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第三章 春
Order25. 憧れの人 《後編》
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参考:《前編》
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5935910
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「僕、もうすぐ旅に出るんだよ」
「え、旅?」
それまで手持ち無沙汰のように突っ立っていた昇一は、きょとんとした目で青年の横顔を見つめた。エプロンを外し、淡い色のシャツにラフなジーンズ姿でここにいるのは、いつもの〝店長〟ではなく、ひとりの若い男に見えた。
「昇一くんはここに通ってくれるようになったのは春以降だから知らないと思うけど、毎年夏と冬は日本にいないんだ。何ヶ月になるかはその時次第」
「そうなんですか?」
昇一は、お客の言った言葉の意味を理解した。そして、店の壁に貼られたたくさんの海外写真の意味も知った。梅雨もとっくに明け、すでに本格的な夏の暑さが訪れている。じゃあ、青年が旅立つのも本当にもうすぐなのだろう。
「うん。だから、君を置いてあげる事はできないんだ。何より未成年の君に何かあったら、責任持てないし。それは、わかって」
「……すいません。勝手な事ばかり言って……本当に」
昇一は申し訳なさそうに俯くと、肩を落とした。青年は、二度目の煙を空に向かって吐いた。
「だけど……店長さんはどうしてそんなに長期間店を閉めてまで旅を?」
昇一は素朴な疑問を投げかけた。普通であれば、せっかくついた常連客を手放す恐れもあるかもしれない。
「確かにそうだね。君の考えている通り、幸い昔からのお客さんは僕の事理解して、離れずついてきてくれているけど……個人のコーヒー店の売り上げなんて微々たるもんだ。旅の費用は、旅の中で仕事をしながら捻出しているんだよ。幸い僕は語学ができるからさ」
「そうなんですか」
昇一は改めて青年を尊敬した。彼は、自分がやりたいと考えている事を全て成しとげているような気がする。
「君の質問の答えだけど、全ては身勝手な僕の夢のためかな」
「店長さんの夢、ですか?」
「うん。……いつか、遠い土地で暮らしたいと思ってる」
「遠いって……日本じゃないって事ですか?」
「そう。多分、どこかの国。いつになるか、どこになるかまだ何も決めてないけど。ぼんやりとそんな事を結構前から考えてる」
「もしかして、今あちこち旅してるのはそのためなんですか? 自分に合った土地を見つけるために」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかも。旅は旅でとても楽しんでるから。その夢は抜きにしても」
昇一は、ひとつ気になった事をおずおずと尋ねた。
「あの、じゃあ、そうなったらこのお店は?」
「店は閉める事になるだろうね。後継者は今のところ考えていない」
「…………」
それがこの若い店長の魅力の全てなのかもしれない。何のしがらみもなく、いつでも自由にどこへでも行けるという、人間が最も欲する望みを手中に捉えているという事。そして彼がいつも見ているのは、この狭い店内ではない。そこに訪れる人々の人生、夢、本質……。
「でも、まだまだ先の話だよ、多分。一番大事なお客さんに、僕の都合だけで簡単に迷惑を掛ける訳にはいかない。何年先か何十年先か……そんな話だよ」
昇一は、青年のいない『春秋館』を想像してみた。――とても考えられない。ましてや店を閉めるなんて。それに、青年だけじゃない。
「あの、いつものあの人はお休みですか? ピアノの……」
「うん。今日は休み」
「あの人は、もう永いんですか?」
「彼女は、もう一年半通ってくれてるよ」
「大学を卒業されたらもちろん店は辞められるんですよね?」
「そりゃそうだろうね。本職の仕事の方がずっと大事になるだろうし」
「そうなったら、また代わりの人を?」
青年は一瞬動きを止めると、想い出したように煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
「……彼女が辞めたら、ピアノは今みたいに謡わなくなるだろうね」
「…………」
昇一は、何かそれ以上訊いてはいけないような気がして、この話を追求するのはやめた。
「あの、それで、今の夢の話、あの人には……」
「知ってるよ。以前に話したから。彼女はみんな知ってる。……彼女と、君だけだよ」
「そうですか……」
そうか。いずれ、みんないなくなってしまうのか。
昇一は、何とも言い難い虚無感を覚えずにはいられなかった。まだまだ先の事だと青年は笑う。本当にそう思っているのだろうか。何故、自分にそんな話をしてくれたのだろうか。
店の裏通りを、隣のブティックから出て来た若い女の子がふたり、戯れながら横切って行く。お目当ての物が手に入ったのだろうか。大きな青い紙袋をそれぞれ片手にぶら下げ、嬉しそうにはしゃいでいる。そんな、何てことないよくある光景にさえ、昇一は何故か虚しさを覚えた。
「僕の夢より、昇一くんの夢の方がずっと近い未来だよ」
青年はにこっと笑うと、もたれていた木の壁から背中を離した。短くなった煙草を灰皿でもみ消す。
「一度お母さんと、のんびり散歩でもしてみるといい。どちらにしても君の人生は一度きりで、君だけのものなんだから。大丈夫」
青年の言葉に昇一は、自分が何を相談するために今日ここへ来たのかを想い出した。そして小さく頷くと、腕時計を確かめた。あまりゆっくりしていると、また母親が自分を探しに来るかもしれない。
〈ボクには、失うものなどない。何があっても、家族を失う事なんてない……。そうだ。冷静になろう。お互いに、わかり合えるように……そして、やはり家を出よう。ボクの人生は、ボクのものなんだから〉
昇一は青年の瞳をまっすぐに見つめると、はっきりとした口調で行った。
「貴重な話を聴かせて下さってありがとうございました。ボク、夢がひとつ……見えたような気がします」
「そう。それは良かった」
青年は少しだけ首を傾けてもう一度笑うと、長めの前髪をかき上げた。昇一は深々と頭を下げると、強い心で想った。
――この人のような男になりたい――
そうして顔を上げ、憧れの人に背中を向ると、母親の待つ家へと大きく足を踏み出した。
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5935910
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「僕、もうすぐ旅に出るんだよ」
「え、旅?」
それまで手持ち無沙汰のように突っ立っていた昇一は、きょとんとした目で青年の横顔を見つめた。エプロンを外し、淡い色のシャツにラフなジーンズ姿でここにいるのは、いつもの〝店長〟ではなく、ひとりの若い男に見えた。
「昇一くんはここに通ってくれるようになったのは春以降だから知らないと思うけど、毎年夏と冬は日本にいないんだ。何ヶ月になるかはその時次第」
「そうなんですか?」
昇一は、お客の言った言葉の意味を理解した。そして、店の壁に貼られたたくさんの海外写真の意味も知った。梅雨もとっくに明け、すでに本格的な夏の暑さが訪れている。じゃあ、青年が旅立つのも本当にもうすぐなのだろう。
「うん。だから、君を置いてあげる事はできないんだ。何より未成年の君に何かあったら、責任持てないし。それは、わかって」
「……すいません。勝手な事ばかり言って……本当に」
昇一は申し訳なさそうに俯くと、肩を落とした。青年は、二度目の煙を空に向かって吐いた。
「だけど……店長さんはどうしてそんなに長期間店を閉めてまで旅を?」
昇一は素朴な疑問を投げかけた。普通であれば、せっかくついた常連客を手放す恐れもあるかもしれない。
「確かにそうだね。君の考えている通り、幸い昔からのお客さんは僕の事理解して、離れずついてきてくれているけど……個人のコーヒー店の売り上げなんて微々たるもんだ。旅の費用は、旅の中で仕事をしながら捻出しているんだよ。幸い僕は語学ができるからさ」
「そうなんですか」
昇一は改めて青年を尊敬した。彼は、自分がやりたいと考えている事を全て成しとげているような気がする。
「君の質問の答えだけど、全ては身勝手な僕の夢のためかな」
「店長さんの夢、ですか?」
「うん。……いつか、遠い土地で暮らしたいと思ってる」
「遠いって……日本じゃないって事ですか?」
「そう。多分、どこかの国。いつになるか、どこになるかまだ何も決めてないけど。ぼんやりとそんな事を結構前から考えてる」
「もしかして、今あちこち旅してるのはそのためなんですか? 自分に合った土地を見つけるために」
「そうなのかもしれないし、そうじゃないのかも。旅は旅でとても楽しんでるから。その夢は抜きにしても」
昇一は、ひとつ気になった事をおずおずと尋ねた。
「あの、じゃあ、そうなったらこのお店は?」
「店は閉める事になるだろうね。後継者は今のところ考えていない」
「…………」
それがこの若い店長の魅力の全てなのかもしれない。何のしがらみもなく、いつでも自由にどこへでも行けるという、人間が最も欲する望みを手中に捉えているという事。そして彼がいつも見ているのは、この狭い店内ではない。そこに訪れる人々の人生、夢、本質……。
「でも、まだまだ先の話だよ、多分。一番大事なお客さんに、僕の都合だけで簡単に迷惑を掛ける訳にはいかない。何年先か何十年先か……そんな話だよ」
昇一は、青年のいない『春秋館』を想像してみた。――とても考えられない。ましてや店を閉めるなんて。それに、青年だけじゃない。
「あの、いつものあの人はお休みですか? ピアノの……」
「うん。今日は休み」
「あの人は、もう永いんですか?」
「彼女は、もう一年半通ってくれてるよ」
「大学を卒業されたらもちろん店は辞められるんですよね?」
「そりゃそうだろうね。本職の仕事の方がずっと大事になるだろうし」
「そうなったら、また代わりの人を?」
青年は一瞬動きを止めると、想い出したように煙草の灰を携帯灰皿に落とした。
「……彼女が辞めたら、ピアノは今みたいに謡わなくなるだろうね」
「…………」
昇一は、何かそれ以上訊いてはいけないような気がして、この話を追求するのはやめた。
「あの、それで、今の夢の話、あの人には……」
「知ってるよ。以前に話したから。彼女はみんな知ってる。……彼女と、君だけだよ」
「そうですか……」
そうか。いずれ、みんないなくなってしまうのか。
昇一は、何とも言い難い虚無感を覚えずにはいられなかった。まだまだ先の事だと青年は笑う。本当にそう思っているのだろうか。何故、自分にそんな話をしてくれたのだろうか。
店の裏通りを、隣のブティックから出て来た若い女の子がふたり、戯れながら横切って行く。お目当ての物が手に入ったのだろうか。大きな青い紙袋をそれぞれ片手にぶら下げ、嬉しそうにはしゃいでいる。そんな、何てことないよくある光景にさえ、昇一は何故か虚しさを覚えた。
「僕の夢より、昇一くんの夢の方がずっと近い未来だよ」
青年はにこっと笑うと、もたれていた木の壁から背中を離した。短くなった煙草を灰皿でもみ消す。
「一度お母さんと、のんびり散歩でもしてみるといい。どちらにしても君の人生は一度きりで、君だけのものなんだから。大丈夫」
青年の言葉に昇一は、自分が何を相談するために今日ここへ来たのかを想い出した。そして小さく頷くと、腕時計を確かめた。あまりゆっくりしていると、また母親が自分を探しに来るかもしれない。
〈ボクには、失うものなどない。何があっても、家族を失う事なんてない……。そうだ。冷静になろう。お互いに、わかり合えるように……そして、やはり家を出よう。ボクの人生は、ボクのものなんだから〉
昇一は青年の瞳をまっすぐに見つめると、はっきりとした口調で行った。
「貴重な話を聴かせて下さってありがとうございました。ボク、夢がひとつ……見えたような気がします」
「そう。それは良かった」
青年は少しだけ首を傾けてもう一度笑うと、長めの前髪をかき上げた。昇一は深々と頭を下げると、強い心で想った。
――この人のような男になりたい――
そうして顔を上げ、憧れの人に背中を向ると、母親の待つ家へと大きく足を踏み出した。
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