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1章 ぼくに舞い降りた事件の話

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「殺人事件調査中の刑事にいらん手間をかけさせるな!」と言うブライアンの言葉を聞き流しながら通話を切り、刑事さんから全く同じ言葉で電話を切られ、むすくれていたところを通りがかった人に助けられた。大騒ぎした割には事件の幕引きはあっさりしたもので、さすがのぼくも気持ちの座りが悪い。
 彼女に心からの感謝と感激を伝え、ぼくはおとなしく家に帰るべくブリズベンの街を歩き始めた。
 オーストラリア第三の都市、ここブリズベンは、首都のキャンベラや経済の中心地であるシドニー、住みやすいと名高いメルボルンとは緯度も違えば気候も違う。一応亜熱帯地域に属するとは言われているけれど、実際のところ真冬の七月の夜でもこうして半袖でうろつけるのだからそれも怪しいものだった。代々この都市に住んでいる人々は口を揃えて「温暖化」だの「異常気象」だの騒いでいるけれど、住み始めて三年の新参者にはいまひとつピンとこない。
 少しだけ遠回りしようと進路を南西へ向ける。程なく河を眺めながら食事を楽しめる高級レストランのエリアに行き当たり、その通りをさらに道なりに進むと、遊歩道の整備された公園の入り口へと辿り着く。一日を通して船が行き交うそこそこ大きな河が目の前にあった。対岸は建物や車の放つ光を反射して水面もまた煌びやかなものだが、こちらの岸は森林と休憩中の船の影を映し取って暗い水がさらに黒い。
 その黒を眺めているうちに気分も良くなり、ぼくは今度こそ進路を北に定める。個人経営の飲食店とマンションの並ぶ通りを横切り、高級ホテルが並ぶ通りを二つ過ぎる。
 ぼくには縁のなさそうなジュエリーショップの角を左に折れると、ぼくの住処は目の前だ。ヒルトンホテルと同じ通りに位置するまごうことなき高級アパルトメント。
 ガラスの扉から溢れ出るオレンジの光に目を{瞬|しばた}かせながらエントランスに足を踏み入れる。そのままコンシェルジュの待ち構えるカウンターと待合用のソファーの間をいつものように通り過ぎようとしたぼくは、ソファにも座らずに壁に背中を預ける長身の男の姿に気がついて思わず息を飲んだ。その男の背格好には見覚えがあった。
 やや崩れた黒に近いアッシュグレーの髪に、百八十九センチの長身。黒いスラックスに包まれた長い脚。人々の甘いため息を誘う憂いを帯びた{青灰色|グレイッシュ}の目に、やや日焼けした明るい肌。
 いかにも生真面目そうな端正な顔立ちや、真っ直ぐに伸びた背中はまるで、この世の『だらしない』と呼ばれる要素の一切を、注意深く取り除いたかのようだった。住所教えたことあったっけ、と頭の片隅で記憶を辿りながら、ぼくは三年前に自分を手酷く振った男を見つめながら立ち尽くしていた。
 このまま回れ右して逃げ出したかったけれどそういうわけにもいかず、ぼくはため息をひとつついて、見るからに不機嫌な男に歩みよった。
 彼がぼくに気がついて、じろりとこちらを見る。ああ、そういえばこいつ、目つきはひどく悪かったっけ。
「ブライアン」
 意図していたよりずっとか細い声に、舌打ちしたくなる。動揺を隠したくて、ぼくはぶっきらぼうに続けた。
「久しぶりだね。どうして、ぼくの家が分かったの?」
 ブライアンはぼくをじっと見つめたまま、穏やかな声で「お前の母親に聞いた」と答える。
「何だって?! 母さんに住所なんて教えてない――」と言いかけたところで、そういえば先日、彼女にバースデーカードを送ったのだと思い出した。なんだか恩を仇で返された気がしてぼくは顔をしかめる。
「次のバースデーカードは、差出人明記せずに送ってやる」
「……お前たち親子は、勘当の意味を本当に理解しているのか?」
「仕方ないだろ。送らないと拗ねて大変なことになるんだ」
 ぼくは自分の母親を思い浮かべてため息をついた。美人だけど、めちゃくちゃな理論を振り回し、みじんも自分の正しさを疑わないタフな女性。家にいた頃は、ぼくとしょっちゅうけんかしていた。勘当されたあとも時々けんかしている。
 この時ぼくはブライアンの声が穏やかなことと、失恋したとはいえ長年親しんだ相手との気の置けないやりとりに、ずいぶんと気が緩んでしまっていた。だから無警戒に彼の側に歩みよったし、二の腕をつかまれて締め上げられた時にも、きょとんと彼を見上げただけだった。
「やっと捕まえたぞ、この野郎」
 それまでの穏やかさをかなぐり捨てたその声に、ぼくは間抜けにもようやくこいつがひどく不機嫌そうだったのだということを思い出す。
「ルーク、お前というやつは――」
「ひどい! なんてやつだ! ぼくをだましたな」
 遅ればせながら腕を振りほどこうと身をよじりながら、ぼくは叫んだ。
「お前がすぐに逃げるからだろうが! とりあえず大人しくお前の部屋へ連れて行け。事情を全部吐くまで帰らないから、覚悟しろよ。きっちり説教付きでな!」
「なんで怒られる前提なんだよ!」
「あの、ミスター?」
「メーガン!」
 レセプションから不審気な視線を投げ掛けてくる女性に、ぼくは目を輝かせた。
「今日も最高にきれいだね! 警察呼んで!」
「警察を便利屋のように使うんじゃない」
 そう言ってあいた手でぼくの鼻をつまむと、ブライアンはずるずるとぼくを引きずりながらレセプションの方へと足を向けた。
「ハイ、メーガン? おれはこいつの幼なじみのブライアン・ダーシーだ」
 そう言って、無駄のない仕草で名刺を差出す。メーガンが問うようにこちらに視線を投げてきたので、ぼくは渋々頷いて、男の自己紹介に嘘がないことを認めた。
「彼が厄介ごとに巻き込まれた事情はご存知かな?」
「ええ、警察から彼がここにいるかどうか聞かれたので……。それから、彼についても少し」
「こいつがそれに怯えてパニックを起こしているから、相談に乗りにきたんだよ」
「パニック起こしてなんかない! 誤認捜査で刑務所に入れられそうになったときに備えて、逃げる準備も万端だ!」
「見ての通りの、この有様でね。あと、それを言うなら冤罪だ、ルーク」
「あ、そうそう、それそれ!」
 そう言って頷くぼくを痛ましげに見ながら、メーガンが「なるほど……」と深くため息をついた。
「混乱しているこいつの証言で捜査が振り回されたら、警察も被害者もいたたまれないからね。その前に少し、話を聞いておきたいんだ」
 そう言って、ブライアンはメーガンにウインクを投げた。
「こうみえて、元刑事なんだよ」
「そうね。あなた、刑事にしてはちょっと素敵すぎるわね」
 そう言って苦笑するメーガンの表情からは、さっきまでの不審気な様子はきれいさっぱりぬぐい去られていて、ぼくは焦る。
「彼の部屋は十五階よ。鍵は右のお尻のポケットにあるわ」
 そう言って、さっさとエレベーターの解除ボタンを押す美女に、ブライアンはにこりと眩しい笑みを送った。
「ありがとう、メーガン。君は完璧だ」
 そう言ってぼくのポケットに手を突っ込み、そのまま鍵を探り取る。男の無遠慮な手に、ぼくは飛び上がって更にもがいた。
「メーガン、セクシャルハラスメントだよ、警察呼んで!」
「ばかね、ルーク」
 そう言って、彼女は手元に視線を落とした。今日発売の雑誌がその手元にあるのが見えて、ぼくは絶望感に苛まれる。重度の活字中毒の彼女は、いったん活字に目を落としたら、勤務終了時間まで顔を上げることがないんだ。さっきぼくたちに声をかけてくれたのは、ぼくへの好意のたまもの。
 ずるずるとエレベーターへ運ばれていくぼくに向かって、メーガンがさらりと言った。
「自分が今どんな顔しているか、後できちんと見てごらんなさい」
 メーガンの言葉に、ぼくの頬がさっと熱を帯びる。
 ――仕方がないだろ! こいつが度を超えたハンサムなのが悪いんだ、畜生。
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