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金網越しの幻
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水彩絵の具を塗り広げたような鮮やかな青空に、鳴り止まない歓声が響いていた。
思わずぼくは足を止め、声のする方に虚ろな視線を流した。
それは、流され、追われ、打ちのめされ、澱んでいたぼくの世界に飛び込んできた光。いつか憧れた、黒髪をなびかせ走るあの子の姿だった。
ぼくは自分の目が信じられなかった。大きく目を見張り、何度も瞬きした。
歓声は少年少女の口から発せられる叫び声。割れんばかりの拍手。メガホンを夢中で叩く音。
ぼくは金網越しに突っ立ったまま、懐かしい光景に目を奪われた。
憧れのあの子は、ゴールテープを切った後仲間と抱き合った。透明な水を一気に飲み干し、世界中のどんな高級な飲み物よりも美味しかったとでもいうような笑顔をはじけさせている。そして額に光る汗を拭いもせず、次の瞬間にはもう仲間の応援に大声を出し始めた。華奢な腕が握りこぶしを掲げ、コロコロと表情を変えた。
いけー!! もうちょっと! 抜けー!
いいぞー! あとひとり!! よし!!
ばか、何やってんだよ~!
走れ、走れ!!
応援、罵声、悲鳴、爆笑、絶叫、拍手。そんなものが入り混じる生徒達の大歓声に、ぼくの心は揺れた。
誰もがヒーロー 誰もがヒロイン
今日というこの日だけは
一等でも最下位でも 同じ拍手を送ろう
みんなが同じ笑顔 それだけで拍手を送ろう
そんな歌が聴こえてくるような気がした。
競技がひと段落したところで、あの子は本部のテントに近づき、クラスの順位を気にしている。そしてマイクアナウンスが流れると、誰かの姿をしきりに捜し始めた。
あれはきっと憧れの人。さっきまで元気に大声を張り上げていたあの子とはまるで別人のようにおどおどした少女に早代わりだ。
あれはいつかのぼくが見た横顔。瞼を伏せがちに、意味もなく長い髪を指先に絡めている。あの日もこんな風にあの子の姿を追っていた。大好きな彼を捜すあの子を、ずっと見ていた。
走る事 飛ぶ事 投げる事 叫ぶ事
泣く事 笑う事 怒る事 恋する事
そんな事に夢中になり、毎日命懸けで生きていたあの頃。ちょっとだけいいとこ見せたくて、あの子の関心引きたくて、みんなが敬遠する競技に手を挙げた。だけどあの子は、後ろの席の友人と放課後に立ち寄るおしゃれなカフェテラスの話に夢中だった。視線の端に映る黒髪がいつもに増して眩しく見え、ちょっとだけ切なかったっけ。
何気なく通りかかったグラウンドの歓声。あの頃あんなに大人だと思っていたぼくたちが、本当はこんなにも小さくてあどけなくて一途だったんだと知ったよ。
あの頃とは違い、歩幅が広くなり、スーツが似合う男になったよ。だけどやっぱりあの子は振り向かない。
今ぼくは、金網越しに立つ。いるはずのないあの子の幻影を見ている。あそこで、ちょっとだけ気だるそうにひとり石の階段に腰掛けているのは、あの子を見つめているあの日のぼく。
もう秋だというのに、何故こんなにも陽射しが強いんだろう。軽い眩暈を覚え、気づくと、ぼくの額にも汗がじんわりと浮かんでいた。それを拭いもせず、もう随分と永い時間立ち尽くしていた事に今気づいた。時計を見るのが一瞬恐くなったほどだ。
ぼくはそんな自分の姿を滑稽に感じ、思わずひとりで苦笑いを浮かべた。右手には茶封筒に入った書類の束。そして大きなビジネスバッグ。
流され、追われ、打ちのめされ、澱んでいるぼくの世界で、ぼくは汗と涙にまみれそれでも生きている。
ぼくはしっかりと封筒とバッグを抱え直した。
歩き出そうと一歩足を踏み出し、もう一度だけ熱気に包まれたグラウンドを振り向く。金網越し。額の汗を拭いもせず、砂埃を立て、友達とはしゃぎながらこちらに向かって駆けて来るあの子。
泥と汗と涙と笑顔にまみれ、今ぼくの目の前を一瞬の風になって通り過ぎた。
思わずぼくは足を止め、声のする方に虚ろな視線を流した。
それは、流され、追われ、打ちのめされ、澱んでいたぼくの世界に飛び込んできた光。いつか憧れた、黒髪をなびかせ走るあの子の姿だった。
ぼくは自分の目が信じられなかった。大きく目を見張り、何度も瞬きした。
歓声は少年少女の口から発せられる叫び声。割れんばかりの拍手。メガホンを夢中で叩く音。
ぼくは金網越しに突っ立ったまま、懐かしい光景に目を奪われた。
憧れのあの子は、ゴールテープを切った後仲間と抱き合った。透明な水を一気に飲み干し、世界中のどんな高級な飲み物よりも美味しかったとでもいうような笑顔をはじけさせている。そして額に光る汗を拭いもせず、次の瞬間にはもう仲間の応援に大声を出し始めた。華奢な腕が握りこぶしを掲げ、コロコロと表情を変えた。
いけー!! もうちょっと! 抜けー!
いいぞー! あとひとり!! よし!!
ばか、何やってんだよ~!
走れ、走れ!!
応援、罵声、悲鳴、爆笑、絶叫、拍手。そんなものが入り混じる生徒達の大歓声に、ぼくの心は揺れた。
誰もがヒーロー 誰もがヒロイン
今日というこの日だけは
一等でも最下位でも 同じ拍手を送ろう
みんなが同じ笑顔 それだけで拍手を送ろう
そんな歌が聴こえてくるような気がした。
競技がひと段落したところで、あの子は本部のテントに近づき、クラスの順位を気にしている。そしてマイクアナウンスが流れると、誰かの姿をしきりに捜し始めた。
あれはきっと憧れの人。さっきまで元気に大声を張り上げていたあの子とはまるで別人のようにおどおどした少女に早代わりだ。
あれはいつかのぼくが見た横顔。瞼を伏せがちに、意味もなく長い髪を指先に絡めている。あの日もこんな風にあの子の姿を追っていた。大好きな彼を捜すあの子を、ずっと見ていた。
走る事 飛ぶ事 投げる事 叫ぶ事
泣く事 笑う事 怒る事 恋する事
そんな事に夢中になり、毎日命懸けで生きていたあの頃。ちょっとだけいいとこ見せたくて、あの子の関心引きたくて、みんなが敬遠する競技に手を挙げた。だけどあの子は、後ろの席の友人と放課後に立ち寄るおしゃれなカフェテラスの話に夢中だった。視線の端に映る黒髪がいつもに増して眩しく見え、ちょっとだけ切なかったっけ。
何気なく通りかかったグラウンドの歓声。あの頃あんなに大人だと思っていたぼくたちが、本当はこんなにも小さくてあどけなくて一途だったんだと知ったよ。
あの頃とは違い、歩幅が広くなり、スーツが似合う男になったよ。だけどやっぱりあの子は振り向かない。
今ぼくは、金網越しに立つ。いるはずのないあの子の幻影を見ている。あそこで、ちょっとだけ気だるそうにひとり石の階段に腰掛けているのは、あの子を見つめているあの日のぼく。
もう秋だというのに、何故こんなにも陽射しが強いんだろう。軽い眩暈を覚え、気づくと、ぼくの額にも汗がじんわりと浮かんでいた。それを拭いもせず、もう随分と永い時間立ち尽くしていた事に今気づいた。時計を見るのが一瞬恐くなったほどだ。
ぼくはそんな自分の姿を滑稽に感じ、思わずひとりで苦笑いを浮かべた。右手には茶封筒に入った書類の束。そして大きなビジネスバッグ。
流され、追われ、打ちのめされ、澱んでいるぼくの世界で、ぼくは汗と涙にまみれそれでも生きている。
ぼくはしっかりと封筒とバッグを抱え直した。
歩き出そうと一歩足を踏み出し、もう一度だけ熱気に包まれたグラウンドを振り向く。金網越し。額の汗を拭いもせず、砂埃を立て、友達とはしゃぎながらこちらに向かって駆けて来るあの子。
泥と汗と涙と笑顔にまみれ、今ぼくの目の前を一瞬の風になって通り過ぎた。
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