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第一章 春
Order2. 空回りの愛
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「ね、拓ちゃん。嘘でしょ? 万引きしたなんて」
感情を抑えた低い女の声が、夕方の珈琲専門店『春秋館』の中に響く。
三十代半ばに見える女の前には、ブラックのままのアメリカンブレンドが置かれている。そして、彼女の向かいの席に座って項垂れているのは、小学校高学年位の、息子と思しきひとりの少年。彼は、目の前のグレープフルーツジュースをじっと見つめたまま、母親とは目を合わせようとしない。
ふたりは、もう一時間もこうしていた。コーヒーはすっかり冷め、ジュースの氷もとっくに解けてしまっている。
カウンターの中では、この店の店長である二十代前半の青年がのんびりと洗い物をし、店の一番奥では、髪の長い少女が優雅にピアノを弾いていた。二十分ほど前にカップルが出て行ったきり、親子の他に客の姿はない。
少年はチラッと目線を上げ、青年と少女の方を気にするように盗み見た。それは、自信なさそうで、どこか怯えているような、あるいはすがるような眼差しにも見えた。
「嘘よね。何かの間違いでしょ? あの子の言う事なんか信じないわ。母さんは、拓ちゃんの事絶対信じてるから!」
「いいよ、もう」
少年は、短く母を突き放した。
「母さん、あの子の家に行ってもう一度ちゃんと話をしてくるわ。拓ちゃんは巻き込まれただけだって、母さん信じてるもの。あなたはそんな悪い事できる子じゃないって! ね、お父さんには母さんから話すから。拓ちゃんは、何も心配しなくていいから。きっとすぐにこんなばかげた疑いなんて晴れるから!」
母親は、息子を諭すように、自分に言い聞かせるように言い切った。
それでも母親の顔を見ようとしない少年は、母親が大きな声をあげる度に、バツが悪そうな顔でカウンターの中を盗み見ている。その頬は紅潮し、もうずっと脂汗が浮かんだままだ。しかし、カウンターの中の青年はまるで母親の声など何も聴こえていないかのように、相変わらずのんびりと洗い物をしながら、モーツァルトの『五月の歌』に耳を傾けていた。
母親は、結局一度もコーヒーに口をつけないままさっさと立ち上がって会計を済ませると、少年を置いて店の外へ出て行ってしまった。すると、すぐに少年もいそいそと母親の後をついて店を出て行った。
少女はピアノを弾いていた手を中途半端に止めると、無表情のまま親子の消えた扉を見つめた。そして手つかずのコーヒーカップとグラスに視線を移しながら何か言おうと口を開いた。
しかしその途端、少年がひとりで店の中に駆け込んで来た。息を切らし、何かを訴えるような目をカウンターに向ける。洗い物の手を止めた青年は、初めて少年の顔をまっすぐに見た。
「ぼく、ぼく……」
「わかってるって」
青年はゆっくりと頷くと、目を細め、少年に柔らかな笑顔を向けた。
「…………!」
少年は目にいっぱい涙を溜め、唇を一度強く噛むと、そのまま何も言わずに踵を返した。
バタバタというスニーカーの音が店外に響き、やがて消えていった。
幼い少年の痛そうな顔に、少女の胸も痛んだ。
「〝信じてる〟って言葉は、時に残酷だよな……」
青年がぽつりと呟き、ひとつ大きく息をする。
「…………」
そう。〝信じてる〟って言葉には、きっと愛情をいっぱい込める事ができる。だけど、ひとつ使い方を間違えれば、それは時に無責任に相手を追い込む言葉にもなる。
少年は、きっと自分をわかって欲しかった。信じるよりも、まず知って欲しかった。聴いて欲しかった。自分の心の奥にある想いを。母親の〝信じてる〟って言葉は、軽すぎた。そして、それを受け止める事は少年には重すぎた……。信じる事より大事なものを見失った、母の愛。
愛すれば愛するほど、空回りするだけのふたつの心。
少年の張り詰めた想いがいつか彼の息が詰まらせ、破綻する日がくるかもしれない。
ピアノ弾きの少女は、親子が座っていたテーブルに近づくと、痛い心を隠して微笑んだ。
「でも、彼きっと救われたわ。あなたがわかってあげたから」
ガラス越しに見える空はもう夕闇が迫って、青鈍色に染まりつつある。
ガランと音を立てて、常連のサラリーマンがひとり、スポーツ新聞を片手に入って来た。
「いらっしゃい」と、青年。
「よ! 店長。まだ五月だってのに、今日も蒸し暑かったよ」
「真夏が思いやられますね」
青年は、少女に言葉を返す間もなく、カウンターに座ったサラリーマンに水を出しながら他愛ない会話を始めた。
でも少女は、この若い店長の心を、落とした眼差しから推察する事ができた。
自分の言葉に、きっと彼も救われたんだって事。
感情を抑えた低い女の声が、夕方の珈琲専門店『春秋館』の中に響く。
三十代半ばに見える女の前には、ブラックのままのアメリカンブレンドが置かれている。そして、彼女の向かいの席に座って項垂れているのは、小学校高学年位の、息子と思しきひとりの少年。彼は、目の前のグレープフルーツジュースをじっと見つめたまま、母親とは目を合わせようとしない。
ふたりは、もう一時間もこうしていた。コーヒーはすっかり冷め、ジュースの氷もとっくに解けてしまっている。
カウンターの中では、この店の店長である二十代前半の青年がのんびりと洗い物をし、店の一番奥では、髪の長い少女が優雅にピアノを弾いていた。二十分ほど前にカップルが出て行ったきり、親子の他に客の姿はない。
少年はチラッと目線を上げ、青年と少女の方を気にするように盗み見た。それは、自信なさそうで、どこか怯えているような、あるいはすがるような眼差しにも見えた。
「嘘よね。何かの間違いでしょ? あの子の言う事なんか信じないわ。母さんは、拓ちゃんの事絶対信じてるから!」
「いいよ、もう」
少年は、短く母を突き放した。
「母さん、あの子の家に行ってもう一度ちゃんと話をしてくるわ。拓ちゃんは巻き込まれただけだって、母さん信じてるもの。あなたはそんな悪い事できる子じゃないって! ね、お父さんには母さんから話すから。拓ちゃんは、何も心配しなくていいから。きっとすぐにこんなばかげた疑いなんて晴れるから!」
母親は、息子を諭すように、自分に言い聞かせるように言い切った。
それでも母親の顔を見ようとしない少年は、母親が大きな声をあげる度に、バツが悪そうな顔でカウンターの中を盗み見ている。その頬は紅潮し、もうずっと脂汗が浮かんだままだ。しかし、カウンターの中の青年はまるで母親の声など何も聴こえていないかのように、相変わらずのんびりと洗い物をしながら、モーツァルトの『五月の歌』に耳を傾けていた。
母親は、結局一度もコーヒーに口をつけないままさっさと立ち上がって会計を済ませると、少年を置いて店の外へ出て行ってしまった。すると、すぐに少年もいそいそと母親の後をついて店を出て行った。
少女はピアノを弾いていた手を中途半端に止めると、無表情のまま親子の消えた扉を見つめた。そして手つかずのコーヒーカップとグラスに視線を移しながら何か言おうと口を開いた。
しかしその途端、少年がひとりで店の中に駆け込んで来た。息を切らし、何かを訴えるような目をカウンターに向ける。洗い物の手を止めた青年は、初めて少年の顔をまっすぐに見た。
「ぼく、ぼく……」
「わかってるって」
青年はゆっくりと頷くと、目を細め、少年に柔らかな笑顔を向けた。
「…………!」
少年は目にいっぱい涙を溜め、唇を一度強く噛むと、そのまま何も言わずに踵を返した。
バタバタというスニーカーの音が店外に響き、やがて消えていった。
幼い少年の痛そうな顔に、少女の胸も痛んだ。
「〝信じてる〟って言葉は、時に残酷だよな……」
青年がぽつりと呟き、ひとつ大きく息をする。
「…………」
そう。〝信じてる〟って言葉には、きっと愛情をいっぱい込める事ができる。だけど、ひとつ使い方を間違えれば、それは時に無責任に相手を追い込む言葉にもなる。
少年は、きっと自分をわかって欲しかった。信じるよりも、まず知って欲しかった。聴いて欲しかった。自分の心の奥にある想いを。母親の〝信じてる〟って言葉は、軽すぎた。そして、それを受け止める事は少年には重すぎた……。信じる事より大事なものを見失った、母の愛。
愛すれば愛するほど、空回りするだけのふたつの心。
少年の張り詰めた想いがいつか彼の息が詰まらせ、破綻する日がくるかもしれない。
ピアノ弾きの少女は、親子が座っていたテーブルに近づくと、痛い心を隠して微笑んだ。
「でも、彼きっと救われたわ。あなたがわかってあげたから」
ガラス越しに見える空はもう夕闇が迫って、青鈍色に染まりつつある。
ガランと音を立てて、常連のサラリーマンがひとり、スポーツ新聞を片手に入って来た。
「いらっしゃい」と、青年。
「よ! 店長。まだ五月だってのに、今日も蒸し暑かったよ」
「真夏が思いやられますね」
青年は、少女に言葉を返す間もなく、カウンターに座ったサラリーマンに水を出しながら他愛ない会話を始めた。
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