春秋館 <一話完結型 連続小説>

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第四章 秋

Order30. 遠い人

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「ありがとうございました。またよろしく」
 その日最後のお客を見送る青年の声と共に、ガランと木製の扉は閉まった。そして少女の手から流れていたチャイコフスキーも、ちょうどフェードアウトしていく。
「お疲れ。今日も遅くまでありがとう」
 青年が言うと、少女はふぅと息をついてピアノの蓋を静かに閉めた。
〈今日もご苦労様〉
 ピアノに心の中で労いの言葉を掛ける。これは少女のいつもの習慣だった。
「後は僕がやっておくし。あがってくれていいよ」
「あ、ええ……」
 少女はチラッと腕時計を見てから休憩室に行くと、自分のこげ茶色のバッグを探った。そのポケットに入っている宝くじ大の二枚のチケット。……数日前、元予備校生の少年が少女に預けて行ったものだ。「店長さんとでも」と言って、学園祭での自分達のバンドの演奏会に招待してくれたのだ。
 青年が学園祭のために店を閉めるとは考えにくいが、少女は意を決して……だけどあくまでさりげなく誘ってみる事にした。
 少女は小さく深呼吸すると、ピョコンと勢い良く休憩室から出た。そして、カウンター内で後片づけをしている青年に「あのね」と声を掛ける。
「いつも来る元予備校の男の子、いるじゃない? 名前は知らないけど……」
「あぁ、彼がどうかした?」
 青年は蛇口のレバーを下げて水を止めると、少女の方に視線を向けた。少女は、チケットを持った両手を後ろ手にまわしたまま、内心「さりげなく、さりげなく」と呟いていた。
「あの人、サークルでバンドやってるんだって。見かけによらないのね、人って」
「へぇ。よく知ってるね」
 青年は意外そうに首を傾げた。それもそうだろう。少年と少女との接点など、この店以外にないはずだ。青年が知らない事を少女だけ知っているのは不思議に違いない。だけど少女はあえてその辺の説明を飛ばした。
「……で、チケット貰ったんだけど、行かない?」
 さりげなく、と思っていたのに、最後の「行かない?」に、余計な力がこもって声が上ずってしまった。こういう自分には本当にうんざりする。
「あ、そうなんだ。え、いつだって?」
 青年は、タオルで手を拭きながら店の壁に貼られたカレンダーを見て訊き返す。
「来週の金曜日なんだけど……」
 少女の胸は、期待で熱くなった。
「金曜日か……あ、ごめん。その日は無理だ。夜、誘われてて……」
「え!!」
 少女は、自分でもびっくりする程大きな声を出してしまった。青年の交友関係を全て把握している訳ではないが、彼を夜から誘い出す人っていったい誰なんだろう。
 少女はものすごい不安に駆られた。文字通り不安そうな顔で見つめていると、青年は柔らかな笑みを返した。
「ヤスさんだよ。たまには飲みに行かないかって」
「あ……そう……なの」
 少女は、肩の力が抜ける想いがした。ほっとして、同時にガッカリして、更に少し悔しくて。この想いを複雑と言わずして、どれを複雑と言うのだろう。
 少女は、常連客であるヤスさんの白髪交じりの頭と、愛想の良い顔を思い浮かべた。
 ヤスさんなら仕方ないか……でも、なんだってわざわざこの日なのよ。滅多に飲みに行ったりなんてしないくせに。それともわたしが知らないだけ?
 少女は、恨めしい目で青年を見やった。そして、少しだけ唇を尖らせながら、ついこんな言葉を発してしまった。
「わたしもついて行こうかな。ひとりで学園祭行ったってつまんないし……」
「なぁに言ってんの。未成年のくせに」
「来年、もう成人式だもの。ちょっと位……」
 少女は以前大学の友人宅でお泊り会をした時に、みんなで買い込んだ酎ハイやカクテルを飲んで羽目を外した事がたった一度だけあった。それでも今時の大学生にしてはかなり真面目な人間だと自分で思っているが、青年が知ったらきっと「こらっ」と言うだろう。
〈わたしの事、妹か娘みたいに思ってるのかしら……〉
 その青年が、少女の心を読むようにじっと見つめているので、少女は慌てて言い直した。
「嘘よ。わたしは飲まないから。ね、いいでしょ? ヤスさんともゆっくり話してみたいし」
 最後のセリフはとってつけたような理由ではあったが、少女は可愛く表情を作って首を傾げてみせた。だが、青年の言葉は期待に反したものだった。
「約束したんだろ? 彼と。行ってあげなよ。友達誘って」
「! 約束なんてしてないわっ。彼が勝手に押し付けて行ったのよ!」
 少女は、自分の言い草にびっくりした。
「でも、彼はきっと楽しみに待ってるよ」
「どうでもいいわ、そんな事」
 色んなショックが混ざり、どんどん口調が荒くなっていく。このままじゃまた気まずい事になってしまう。少女は空気が悪くなるのを恐れ、そのまま黙り込んでしまった。
 青年が軽くため息をつき、ちょっとだけ困った顔をしたのが視線の端に入った。
「どうしたの? 最近……」
「どうって、何が?」
 少女は、青年の目を見ずに訊き返した。
「なんかイライラしてるね」
「…………」
 誰のせいだと思っているんだろう。
 少女は、とても口に出せない罵詈雑言を心の中で叫んだ。だけど、表情には意地でも出して堪るものか。
「そうかしら。気にし過ぎじゃない?」
 なんとか優位な立場になりたくて、無理にさらりと答えると、後ろ手のチケットを手の中でくしゃくしゃにして、そのまま背中を向けた。
 ああ、なんて子供なんだろう。これで来年成人ですって? まるで中学生じゃない!
 少女は心の中、自分で自分を罵倒した。でも、どうしても素直になれない。
 イライラしているのは確かだ。心配しても、甘えてみても、怒ってみても、一向に応えてくれない。いつもいつもいつもわたしは待ってるだけで……。
 だけど少女は、それが青年だけではなく、自分のせいである事も知っていた。
 何故言えないんだろう。わたしも誘って欲しいのって。どっちでもいいから一緒に行きたいのって。仕事以外でも、せめて日本にいる間位は一緒にいたいのって……。
 しかし、背中を向けたままの少女の口から出た言葉は、心とは正反対のものだった。
「わかった。じゃ、そうする。……大学の友達、男の子も女の子もいっぱいいるし。彼が、もう一枚は店長さんにって言ってくれたから誘ったけど……無理なら仕方ないわ」
 他人が聴けば、さっきからかなり感じの悪い女である。
「ごめんね。今度彼が来たら謝っておくよ」
 青年の声が、背中に突き刺さって痛い。少女は振り返ると、「だから、その日はバイト休ませて下さいね。いいですか」と無表情で言った。
「ああ、いいよ。僕も早めに店じまいするつもりだったし。楽しんでおいで」
「ええ。も」
 普段、お客のいないところで青年の事を〝店長〟などと呼ぶ事はまずない。
 まるで感情のこもっていない返事に、青年はよくわからない表情で微笑むと、少女の頭をポンポンと叩いて店の外へ出て行った。

 ……何よ、それ。
 少女は、ポツンと取り残された気分になった。
 青年にとったら、自分の行動なんて滑稽なんだろう。強がってみせたって、全部お見通しなんだろう。面倒臭い女だって思われてしまったんだろう。そんな事、自分でもわかってる。でも、だからってどうすればいいのよ。
 少女は手の中でくしゃくしゃになったハデな色をした二枚のチケットを見つめた。
 ……彼の目の前で、ビリビリに破いて捨ててやりたい。どうなったって、知った事じゃない。彼がほうきとチリトリを持って来て掃除すればいい。こんなもの、貰わなけりゃ良かった。そうすれば、ばかな期待なんてせずに済んだのに。
 少女はチケットを持つ手に力を込めた。
 ……だけど、いつも無表情でぶっきらぼうな元予備校生の、初めて崩れた表情を想い出すと、とてもそんな事はできなかった。少女はチケットのしわを丁寧に伸ばした。

 金曜日。少女は元予備校生に誘われて、彼のバンドの演奏を観に行く。同じ金曜日。青年は常連客のヤスさんに誘われて、少女の知らない場所へ飲みに行く。
 わたしには行けない場所……連れて行って貰えない場所。

 秋は、人を不安にする。ちょっとした事が、寂しくて寂しくて堪らない。
 少女は、静まり返った店内に立ち尽くしていた。
 さっきまで歌ってくれたピアノは、押し黙っている。相棒であるはずのピアノですら、笑いを押し殺して自分を見ているように思えてくる。

 少女は固く口を結んだ。

 出会って随分になるけれど。
 青年がこんなに遠くに感じた事はなかった……。
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