12 / 35
第三章 春
Order12. 君の声が聴きたくて
しおりを挟む
彼が帰って来た。永い旅を終え、またここ『春秋館』に戻って来た。冬季休業を終え、また店に活気が戻ってきた……。
久しぶりにやって来た店内に、あの子はいた。漆黒のピアノの前に腰を下ろし、僕の知らない曲を優雅な指先から生み出している。
もうすぐ彼が、僕のお決まりメニュー「モカブレンド」を運んで来るだろう。
彼女が彼に惹かれているのは知っている。見ていればわかる。彼女は隠そうとしているけれど、彼女の視線の先にはいつも彼がいる。彼の伏せた瞼。くせのない柔らかな黒髪。お客と歓談する声。彼の淹れるコーヒーの香り。洗い物をする細身の腕。すべて、彼女の視線の先にある。
彼の気持ちはどうしても読めない。いつも飄々としてどこか自信に満ちていて、だけど薄い瞳は誠実で、寡黙で、決してでしゃばらない。それでいてあの存在感はなんだろう。彼の気持ちはどこにあるんだろう。彼女は、彼のどこに惹かれたんだろう……。
でも、ピアノを弾いている時だけは違う。ピアノを弾いている時だけは、彼女は彼女の世界に陶酔している。恐らく、彼の存在もこの店の事も、彼女の頭から飛んでいるに違いない。
そして僕は、彼女のピアノを弾いている姿に惹かれたんだ。
しばらくしてピアノを弾き終えた彼女は、彼がカウンターに乗せたコーヒーを丸いお盆に乗せ、こちらに向かって歩いて来た。彼女がウェイトレスの役をやるのはめずらしい。
彼女は僕の座るテーブルに淹れたてのコーヒーをゆっくりと置くと、まるで音楽のような凛とした声で言った。
「これ、わたしのおごりです」
「え……」
思いもしない言葉が彼女の口から零れた。
「いつかのお礼です」
「お礼……?」
何の事かわからず、僕は彼女の微笑んだ顔を見上げる。細めた瞳は優しくて、僕にはまるで女神のように見えた。だけど、彼女はそれ以上何も言わない。カップに目を落としてみると、それはいつもの「モカブレンド」ではなく、コクのある香りが漂っている。
「キリマンジャロ。たまには違うのもいいですよ」
そう言って彼女は薄い水色の花柄スカートと長い髪を翻し、自分の指定席に戻って行った。
「姉ちゃん、何か元気になれる曲弾いてくれや」
「はい」
カウンターに座ったお客のリクエストを受け、彼女の指先から新たな旋律が生まれていく。やっぱり僕の知らない曲。いや、どこかで聴いたような気もする。昔の映画か何かだったかもしれない。アップテンポで、本当に気持ちがワクワクしてくるような旋律。今の彼女の気持ちをそのまま表しているようにも思える。数ヶ月振りに彼に会えた喜び。そして、彼女に会えた僕の喜びをもきっと。
元予備校生の少年は、銀縁フレームの眼鏡を通して無表情でそんな彼女の横顔に見入っていた。この春無事に大学への進学を果たし、予備校の帰り道に店の前を通る事もなくなった。それでも少年は、一週間に一度ここへ来てこの席に座る習慣を再び取り戻そうとしていた。
コーヒーの味など何もわからない。視線の先には彼女がいる。それがすべてだった。それだけが今の少年を支えているすべてだったのだ。
本当はコーヒーなんてどうでもいいんだ。
だけど僕は、彼の淹れるモカブレンドを飲みにこれからも通うだろう。
君のピアノが聴けるなら。
君の声が聴けるなら。
久しぶりにやって来た店内に、あの子はいた。漆黒のピアノの前に腰を下ろし、僕の知らない曲を優雅な指先から生み出している。
もうすぐ彼が、僕のお決まりメニュー「モカブレンド」を運んで来るだろう。
彼女が彼に惹かれているのは知っている。見ていればわかる。彼女は隠そうとしているけれど、彼女の視線の先にはいつも彼がいる。彼の伏せた瞼。くせのない柔らかな黒髪。お客と歓談する声。彼の淹れるコーヒーの香り。洗い物をする細身の腕。すべて、彼女の視線の先にある。
彼の気持ちはどうしても読めない。いつも飄々としてどこか自信に満ちていて、だけど薄い瞳は誠実で、寡黙で、決してでしゃばらない。それでいてあの存在感はなんだろう。彼の気持ちはどこにあるんだろう。彼女は、彼のどこに惹かれたんだろう……。
でも、ピアノを弾いている時だけは違う。ピアノを弾いている時だけは、彼女は彼女の世界に陶酔している。恐らく、彼の存在もこの店の事も、彼女の頭から飛んでいるに違いない。
そして僕は、彼女のピアノを弾いている姿に惹かれたんだ。
しばらくしてピアノを弾き終えた彼女は、彼がカウンターに乗せたコーヒーを丸いお盆に乗せ、こちらに向かって歩いて来た。彼女がウェイトレスの役をやるのはめずらしい。
彼女は僕の座るテーブルに淹れたてのコーヒーをゆっくりと置くと、まるで音楽のような凛とした声で言った。
「これ、わたしのおごりです」
「え……」
思いもしない言葉が彼女の口から零れた。
「いつかのお礼です」
「お礼……?」
何の事かわからず、僕は彼女の微笑んだ顔を見上げる。細めた瞳は優しくて、僕にはまるで女神のように見えた。だけど、彼女はそれ以上何も言わない。カップに目を落としてみると、それはいつもの「モカブレンド」ではなく、コクのある香りが漂っている。
「キリマンジャロ。たまには違うのもいいですよ」
そう言って彼女は薄い水色の花柄スカートと長い髪を翻し、自分の指定席に戻って行った。
「姉ちゃん、何か元気になれる曲弾いてくれや」
「はい」
カウンターに座ったお客のリクエストを受け、彼女の指先から新たな旋律が生まれていく。やっぱり僕の知らない曲。いや、どこかで聴いたような気もする。昔の映画か何かだったかもしれない。アップテンポで、本当に気持ちがワクワクしてくるような旋律。今の彼女の気持ちをそのまま表しているようにも思える。数ヶ月振りに彼に会えた喜び。そして、彼女に会えた僕の喜びをもきっと。
元予備校生の少年は、銀縁フレームの眼鏡を通して無表情でそんな彼女の横顔に見入っていた。この春無事に大学への進学を果たし、予備校の帰り道に店の前を通る事もなくなった。それでも少年は、一週間に一度ここへ来てこの席に座る習慣を再び取り戻そうとしていた。
コーヒーの味など何もわからない。視線の先には彼女がいる。それがすべてだった。それだけが今の少年を支えているすべてだったのだ。
本当はコーヒーなんてどうでもいいんだ。
だけど僕は、彼の淹れるモカブレンドを飲みにこれからも通うだろう。
君のピアノが聴けるなら。
君の声が聴けるなら。
0
あなたにおすすめの小説
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる