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第三章 春
Order23. 星祭りの夜 《後編》
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参考:《前編》
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5917722
--------------
閉店した『春秋館』の店内で、青年と少女と紬は、入口に近いひとつのテーブルを囲って座っていた。テーブルには透明なプラスチックの容器がひとつ置かれ、中にはオレンジジュースが入っていた。
大泣きしていた紬がやっと落ち着いてきた頃を見計らい、ピアノ弾きの少女は沈黙を破るように隣に座る小さな娘に尋ねた。
「ねぇ紬ちゃん。あなたのお願いって、何だったの?」
「…………」
「本当のお母さんに……会いたかった?」
少女の手には、紬の書いた赤い短冊が握られている。紬は、大きく首を横に振った。
「紬のおかあさんは、おかあさんだもん……」
「え?」
「紬ね、おかあさんに抱き締めて欲しかったの。おにいちゃんみたいに」
「紬ちゃん……」
紬の言う〝おかあさん〟というのは……。
「おかあさんね、いつも紬に怒ってばかり。いつも怒ってるの」
「…………」
「紬ね、おかあさんに笑ってて欲しいの」
オレンジジュースの入った容器を両手に抱え、紬は俯いたままだ。
「紬ちゃんにとっての願いは、お母さんそのものだったんだよな」
青年はシャツの胸ポケットの煙草を気にしたが、実際取り出しはしなかった。
「それって……じゃあ、この短冊のお願いは……」
少女は、手元にある不器用な文字で書かれた短い一言を見つめた。
〝おかあさん〟
その一言に、今のお母さんに対する紬の小さな心全てが投影されているのだと知り、少女は胸が苦しくなるのを感じた。
あぁ、そうだったのか。そして一気に心の雲が晴れたような気がした。
「……だそうですよ、お母さん」
「え!?」
青年の言葉に驚いて振り向くと、扉の向こうから紬の母親が気まずそうに現れた。いつからいたんだろう。全て聴いていたのか……。紬は、少しだけ怯えたように身を縮めている。
「ごめんね、紬……」
女性は紬に近づくと、両手を思いっきり広げて差し出した。その表情は、溢れる感情を必死に抑えているようにも見えた。紬は、その手を待っていたかのように椅子から飛び降りると、母の腕に飛び込んだ。
「おかあさん!!」
「ごめんね、紬。ごめんねぇ……!!」
女性は紬を思い切り抱き締めると、子供のように泣きじゃくった。紬は、初めて母の腕のぬくもりを感じ、同じように泣きじゃくった。ふたりの涙は、さっきまでの涙とは全く違う色をしていた。
離れかけた心が、コーヒー色に染まった空間で今ひとつに重なった。その姿を見つめる少女の目からも、天の川の星のような涙が一粒きらりと零れ落ちた。
誰でもいい。差し伸べてくれる手が欲しかった。抱き締めてくれる手が欲しかった。そうだったのね、紬ちゃん。気づかなくてごめんね。そしてその手があなたの大好きなお母さんの手なら、最高だったんだね……。
母親は、紬の手を引いて店を出る時、青年と少女に深々と頭を下げた。
「あなたは、もう少しリラックスしていい。いいお母さんになろうとか思わずに、もっとご自分に自信をもったらいいと思います……生意気な事言ってすいません」
青年の言葉に、女性はもう一度頭を下げた。
少女は、あの時何故彼があんな風に哀れみを含んだ目で彼女を見つめたのか悟った。
あなたは全て悟っていた。そして、不器用にしか愛情を表現できない彼女を哀しく思ったのね。本物の親子以上の愛情を持っているのに、空回りしているふたりの心を……。
そして紬は、母親の手をしっかりと握りながら青年の方を見上げて言った。
「おにいちゃん」
「ん?」
「おにいちゃん、おとうさんと同じ匂いがするね」
「え? お父さん?」
「うん。煙草の匂い。すごく臭いの……だいすき」
紬は鼻にしわを寄せ、頬をりんごのように真っ赤にして、お下げ髪を揺らしながら茶目っ気たっぷりに笑った。
「参ったな……」
青年は苦笑いすると、めずらしく照れたように前髪をかき上げた。
「お父さんと同じ匂い、だって」
ふたつのでこぼこの影が去った後。少女は、店の外に立てかけられた大きな笹の枝を見上げながら言った。お客の願いを込めた短冊は、紬のも合わせふたりの手によって全て飾り付けられていた。
辺りはもうすっかり闇に包まれ、恐らく空には満天の星が輝いているのだろう。
少女の言葉を受け、隣に立って同じように笹を見上げている青年が鼻先で笑った。
「いいよ、それは……」
「ねぇ、あんな妹、欲しかった?」
少女は、自分と同じひとりっ子の青年に尋ねた。
「妹か……実際は、子供でもおかしくない年だけど……」
「あ、そうか」
少女はくすっと笑いつつ、青年に抱き付いた紬に対して僅かなジェラシーを感じていた自分を少し危なく思った。
「紬ちゃん、きっと愛情に飢えていたのね。確かに存在するのに、お互いにうまく表現できない。そんな親子、きっと他にもたくさんいるんでしょうね」
少女は、今までに店に来た不器用な親子を幾人か想った。子供の教育に熱心になるが余り、子供が感じる重圧に気づかない親。子供の幸せを願っているにも関わらず、自分の夢と混在している親。そして、その愛情を受け止められず、拒否する事もできず、自分の殻に閉じこもってしまう子供。
「あの子が言ったのは、本心だと思うよ。だけど、どんな事情で別れたのかはわからないけど、いつかあの子がもう少し大人になったら、実のお母さんに今度こそ会いたいって言うかもしれない。その時が、あの人の本当の試練だな」
「そうね……。そうかもしれないわね……」
少女は、静かな夜に浸った。七月七日。織姫と彦星が一年に一度だけ会える日だ。例え何ヶ月も会えない時期が年に二回あっても、彼らに比べるとずっとマシだ。今こうして週に何度も会えている自分は……。そして、こうして当たり前のように隣に立っている事ができる自分は……。
明けきらぬ梅雨の湿気を含んだ空気を受け、少女はひとつ、大きな深呼吸をした。先程感じていたウキウキ感が、再び少女の心に戻ってきた。
そして何かを想い出したようにパタパタと店内に戻ると、すぐに青年の隣に舞い戻って来た。そして青い短冊を一枚、可愛く青年に差し出すと、にこっと笑った。
「はい。あなたも何か願い事書いて」
「あれ、余ってたの? 短冊」
少女はピンクの短冊を口元に当てて笑った。実は二枚だけ先にとっておいたのだ。人の願い事を見ているばかりじゃ面白くない。
「いいよ、俺は。二枚とも君が書けばいい。ピアノ上達でも、ダイエットでも」
「もう、失礼ね!」
「ほらほら。早く書かないと、天の川が行っちゃうよ」
青年はそう言って少女に無地のままの短冊を預けると、さらりと身を翻して店の裏に消えた。
「……このヘビースモーカー! 本当にお父さんの匂いになっちゃうわよ!」
少女は青年の消えた方向に向かって舌を出すと、仕方なく自分の短冊にマジックで願いをひとつだけ書いた。
都会の空に、天の川など見えはしない。それでも青年が言うと、天の川がちゃんと存在して、目には見えなくてもちゃんと見てくれているんだと信じてしまうから不思議だ。彼には〝不可能〟という言葉が感じられない。
彼は神様にお願いする事なんてないのかしら。……いつも自分で、自分の力で夢を叶えてきた人だもんね。必要ないんだ、きっと……。
少女は、相変わらず彼が自分と違う世界にいるような気がして、ほんの少し寂しさを感じた。そして自分の書いた文字を見つめると目を閉じて祈り、短冊を「世界平和」の隣に飾り付けた。
わたしの願いなんて、ちっぽけなものだ。彼が見つけたらきっと笑うんだろう。それでもいい。そんなちっぽけな事がわたしの今のたったひとつの願いなのだから。
都会の大通りから少し外れた場所に建つ小さな珈琲専門店『春秋館』。そのログハウス作りの屋根の上を、一瞬流れ星のような光が通り過ぎた。
七夕に願いを懸けるすべての人に幸あれ!
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5917722
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閉店した『春秋館』の店内で、青年と少女と紬は、入口に近いひとつのテーブルを囲って座っていた。テーブルには透明なプラスチックの容器がひとつ置かれ、中にはオレンジジュースが入っていた。
大泣きしていた紬がやっと落ち着いてきた頃を見計らい、ピアノ弾きの少女は沈黙を破るように隣に座る小さな娘に尋ねた。
「ねぇ紬ちゃん。あなたのお願いって、何だったの?」
「…………」
「本当のお母さんに……会いたかった?」
少女の手には、紬の書いた赤い短冊が握られている。紬は、大きく首を横に振った。
「紬のおかあさんは、おかあさんだもん……」
「え?」
「紬ね、おかあさんに抱き締めて欲しかったの。おにいちゃんみたいに」
「紬ちゃん……」
紬の言う〝おかあさん〟というのは……。
「おかあさんね、いつも紬に怒ってばかり。いつも怒ってるの」
「…………」
「紬ね、おかあさんに笑ってて欲しいの」
オレンジジュースの入った容器を両手に抱え、紬は俯いたままだ。
「紬ちゃんにとっての願いは、お母さんそのものだったんだよな」
青年はシャツの胸ポケットの煙草を気にしたが、実際取り出しはしなかった。
「それって……じゃあ、この短冊のお願いは……」
少女は、手元にある不器用な文字で書かれた短い一言を見つめた。
〝おかあさん〟
その一言に、今のお母さんに対する紬の小さな心全てが投影されているのだと知り、少女は胸が苦しくなるのを感じた。
あぁ、そうだったのか。そして一気に心の雲が晴れたような気がした。
「……だそうですよ、お母さん」
「え!?」
青年の言葉に驚いて振り向くと、扉の向こうから紬の母親が気まずそうに現れた。いつからいたんだろう。全て聴いていたのか……。紬は、少しだけ怯えたように身を縮めている。
「ごめんね、紬……」
女性は紬に近づくと、両手を思いっきり広げて差し出した。その表情は、溢れる感情を必死に抑えているようにも見えた。紬は、その手を待っていたかのように椅子から飛び降りると、母の腕に飛び込んだ。
「おかあさん!!」
「ごめんね、紬。ごめんねぇ……!!」
女性は紬を思い切り抱き締めると、子供のように泣きじゃくった。紬は、初めて母の腕のぬくもりを感じ、同じように泣きじゃくった。ふたりの涙は、さっきまでの涙とは全く違う色をしていた。
離れかけた心が、コーヒー色に染まった空間で今ひとつに重なった。その姿を見つめる少女の目からも、天の川の星のような涙が一粒きらりと零れ落ちた。
誰でもいい。差し伸べてくれる手が欲しかった。抱き締めてくれる手が欲しかった。そうだったのね、紬ちゃん。気づかなくてごめんね。そしてその手があなたの大好きなお母さんの手なら、最高だったんだね……。
母親は、紬の手を引いて店を出る時、青年と少女に深々と頭を下げた。
「あなたは、もう少しリラックスしていい。いいお母さんになろうとか思わずに、もっとご自分に自信をもったらいいと思います……生意気な事言ってすいません」
青年の言葉に、女性はもう一度頭を下げた。
少女は、あの時何故彼があんな風に哀れみを含んだ目で彼女を見つめたのか悟った。
あなたは全て悟っていた。そして、不器用にしか愛情を表現できない彼女を哀しく思ったのね。本物の親子以上の愛情を持っているのに、空回りしているふたりの心を……。
そして紬は、母親の手をしっかりと握りながら青年の方を見上げて言った。
「おにいちゃん」
「ん?」
「おにいちゃん、おとうさんと同じ匂いがするね」
「え? お父さん?」
「うん。煙草の匂い。すごく臭いの……だいすき」
紬は鼻にしわを寄せ、頬をりんごのように真っ赤にして、お下げ髪を揺らしながら茶目っ気たっぷりに笑った。
「参ったな……」
青年は苦笑いすると、めずらしく照れたように前髪をかき上げた。
「お父さんと同じ匂い、だって」
ふたつのでこぼこの影が去った後。少女は、店の外に立てかけられた大きな笹の枝を見上げながら言った。お客の願いを込めた短冊は、紬のも合わせふたりの手によって全て飾り付けられていた。
辺りはもうすっかり闇に包まれ、恐らく空には満天の星が輝いているのだろう。
少女の言葉を受け、隣に立って同じように笹を見上げている青年が鼻先で笑った。
「いいよ、それは……」
「ねぇ、あんな妹、欲しかった?」
少女は、自分と同じひとりっ子の青年に尋ねた。
「妹か……実際は、子供でもおかしくない年だけど……」
「あ、そうか」
少女はくすっと笑いつつ、青年に抱き付いた紬に対して僅かなジェラシーを感じていた自分を少し危なく思った。
「紬ちゃん、きっと愛情に飢えていたのね。確かに存在するのに、お互いにうまく表現できない。そんな親子、きっと他にもたくさんいるんでしょうね」
少女は、今までに店に来た不器用な親子を幾人か想った。子供の教育に熱心になるが余り、子供が感じる重圧に気づかない親。子供の幸せを願っているにも関わらず、自分の夢と混在している親。そして、その愛情を受け止められず、拒否する事もできず、自分の殻に閉じこもってしまう子供。
「あの子が言ったのは、本心だと思うよ。だけど、どんな事情で別れたのかはわからないけど、いつかあの子がもう少し大人になったら、実のお母さんに今度こそ会いたいって言うかもしれない。その時が、あの人の本当の試練だな」
「そうね……。そうかもしれないわね……」
少女は、静かな夜に浸った。七月七日。織姫と彦星が一年に一度だけ会える日だ。例え何ヶ月も会えない時期が年に二回あっても、彼らに比べるとずっとマシだ。今こうして週に何度も会えている自分は……。そして、こうして当たり前のように隣に立っている事ができる自分は……。
明けきらぬ梅雨の湿気を含んだ空気を受け、少女はひとつ、大きな深呼吸をした。先程感じていたウキウキ感が、再び少女の心に戻ってきた。
そして何かを想い出したようにパタパタと店内に戻ると、すぐに青年の隣に舞い戻って来た。そして青い短冊を一枚、可愛く青年に差し出すと、にこっと笑った。
「はい。あなたも何か願い事書いて」
「あれ、余ってたの? 短冊」
少女はピンクの短冊を口元に当てて笑った。実は二枚だけ先にとっておいたのだ。人の願い事を見ているばかりじゃ面白くない。
「いいよ、俺は。二枚とも君が書けばいい。ピアノ上達でも、ダイエットでも」
「もう、失礼ね!」
「ほらほら。早く書かないと、天の川が行っちゃうよ」
青年はそう言って少女に無地のままの短冊を預けると、さらりと身を翻して店の裏に消えた。
「……このヘビースモーカー! 本当にお父さんの匂いになっちゃうわよ!」
少女は青年の消えた方向に向かって舌を出すと、仕方なく自分の短冊にマジックで願いをひとつだけ書いた。
都会の空に、天の川など見えはしない。それでも青年が言うと、天の川がちゃんと存在して、目には見えなくてもちゃんと見てくれているんだと信じてしまうから不思議だ。彼には〝不可能〟という言葉が感じられない。
彼は神様にお願いする事なんてないのかしら。……いつも自分で、自分の力で夢を叶えてきた人だもんね。必要ないんだ、きっと……。
少女は、相変わらず彼が自分と違う世界にいるような気がして、ほんの少し寂しさを感じた。そして自分の書いた文字を見つめると目を閉じて祈り、短冊を「世界平和」の隣に飾り付けた。
わたしの願いなんて、ちっぽけなものだ。彼が見つけたらきっと笑うんだろう。それでもいい。そんなちっぽけな事がわたしの今のたったひとつの願いなのだから。
都会の大通りから少し外れた場所に建つ小さな珈琲専門店『春秋館』。そのログハウス作りの屋根の上を、一瞬流れ星のような光が通り過ぎた。
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