将愛メランコリア

アマヒコ

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出会い

5.名人戦

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「…ん、んん…。」

「体調はどう?酔いはもう醒めたかな」
 優しい声が頭の上から降ってくる。ひたいに乗せられた手のひらからは、穏やかな温もりが伝わってくる。
 
 何時だろう?
 カーテンからは柔らかな春の日差しが差し込んでいる。

「大丈夫そうかな。まだ時間に余裕はあるから、眠気覚ましにシャワーでも浴びるといい。服はソファーの上に畳んでおいたよ。あと、着替えは何セットか持ってきてるから、好きに使うといい。少し大きいかもしれないけどね。私は外の空気を吸いがてら、先に行ってるよ。」
 待ってください、という言葉を飲みこんで、僕はベッドの上から藤堂名人を見送った。
 失礼なことだとは思うけれど、思考が激しく混線していて、口を開いても思いを正しく言葉に出来そうにない。
 僕はそっと、手を下腹部にやる。
 
 確かな感触。
 
 そう、昨日の事は夢じゃなかったんだ…。
 
 僕はすぐさまバスルームに向かうと、熱いシャワーで昨晩の出来事を洗い流す。
 瞼を閉じるとそこには暗闇が広がり、壁に叩く水滴の反響音と、皮膚に残る仄かな熱だけが僕を現実に引き戻した。



「昨日の夜はすごかったでしょ?」
 着替えが終わって、身支度を整え、対局場に向かっていた僕は、背後から聞こえる女性の声に思わず歩みを止めた。
 振り返ると、僕と同じく今日の対局の係りとなっている先輩女流棋士の黒田さんが、懐に身をねじこむようにグイッと顔を近づけてきた。

「え!?いや、その!!」
 その威圧感に気おされ、思わず口ごもる。
「なに?責めてるわけじゃないわよ。皆通る道だもの」
 黒田さんの切れ長の目に隠れた瞳が輝きを増す。

 何で知ってるんだ!?

 まさか…藤堂名人が自分から喋って…!!?皆通る道???まさか、黒田さんも?????

「タイトル戦の前日にあれだけ飲んでケロッとしてるんだもの、酒豪を超えて人外ね、化け物」
「飲む…あ、お酒ですか?」
「ん?他に何かあったの?」
「い、いえ、何も」
 自分の顔色が容易に想像できるほど血が上っているのがわかる。
 あやうく自ら墓穴を掘るところだった。
 疑われないように、何か話さないと。

「でも、化け物って言いすぎですよ。お酒が強いのは確かなんでしょうけど…」
「いいの、いいの。私昔ね、藤堂名人に誘われて、君みたいなシチュエーションで一緒にお酒飲んだことあるのよ。普通、タイトル戦の前の日にお酒飲むなんてありえないでしょ?だから、それを口実に…まぁ色々あるのかなと思って部屋に行ったら…」
「…行ったら?」
「まっっったく、君みたいな健全な男の子が望む展開にはならなくて、本当にひたすら酒、酒、酒!!!しかも、こっちのペース考えずに自分の飲みたいように飲むから、私すーぐ酔いつぶれちゃって、そのまま部屋で寝たんだけど、それでも、な~~んにもなかったの。こんな可愛らしい女性を部屋に入れておいて失礼だと思わない?…あ、君みたいな子供には、少し早い話だったかな?」
「20歳です!」
 からかうようなトーンに思わず大きな声を出してしまった。
 黒田さんは反応がよほど面白かったのか、口を手で覆って笑っている。

「でも、君も相当飲まされたんでしょ、同情するわ。今日は居眠りしないようにね」
 黒田さんはそう言ってから、『私はフロントに用事があるから』とだけ言い残し、僕に大量の荷物を押し付け去って行った。
 
 …僕は改めて昨日のことを思い出してみた。
 昨日は前夜祭で酔いつぶれて、藤堂名人の部屋まで連れて行ってもらって、部屋で介抱してもらって、それで…。
 
 …ひょっとして、あれは夢?いや、あんなリアルな感触が夢だったなんて、どう考えたって変だ。
 
 だけど、夢じゃないとすると藤堂名人がそういう人だってことになって、それはそれであり得ない…でも、黒田さんを部屋に呼んで、しかも酔いつぶれて部屋で寝ているのに何もしなかったなんて、男としてあり得るのだろうか。
 黒田さんは口は悪いけど、物凄い美人だし、細くて顔も小さくてモデル体型で…一般的な、女性が好きな男性なら放っておかないはずだ。
 でも、でも…僕の頭の中で思考がメビウスの輪のように連なり、何回も昨日の情景が脳裏に浮かぶ。
 
 しかし、その記憶は不確かで、僕に覆いかぶさっていた影はあくまで影で、誰だったのか、そしてそれが本当に僕の夢…いや、妄想だったのかは、僕自身にも分からなくなっていた。



 そんな煮え切らない気持ちを抱えながら対局場に足を踏み入れた僕のモヤモヤは一瞬にして吹き飛んだ。
 
 空気は凛と張りつめ、畳を踏むそのつま先の軋みさえも反響しそうなほどに静まり返っている。
 立会人には将棋界の重鎮がずらりと席を連ねている。
 少しして挑戦者の鳳王座が現れる。
 
 鍛え抜かれた長身を黒みがかった着物が一層大きく見せている。表情は硬く引き締まり、今日の対局かける決意が一挙手一投足から伝わってくる。対局場を覆う重力はますます強まり、心臓の高鳴りすら押しつぶされそうになる。
 
 その時、対局場の入口からフッと風が吹き抜け、僕は思わず視線をそちらに向けた。
 僕は思わず呼吸の仕方を忘れてしまった。
 対局場に入ってきた藤堂名人がまるで高名な絵画をそのまま現実に切り出したような、映画のワンシーンをそのまま切り抜いたような、そんな神々しさを帯びていたから。
 何かに言い訳するかのように視線を下に落とし、何とか息を吸い、心を落ち着ける。
 
 藤堂名人が何か立会人に声をかけ、場の空気が一気に和らいだ。
 鳳王座を何年もの間風雨を耐え抜き荒々しく切り立っている岩石だとするならば、藤堂名人はその岩に寄り添うように吹き抜ける一陣の風。
 剛と柔、対照的な両対局者が将棋盤を挟み相対し、そして名人戦第一局が始まろうとしている。
 
 僕は馬鹿だ。
 
 こんな凄い場所に、僕には一生想像もつかないような勝負を始めようとしている藤堂名人に、確信もなく疑いをかけていたなんて。
 
 今は、ただこの対局を、この二人の勝負をまばたきもせず、息もせず、ただただ見ていたい。僕が目指す先の先にいる藤堂名人の姿をこの瞳に焼き付けたい。
 
 そう思った。

 対局は二人の性格をそのまま盤面に映し出すかのように進んでいった。
 鳳王座の武骨で引くことを知らないゴリゴリと音が出るような苛烈な攻めを、藤堂名人が柳のように受け流し、じらす。
 鳳玉座が踏み込んだ分だけ藤堂名人が引き、そして鳳玉座が引いた分と半歩だけ藤堂名人が踏み込む。
 終盤、いつの間にか攻守が逆転し、藤堂名人が真綿で首を絞めるように少しずつ相手陣地を侵食し、そして食い破る。
 鳳玉座が「参りました」と凛とした声をあげ、藤堂名人が深く一礼をしたのは、翌日の夜8時を過ぎた頃だった。
 藤堂名人が名人位の防衛を決め、無数のカメラがその表情をとらえようとフラッシュをたく。
 
 瞬間、僕の足をコツリと叩く感触がした。

「顔伏せて。テレビも入ってるんだから、これでふきな」
 僕は自分でも全く意識しないうちに涙を流していたらしい。
 隣の黒田さんから手渡されたハンカチでこっそりと涙をぬぐい、再び盤を挟んで対峙する二人に視線を戻した。
 ぬぐいきれなかった涙で少しだけぼやけた視界に映る藤堂名人の姿は凛々しく、美しく、そして一昨日の夜より少しだけ遠く見えた。
 
 僕もいつか藤堂名人のように!
 
 …そう心の奥底で強がっても、吹き払うことのできない澱のようなモノが身体の芯の部分で膨れ上がるのを感じながら、僕は対局場を後にした。
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