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1章 ぼくに舞い降りた事件の話

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 ああ本当に、悪いこととはは重なるものだ。
 ひとつひとつ時間をおいてやってきてくれたなら、ぼくだって笑ってやり過ごしたり、お酒でも飲んで笑い話にしたり、結構冷静に対処したと思うんだ。世界の何もかもが目新しかったティーンエイジャーの頃ならいざ知らず、三十代も目前に迫った今のぼくは大抵の困難は経験済みだし、少なくとも困難に立ち向かうための心構えくらいは身につけていたつもりだった。
 けれどもこれだけ不幸が重なれば、さすがのぼくでも人生悲観せずにはいられない。そのくらい色々なことが一度にぼくの人生になだれこんできて、やり過ごす時間どころか脳がその出来事を認識する時間すら与えられなかったんだ。
 ぼくの心を映し出したかのように、目の前の景色もただただ真っ暗だった。急激に開発が進んでいると評判のブリズベン{CBD|中心街}だって、少し脇道に入ればこの有様だ。亜熱帯に属しているとはいえ七月の夜はそれなりに冷えるし、助けを求めようにも人の気配なんてまるでない。ぼくが置かれた今のそんな状況が、絶望感に拍車をかけた。
 空にはきっと、たくさんの小さな光が瞬いているのだろう。けれどもその光を見上げる気力なんて、とても残ってはいなかった。
 しんどくて歩けない時には自分が今一番したいことを自分にしてあげなさいって、二日前に死んだばあちゃんがよく言っていたけれど――そして思えば、彼女の死が記念すべき不幸の最初の第一報だった――やりたいことが何一つ思い浮かばないってことは、ぼくの未来はこのすぐ先でぷつんと切れちゃってるんじゃないかなあ。『今自分が一番したいことをしてみればいいんだよ』っていろんなやつを励ましてきたけど、今はその持論をぶん殴って耳を塞ぎたい。今までこの言葉をぼくから聞かされたやつらだって、きっとぼくを殴りつけて口を塞ぎたがっただろう。
 呆然自失のまま、今までの人生を振り返っていると、左手がぼくの許可なくポケットを探り、勝手にデバイスを取り出した。そしてそのまま、流れるようにある連絡先を表示させる。三年前に着信拒否の設定をして、もう絶対に連絡を取ることはないと思っていた男の電話番号。じゃあ何でデータを消していないんだって言われたら、自分でもちょっと説明に困るんだけれど。
 少しの間ためらってから、ぼくは通話ボタンを押した。この先の未来はぼくに残されていないかもしれないんだ。人生最後にあいつの声を聞いてやろう――それにしても、絶望の最中でしたいことが、こいつに電話をかけることだけとはね。人生どころか自分自身の考えでさえ、いつだってぼくの手には負えない。
 耳に押し当てた電話機から、コール音が鳴り始めた。そう思った時にはプッと言う電子音と共に懐かしい、でもよく聞き慣れた低音が耳に届けられる。
「ダーシーだ」
 ああ、この声を聞くだけで天にも昇る気持ちになったこともあったっけ。
 少しの間しみじみと懐かしさに浸ると、ぼくは電波の向こうにいるであろう幼なじみに行儀よく挨拶した。
「やあ、ブライアン」
 一瞬口をつぐんだあいつが、元々低い声を更に低くして唸り声を上げる。
「ルーク、お前なあ……」
「ごめん、ぼくだってお前に電話するつもりはこれっぽっちもなかったんだ。でも、ぼく今、本当に人生崖っぷちで、文字通り追いつめられてて、しかもとびきり不幸で」
 言葉を紡げば紡ぐほど、どんどん自分の言葉が軽くなっていく気がして、焦りが募る。
「おい、ルーク」
「お前、元警官だろ! だからって別に用事なんてないけどさ、人生の最後に声でも聞いといてやろうと思ったんだよ!」
 自分で言うのもなんだけど、なんて支離滅裂なんだ。
「わかった、わかったから落ち着け、ルーク」
 ブライアンが電話の向こうからぼくをなだめようとする。
「ひとつずつ、順番に話すんだ。人生の最後とはどういうことだ。一体何があった?」
「ブライアン……」ぼくは思わず電話を握りしめた。「ブライアン、ばあちゃんが死んじゃったよ」
「――ばあちゃんって、あの、お前の母方の?」
「うん。母さんから電話があったんだ」
「それは、お気の毒に。彼女はすばらしい女性だった」
 ああ、こんな時、幼なじみだと話が早くて楽だ。ブライアンが続ける。
「だが、そうか。連絡があったってことは、母親からの勘当は解かれたんだな」
「いや、『あんたは勘当中なんだから、葬式にはこないのよね』って言われた。思わずYesって言ったら思い切り罵られたよ」
「当然だ。きちんと葬式には参列しろ。それから?」
「その電話を切った直後に、カークから電話が入ったんだ」
「……カーク?」
「たまに一緒に仕事をする同業者だ。ぼくに時々家具のデザインをさせたがるんだけど、とにかく一言多いやつで。ぼくのデザインは普通じゃないだのこのデザインがうまく調和するインテリアデザインができたら天才だの」
 自分の声のテンションが下がるのが分かる。
「ぼくのこと認めてくれてるのもわかるし、慣れてるから別にいいんだけどさ。タイミングが悪いよ……自分がとんでもなく無能な気分になって、ちょっと落ち込んだ」
「ルーク……」
「しかもあいつ結局、ぼくのデザインをそのまま使いやがったんだ! なんで実際に置いてみる前に、難癖つけるところから始めるんだ? ぼくの落ち込みを返せ!」
「今の言葉をそのままそいつにぶつけてやれ。これからも一緒に仕事をするつもりなら確かに一度きちんと……」
 幼なじみの言葉を聞き流し、ぼくは続ける。
「それでもう、何か色々頭の中が収集つかなくなっちゃって。とりあえずレキサンドラの店に行こうとしたんだ。どうしても一人でいられる気がしなくて」
「誰の店だって?」
「レキサンドラだよ。アレキサンドラ。まさか覚えてないの? 日に焼けたマッチョで、緑の目の。歳は確か五十歳くらいだったかな」
「……まさか、マックスのことか?」
「そっちは戸籍上の名前。魂に付けられた名前はアレキサンドラだって言ってたよ」
「……なるほど、分かったよ。それで?」
 諦めたようにため息をついて、ブライアンが先を促す。
「そしたらそこに、べろべろに酔ったレオがいて」
「そうか。それで、レオとは誰だ?」
 ブライアンが電話の向こうから、辛抱強く尋ねる。
「レオナルド、ぼくの昔の男だ。そいつが『こいつは一緒にいても全然楽しくない』とか大声でぼくを笑い者にするもんだから、とても静かに話を聞いてもらえる雰囲気じゃなくなっちゃって。――真剣な付き合いをしてたつもりだったんだけどな。あんなこと思ってたとは思わなかった」
「クソな人間の言葉は、気にするだけ人生の無駄だ。終わりか?」
 ううん、と擦りむいた腕に目をやり、ぼくはため息をついた。
「落とし穴にはまった」
「何だって?!」
「誰にも会いたくなかったから、人通りがすくない道を選んだんだ。そしたら、そこ工事中だったみたいでさ。重ねられた板を踏み抜いて、胸まで埋まってる。現在進行形で。もしこのまま一晩過ごすことになったら、ぼくはたぶん死ぬ」
 ブリズベンの冬程度で大げさだと呆れられるかと思ったけど、ぼくの予想に反して、ブライアンはばかにする様子もなく、ただ静かに電話の向こうで深く息を吐いた。
「……オーケイ。そこはどこだ? 今、助けにいくから――」
「ええ? いや、別にいいよ」そういえばこいつ、見かけによらず面倒見のいいやつだったな、と思い出したぼくは、やつの言葉を慌てて遮る。「話しているうちに、なんだか冷静になってきたよ。なんでお前に連絡なんかしたんだろうな。本当にごめんな」
「ルーク、いいから場所を――」
「それによく考えたら、今ちょうど刑事さんの名刺持ってるんだった。こんなときこそ、働いてもらわないとね」
 ぼくの言葉に、ブライアンの声が低く、慎重なものになる。
「……待て、何でお前は刑事の名刺なんて持っているんだ?」
「それなんだけどさ」
 今まで現実感がなさ過ぎて、きちんと感じられていなかった悲しみが吹き出してきて、ぼくはうなだれた。
「アランも死んだんだ」
「……今度は一体誰なんだ」
「ぼくの友達。寝てないよ。たまにご飯食べて話をする、普通の友達」
「そうか」
「刑事さんに聞かされたんだ。彼が死んだんだって。そんで事情聴取をうけて」
 電波の向こうで、ブライアンが絶句する気配がした。
「――殺されたって。そしてぼくは、もっとも重要な容疑者の一人みたいなんだよ」

*オーストラリアは南半球のため、六月~八月は真冬
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