将愛メランコリア

アマヒコ

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転機

7.寝室

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 藤堂さんのマンションはどこまでも完璧だった。

 これだけ広いにも関わらず、リビングからバスルームまで生活感を感じさせないほどに隅々まで隙無く磨き上げられていて、フローリングには髪の毛一本落ちていない。
 僕はなるべく色々なものに触れないようにしながらバスルームに入り、少しでも汚さないように恐る恐るシャワーを浴びる。

 やはりというか、シャンプーやコンディショナー、ハンドソープに至るまでこだわりが貫かれているのか、ボトルには僕には馴染みのない横文字が並び、近所のドラッグストアで特売されている代物でないことは一目で分かる。

「いい匂い…」

 思わず感嘆の声が漏れる。

 藤堂さんが髪をかき上げた時と同じ香り。

 不意に脳裏に電流のような刺激が走り、前夜祭の夜の出来事…いや、夢が、シャンプーの独特な気だるい甘さを持った香りと共に思い出された。

 この香りは、確かにあの日の夜、間近で嗅いだ…。

 僕はブルブルと頭を激しく振る。

 あれは勘違いだ。

 妄想だ。

 考えるのはやめよう。このことは。

 ありもしない記憶の欠片をジグソーのようにつなぎ合わせ、存在しないピースを作り上げてしまっている。こんな状態じゃ藤堂さんの顔を見るたびに頬が紅潮して、僕の方が怪しい男だと思われてしまう。
 僕はシャワーの温度を肌が痛くなるほど上げ、今日の疲れとともにくだらない考えを排水溝に流した。



 髪を乾かし、身支度を整えてからバスルームを出ると、リビングのソファーに茶色い液体の入ったグラスを傾ける藤堂さんの姿があった。

「あれ、シャワー浴びる前に着替えちゃったんですか?」
 
 疑問が思わず口をついて出る。

「シャワーが一つしかないって誰が決めたの?」

 いたずらっぽい笑み。

「先に出て驚かそうと思ってね、もう一つあるシャワールームで急いで汗だけ流してきたんだ。おかげで髪もボサボサのままだよ」
 藤堂さんはそう言って髪をかき上げた。

 確かにややカールした黒髪は水気を帯びて艶めいている。
 それに間接照明の柔らかな光の下で分かりにくかったけど、少し近づくと肌がほんのり上気している。

「シャワー出た後にお酒飲まれてるんですね」
「ブランデーを軽くね」

 藤堂さんはブランデーの色合いを楽しむようにグラスを回す。

「いくらお酒に強くても、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「これは睡眠の質を上げるためのサプリみたいなものさ。しかも、健康だけじゃなくて人生も豊かにしてくれる万能薬。この前の天野君みたいに分量を間違えなければね」
「…その節はご迷惑をおかけしました」

 僕は藤堂さんのカウンターの前に轟沈した。

「迷惑どころか助かったよ」

「そんな気をを使っていただかなくても大丈夫です、反省してます」

「本音だよ。タイトル戦…特に名人戦の前日は高揚感と不安、緊張が入り混じって精神の均衡を保つのが難しいんだ…ちょうど釣り合っている天秤にバラバラな重さのコインを乗せていくような感覚さ」

「…藤堂さんも緊張するんですか?」

「人を機械みたいに言うのはやめてくれよ。誰だって緊張もすれば、不安にもなるさ。経験を重ねていくうちに隠すのが上手くなるだけで、その人間の本質は恐らく一生涯変わることはないよ…まぁ、天野君のおかげで良くも悪くもリラックスできて、結果にも繋がった。今日のことはそのお礼も込みだと思ってくれて構わないよ」

 藤堂さんはそう言って、ブランデーを一気に喉に流し込んだ。

「…もうこんな時間か、いつまでもココにいても仕方がないな。寝室へ行こうか」

「えっ?」

 何気ないトーンで語られる言葉に、僕は反射的に身を固くした。

「いえ、僕はソファーで十分です!このソファー自分の家のパイプベッドよりずっとフカフカしてますし」
 わざとらしくソファーのクッション性を確かめ、我ながら不自然だな思うほどの早口でまくし立てる。
「ベッドはもっと凄いよ。それに客をリビングに置いていくような無礼なことを俺にさせるつもりかい?」

「いえ…そんなわけじゃ…」

「一応、客が来ても問題ないように、二人寝られる作りになってるから心配しなくても大丈夫だよ」

「…では、お言葉に甘えて…」

 冗談のなかにも異論を挟ませない意思を感じた僕は、その無形の圧力に屈して力なく答えた。

 でも、二人分のベッドがあるならいいか。

 僕は自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、リビングを後にした。
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