春秋館 <一話完結型 連続小説>

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第三章 春

Order23. 星祭りの夜 《前編》

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 梅雨明けも近づいた七月初旬の事。珈琲専門店『春秋館』の店の正面に、大きな笹が入口に寄り添うように立てかけられていた。
「知り合いの管理してる雑木林に、いっぱい生えてたんだ。良かったら店で使ってくれ」
 そう言って常連のヤスさんが笹を抱えてやって来たのは、一週間程前の出来事だった。
 ピアノ弾きの少女は、いつも特に意識せずに通り過ぎてきた行事を身近に感じ、嬉しくなった。スタンドに笹を固定し、見上げれば三メートルもあるだろうか。少女は「素敵。ねぇ、お客様に一枚ずつ短冊を渡して、何かひとつずつ願い事を書いて貰いましょうよ」とはしゃいだ。
 青年も、「いいね」と賛成した。

 七夕当日の夕暮れ時。少女の右手には、ここ数日でお客から集めたたくさんの願い事をしたためた短冊が握られていた。ひとり店の外に出て、夕陽に染まった空を見上げてみる。今夜は幸い雨は降りそうにない。ポツンポツンと星も出始め、否応なく七夕気分を満喫させてくれそうだ。こんな夜はなんとなく素敵な事が起こりそうで、少女の心はウキウキしていた。

「世界が平和でありますように」
「家内安全」
「志望校に合格しますように!」
「マコトくんが振り向いてくれますように♥」
「巨人優勝!!」
「ストーカーが捕まりますように」

 お客の書いた願い事は多種多様で、ユニークな願いから深刻なものまであり、なかなか個性的で面白いものが揃った。
「面白いな。みんなの人生がこれで垣間見えるみたい」
 少女は脚立を用意し、いっぱいに集まったカラフルな短冊を大きな笹に針金で取り付けながら呟いた。
「あの……」
 おずおずと、少女に声を掛けた人物がいた。振り向いて見下ろすと、ボブカットが似合う三十代前半と思われる女性が立ってこちらを見上げている。『春秋館』のお客で、今日も昼間に四、五歳の小さな娘を連れて友達と一緒に来ていた。
「あ、こんばんは。何か……?」
「ごめんなさい。あの、つむぎの短冊を見せて貰いたいの」
「紬……って。あ、娘さんですか?」
 少女は足元を気にしながら脚立から降り、女性と向い合った。まだ飾り付けを始めたばかりなので、ほとんどの短冊は手元に残っている。 
「ええ。あの子、私には隠して見せてくれなかったから……。あの、字を見ればわかるんで」
 女性はそう言って、緊張した顔で少女から短冊の束を受け取ると、娘・紬の願い事を探し始めた。その緊迫した異様な空気に、少女は言葉を掛けられなかった。たかが七夕の短冊に、何故こんなに必死になっているのだろう、この人は。
「どうかした?」
 青年が店からひょいと顔を出した。
「あ、うん、ちょっと……」
 少女がそう言った途端、「あったわ! これ……!」と、女性が叫んだ。
「あ、ありましたか?」
 少女の目に飛び込んだのは、愕然とした女性のひきつった顔だった。一枚の赤い短冊を持つ右手が震えている。
「あ、あの、いったい……」
 呆然としている女性の手からそっと短冊を取ると、そこにはいかにも幼い女の子が書いたと思える金釘文字で一言書かれていた。

〝おかあさん〟

 これはいったいどういう意味なんだろう? 青年も、少女の背後から短冊を覗き込んでいる。
「あの子……やっぱり、やっぱり……!!」
 女性は泣きそうな、だが悔しそうな顔をすると、口元に手を当てた。
「あの、いったい……」
 女性はしばらく首を横に振っていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「……紬は……主人の連れ子なんです」
「え?」
「主人が数年前に別れた奥さんとの子供で……紬が三つの時に私と再婚したの」
「それを紬ちゃんは知ってるんですか?」
「知ってるわ。だからあの子、こんな願いを……」
「あの、わたしには何の事だか……」
 女性の異様な動揺が伝わってきて、少女は恐くなった。
「あの子、本当のお母さんに会いたいのよ!」
 女性は吐き捨てるように言った。
「そんな……」
「わかってたわ。あの子が私に懐いてないって事位。でも、でも……こんなのひどいわ! あんまりよ!」
 女性は、今まで溜めていた感情を吐き出すように叫んだ。少女は、青年に何か言って欲しくて目で訴えた。だが青年は、両手を組んで首を傾げている。
「頑張ってきたのに。私、お義母さんや近所の人にも気遣って、いい母親になろうと頑張ってきたのに。でも、あの子はちっとも私に心を開いてくれた事がなかった。だって、一度も〝おかあさん〟なんて呼ばれた事ないんだもの。……わかってたわ。私がどんなに頑張っても、あの子の本当の母親にはなれないって」
 少女は昼間の女性と紬の様子を思い返した。女性はしきりに友人と楽しそうに話してばかりで、紬は一言も喋っていなかったように思う。ただ大人しく、黙ってオレンジジュースを飲んでいたので、とても躾ができているなという印象だった。

「つかれたぁ」
 幼い声に三人が振り返ると、昼間来た時と同じツインテールの小さな女の子が、ひとりで店の前にちょこんと立っている。走って来たのだろうか、額は汗ばんで少し息を切らしている。
「紬! 家で待ってなさいって言ったでしょう?」
「紬ね、追いかけて来たの。急にいなくなっちゃったから」
 紬は、はにかんだように笑う。
「ひとりで? よく来れたわね」
 少女はぎこちない笑顔を向けたが、女性はわなわなと手を震わせている。その目尻はきりきりと吊り上がった。そして少女の手にある短冊を奪うと、その紙切れを娘の目の前に突き付けた。
「紬……あんたの願いは、これなの?」
 紬は驚いて声も出ないでいる。少女の胸がひどく痛んだ。
「どういうつもりなの!? どうしてよ。私の事がそんなに気に入らないの!? いったい何が不満なの!? どうしてこんなひどい事書けるのよ! そんなに本当のお母さんが恋しいなら、お父さんに言いなさいよ! 出て行ったらいいじゃない!」
 大通りを入った静かな通りに位置しているとはいえ、通行人は皆無ではない。幾人かの道行く人が、母親の大声に「何事だ」というように振り向きながら通り過ぎて行く。
「ちがう……ちがうよ」
 紬は頬を真っ赤にし、目にいっぱい涙を浮かべている。
「何が違うのよ! はっきり言いなさい!!」
 少女は慌てて間に入った。
「やめて下さい。相手は小さな子供ですよ」
「紬ちゃん」
 突然、青年が膝をついて紬に右手を差し出した。すると、紬は顔をくしゃくしゃにして青年に駆け寄り、大きな声で泣きながら抱きついた。その小さな体を青年は優しく抱き締める。
「……! 紬! こっちにいらっしゃい!」
 しかし紬は、ガタガタと体を震わせ、青年の肩でわぁわぁと泣いている。振り向こうともしない。
「紬……」
 女性は、呆然としている。かなりショックを受けたように、その場に立ち尽くしていた。青年が口を結んだまま女性を見上げる。その目は、少しだけ哀れみを含んでいた。
「……!!」
 女性は唇を噛み締めると、何も言わずに三人に背中を向け、元来た道を走り去った。中途半端に飾り付けられた笹が風に揺られて泣いている。紬の泣き声が、虚しい程に晴れ渡った茜色の空にこだましていた。
 素敵な事が起こりそうだとウキウキしていた気分は、とうに天の川の彼方へ消え去っていた。少女は、ただ呆然と立ち尽くしながらふたりを見つめる事しかできなかった……。

《後編に続く》
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