翡翠の記憶 ~みどりのきおく~

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第一章 日記

日記(2)

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 放課後──。
 二年B組の教室には、人影がなかった。ただひとりの生徒を除いて──。
 もう三十分程前に、クラスの生徒は姿を消していた。ホームルームが終わると、生徒達は互いに「バイバイ」「じゃ、また明日ね」「夜電話するわ」「あー部活か、かったりぃな」などと言い合いながら、バタバタと教室を出て行った。しばらく教室で話し込んでいた生徒も、葉月亜弥が席から動かないのが気になったのか、コソコソしながらいつの間にか出て行ってしまった。
 誰も亜弥にさよならの挨拶をする者はなく、その存在さえ疎まれていたと言っても過言ではなかった。
 亜弥は自分以外の生徒がいなくなった事で、やっと落ち着きくつろぐ事ができた。教室の窓から中庭を見下ろすと、幾人もの生徒がはしゃぎ合いながら駆け回ったり、花壇の隅に腰掛けて語り合っている。
 クラスで孤立している亜弥には縁のない世界だった。
 元々口下手な彼女は、友人を作るのが苦手で、高校に入ってからずっとひとりで行動していた。登下校も、お弁当を食べるのも、移動教室での授業に行く時も、体育の授業でペアになる時も、誰も亜弥と行動する者はいなかった。声を掛ける者もいなかった。決していじめや仲違いがあった訳ではない。亜弥自身に、他人を寄せ付けない空気があったからという理由が大きかった。
 それは、小学校の頃から変わりなかった。どうやって話をすればいいのかわからない。楽しくお喋りしている女子に思い切って声を掛けても、突然会話を終わらされたり、やたら改まって返事されたり、同級生なのに敬語を使われたり……。
(ひとりでいい)
 いつか、亜弥自身がそう思い、誰にも心を開く事をやめてしまった事も大きく影響していた。
 亜弥は誰もいなくなった教室で、相変わらず頬杖をついて外を見ていた。しかし、もうその目にははしゃぐ生徒達の姿は映っていなかった。彼女の意識は、違う世界に浮遊していた。それは、誰も入って来られない彼女だけが知り得る世界。そして、視線をゆっくりと机の上に移す。そこには、一冊の分厚い本のようなものがあった。生徒達がいなくなってから鞄から取り出され、机の上で広げられたままの本。傍からみればその様子は、読んでいるというよりは本を鑑賞しているようだったに違いない。

「まだ帰らないの?」
 突然背後で男の声がした。亜弥は心臓が飛び出す程驚いて、顔を上げた。振り向くと、クラス委員に立候補した物好きな男子生徒が口許に笑みを浮かべて立っている。
 亜弥は、辺りを見渡した。しかし、自分以外誰もいない。やはり深い森の香りがする少年に対し、亜弥は返事をせず視線を戻すと、目の前の本を隠すように慌てて閉じてしまった。
「すっごい分厚い本だね。何の勉強してるの?」
 彼は無視されても構わずに喋り続け、しまいには亜弥の向かいの椅子に反対向きに座り込み、背もたれに両手を置いて彼女を真正面から見た。
「随分古い本じゃない? いや、本っていうかノート?」
 郁は、閉じられた分厚い本に手を伸ばした。その途端、亜弥の厳しい声が飛んだ。
「触らないで!」
 初めて亜弥が大声を発した。どちらかと言えば低めの、しかしよく透る声だった。その視線は郁には向けず、あくまで自分の手許の本しか見ていない。
「あ、ごめん」
 彼は、手を止めて肩を竦めた。何か、いたずらを咎められた子供のような表情だった。それでもその場から動かない郁に亜弥は苛立ち、突然ガタンと大きな音を立てて立ち上がった。彼がその音に反応して顔を上げると、亜弥は不快な目をして見下ろした。
「あなたいったい何よ。そこにいられると、気が散って仕方ないんだけど」
 他のクラスメートがいたならきっと「意外」と思う程、亜弥の声は大きかった。だが彼は気後れする事なく、目を細めて笑う。
「あ、覚えてない? 申し遅れました。俺、北條郁。君と一緒に二学期のクラス委員やる事になった男。夏休みにこの街に引っ越して来て、二学期からこの学校のこのクラスに転入して来たの。つまり君のクラスメートってわけ。ヨロシク」
 背もたれに両手を乗せたまま軽い調子で一気にそう言うと、郁はにっこりした。
 一切の邪気を持たない、黒よりも少しだけ淡い鳶色の瞳。亜弥は、再びその目に吸い込まれそうになったが、気を取り直して突っぱねた。
「ああ、そう。北條くんだったわね。クラス委員に立候補した物好きな。でもわたし、二学期になって今日初めて登校したから、悪いけど知らなかったわ」
「今朝の事も覚えてないの?」
 亜弥は顔をしかめた。今朝の事は当然覚えていたが、何だか癪に障ったので覚えていない振りをした。
「さぁ、覚えてないわ」
 亜弥は興味なさそうに答えると、再び大きな音をたてて椅子に座り込んだ。
「そっか。ま、とにかく今この瞬間に覚えてくれた訳だ。明日からは、そんな警戒の目で見られない事を期待するよ」
 郁は両足をブラブラさせながら、しれっとして言う。
「それで?」
「え?」
「それで、わたしに何の用?」
 亜弥は相変わらずつっけんどんだ。自分の大事な時間を邪魔された事に、ただ苛立っていた。
「言っただろ、『まだ帰らないの?』って」
「わたしがいつ帰ろうと、あなたに関係ある?」
「ないよ」
「だったら」
 亜弥は、キッと郁を睨みつけながら言った。
「邪魔しないで。わたし、大事な考え事してるの」
「もしかして、誰か待って……」
 郁は途中で言葉を止めた。
〝そうそう、あいつ、あの青木とできてるんじゃないかって噂もあるんだぜ〟
 今朝永井の言ったセリフが、彼の頭をかすめたのかもしれない。
「ごめんごめん。邪魔しないよ」
 郁はそう言って立ち上がり、亜弥の視界から消えた。ほっとした亜弥は、先程の書物を再び広げ、しばらくじっと目を落としていた。放って置けば、その内諦めて教室から出て行くだろう。
 西日の当たる窓は十センチ程開いており、そこから流れる残暑の空気が、亜弥の長い前髪をカーテンのように軽く揺らしている。
 彼女はもう、郁の存在など忘れてしまっていた。

 どの位の時間そうしていただろうか。やがて校内放送が流れた。
『全校生徒に連絡します。間もなく下校時間になります。まだ校舎内に残っている生徒は、すみやかに下校して下さい。繰り返します……』
 少し年老いた女性の声だった。
 亜弥は左手の革ベルトの腕時計に目をやり、いつの間にか六時前である事に気づくと、少し諦めたような表情で分厚い本を閉じた。
「さ、帰ろっか」
 教室の背後の収納棚に座っていた郁が、軽く伸びをしてポンと床に飛び降りた。
「あなた、まだいたの」
 振り向いた亜弥は、驚きと同時に呆気に取られた。
「ひどい言われようだな。とにかく帰ろう」
 亜弥はこのとてつもないおせっかい男にうんざりした。彼は教室の戸締りを手馴れたようにすると、自分が座って乱れた机と椅子もきちんと元に戻していく。
 ちょうど片付けが終わった頃、午後六時のチャイムが鳴り響いた。
 外はもう薄暗く、教室にふたりしかいないせいだろうか。普段のチャイムよりやたら寂しく耳に響いて聴こえるのだった。
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