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1章 ぼくに舞い降りた事件の話

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 時刻はすでに、夜の八時をまわっていた。部屋の明度はいつの間にか少し落ち着き、窓の外に広がる空は濃いネイビーになっている。地上に目を向けると、ブリズベンの街並みが金色の光に浮かび上がっていた。
 ぼくはほとんど無意識に窓のそばに近寄り、カーテンを閉めてシャンデリアの光を夜用の電球色に変える。いつもの習慣をこなしながら、ぼくの口は動きを止めない。
「仕事でフェアフィールドに行く用事があってさ。その仕事の帰りにちょっと飲んで帰ろうと思って、店に入ったんだ。あの次の日が、カークとの打ち合わせ日だったから、うん、間違いない。ぼくが担がれて帰ってきたのは、アランの事件の日だ」
「なるほど」その慎重な相槌は、どこか探るような響きがあった。「つまりお前は事件のあった時間に、誰かと一緒にいたんだな」
「そうなんだ! ほんと、なんで忘れてたんだろ。記憶をなくすほど酔ったなんて、卒業プロム以来だ」
「ああ、あれはひどかったな……」
 ブライアンの言葉にぼくはおし黙った。幼なじみとは、こんな時ホントに厄介だ。ぼくがすっかり忘れてしまっていることまでしつこく覚えているんだから。
「それで、その相手のことは」
「それが、ちょっとよく思い出せなくて」
 ぼやけた謎の人物の姿をなんとか思い描こうと試みながら、ぼくは唸り声をあげた。
「声をかけられたバーがどこかまでは覚えているんだけど。あと、車で送ってもらったことも」
「無理に思い出そうとするな、{誤った認識|ミスリーディング}の元だ。刑事の名刺はあるか」
 男の問いかけに、ぼくはカードホルダーに突っ込んでいた名刺二枚を渡した。やつの青灰色の目が、その表面をさらりと撫でる。
「インスペクター、サミュエル・ロビンソン――ああ、サムか。昇進したんだな」
「知り合い?」
「互いに名前を知っている程度だ、大した知り合いじゃない。こっちの刑事の名前は初めて見る」
「グエン刑事は若くて穏やかそうな人だったよ」
 名刺を受け取りながらのぼくのコメントに、ブライアンは皮肉げに眉をあげた。
「穏やかなだけの刑事がいるとは思えんな。そういうやつが、実は一番喰えない」
 偏見だらけの言葉をぼそりと呟いて、すっかり刑事の目になった男が続けた。
「とにかくお前はその時間、自分が誰かと一緒にいたということをサムに伝えろ。思い出したことをできるだけ正確にな」
「顔も思い出せない男の存在が、アリバイになるかな?」
「なりはしないが、裏を取るための捜査はするだろう」
「ちゃんと捜査してくれるかな……」
「お前が本当に容疑者のひとりなら、するだろうさ。捜査対象から外れているなら放っておかれるだろうが、まあその方が平和でいいだろう」
 たしかに理屈は通っているんだけれど、当事者であるぼくの耳にはあまりに論理的すぎて、ちょっと面白くない。
「元刑事のくせに、楽観的すぎじゃないかなあ」
「こんな時ばかり{悲観主義者|ペシミスト}ぶるんじゃない」
「こんな時じゃなきゃ、いつ悲観的になれっていうんだよ」
 横目でちろりと男を睨みつけ、ぼくはとうとうと起こりうる可能性を並べ立てた。
「この二人の刑事がそろって無能だったらどうするんだよ。無能すぎて、アランの知り合いをぼく以外に見つけられなかったら? それか、ぼくへの疑いで頭がいっぱいになって、ろくにまともな調査をしなかったら? それに、たとえ調査してくれたとしても、もしぼくが一緒にいた相手の男が影も形も見つからなかったら、ぼくがアリバイのために嘘をついたと思われるかもしれないじゃないか。それってめちゃくちゃ心象悪いよね!」
 ぼくが立派な悲観主義者っぷりを披露していると、それを面白そうに聞いていた男が悠然とした仕草で片手を上げて、ぼくの主張を遮った。
「オーケーオーケー、お前の不安はよくわかったよホームズ。だがたとえ、その可能性がすべて当てはまったとしても、今のお前にできることはないだろう。大人しくしていろ」
「冷たいやつ」
「その冷たいお前の幼なじみは、突然電話をかけてきた友人を心配して、仕事を放り出してこうして顔を出したんだがな。覚えているか?」
「あーごめん、今のはぼくが悪かったよ……」
 考えなしに、思いついたことをぼろぼろと口にするのは、ぼくの悪いくせだ。
 さすがに反省しながら、ぼくは気まずい気持ちで続けた。
「まだ仕事中だったんだな。もう十分に終業にふさわしい時間だと思ってたから――」
 そんなことを言いかけて、ぼくはふと、そういえばやつの今の仕事が探偵なのだったということを思い出した。そして、つい三秒前の反省をすっかり忘れて、思いついたことをぽろっと口にする。
「なあ、もしぼくがお前に調査をお願いしたいって言ったら受けてくれる? もちろん規定通りの料金は払うよ。お前に、ぼくが一緒にいた男が誰なのかを調べてもらえたら心強いんだけど」
 その提案に、ブライアンは一瞬面食らった後で、すぐに真顔で頷いた。
「――いいだろう」
「へっ?」
 自分で言っておきながら、まさか男が了承すると思っていなかったぼくは、びっくりして体ごとブライアンの方へと向きなおる。
「そんなに簡単に依頼を受けていいの?!」
「ちょうど大きな仕事が一つ片付いたところだ。――なんだ、不満そうだな」
「いやいや、そんなまさか」
 ははは、と笑うぼくを見て目を細めながら、男が不機嫌そうに足を組みかえた。
「とりあえず、改めて事件の概要から聞こうか」
「何だって? ぼくが一緒にいた男と事件は関係ないぞ!」
「念のためだ。その情報がいつ役に立つとも限らない」
 もうすでに、散々刑事さんから情報を搾り取られたのに!
「くそ、早速後悔してきたよ……」
 うなだれるぼくをみて低く笑いを漏らすと、男は元の不機嫌な顔に戻って質問を始めた。
「それで、まず被害者の名前と年齢は」
「アラン――確かマクスウェルって刑事さんが言ってたな。アラン・マクスウェル、年齢はちゃんと聞いたことがないけど、まだ二十代前半だと思うよ」
「痛ましいな」
 男の目に影が差す。ぼくがそれに気を取られた次の瞬間には、その陰はあとかたもなく消えていた。
 ブライアンが続ける。
「いつ、どこで、そいつとは知り合ったんだ?」
 全く、刑事という人種はどうして揃いも揃って同じことを聞いてくるんだ。
「半年前くらいかな。スプリングヒルにあるガストロパブ――そこのワギューバーガーが絶品なんだよね――でたまたま意気投合して、付き合いが始まったんだ。それから、月に二、三回のペースで会って、食事してた」
 そこまで一息に言い切ってから、ぼくは静かにコーヒーに口をつけた。ぼくのそんな様子を見つめていた男が、淡々と言い切る。
「嘘だな」
「ああ、もう」
 叩きつけるようにカップをテーブルに置いて、ぼくはぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。整髪料のくびきから放たれたクールブロンドが、手の中でくるくると踊る。
「だからお前に話すの嫌だったんだよ!」
「何が嫌だ、この大ばか野郎! こんな時にくだらない嘘をつくんじゃない!」
「くだらなくない! これはぼくだけの問題じゃないんだ」
 思わず顔を上げて、鋭く目の前の男を睨みつけた。
「約束したんだ。たとえお前にだって、話すつもりはないぞ」
「このばかが……」
 ブライアンが苦々しげな呻き声を漏らす。
「店名と場所だ、お前が嘘をついたのは。なぜ隠す必要があるんだ? いかがわしい店、というわけではないみたいだな。ゲイバーとか……」
 その時のぼくの、どんな反応がやつの感覚に引っかかったのかは分からない。けれどその瞬間、自分の反応からブライアンが答えを見つけてしまったのだということだけは、はっきりと分かった。
 男の目が、かすかに困惑に染まる。
「ゲイに対する偏見がなくなったとは言わないが、死んでからも守らなければならないような秘密か?」
「……アランの場合はね」
「本人の死後、全く関係のない第三者にすら漏らせないほどの、特殊な事情だと」
「茶化すなよ。父親がひどく同性愛を嫌うタイプの人間らしいんだよ」
 秘密を守れなかった情けなさにうなだれながら、ぼくは続けた。
「お前はありがちだと言うかもしれないけど、アランは本当に父親に怯えていたんだ。スパイみたいに、自分がゲイである痕跡を必死に隠そうとしていたよ」
「まあ、確かにありがちだとは思うが、彼の恐怖を軽くみるつもりはないさ。親の持つ影響力というものは、ほとんどの人間が多かれ少なかれ理解しているものだ 」
 淡々としていながら、どこかなだめるような口調で男が言う。
 ジャケットのポケットに伸ばした手を、思い直したようにカップに伸ばすのが目に入った。この部屋からタバコの香りがしないことに気がついたのだろう。
「まあいい。その男はゲイで、その秘密をお前と共有していた」
 重いため息で返事をする。そんなぼくの様子をちらりとみて、ブライアンもまたため息をつく。
「ルーク、お前はきちんと秘密を守ろうとしていたよ。それをおれは理解しているし、お前のその気持ちを尊重すると約束するから」
 その言葉に少し気を持ち直したぼくは、ようやく顔をあげてブライアンの目に焦点を合わせた。
「――ありがと」
「いや。そもそも、警察にさえきちんと話しているのなら、おれが説教をする筋合いではない……」
 そこまで言って、ブライアンはぼくの方を見てにこりと笑った。わけがわからないまま笑い返したぼくに向かって、男が口を開く。
「……ところでお前、この話を刑事には話したんだろうな?」
 ぼくは思わずまじまじと、端正な幼馴染の笑顔を見つめた。
 念のための確認のつもりなのだろうが、それにしたって、ぼくがそこまで間抜けに見えるのだろうか。
「おいおい、ブライアン。お前の幼なじみを見くびらないでくれよ」
 ぼくは得意げに胸をはってにっこりと口角を上げた。
「もちろん言っていないに決まってるだろ。バレた様子もなかったぞ」
 その瞬間のブライアンの表情ったら、見ものだったぜ。
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