翡翠の記憶 ~みどりのきおく~

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第一章 日記

日記(1)

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(気だるい……。やっぱり今日も休めば良かった)
 下駄箱に辿り着くと、亜弥あやは通学靴から校内用の青いスリッパに履き替えた。
 クラスメートが後から後から昇降口に入って来て、互いに挨拶を交わしては廊下に消えて行く。朝の爽やかな空気の中で、彼女ひとりだけスローモーションの世界にいるようだった。
 沈んだ心を更に奈落へと落とすような予鈴が響き渡る。また虚しい一日が始まるのだ。
(──?)
 その時、突然深い森の中にいるような錯覚が亜弥を襲った。
(何だろう。この感覚は──)
「おはよう!」
 真横で大きな声がし顔を上げると、そこにいたのは見た事もない男子生徒だった。周りを見渡してみたが近くには誰もおらず、男子生徒は確かに自分を見ている。自分に挨拶をする生徒なんて滅多にいない上に、知らない人だ。亜弥は怪訝な目をした。
 前髪を垂らした陰気臭い亜弥のその様子は、やたら遠慮深い幽霊のようでもあり、確かにそんじょそこらの生徒では容易に声を掛けられない雰囲気を放っていた。
 しかしその生徒は、もう一度明るく亜弥に挨拶した。
「おはよ!」
 亜弥は目を逸らして軽く頭を下げると、階段に向かって廊下を歩き始めた。しばらくするとスリッパに履き替えたその生徒が、亜弥を追い越して軽やかに階段を駆け上がって行った。
「のんびり歩いてると、遅刻だよ!」
 あくまで爽やかだった。亜弥は不思議な感覚に囚われていた。森の香りを運んで来たのは、あの少年だったのだ。

「……よし。じゃあ今学期の女子のクラス委員は、推薦で葉月はづき亜弥に決定だ。みんな、意義はないか?」
「賛成ーっ」
「いいんじゃない? 葉月さんで」
「意義なーし!」
 賑やかなホームルームの時間。過半数の生徒が拍手をして議題の取り決めに賛意を示した。ほとんどの者がほっとした顔をしている。「私に当たらなくて良かった」誰しもそんな言葉をまだ幼さの目立つ顔に描いていた。
「葉月も意義ないか?」
 県立M高校二年B組の担任教師・青木は、西側の教室の端の後ろから二番目の席に座る少女に声を掛けた。亜弥は自分に向けられた声に無表情で顔を向けたが、特に言葉は発しない。
「お前、嫌なら今の内に嫌って言わないと、みんなの意見で委員にされちまうぞ」
 それでも亜弥は何も言わず、顔色ひとつ変えない。大人しくて何も言えないというよりは、教師の言っている事に全く興味がない、といった表情だった。
 青木は鼻でため息をつくと、「よし、じゃあ決まりだ」と大きな声で言った。教室中に、再度安堵の声と拍手が響く。
「じゃあ、後は男子の方だな。特に推薦がないようだが、誰か立候補する者はいないか?」
 青木は、淡々とした表情で教室を見渡す。おしゃれな銀縁眼鏡が嫌味なく彼の鼻の上で光っていた。
 しかし、男子生徒はみんな興味なさそうに机に頬杖をついたり、暑そうに下敷きで顔を仰いだりしている。女子生徒も、前後の者と意味ありげにヒソヒソ話などをして笑っている。
「どうだ。誰かいないか? いないなら、先生が適任者を指名するぞ!」
 その一言で、男子の多くが顔色を変えて「そりゃあないぜ」というブーイングだ。
「はい」
「お、北條ほうじょういく。お前立候補か?」
 クラス全員の視線が、一斉に北條と呼ばれた生徒に集中する。
 教室の東側で、廊下側の前から三番目の席に座っているその少年は、みんなの視線に気後れする様子も見せず、軽く右手を挙げたまま黙って頷いた。
「お前、転入して来たばかりでこの学校の事もよくわかってないのに、立候補とはまた感心だな」
 まだ三十代に入ったばかりの青木は、浅黒く日焼けした顔をくしゃつかせて笑った。
「わからないから、知るにはいい機会でしょ」
 郁も、青木に向かってにっと笑い返した。男子生徒は「おおー!」という歓声をあげている。もちろん「適任者」に指名されるような面倒な事態を免れたからだ。しかし、女子生徒は男子とは全く正反対の反応を示していた。どう見ても納得いかないような顔で、あちこちから「何で北條くんが……」といったヒソヒソ声が聴こえてくる。しかし、青木は耳を貸さず積極的な郁の行動を称えた。
「よし。じゃ、二学期のクラス委員は、男子が北條郁。女子が葉月亜弥で決定だ。えっと、北條。葉月は見てわかるように大人しい子なんで、転入生と言えどお前が頑張ってフォローしてやってくれよ」
 相変わらず青木はにこにこしながら郁に言葉を預けた。
「なんでぇ?」
「サイアク……」
 女子の間では、これまた相変わらずひっそりとブーイングが起こっていた。しかし当の少年は、満足気な表情で椅子の背もたれに身体を預けていた。
 亜弥は、怪訝な目で反対方向の端っこに座る転入生を斜め後ろから見た。ちょうど郁の後ろの席に座る永井が、彼の背中をシャープペンの後ろで軽くつつき、耳元で何かささやいているところだった。
 どうせ自分の悪口だろう。亜弥は目を逸らすと、肩の上で跳ねる髪で隠すように顔を背け、頬杖をついて中庭に目線を落とした。
 亜弥の勘は、当たっていた。
「ばっかだなぁ、お前何で立候補なんかしたんだ?」
「何でって、何で?」
 軽い口調の永井に、郁は尋ね返した。
「まぁ、知らないから仕方ねぇよなあ。……さっき青木も言ってただろ。すっげー大人しいの。あの葉月って奴。今日はたまたま出て来てるけど、新学期になってから初めてだぜ。しょっちゅう休んでるから影も薄いし、友達はいないし。だからこんな嫌な役目負わされるハメになってんだよ。気の毒に」
 そう言っている永井の顔は、少しも気の毒そうではなく、どちらかと言えば楽しそうにさえ見えた。
「ほら、必ずクラスにひとり位いるだろ、浮いてるって奴。女子にも男子にも相手にされねぇ、暗ーい奴さ。お前、ホント後悔するぜ。何思って立候補なんかしたのか知らねぇけど。そうそう、あいつ、あの青木とできてるんじゃないかって噂もあるんだぜ」
 永井は、教壇の上でチョークを鳴らしている青木を顎でしゃくった。
 郁はつられて青木に目をやると、「へぇー。そりゃ面白い」と興味深そうな声で言い、身体を元の体勢に戻した。
「北條、葉月。じゃあ一言ずつクラス委員として何か挨拶して貰おうか。ふたり共席を立って」
 西側の端っこで亜弥が気だるそうに席を立つと、東側の端っこでは郁が席を立つ。教壇に立つ青木とで、教室にちょうど大きな不等辺三角形ができあがった。
「よし、じゃあ北條から」
「えっと。俺……いや、僕はまだ転入して来て一週間だし、この学校の事もクラスの事もまだよくわかってないけど、とにかく一生懸命頑張りますので、みんな協力よろしくぅ!」
 最後は勢いよく両手を挙げてアピールした郁に、盛大な拍手が起こった。根っから明るい性格の彼には、すでに友達や憧れる女子がたくさんいた。
「じゃあ、葉月。何か一言あるか?」
 亜弥は相変わらず気だるそうに黙っていると、ふと視線を感じて廊下側を見た。視線の先には、郁がいた。亜弥の長い前髪の間から覗く無表情なその目は、しっかりと郁の目を捉えた。まっすぐに見つめる彼の目に、亜弥は一瞬たじろぎそうになった。
 亜弥とは正反対な自信に満ちた瞳。その瞳によく似あうセンターパートの黒髪を、ナチュラルに左右に流している。意志の強そうな眉と、そしてどこか少し笑っているような口元──。
 今朝昇降口で会った少年だとすぐに気づいたが、あの時には感じなかった既視感を覚えたのだ。
(この人、どこかで会った事ある──?)
 だが、考えても想い出す事ができなかった。
 亜弥が気の効いた挨拶をするとは、きっとクラス中の誰もが期待していなかったし、亜弥自身もそんな気は更々なかった。だが、この時は意図せずに声が出なかった。まるで悪い魔法にでも掛かったように、声を奪われてしまったのだ。
「どうした? 葉月」
 青木が出席簿を肩の上に当て、急かすようにトントンと鳴らす。
「いえ……よろしく」
 亜弥は虫のような小さな声で呟くと、そのまま椅子に座った。
 止まっていたように思えた空気と時間は、再びゆっくりとごく当たり前のように流れ出した。
 九月十日。教室の外には、まだ残暑のうだるような空気が漂っていた。
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