう捉えられているのだろうと、私たちが客観的にどう見えているのかを想像することくらいはできた。
そのため、2人のうちの片割れに『みんなで食べるのも結構楽しいね?』と問いかけられた時には、恥ずかしさから『あなたたちが勝手に私を囲って食べてるだけじゃないですかっ!』などと、照れ隠しの混じった返答をした覚えだってある。
クラスメイトの女子から羨ましいと言われた時にも、『それなら変わって欲しいくらいです』なんて天邪鬼な言葉を返したことだってあった。
そう、わかっている。所詮は恥ずかしいや照れ隠しなんだ。
私はその時間を、その空間を、嫌だとは思っていなかった。
だけど、もう、あの日あの時の3人は戻ってこないだろう。
今思えば、あの時の彼はどういう思いで私の傍で昼食を食べていたのだろう。
可愛らしく笑い語らいながらも、その心の奥では私を憎悪するどす黒い感情が渦巻いていたのだろうか?
狡猾に私を貶める算段を立て、虎視眈々と私を観察し機を伺っていたのだろうか?
どうすれば私に致命的な傷を付けられるのか、その弱点を探していたのだろうか?
そもそも何故、彼らは私の元を訪れ、昼食を共に取ろうとし始めたのか?
(あの人たちが昼休みに私を訪れたのは、確か前日に……)
買ってきたコッペパンを齧りながら、そのきっかけに思いを馳せたその時。
「おいっ!伊呂波っ!?どうし――」
それまで、周囲の静けさの中に居たために油断していた私の身体は、遠くから急に聞こえた騒々しい声に驚き、声の聞こえた方向を確認しようとして。
ドンッ!
「っきゃっ!」
突如として横から襲った衝撃に、私の身体は弾き飛ばされた。
そんな事態を想定しておらず身構えてもいなかったため、私は校舎裏の土の上に倒れこんでしまった。
倒れる途中で椅子代わりに座っていたコンクリートの角で背中を打ち付けてしまったのか、鈍い痛みまで私の身体を駆け巡っている。
身体を押されて転がるまでの数舜の間、混乱した私の耳にはバサバサッという何かの落ちる音や、バシャッっという水音が届いた気がした。
(痛っ!なにっ!?えっ?なにが起きたの?)
私を襲った突然の衝撃と痛みのせいで脳内は酷く混乱していたため、陥った状況をすぐには認識することができなかった。
倒れた姿勢のままで恐る恐る目を開けた視線の先にはこれまた認識し辛い光景が広がっていた。
地面に落ちて土に塗れた食べかけのコッペパン。
倒れている紙パックのミルクティーと、地面に広がった大きな染み。
そして、数分前までは私が座っていたその場所に座り込む汚れた格好の一人の男子生徒と、そんな彼に駆け寄るもう一人の大柄な男子生徒。
突如として巻き込まれた状況の変化、その目まぐるしい展開に対応することができずにいる私の眼前に広がる理解不能な数々の現実が、更に私の混乱を助長させた。
そして、そんな混迷冷めやらぬ私の目の前で繰り広げられているやり取りを、私はただ茫然と見ていることしかできないでいた。
「大丈夫かっ!?おいっ!伊呂波っ!」
「……大丈夫に見える?今のボクの姿を見て、よくそんな無駄な質問ができたよね?」
私が数秒前までいた場所で項垂れていたのは吉祥君だった。
そして、毘沙門君がそんな吉祥君を心配そうに気遣っている。
よく見知った二人ではあったのだけど、そんな二人の姿すらもまだ、遠い世界の出来事のようだった。
「いやすまん。確かに大丈夫なようには見えないな。ってか、もしかしてキレてる?」
「キレてるよっ!めちゃくちゃキレてるよっ!」
「そんな筋肉を褒めように言われても」
「どこのアホが今この状況で壇上のボディービルダーを応援すんだよっ!?おこだよ!激おこプンプンカム着火ファイナルフラッシュだよっ!」
地面に倒れこんでいた態勢を起こそうとして背中に走った痛みが、手をついた地面の冷たさが、私の意識を少しずつはっきりさせていく。
少しずつ、今の状況に対する理解が及んでいき、心の中に感情が広がり始める。
「なんでベジータが混ざってんだよとか、いろいろ間違って覚えてるぞとか、ツッコミたいところは山ほどあるが、そんなこと言ってる場合でもないか。ほら、一旦立ち上がれ」
「もうやだ。なんでこんな目に……」
「あぁあぁひでぇなこりゃ。ほら、べそかくなって。元気出せ」
そう励ましながら、毘沙門君は吉祥君の泥まみれの髪の毛や制服を叩き、少しでも汚れを落とそうとしていた。
そんな献身的な毘沙門君の胸元を、涙目の吉祥伊呂波はガッと掴んで引き寄せた。
「どっかのクソ野郎が『土に塗れる罰当たれっ!』とか抜かすからじゃろうが!だからボクがこんな目に遭っとるんじゃろうがい!」
「そんなこと言うクソ野郎がいたのか。ひでぇな……あれ?それ俺じゃね?」
「お前だよっ!全部鞍馬のせいだよっ!」
まるでコントか漫才のようにあっけらかんと、まるでいつも通りの教室での一幕のような会話をしている二人を見てると、地面にへたり込んでいる私だけが惨めで仕方なく感じてしまう。
「『罰当たれっ!』とまでは言ってないんだが。いや、まさかホントにこんなことになるなんて思わなかったから。すいません」
「謝るくらいなら今すぐボクの制服クリーニングしてよ!?」
「無茶言うな」
「鞍馬に八つ当たりで無茶ぶりするのがボクのアイデンティティでしょうが!そんな無茶苦茶な身勝手さがボクらしさでしょうがっ」
「おっしゃるとおりで」
「馬鹿にしてんのかっ!今欲しいのは『そんなことないよ』って慰めでしょうが!」
「とてつもなくキレてるせいか、スゲーめんどくさい彼女みたいなこと言い出した」
「――あなたたち、なんで、一体なんのつもりですかっ!?」
その言葉に反応し土の上で座り込む私を見やった吉祥君たちはそれまでの言い争いを中断し、気まずそうな顔をしていた。
まるで地面に無様に転がる私のことなんか、今の今まで意に介していませんでしたみたいなその顔を見て、私のことを理由もわからず押し飛ばした挙句、さらには放置したままでイチャイチャと痴話ケンカしていた彼らの態度に、私の怒りのゲージは一瞬で沸点まで達した。
「すまん。委員長もほら」
未だ座り込む私に向けて手を差し出そうとした毘沙門君であったけど、それを制止するように吉祥君は掴んでいた毘沙門君の胸元を強く引き寄せ、その耳元に何事かを囁いた。
「マジかっ!?いや、でも」
「いいから早く行って!こっちはボクが何とかしておくからっ!」
「……くそッ!不安しかないが頼んだぞ!ついでに着替えも用意しといてやるから早く戻って来いよな!」
「仙兄にも事情を話しといてよね!」
「わかってる!また後でな!」
そう言い残し、毘沙門君は私たち二人をその場に残して駆けて行った。薄暗い校舎裏に残されたのは、程度に差はあれどそれぞれ土や泥に汚れた見っとも無い恰好の私たち。
だけど、毘沙門君の離脱に対しては何ら言いたいことはない。
私を汚れさせた張本人、今の私を惨め足らしめているすべての元凶はこの場に残っているのだから。
毘沙門君の背中を見送った吉祥君は、くるりと方向を変えて私の前まで歩み寄り、そのまま膝を折った姿勢でいる私のことを見下ろしてきた。
いつの間にか日が陰り、ただでさえ日差しの差し込まない校舎裏の陰影は濃いものとなっていたせいで、私を見下ろす表情を判別することができなかった。
この男の顔は、今どのように歪んでいるのだろうか。
惨めな私を見てほくそ笑んでる?それとも、忌々しいものを見るように強張らせてる?
「吉祥、伊呂波っ!あなたはまた!」
「大丈夫?立てる?」
私の言葉に被せる様に、吉祥伊呂波は言葉を紡ぐ。
そして、その言葉と共に私に向けて右手を差し出し、泥に塗れたその手で私の手を取り引き起こそうとした。
「汚い手で私に触らないでくださいっ!」
差し伸べられたその手を払い除け、私は自らの力だけで立ち上がった。
距離の近づいた視線の先、吉祥伊呂波の表情は私が予想していたものとは異なり、辛そうに、そして酷く傷ついたような歪み方をしていた。
「ごめん。泥塗れだし汚かったね……ごめん」
払われた右手を心細げに胸に抱いて私から視線を逸らしたきり、吉祥伊呂波は口を噤んでしまった。
(私を傷つけたくせに何故あなたがそんな顔をするのですか!自分だけが!自分こそが!傷ついたとでも言わんばかり!)
「女性に暴力を振るうだなんてあなたはどれだけ最低なのですかっ!あなたのせいで見てください私の格好を!土だけじゃないんですよ!」
私の制服は地面を転がったときに付いた土汚れだけでなく、スカートには零れたミルクティーの染みが後を残していた。
「それは、ごめん」
「ごめんで済むようなことですか!なんでこんな酷いことが出来るのですか!?」
その後どれほど非難の言葉を吐き出しその理由を追及しても、吉祥伊呂波はただただ謝るだけで、言い訳の言葉すらも吐き出すことはなかった。
せめて言い訳くらいは聞き出したかったが、吉祥伊呂波のその態度に嫌気が差し始め、時間と労力の無駄を疎んだ私も口を閉ざした。
重苦しい空気の中、私は吉祥伊呂波を睨み続け、彼は私の眼差しから目を逸らし続けていた。
そして、ようやくその違和感は、私の脳内に疑問を浮かび上がらせた。
(そもそも、どうしてこの人はこんなにみっともなく汚れた格好をしているの?)
普通であれば、学園内で頭から制服に至るまで泥に塗れる機会など、そうそう訪れる筈がない。
その原因が彼の口から説明されることはなかったけれど、彼が口を閉ざしたいくつかの要因が結びついたことなのだと、そう私が考え至るのも至極当然のことであるだろう。
「どうせあなたは転んだとか下らない理由で泥に塗れて、その腹いせに私のことを突飛ばしたとか、あらかたそんなトコでしょうね!自分の鬱憤を他人で晴らすなんて、どれだけ性根が腐ってれば思いつけるのでしょうか」
「……違うよ、確かにボクが汚れているのと弁財さんを突飛ばしたのには関係があるんだけど、そんな理由でキミを押し飛ばしたんじゃない」
「ようやく認めましたね」
やはり関係があったのだと、その言葉が聞けただけでもう納得できた。吉祥伊呂波がどれだけ他人を陥れ、他人を傷つけ、他人を不幸にする人間なのかを改めて理解することができた。
もう金輪際関わり合いを持たないと、浅慮で甘えた考えをしていた私が馬鹿だったのだ。
今日一日で目まぐるしく変容した吉祥伊呂波への認識と関係。
もう今までのように、この人に慈悲など与えてやる必要も義理もない。
「あなたが私にしたいくつものいたずら、その全てを先生方と生徒会執行部に報告させていただきます。今更泣いて謝ったとしても、絶対に許すことはできませんから」
それだけを言い残して、私はその場を立ち去るために歩き出す。
遠くから聞こえた予鈴のチャイムが、すぐさま五限目の授業が開始されることを知らせてくれた。
(授業をサボタージュするわけにもいきませんし、先生方に報告するのは次の休み時間に、いえ、そういえば次の授業は日本史でしたね。それなら授業が終わった後で担当教諭の布袋先生にお時間をもらって)
「待って」
教室へ戻るために歩きながら今後の計画を組み立てていた私の左手を、背後から伸ばされた小さな掌が掴んで、そのままその場に引き留めるかのように引っ張られた。
そして、強制的に歩みを止めた私の前に吉祥伊呂波はもう一度立ち塞がり、今度はその相貌を逸らすことなくしっかりと私に向けてきた。
彼の真剣なその瞳には、さっきまでの弱弱しい意思を写した瞳と相反するような、とても強い決意のような意思が表れているように、そう私に感じさせた。
「これで最後でいい。これ以降、ボクの話を聞いてくれなくても構わない。だから1つだけ、最後にボクの話を聞いて欲しい」
有無を言わせぬような真剣な表情と、未だ私の手首を掴み続ける彼の右手が、話を聞くまでは何としてでも私を逃がさないと訴えているようだった。
私が知っている吉祥伊呂波はいつも飄々としていて、本気や真剣といった言葉とは無縁のような人間だった。
そんな彼の初めて見るような真剣な表情。そして最後というその言葉。
その全てに気圧されてしまった私は、彼を無視して無理矢理にでも立ち去ることができず、彼の口から紡がれる言葉に耳を貸す事しかできなかった。
「だいぶ前、入学してから1週間も経っていなかったと思うけれど、今みたいに校舎裏でボクらは一度話をしているよね。覚えてる?」
「それは、はい。たしか――」
あれはそう、まだ八百万学園に入学して間もない頃。
春の陽気という言葉に相応しいような、穏やかで温かい日のことだった。
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