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第二章 秋

Order6. 秋の歌

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「あーちくしょう! 岡本の野郎!」
 店内に、突然ガラの悪い男の声が響き渡る。楽しげにティータームを過ごしていた客は、一斉に声の主を探して店内を見渡した。
 入り口に一番近い四人掛けのテーブルに、その男はひとりで座っていた。
「大体あいつは、いっつも常務に媚びてやがって、気に入らねぇ。オレが必死で契約までこぎつけた仕事を、あっさりと自分の手柄にしちまいやがる。ああ気に入らねぇ!」
 男は四十代半ば位だろうか。グレーの背広に淡い緑色のネクタイをだらしなく結んでいる。ベース型の顔を耳まで真っ赤にし、目はうつろだった。夕方にも関わらず、完全にできあがって来店したのだ。
 それまで楽しげだった店内は、急に不穏な空気に変わり、若いカップルや女子大生のグループは、一気に興冷めしたようにコーヒーを飲み干すと、いそいそと席を立ち始めた。
 店の一番奥でチャイコフスキーの『秋の歌』を優雅に弾いていた少女は、少し残念そうに曲を終わらせる。
「いいよ。続けて」
 カウンター越しに精算をしながら、青年は少女に言う。少女は再び気を取り直したようにもう一度最初から弾き始めた。
 やがて店内には、青年と、少女と、そして酔っ払いの三人だけしかいなくなった。
「よう、兄ちゃん。ビール持って来いや、ビール!」
 男は、相変わらず下品な言葉を発する。
 青年はそれには返事をせず、コーヒーを淹れると、男の前に差し出した。すっきりとした味わいながら苦味が強いブラジルコーヒーだ。
「何だ、これは?」
 男は、木製の椅子の背もたれに左手を掛け、退け沿ったような体制のままカップの中身を覗きこんだ。
「あなたに今一番必要なものですよ」
「オレはコーヒーなんか頼んじゃいねえ! オレの言う事が聞けないのか? どいつもこいつも、ふざけやがって!」
 男はそう叫ぶと、木造のテーブルを思い切り拳で叩いた。鈍いがものすごい音が店中に響く。
 少女のピアノが一瞬途切れるが、微動だにしない青年の背中を見て、再び演奏を続ける。
「お前にわかるか? わからねぇだろうなぁ。その年でこんな店を経営してるようなお坊ちゃんに、わかりゃしねぇなぁ。ふ……まったく。何がコーヒーだ。何が出世だ。何がエリートだ!」
 男は喚き散らすと、疲れ切ったように突然うな垂れ、小さな目でコーヒーカップを睨みつけた。まるで諸悪の根源がすべてそこにあるかのように。
「残念ながら、あなたの言う通り僕は団体社会に出る事をやめた男ですから。あなたの気持ちはよくわからないんです」
 青年は男の向かいの椅子に腰を掛けると、低い声で穏やかに言った。
「そうだろうよ。お前さんにはわからねぇ。なぁんの苦労もせずに、こうして立派な店構えてよ。さぞ立派な親御さんなんだろうよ。……オレは息子に、何も買ってやれねぇってのによ」
 男の無神経な言葉に、さすがの少女も眉根を寄せ、とうとう演奏をやめると椅子から立ち上がった。しかし青年は目で少女を制すると、相変わらず穏やかな笑顔で男に語りかける。
「だから、聴かせて貰えませんか」
「何?」
「あなたの話の続きを」
「…………」
 まっすぐ見つめる青年に、男はその後もしばらく下品な言葉をブツブツと並べ立てていたが、席を立とうとはしない。
「冷めますよ」
 青年の言葉に、男はチラッともう一度コーヒーに目をやると、面倒くさそうにその琥珀色の飲み物を一口飲んだ。先ほどまでの憎しみに満ちた目はすでに消えていた。
 少し大人しくなった男に少女も安心すると、再び腰を下ろし、三度みたび鍵盤を叩き始めた。
 男は口元を皮肉に歪めながら、じっと奏でられるピアノに聴き入っていた。
「オレはなぁ、兄ちゃん」
 男がおもむろに口を開く。
「社会が憎いんだよ。要領の良い奴だけが勝つ、この社会の仕組みが。結局バカを見るのは真面目な連中ばかりだ。ええ? そうは思わないか?」
 青年は、そうだともそうでないとも答えず、しばらく男の顔を見つめた後、口を開いた。
「あなたは、一番辛い時にここに来てくれた。僕には、それだけで充分ですよ」
「あぁ?」
「僕は覚えていますよ。あなたが昼間、一度だけここに来てくれた日があった事。忙しいのに、どうしてもコーヒーが飲みたくなって立ち寄った……そう言ってましたよね。あなたにとって、ここがただの通り過がりじゃなく、心のどこかに残ってたって事。それだけで、僕は嬉しい」
 男は、まっすぐな青年の目を少し眩しそうに見ると、相変わらず口元を歪めながら目を逸らした。
「ふん。何が嬉しいだ。わかったような事言いやがって」
 男はもう一口コーヒーを飲むと、少し哀しそうな目をして肩を落とした。
「ガキの頃に戻りてぇなぁ。なぁんも悩みがなかった頃に……」
「子供は子供で、それなりに悩みがありますよ。大人にとってはちっぽけでも、当人にとっては信じられない位大きな悩みが」
「ふん。まったく何でもかんでもオレに逆らいやがる。気に入らねぇぜ、まったく」
 気に入らない、とは言いながらも、男は相変わらず哀しげに、そして懐かしそうな顔でコーヒーを飲み続ける。
「苦いな、このコーヒーは」
「だけどおいしいでしょ」
「ふん。自画自賛かい」
 男は鼻先で笑うと、二、三度目を瞬いた。
「おかしいよな。子供の頃は早く大人になりたいって思ってたのに、いざ大人になると、子供に戻りたいなんて思うのはよ」
「悩みにぶつかったら、〝今〟の自分から逃げたくなるもんです。でも、〝過去〟の自分も〝未来〟の自分も、また違う悩みで苦しんでるもんだと思いますよ。生きてる限り、悩みから解放されるなんて……永遠にありませんから」
「そうかもしんねぇな」
「逆に言えば、それが生きてる証拠なんですよね。〝人〟と関わってる証拠です。ひとりじゃないっていう証拠なんですよ」
「兄ちゃん、若いのに良い事言うじゃねぇか。意外とあんた、苦労してきたみたいだねぇ」
 青年は肩を竦めてみせる。
 男は席を立つと、少し照れくさそうにおでこの辺りをボリボリ掻いた。
「また来るわ。今日は酔い覚ましになったけど、せっかくのコーヒー、今度はシラフの時に飲ませてくれよ」
「いつでも」
 青年はにっこりと微笑む。
 男はいくつかのコインを木製テーブルの上に並べると、青年に背中を向け、おもむろに言った。
「あんたの目見てると、なんか懐かしい気持ちになるよ。不思議だな」
「…………」
「昔オレもあんたと同じような目、してたのかもしれねぇな」
 男はそう呟くと、少し寂しげに背中を丸めて扉を押した。ガランという濁った音と共に、コーヒーの香りと秋冷の空気が入り混じり、ほんの少し店内の空気を冷やして彼は出て行った。

 青年はお客の残したコインを一枚手に取ると、器用にテーブルの上でくるくるといたずらに回してみた。
 ほんの十秒も経たない内に、コインは大きくカーブし、木目の溝につまずいてカラカラとその回転を止めてしまった。
「偉そうな事言ってるけど、俺もこのコインと同じだよな」
「……?」
 少女が訝しげに首を傾げながらも、ピアノを続ける。彼女の指から生まれる『秋の歌』は、何とも物悲しい秋の情景を歌い続けている。
「ひとりじゃ踊れない。でも、死ぬ時はひとりって事」
 少女は、〝それはわたしも同じよ〟と心の中で呟いた。
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