12 / 17
転機
7.寝室
しおりを挟む
藤堂さんのマンションはどこまでも完璧だった。
これだけ広いにも関わらず、リビングからバスルームまで生活感を感じさせないほどに隅々まで隙無く磨き上げられていて、フローリングには髪の毛一本落ちていない。
僕はなるべく色々なものに触れないようにしながらバスルームに入り、少しでも汚さないように恐る恐るシャワーを浴びる。
やはりというか、シャンプーやコンディショナー、ハンドソープに至るまでこだわりが貫かれているのか、ボトルには僕には馴染みのない横文字が並び、近所のドラッグストアで特売されている代物でないことは一目で分かる。
「いい匂い…」
思わず感嘆の声が漏れる。
藤堂さんが髪をかき上げた時と同じ香り。
不意に脳裏に電流のような刺激が走り、前夜祭の夜の出来事…いや、夢が、シャンプーの独特な気だるい甘さを持った香りと共に思い出された。
この香りは、確かにあの日の夜、間近で嗅いだ…。
僕はブルブルと頭を激しく振る。
あれは勘違いだ。
妄想だ。
考えるのはやめよう。このことは。
ありもしない記憶の欠片をジグソーのようにつなぎ合わせ、存在しないピースを作り上げてしまっている。こんな状態じゃ藤堂さんの顔を見るたびに頬が紅潮して、僕の方が怪しい男だと思われてしまう。
僕はシャワーの温度を肌が痛くなるほど上げ、今日の疲れとともにくだらない考えを排水溝に流した。
髪を乾かし、身支度を整えてからバスルームを出ると、リビングのソファーに茶色い液体の入ったグラスを傾ける藤堂さんの姿があった。
「あれ、シャワー浴びる前に着替えちゃったんですか?」
疑問が思わず口をついて出る。
「シャワーが一つしかないって誰が決めたの?」
いたずらっぽい笑み。
「先に出て驚かそうと思ってね、もう一つあるシャワールームで急いで汗だけ流してきたんだ。おかげで髪もボサボサのままだよ」
藤堂さんはそう言って髪をかき上げた。
確かにややカールした黒髪は水気を帯びて艶めいている。
それに間接照明の柔らかな光の下で分かりにくかったけど、少し近づくと肌がほんのり上気している。
「シャワー出た後にお酒飲まれてるんですね」
「ブランデーを軽くね」
藤堂さんはブランデーの色合いを楽しむようにグラスを回す。
「いくらお酒に強くても、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「これは睡眠の質を上げるためのサプリみたいなものさ。しかも、健康だけじゃなくて人生も豊かにしてくれる万能薬。この前の天野君みたいに分量を間違えなければね」
「…その節はご迷惑をおかけしました」
僕は藤堂さんのカウンターの前に轟沈した。
「迷惑どころか助かったよ」
「そんな気をを使っていただかなくても大丈夫です、反省してます」
「本音だよ。タイトル戦…特に名人戦の前日は高揚感と不安、緊張が入り混じって精神の均衡を保つのが難しいんだ…ちょうど釣り合っている天秤にバラバラな重さのコインを乗せていくような感覚さ」
「…藤堂さんも緊張するんですか?」
「人を機械みたいに言うのはやめてくれよ。誰だって緊張もすれば、不安にもなるさ。経験を重ねていくうちに隠すのが上手くなるだけで、その人間の本質は恐らく一生涯変わることはないよ…まぁ、天野君のおかげで良くも悪くもリラックスできて、結果にも繋がった。今日のことはそのお礼も込みだと思ってくれて構わないよ」
藤堂さんはそう言って、ブランデーを一気に喉に流し込んだ。
「…もうこんな時間か、いつまでもココにいても仕方がないな。寝室へ行こうか」
「えっ?」
何気ないトーンで語られる言葉に、僕は反射的に身を固くした。
「いえ、僕はソファーで十分です!このソファー自分の家のパイプベッドよりずっとフカフカしてますし」
わざとらしくソファーのクッション性を確かめ、我ながら不自然だな思うほどの早口でまくし立てる。
「ベッドはもっと凄いよ。それに客をリビングに置いていくような無礼なことを俺にさせるつもりかい?」
「いえ…そんなわけじゃ…」
「一応、客が来ても問題ないように、二人寝られる作りになってるから心配しなくても大丈夫だよ」
「…では、お言葉に甘えて…」
冗談のなかにも異論を挟ませない意思を感じた僕は、その無形の圧力に屈して力なく答えた。
でも、二人分のベッドがあるならいいか。
僕は自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、リビングを後にした。
これだけ広いにも関わらず、リビングからバスルームまで生活感を感じさせないほどに隅々まで隙無く磨き上げられていて、フローリングには髪の毛一本落ちていない。
僕はなるべく色々なものに触れないようにしながらバスルームに入り、少しでも汚さないように恐る恐るシャワーを浴びる。
やはりというか、シャンプーやコンディショナー、ハンドソープに至るまでこだわりが貫かれているのか、ボトルには僕には馴染みのない横文字が並び、近所のドラッグストアで特売されている代物でないことは一目で分かる。
「いい匂い…」
思わず感嘆の声が漏れる。
藤堂さんが髪をかき上げた時と同じ香り。
不意に脳裏に電流のような刺激が走り、前夜祭の夜の出来事…いや、夢が、シャンプーの独特な気だるい甘さを持った香りと共に思い出された。
この香りは、確かにあの日の夜、間近で嗅いだ…。
僕はブルブルと頭を激しく振る。
あれは勘違いだ。
妄想だ。
考えるのはやめよう。このことは。
ありもしない記憶の欠片をジグソーのようにつなぎ合わせ、存在しないピースを作り上げてしまっている。こんな状態じゃ藤堂さんの顔を見るたびに頬が紅潮して、僕の方が怪しい男だと思われてしまう。
僕はシャワーの温度を肌が痛くなるほど上げ、今日の疲れとともにくだらない考えを排水溝に流した。
髪を乾かし、身支度を整えてからバスルームを出ると、リビングのソファーに茶色い液体の入ったグラスを傾ける藤堂さんの姿があった。
「あれ、シャワー浴びる前に着替えちゃったんですか?」
疑問が思わず口をついて出る。
「シャワーが一つしかないって誰が決めたの?」
いたずらっぽい笑み。
「先に出て驚かそうと思ってね、もう一つあるシャワールームで急いで汗だけ流してきたんだ。おかげで髪もボサボサのままだよ」
藤堂さんはそう言って髪をかき上げた。
確かにややカールした黒髪は水気を帯びて艶めいている。
それに間接照明の柔らかな光の下で分かりにくかったけど、少し近づくと肌がほんのり上気している。
「シャワー出た後にお酒飲まれてるんですね」
「ブランデーを軽くね」
藤堂さんはブランデーの色合いを楽しむようにグラスを回す。
「いくらお酒に強くても、そんなに飲んで大丈夫ですか?」
「これは睡眠の質を上げるためのサプリみたいなものさ。しかも、健康だけじゃなくて人生も豊かにしてくれる万能薬。この前の天野君みたいに分量を間違えなければね」
「…その節はご迷惑をおかけしました」
僕は藤堂さんのカウンターの前に轟沈した。
「迷惑どころか助かったよ」
「そんな気をを使っていただかなくても大丈夫です、反省してます」
「本音だよ。タイトル戦…特に名人戦の前日は高揚感と不安、緊張が入り混じって精神の均衡を保つのが難しいんだ…ちょうど釣り合っている天秤にバラバラな重さのコインを乗せていくような感覚さ」
「…藤堂さんも緊張するんですか?」
「人を機械みたいに言うのはやめてくれよ。誰だって緊張もすれば、不安にもなるさ。経験を重ねていくうちに隠すのが上手くなるだけで、その人間の本質は恐らく一生涯変わることはないよ…まぁ、天野君のおかげで良くも悪くもリラックスできて、結果にも繋がった。今日のことはそのお礼も込みだと思ってくれて構わないよ」
藤堂さんはそう言って、ブランデーを一気に喉に流し込んだ。
「…もうこんな時間か、いつまでもココにいても仕方がないな。寝室へ行こうか」
「えっ?」
何気ないトーンで語られる言葉に、僕は反射的に身を固くした。
「いえ、僕はソファーで十分です!このソファー自分の家のパイプベッドよりずっとフカフカしてますし」
わざとらしくソファーのクッション性を確かめ、我ながら不自然だな思うほどの早口でまくし立てる。
「ベッドはもっと凄いよ。それに客をリビングに置いていくような無礼なことを俺にさせるつもりかい?」
「いえ…そんなわけじゃ…」
「一応、客が来ても問題ないように、二人寝られる作りになってるから心配しなくても大丈夫だよ」
「…では、お言葉に甘えて…」
冗談のなかにも異論を挟ませない意思を感じた僕は、その無形の圧力に屈して力なく答えた。
でも、二人分のベッドがあるならいいか。
僕は自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、リビングを後にした。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
キンモクセイは夏の記憶とともに
広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。
小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。
田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。
そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。
純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。
しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。
「俺になんてもったいない!」
素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。
性描写のある話は【※】をつけていきます。
林檎を並べても、
ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。
二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。
ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。
彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。
彼者誰時に溺れる
あこ
BL
外れない指輪。消えない所有印。買われた一生。
けれどもそのかわり、彼は男の唯一無二の愛を手に入れた。
✔︎ 四十路手前×ちょっと我儘未成年愛人
✔︎ 振り回され気味攻と実は健気な受
✔︎ 職業反社会的な攻めですが、BL作品で見かける?ようなヤクザです。(私はそう思って書いています)
✔︎ 攻めは個人サイトの読者様に『ツンギレ』と言われました。
✔︎ タグの『溺愛』や『甘々』はこの攻めを思えば『受けをとっても溺愛して甘々』という意味で、人によっては「え?溺愛?これ甘々?」かもしれません。
🔺ATTENTION🔺
攻めは女性に対する扱いが酷いキャラクターです。そうしたキャラクターに対して、不快になる可能性がある場合はご遠慮ください。
暴力的表現(いじめ描写も)が作中に登場しますが、それを推奨しているわけでは決してありません。しかし設定上所々にそうした描写がありますので、苦手な方はご留意ください。
性描写は匂わせる程度や触れ合っている程度です。いたしちゃったシーン(苦笑)はありません。
タイトル前に『!』がある場合、アルファポリスさんの『投稿ガイドライン』に当てはまるR指定(暴力/性表現)描写や、程度に関わらずイジメ描写が入ります。ご注意ください。
➡︎ 作品や章タイトルの頭に『★』があるものは、個人サイトでリクエストしていただいたものです。こちらではリクエスト内容やお礼などの後書きを省略させていただいています。
➡︎ 作品は『時系列順』ではなく『更新した順番』で並んでいます。
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
キミと2回目の恋をしよう
なの
BL
ある日、誤解から恋人とすれ違ってしまった。
彼は俺がいない間に荷物をまとめて出てってしまっていたが、俺はそれに気づかずにいつも通り家に帰ると彼はもうすでにいなかった。どこに行ったのか連絡をしたが連絡が取れなかった。
彼のお母さんから彼が病院に運ばれたと連絡があった。
「どこかに旅行だったの?」
傷だらけのスーツケースが彼の寝ている病室の隅に置いてあって俺はお母さんにその場しのぎの嘘をついた。
彼との誤解を解こうと思っていたのに目が覚めたら彼は今までの全ての記憶を失っていた。これは神さまがくれたチャンスだと思った。
彼の荷物を元通りにして共同生活を再開させたが…
彼の記憶は戻るのか?2人の共同生活の行方は?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる