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第三章 春

Order19. 優しい手

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参考:「Order14.」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/209105547/463556247/episode/5812712
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 季節は、蒸し暑い六月へと手を伸ばそうとしていた。

「ちはー!!」
 突然体育会系の挨拶がしたかと思うと、『春秋館』のしとやかなセピア色をした空気は一気に賑やかな雑踏の中にいるような、明るいオレンジ色に変わった。
 時刻はもう、夕食時だろう。閉店間際で、客足が途絶えたところだった。
「あ、いらっしゃい」
 入って来たのは、茶髪を後ろでポニーテールに束ね、小動物のようなくりくりした瞳をした少女。以前〝辻まどか〟と名乗った女子高生だった。
「マスター! 本当に来ちゃいましたよ。来てもいいって言ったでしょ、ね!?」
 まどかはまるで友達のように青年に話し掛けると、カウンターのど真ん中の席にどっかと腰を掛けた。真っ白のカッターシャツの襟元に青いリボンをだらしなく結び、濃紺のプリーツスカートを履いている。隣の椅子に無造作に投げ出したカバンには、近所の公立高校の名前が金色のローマ字で描かれていた。
「ああ、言ったよ」
 青年は柔らかな笑みを浮かべると、冷たい水をグラスに注いで彼女の座るカウンターのテーブルに置いた。
「あ、サンキュー!」

〈この子、だれだろう……〉
 少女はいつもの席で、高校生にしては濃い目の化粧で顔を作っているまどかを不思議な生き物でも見るように、目をパチパチさせて見た。
「ねぇ、マスター。あたしさぁ。またやっちゃった。見つかっちゃったの、これ」
 そう言ってまどかは、右手の人差し指と中指を口元に当てた。
「謹慎三日だって。んで、今の時間まで親呼び出されて説教よ。もう、嫌になっちゃう」
 そう言いながらも彼女は学生カバンから未開封の煙草を取り出すと、手馴れたように開封し、何の躊躇もせず口にくわえた。
「こら。反省してないな」
 青年は慌ててカウンター越しに煙草を奪い取ると、子供をたしなめる母親のような目をした。
「あれ、だめ? だって、ここ学校じゃないし。あ、そか。店内禁煙か」
「そういう問題じゃない。ここは健全な店なの。青少年に悪影響を及ぼすような行為をされては困るね」
 青年は、わざと呆れた表情を作って「何飲む?」と尋ねた。
「あぁ、いいよ。お金ないし。いいんでしょ、何も飲まなくても」
 まどかは手持ち無沙汰に水を一口飲むと、鼻歌を歌いながら壁に飾られた幾枚もの風景写真を眺めていた。そしてふと想い出したように青年に向き直る。
「あ、そうそう! この間、この辺に猫いなかった? いつだったか通った時見掛けたんだけど」
「あぁ、子猫? 誰かが店の裏に置いてきぼりにして行ったのよ」
 青年に代わって少女が返事をした。まどかは驚いたように少女を振り向く。一直線に青年に向かって話しかけたせいで、少女の存在に気づいていなかったのだろうか。
「でも、お店のお客様で飼ってくれるって人がすぐに見つかったの。良かったわ」
「へぇ。ここで飼っちゃえば良かったのに」
「食べ物商売だから無理よ。わたしの家もマンションだし」
「マスターの家は?」
「彼はここの二階に住んでるから。やっぱり無理ね」
「ふぅん。つまんないの。ここで飼えばあたしも時々エサ位あげに来たのに。こう見えても動物には優しいんだから」
「だめよ、そんなの……」
 少女は肩を落とした。

〝期待させられて裏切られる位なら……〟

 あの日の青年の胸の内を思うと、ありえない程の虚無感が襲ってくる。
 そんな少女の心を打ち破るように、まどかが声を掛けた。
「ねぇねぇ。ところで、あなたがピアノのお姉さん!? へぇ。そうかぁ」
 まどかは身を乗り出し、少女を興味津々の目で上から下まで眺めている。なんだか居心地が悪い。
「ねぇねぇ。何か一曲弾いてみて。なんでもいいから」
「え、何でもって……」
「お姉さんの一番得意なのでいいからさ! あたし、こう見えてもピアノやってるの。大体の曲はわかるよ」
 まどかは「こう見えても」を繰り返す。よほど自分の見た目と内面とのギャップをアピールしたいのだろうか。
 なんだか腕を試されるような気がして、少女は躊躇った。
「どうしたの? 早く弾いてよ」
「……じゃあ、一曲だけ……」
 少女は、一番の得意な曲を弾き始めた。こんな気乗りしないピアノは久しぶりだ。気乗りしないまま、なんとかショパンの『ノクターン第二十番』を弾き終えると、即座にまどかのキンキンした無遠慮な声が耳に届く。
「ん~。まぁまぁ。合格ね!」
「…………」
「でも、あたしだったらもっと元気に弾くかな。お姉さんのピアノ、なんだか線が華奢過ぎるわ。聴いてると哀しくなっちゃう」
「……じゃあ、あなたも一曲弾いてみる?」
 先程からの虚無感が苛立ちに変わり、少女は挑戦的に言った。そこまで言うなら、随分と腕は良いのだろう。
 しかしまどかは、瞬時に今迄の勢いを失くしてしまった。束ねたポニーテールまで枯れて垂れ下がったように見えた。
「あ、いいよ、あたしは……」
 まどかは青年の目を伺うようにチラチラ見ている。
「どうして? あなたも習ってるんでしょ?」
「いいよ。また怒られちゃうから……」
「え?」
「あ~あ。なんか、疲れちゃった。帰るわ!」
 まどかはつまらなさそうに大声で言うと、さっとカウンターから立ち上がり、「じゃね、マスター」と言ってカバンを肩から担いで出て行った。

 なんなんだろう、あの子は。少女は憮然とした表情で彼女を見送ると、青年に疑問の視線を投げた。飄々とした彼の表情からは、何も答えが返ってこない。
〈もう、なんとか言ったらどうなのよ〉
 むくれてみたが、張り詰めた緊張感から解放され、安堵感と疲れが一気に押し寄せてきた。
〈いけない。店の片づけしなくちゃ……〉
「さて。そろそろ店、閉めようか。客足も途絶えたし……」
 洗い物を終えた青年が少女に声を掛けたが、返事がないので目をやると、彼女はピアノの蓋に両手を投げ出し、その中に顔を埋めて眠っていた。いつか、子供のようなあどけない顔をして眠っていた青年のように。
 まどかのせいでよほど精神的に疲れたのか。それとも青年の心の内、子猫の事。あるいはここ最近、大学のレポートを徹夜でやっていたせいだったのかもしれない。
 それはきっと、少女自身にもわからなかっただろう。
 青年は思わず口元を緩めると、狭い休憩室に掛けてある自分の上着を取り、少女の肩からそっと掛けてやった。そして、「お疲れさん」と言って、眠る少女の頭を優しく撫でた。まるで子猫を可愛がる母猫のように。
 その頃少女はぐっすり夢の中。優しい手を感じながら、深い深い夢の中にいた。コーヒーに混ざる微かな煙草の香りに包まれて、ひと時の安らぎを味わっていた……。
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