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新木下藤吉郎伝『出る杭で悪いか』

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    一 盗 人 早 足

 濃尾平野から伊勢湾に入る木曽川は中世、堺川と呼ばれ、美濃と尾張の間を流れていた。当時は川幅も広く、水嵩もあったから、水運が発達していて、川船の渡しや船着き場が所々にあった。
 人と物が集まるところはその利を求める輩も集まる。
 その船着き場のひとつで、
「待て、斬るな、殺すなー」
 春先の冷たい空気を、雷のような声が引き裂いた。
 刀を振り下ろそうと構えていた蜂須賀小六と、斬られると覚悟をしていた若い盗人の間に、ボロを纏った、小さな男が飛び込んできた。
「斬るなー、斬ったら、この男は死ぬではないかー」
 細い肩を揺らしながら、間の抜けた言い方をした。
「斬って殺すのだ」
 小六が冷たく言うと、男は、
「まだ若い男を、殺すことはないわー」
と、かばった。
「おまえも、盗人の仲間かー」
「いや知らん。初めて見る男だがー」
 小六の殺気に怯むことなく、泰然と答えた。
「知らん男だとー」
 小六は、改めて男の汚れた顔を見ると、
「見ろ、観念しているではないかー」
「掟じゃ」
「掟なぁー、だがな、この男は、一度殺されると観念したから二度とはせん」
 諭すように言うと、
「大きな心で許すのも、男の度量だと考えんかー」
 サル顔に、笑って言われるとー、  
「ちっ、気が散ったわ」
 小六ははぐらかされたようで、集中できない。 
 猿が、ぼろ布を纏っているように見える。
「それにじゃ、妄りに人を殺すと神罰があたるぞ」
と、また笑って、心に寄ってくる。
「おまえはー、乞食坊主かー」
「おい、乞食とはなんだ」
 木曽川七筋の野伏せや船頭、博徒を束ねる蜂須賀小六も、この大声には参った。
 この小さな体の、どこから、人の何倍も大きな声が出るのかー。
  周りで見ていた小六の荒くれ仲間たちも、苦笑いしながら成り行きを見守っている。
「いつ、わしが、おまえに物乞いをしたー」
「いや、それはないがー」
 川並衆を率いる小六が、みすぼらしい小男に押されている。
「なぜ、乞食と呼んだ」
「お前の、その汚い恰好を見れば・・・。腰に巻いているのも荒縄ではないかー」
「荒縄じゃがー」
「紐も買えんのか」
「無駄な金は使わん。それに荒縄は便利でなー、どこにでもある」
 小男は、身なりに反して、堂々としている。
 蜂須賀小六が盗人を捕まえて、成敗するところだった。
 そこへ飛び出してきた、猿そっくりの男にかき回されている。
「分からんー」
 小六も、この汚れた男だけは掴みようがなかった。
「わしかー」
 猿男は、急に胸を反らすと、
「わしは侍じゃ」
「お、お前が侍だとー」
 小六は、改めて猿男を見たが、目は狂っていない。
 方言を放った様子もない。小六の怪訝な顔を見た、猿男は、
「もう少し、先の話になるー」
 汚れた顔と服装を、気にしていない。 
 小六の後ろから、鉄砲を肩にのせた青山新七がのっそりと出てくると、
「ほう、おまえが侍になるってー」
 猿男の細い肩を、確かめるように叩いた。
 この痩せた身体では満足に槍も扱えないし、侍になっても、最初の戦で殺されるだけだ。
「心配は無用じゃ」
 猿男は、新七を睨み返すと、
「おい、ただの侍ではないぞ」
「ただの侍ではない、だとー」
 新七は、初めから戯言だと想っている。 
「儂はな、合戦を指揮する侍大将になる。それもじゃー何千もの兵隊を指揮する大将でな。おまえたちも、わしを見習え」
 また、法螺をふくー。
「大口を叩くが、おまえは侍大将を知って言っているのかー」
 その言葉を待っていたように、また、にゃっと笑うと、
「どうせなら、思うように大軍を動かしてみたいと思わんかー」
 荒くれ男たちをぐるっと見渡すと、逆に、
「おまえたちも、野伏せなんか辞めて侍になれ」
とー、そして、
「野伏せは、十年たっても野伏せのままだが、侍は、働きひとつで大将になれるぞ」
 急所を突いた。 
 ここにいる荒くれ者は川並衆と呼ばれ、木曽川筋で船を操り、運送屋、商いをする集団で、団結心が強く、千人とも二千人とも言われ、大名なみの勢力を持っていた。
 もちろん、この時代を生き抜く実力がある。
 考え方なのだ。規則に縛られる仕官よりも、利のある仕事だけをして気ままに暮らす生活が性に合っているのだ。だが猿男は、仕官することの有利さを自分なりに読みきって、侍になりたいと宿願している。信念があるのか、荒くれ者の野伏せたちに囲まれても、少しも臆することがない。むしろ、この男は、自分の周りに人が集まるのを歓迎しているようにみえる。
 この男が持っている、運の一つかもしれない。
 新七の横から、大柄で眉の濃い稲田大炊助が出てくると、
「お前が侍大将になったらー」
「なったらではない。なるのじゃ」
「その、なったら、わしら野伏せを使ってくれるのか」
 笑いながら尋ねても、
「ああー、侍大将になったら、おまえたちみんなを使ってやるから、その男を逃がしてやれー」
 猿男は、怯まず堂々と受けた。
 みんなが、忘れていた若い盗人に目をやると、丸顔の盗人は、じっと猿男の顔を見ていた。
「もう、逃げてもよいぞ」
と、促しても、盗人は、猿男の顔を食らいつくように見ている。
「何処へでも、好きな所に行くがよい」
 もう一度言っても、盗人は、猿男の顔から目を逸らさない。
「どうしたー。わしの顔が珍しいのかー」
 猿男は汚れた手で、顔をがさがさっと拭くと、
「早く逃げんと、本当に殺されるぞ」
 若い盗人は、ふらふらっと立ち上がると、反対に猿男の前に来た。
「おい、おまえが侍大将になるのなら、俺を家来にしてくれ」
 この盗人の言葉に、周りにいた野伏せたちが驚いた。
 いや、荒くれ者たちよりも、猿男本人がびっくりした。
「わ、わしの家来になるってー」
 猿男も尾張、三河、遠江、美濃をさすらいながら、誰の家来になるのが良いか、常に考えていた。仕官するだけでは目的の半分にもならない。この猿を、上手に使いこなせる人物でないと、将来、侍大将にはなれない。三年前、遠江の松下嘉兵衛に仕えていたが、所詮雑用しか与えられなかった。その雑用も、人の倍働いたが、大役は任せて貰えなかった。
 猿男は、ものを見る尺度に、数年先を考えるようにしている。
 このまま松下家に三年いてもたいして変わらない。松下嘉兵衛が、駿河今川家の家来なので、それ以上になることはない。なら主人を替えるしかはない。次に仕えるとしたら国持ち大名に限る。もちろん直参だ。直接雇用なら、骨身を削って働けばそれ相応の報酬が頂ける。
 それで死ぬのは運だ。運は誰もが背負っている。
「お前は、何を言っているのか、分かっているのかー」
「分かっているから、真剣に頼んでいる」
 若い盗人が、両手をついて頭を下げた。
「わしの家来に、なるだとー」
 蜂須賀小六は、猿男の気持が分かる。
 今の、貧乏な状態では、家来を持つ余裕がないのだ。己一人ならなとしても生き抜く逞しさは備わっているが、家来を持つと責任がついてまわる。
 猿男は、窪んだ眼で、
「この盗人は、若いが人を見る目がある」
と、胸を張って言ったがー、
「それは、何年も先のことじゃ」
 悔しそうに声を絞って言うと、若い盗人の前で立ち上がった。
「いいか、今のわしはー」
 腰に巻いている荒縄を解くと、ぼろぼろの小袖も脱いだ。そしてふんどし一つになると、小さな布袋を取り出した。
「今のわしは、これだけの人間じゃー」
 細い骨が浮き出た身体を曝けだすと、小袋から銭と針を出した。
「この細い丈夫な身体と、銭が二百文に、木綿針が三十本少しあるだけの男じゃー」
すべてを見せて、若い盗人に、考え直すように迫った。
「夢じゃー。おまえは夢を持っている」
 若い盗人が、可笑しなことを言った。
 生きるのに必死だった戦国時代、夢を持つなど、誰も考える余裕がなかった。
「夢なんか持ったことがないわ」
「俺は決めた。お前の夢に付いていく」
 小六だけでなく、木曽川を縄張りにしている川並衆の荒くれ者たちも、猿男と盗人から、目が離せなくなっていた。自分たちの荷物を盗もうとした、若い盗人を捕まえた。  
 その盗人を成敗しょうとしたことから、なぜ、こんなことになったのかー。
「夢で、どうして喰っていくのじゃ」
 もう一度、考え直すように勧めると、
「持ち物の中で銭は分かるが、なぜ針を持っている」
 逆に、盗人が聞いた。
「この針か、針は売り物じゃー」
「なぜ、針を売る」
 若い盗人は針にこだわったが、今まで、
 ゛なぜ針を売る゛なんて、一度も聞かれたことがない。
「いいかー百文の銭は、いつまでたっても百文のままだが、針は二倍、三倍に売れる。それに小さくて嵩張らん。人目につかずに、数多く持てるではないか」
 牛や馬は一頭か二頭しか運べないし資金がいる。その上、盗賊に狙われやすい。大金をかけて盗まれたのでは商売にならない。その点、針は古代から布とともに発達してきた。この頃は肌触りのよい木綿が人気で、とくに三河木綿は丈夫でよく汗を吸い、染色もしやすかったから、尾張で仕入れた針が、三河では二倍、三倍で飛ぶように売れた。
「おまえは、よく考えている」
 切られると縮んでいた、若い盗人が生き返った。
「それに、度胸もある」
 今度は、盗人が坊主になった。
「どうせ斬られると諦めていた命じゃー。俺は、おまえの夢に懸ける」
 横で、聞いていた小六も、
「針なぁー」
 針を売る訳など考えたことがなかったが、理に適っていると想った。
 その針を売る猿男と、その針に気が付いた若い盗人の、二人を、
「妙な味がある」と感じた。
 何人もの野伏せが、人を切ろうとするところに飛び出してきて、体を張って止める者はいない。それも乞食同然の姿で、偉そうにー、
「しょうもないことで、人を殺すな」とー、でしゃばった。
 小六も、本当は子供のような男を切りたくはない。
 ただ盗賊には盗賊の掟がある。害を及ぼす者は殺す。
 猿男が、じっと腕を組んで悩んでいる姿を見ると、
「―――生駒屋敷に行け」
と、言ってしまった。法螺と想っていた新七もが、
「生駒屋敷は、働くと飯を食わせてくれるぞ」
 二人に、大炊助が続いた。
「それから、先を考えたらよいわ」
 みんなが、猿男の何かに惹きつけられていた。
「吉野さんのいる生駒屋敷か」
 悩んでいた猿男の顔が、急に明るくなった。
 生駒屋敷には、何度か針を売りに行ったことがある。
 出戻り娘の吉野(きつの)さんが、針を買ってくれるのだ。猿男が売る針を、
「丈夫で、縫いやすいわー」
 笑って買ってくれる。その上、猿男のくだらない話を、にこにこ顔で聞いてくれるから、嬉しくて、つい長話をしてしまう。
 その吉野さんのところに、清洲城の若殿が通っている。
 若殿は忙しい人だ。十人ほどの近習を引き連れて、風のように現れる。
 猿男は、生駒屋敷にくる若殿を遠くから見たことがある。
 いつも全力で馬を駆けている。
冬でも、夏でも、風を切って走る。
猿男は、何事にも全力でぶつかる人間が好きだ。
鷹揚に構えている人間は、答えを出すのにも時間がかかる。
 それは、猿男の性格に合わない。猿男は、仕えるならこの若殿しかいないと考えていたのだが、世間の評判は、
 ゛乱暴うつけ ゛゛大うつけ゛と悪かった。
「どうする。来るのかー」
 小六が急かすと、
 猿男は、若い盗人に、
「おまえは、どうする」
「俺はおまえの家来じゃ。もちろん付いていく」
 家来の方が、威張って言った。
 成り行きを見ていた野伏せたちも、まさかーと想った。その裏で、猿男のように貧弱な身体の男が、本当に侍大将になるのか大いに気になった。
 蜂須賀小六は、猿が狸を家来にしたようで、何かに化かされている気がしたが、
「夢に、付いていくかー」
 なんとなく爽やかな気持ちになると、二人の将来が見たいと想った。
 空に目をやると、雲の間から青空が覗いていた。

 猿男と若い盗人が、蜂須賀小六たち川並衆について生駒屋敷に行ったのは、弘冶二年(一五五六)の春先だった。
 生駒家は、河内国生駒郷の出である。
 都に近い生駒郷は絶えず戦乱に巻き込まれた。家を建てても壊され燃やされた。せっかく育てた米や野菜までが略奪されると、生まれた土地にも愛想が尽きた。
 嫌気がさした祖先が、尾州稲木庄柳橋の小折村にきて、灰と油を商品にして財を成した。当時の灰は需要が広く、酒を腐りにくくもすれば、酸っぱくなった酒を中和もした。酒の材料である種麹菌の増殖を促す効果もあった。灰汁は染色には欠かせない媒染体であったし、焼き物のうわぐすりや、和紙の製造にも必要だった。
 また油は、その時代の一番の灯火の燃料だった。当時の人々は信仰心が強かったので神社や寺は灯明に大量の油を消費していた。
 生駒家は、灰と油で儲けた財産が盗賊に狙われることを知っていたので、広大な屋敷を堀と塀で囲み、東西南北に門を構え、盗賊の襲撃に備えていた。さらに自分たちが住む住居は、二重に堀を巡らせ、渡り橋でしか入れないように用心していた。
 砦のように防禦していても、集団で襲ってくる盗賊たちからは守れなかった。襲撃を跳ね返す、強力な人間が必要だった。
 そのため生駒家の当主八右衛門家長は、屈強な浪人や武芸者を寄食させていた。
 噂を聞いた武芸や、兵法に自信のある者が集まってきた。八右衛門は集まってくる武芸者や浪人を拒まなかったが、無制限に引き受けていたのでもなかった。部屋に入れる人数を制限することで、巷に溢れている浮浪者の寄宿にならないようにしていた。
 当然、腕に自信のある者だけが残った。
 そこへ、猿男と若い盗人が加わった。

 その夜、若い盗人が猿男に聞いた。
「これからどうする・・・・・」
 陰で生きてきた盗人は、明るく、常に人目に晒される生駒屋敷の居心地が悪かった。
「慌てるな」
「それで、侍になれるのかー」
 猿男は、若い盗人を見た。
「待つー」
「何を待つのじゃ」
「織田の若殿じゃー。わしの主人は、その若殿しかおらん」
「清洲の織田家じゃな」
 この頃、尾張各地が織田家の勢力だった。
「そうじゃ。その信長さまの家来にならんと、わしの将来はない」
 針を商品にした男だ。その男が選んだのなら、若い盗人は付いていくだけだった。
「ここは、働けば飯を食わせてくれるし、寝る所もあるではないか」 
 猿男はごろんと横になると、自分に言い聞かせるように言った。
「その信長とやらに、仕官できる目途があるのかー」
 問題は、織田家に縁もなければ、伝手もないことだ。
 若い盗人が、心配して聞いても、
「そんなものはないが、わしが仕えるのは信長さまだけなのだ」
 猿男の決意は、少しも揺るがなかった。
「ところで、おまえの名前はー」
「―――知らん」
「おい、自分の名前を知らんとは、どう言うことだ」
「生まれてすぐに捨てられたからー」
 負けん気の強い盗人が、初めて、寂しそうに言った。
「体に似合わず足が早かったので、早足とか、韋駄天とか盗人としか呼ばれたことがない―」
 猿男は、盗人の暗い影を見逃さなかったが、あえて触れなかった。
 この男が、この先、階段を駆け足で登るように出世したのは、この間合いが読めたからだ。
「では、早足でどうだ」
「はやあし、だと」
「わしも、まともに名前を呼ばれたことがない」
 猿男が言うと、盗人は、顔の表情を和らげた。
「いつも獣の名前でな、猿、いたち、鼠だったわ」
 若い盗人は、猿男の顔がどれにもよく似ていると想うと、
「それなら、俺も ゛早足゛で良いわ」
 笑って応えた。
 
 翌朝、猿男と早足は、起きると生駒屋敷の掃除を始めた。
 雑草を抜き、廊下を拭き、薪を集め、畑を耕した。
 縁故も実力もない二人が生き残るには、働いて雑用をこなすしかない。
 広大な生駒屋敷は、いくら働いても仕事が減らなかったが、文句を言わずに働いた。
 最初の二、三日は、八右衛門も見て見ないふりをしていた。
 しかし二人の働きぶりは、一ヶ月が過ぎても変わらなかった。
 兵法者や浪人者が、書物を読み、槍や太刀を振り回すだけの中で、猿男と早足の働く姿は人目を引いた。
 中でも喜んだのは、下働きの連中だった。二人が働いただけ、自分たちの仕事が減る。
 始めは二人を警戒していた者も、次第に声をかけ、一緒に仕事をするようになった。
 話が面白く、頼めば気持よく手伝ってくれる猿男は、屋敷の中で人気者になると、二人は生駒屋敷に根を広げていった。
 時々、訪ねてくる蜂須賀小六や前野小右衛門、青山新七、稲田大炊助、河口久助たち川並衆の荒くれ者も、黙々と働いている二人を、芝居を見るように眺めていた。
 八右衛門の妹の吉野(きつの)にも、二人の働きぶりが目に入った。
 吉野は、美濃国可見郡の土田弥平次に嫁いでいたのだが、弥平次が美濃長山の戦いで討ち死にしたので、実家の生駒家に戻っていた。
 その吉野に、清洲城の織田信長が目をつけた。
 生駒家にしても、出戻りの後家が、殿様の妾になるのは名誉なことなので歓迎した。
「よく来ていた、針売りではないかー」
 吉野も、話のうまい針売りが庭の掃除を始めると、そっと障子を開けて見ていた。
 何回も猿男の仕事振りを見ていた吉野は、猿男が、ただ漠然と仕事をしているのではないことに気がついた。
 作業に理に適う手順があった。それを素早く楽しそうにする。
 早足とかいう、狸に似た男にだす指示も的確だった。
 ある日、吉野は、庭木を剪定している猿男に声をかけた。
「いつも良く働きますね」
「あっ、吉野さま」
 一瞬、猿男は驚いたが、よほど嬉しかったのか、声に艶があった。
「上手に剪定しますね。どこかの植木屋で修行していたのですか」
「人の見真似で、木と喋りながら切るのです」
 意外な答えに、吉野は目を丸くして聞いた。
「木が、おまえさまと話をするのですかー」
「はい、どの枝を切ったらよいのか、どのくらい切るのか、木に聞くのです」
「でー、木が応えますかー」
「初めは女子と同じで、つーんと済ましていた木も、何回も優しく撫ぜながら声をかけると、少しずつ教えてくれるのです」
「ほっほー、木も撫ぜると女子と同じですかー」
 吉野が笑うと、猿男はそれ以上に笑って答えた。
「はいー、女子を扱うように、やさしく囁くのです」
「やさしくですか。でも、それだけでは綺麗な剪定はできないでしょう」
 猿男の話は、途方もないが楽しい。
「木と仲良くなりますと、女子のように、木の方からああしろこうしろと言ってくるのです」
「木が女子のように、ですかー」
 またまた可笑しなことを言う。
 猿男は、切っていた木に頬を寄せると、
「木も綺麗になると、吉野さんの部屋を向くのです」
「私の部屋にー、なぜですか」
「綺麗な吉野さんに、木も、美しくなった自分を見せようとするのですよ」
「ほっほほ、うまいこと言いますね」
 お世辞と分かっていても、わるい気はしない。
 猿男と狸男の働きぶりが、吉野のもとに通う、信長の耳に入った。
 吉野からも八右衛門からも少しずつ入ると、一切、人の話や噂を信じない信長も、心の隅に留めた。そして生駒屋敷に行くたびに、ちらっと目にする、猿のような男を意識して見るようになった。
 猿に似た男は、いつも大声で喋りながらせわしなく働いている。それに、何が楽しいのか、いつも笑っている。誰もが信長に見られただけで、凍りついたように萎縮するのに、この男は逆に自分を膨らまして、楽しく仕事をしていた。
「よく働く猿じゃー。いや男じゃわ」
 確かに、こやつが来てから、無骨な屋敷が柔らかくなった。庭には季節ごとに花が咲き、野菜がたわわに実っている。薪も綺麗に積み上げてある。
 信長は、八右衛門に尋ねた。
「あの男はー」
「猿と狸ですか、あの二人は、働くだけではなく賄いも上手です」
「賄いがうまいー」
 信長は、納得のできる答えを求める。
「今まで気がつかなかった、無駄を省くそうです」
 信長も無駄が嫌いだ。金の無駄、人の無駄、時間の無駄。
 金と人の無駄は目に見えるので分かりやすいが、時間の無駄は、なかなか気がつかない。
「小さいことですが、薪一つにしてもただ山積みするのではなく、作るときから仕切りを入れて積みますから、みんなが古いものから使用するようになりました。古いと火がつきやすくよく燃えます。その分、煮炊きものが早くなり時間が節約されます」
「・・・・・」
「一つひとつ作業をしながら、常に、もっと早く楽しく出来る方法を考えているようです」
「楽しくだとー」
 信長にとって、生きることは闘いであり、相手を殺すことだった。
 それ以外の時間は、その戦いのための準備だと考えていた。楽しくするなど考えたこともなかったが、何事も、嫌々するのでは効率が上がらないことを知っていた。
「そやつを、呼べー」
 信長の短気な性格を知っている八右衛門は、すぐに猿男を呼んだ。
 猿男は、飛ぶように走ってきた。
「お呼びでございますか」
 庭で正座すると、頭を地面にこすりつけたまま大声で答えた。
 八右衛門は苦笑いしながら、
「清洲の殿様がお呼びじゃー」
「はい」
 大袈裟に頭は下げているが、恐縮している様子は全くない。
「吉野が褒めておった」
「あ、有難うございます」
 大声が、さらに大きくなった。
「いろいろと工夫しているらしいな」
「当然でございます」
 頭を地面に擦りつけている猿男には分からなかったが、横にいた八右衛門は、信長の顔が変わったことを知った。
「当然と、申すかー」
 信長の声が、鋭く冷たくなっていたが、猿男は、
「毎日、同じことを同じようにしておれば当然です」
 はっきり答えた。
 初めから、言いたいことも言えないようでは、次はもっと言えなくなり時間がかかる。これでは、本当の上司との信頼関係は生まれない。
「出来ることと出来ないことがあるだろう」
 小さなことはやり方を変えるだけで出来ることもあるが、大きな仕事は少しぐらい工夫してもなかになか出来ない。
「常に考えておりますと、それなりに工夫します」
 猿男の自信満々の答えに、信長の顔が一段と白くなると、目が鑓先のように尖った。
「そうか、ならわしの下でやってみせいー」
「家来にして下さるとー」
「してやる。但し、同じことをやっていて、少しも改善できなかったら、その頸がないと思え」
 信長の、その場を凍らすような剣幕にも、猿男は恐れることもなく、
「有難うございます」
 猿男の大声は、その場の、凍りつきかけていた空気を跳ね飛ばした。

 その夜、生駒八右衛門は、猿男を呼ぶと、
「おまえは、本当に信長さまの家来になるのかー」
 心配して尋ねた。
「仕官するなら、何事も全身全霊で取り組む、清洲の織田信長さまと考えておりました」
 ひょうきんな猿男が、別人になっていた。
「そうか、お前なりに考えていたのだろうがー」
「はい」
「わしが不安に思うのは、おまえの身体じゃー」
 侍は身体が大きく、力の強い者が有利なのだがー、
「その細い身体では長い槍も自由に使えないだろう。太刀を扱うにしても、大きな男と打ち合えばたちまち跳ね飛ばされる」
「合戦は、打ち合うだけのものではありません」
 わしは大軍を指揮する、とは言えない。
「そんなことを言うが、清洲織田家は周囲を敵に囲まれている。明日にも戦が起きるかも知れんぞ」
 尾張一国すら制圧できていないのに、東からは駿河、遠江、三河を支配する今川義元が、上洛の道筋である尾張侵略を狙っていた。また北の美濃からは、斎藤義龍がはっきり引かれていない境界線を越えて、少しずつ尾張に進出していた。
 当時の信長は、国内だけでなく、大国に挟まれ身動きが出来ない状態だった。

 清洲城に行く前日、猿男と早足は、木曽川に近い、宮後の安井屋敷にいる蜂須賀小六を訪ねた。安井家は、小六の母の実家だった。
 小六は、その大きな屋敷の縁側で、義兄弟の前野小右衛門と雑談をしていた。
 猿男は、二人に買ってきたにごり酒を渡し、明日から織田家に仕官することを報告した。
 小六は、猿男が持ってきたにごり酒を見ながら、
「なぜ織田家を選んだ」
 当然、猿男は、織田信長を見たはずだ。
 その信長を、猿男がどう判断したか、聞きたかった。
「勢いじゃー」
 確かに、信長には勢いがあるがー、
「信長さまの織田家は、ときどき暴れる流れの早い川なのだ」
「暴れ川かー」
 よく見ている。
「今は、駿河の今川家の方が遥かに大きな川だが、今川家は淀んだ川じゃ」
「今川は、澱んだ川かー」
「淀んだ川は、わしには息が詰る」
 猿男の性格にも、理にも適っておる。猿男のように、動き回って活路を見つける者が、淀んだ川に入ると、もがけばもがくほど沈んで窒息する。
侍大将になるには、西に東に攻めまくる、織田信長の下で働くのが性に合っていた。
 ただ織田家に仕官しても、最初は小者である。小者の平時は雑用に走り回る。草取りもすれば荷物の運搬もする。そして、戦になれば雑兵として駆り出される。
 それに信長は、自分以外の人間を道具としか扱わない。
「おい、仕官するなら、侍らしい名前がいるぞ」
 にごり酒を碗に次ぎながら、小右衛門がぼそっと言った。
 大柄で横柄なところがあるが、常に二、三年先の世の中を考えている男だ。
「猿では、まずかろう」
 小六も、酒に手を伸ばして言った。
「それならついでじゃ。なにか良い名前を付けてくれんか」
「わしが、おまえの名前を付けるのか」
 小六は驚いた。生駒屋敷を紹介したが、それだけの縁だ。
 織田家に仕官したのは、猿が、自分で切り開いた道だ。
 それだけなのに酒を持ってきて礼を言う。
 そこで切れる縁がまた延びた。
 正直なところ、小六も小右衛門も、もう少し猿男の行く末が見たかった。
 猿男は人懐こいし度胸も据わっている。決断も早いし、引くときは引く。
 その男が、侍大将に向かって突き進んで行く。
「親の名前は、なんじゃ」
 小右衛門が聞くと、
「愛知郡中村の木下弥衛門じゃ」
 中村は庄内川沿いの大きな村だ。
「じゃー姓は木下だ。問題は下の名前じゃな」
 小六は庭を見渡した。
 庭先に、藤の花が房になって咲いていた。
 猿男の貧弱な身体では、侍になっても一人では大成しないだろう。藤の花も小さな花だけだと目立たないが、集まって房になれば、人目を惹きつける花になる。
「今は藤が吉じゃ。藤に吉と郎をつけて、藤吉郎でどうかなー」
「と う き ち ろ う、か」
「そうじゃ、木下藤吉郎じゃー」
 小右衛門が薦めると、早足も、
「猿より、良い名前ではないか」
 どんな名前も ゛猿゛よりは良い。
「なら、今日から木下藤吉郎と名乗らせて頂く」
 胸を反らして言うと、
「信長は人使いが荒い。心してかからんと火傷をするぞ」
 と、冷たく諭した。
「もともと細い体ひとつの男じゃ。何も失うものがないわ」
 猿男は貧乏を売り物にして威張っているが、上下の厳しい組織のなかでは、そのようなものは何の役にもたたない。
「得手がないとなー」
 命を懸けて相手を倒さないと、生き残れない時代だ。
「小者から足軽になって、足軽大将になるだけでも十年かかる。それまでわしらは待てん」
 小六も小右衛門も、なぜか酒がうまかった。
 猿男の持ってきた、にごり酒が残り少なくなっていた。
「信長は、気性が荒いだけの男ではないぞ」
「それはわしも、なんとなく感じている」
 猿男は、信長から得体の知れぬ奥行を感じていた。
「一見乱暴者に見せているが、裏では常に情報を探って、慎重に対策を煉っておる」
 それも納得できる。尾張国だけでなく、隣国の内情まで探っているから、各地の豪族たちの最新事情まで掴んでいる。
 その信長の、表の行動と裏の性格を、野伏たちが知っていたのに驚く。
「おまえのその体では、戦いには弱いからな」
「何度も言うな」
「おまえが生き残るには、敵の目的、作戦を正しく知ることじゃ」
 猿男は嬉しかった。生駒屋敷を紹介してくれた礼に訪ねたことから、名前を賜り、織田家の組織の中で、生き抜き勝ち上がる戦術を教えて貰った。
「この男を、使え」
 小六は、早足を指して言った。
「早足かー」
 この男とも奇妙な縁である。世の中は、縁と運で左右されることが多い。
 ただ運は、人間以上に気まぐれで捕まえにくい。
「この狸は、身体に似合わず動きが早い」
 小六の言い方に、早足が、
「それは褒めているのかー」
 狸の丸い顔がより膨れて、大きな狸顔になった。
「おまえは、わしら野伏せから、何度も置いていた荷物を盗んだではないか」
「人聞きの悪いー」
「野伏せから盗むのは、技と根気がいる」
 優れた盗賊は獲物を定めると、徹底してその獲物を調べる。隙の出来る時間帯、警備の手薄なところ、油断する時刻、相手の癖を探っておいて、決定的な瞬間に全神経を集中させる。
「この男を使って、敵だけでなく、味方の内情も探っておくことだな」
「おい、なんで味方も探る必要がある」
 探るのは敵だけで良い。
「裏切りは油断するからやられる。この加減が難しいー」
「そうかー」
「この境目を自分で覚えん限り、侍大将にはなれんぞ」
 小六が諭すように言うと、小右衛門までが、
「どんな人間も、強い心と弱い心を持っている。その狭間が絶えず動いているから、そのときの、本当の気持ちを知らないとしくじる」
「命令されれば、どこへでも忍び込んで調べてくるからー」 
 早足は、藤吉郎の役に立ちたい。
「分かった。が、泥棒はするな」
「ああ、なんとか喰えたらよい」
 また、家来が威張って言った。
 夢があると、貧乏も苦にならないようだ。
 一日中鉄砲をぶっ放して、気が向けば、川に入って魚をとる生活は食い物には困らないが、ふと腰を伸ばして空を見たとき、時代から取り残されているようで、虚しく思うことがある。
 蜂須賀小六と前野小右衛門は、猿と狸の話を聞いていて、無心で猿についていく狸が羨ましく感じた。
 
 猿男が、早足をつれて清洲城の織田家に仕官したのは、
 永禄元年の九月一日だった。
 清洲城は、室町の初めに尾張守護の斯波義重が、鎌倉街道と伊勢街道の合流点に下津(おりづ)城の別郭として築いた城で、五条川を防御にした平城であった。
 小者の猿は、清洲城内にあった小者長屋、別名うこぎ長屋と呼ばれている棟割長屋を割り当てられた。屋根も壁も板張りだった。
 早足がいたので、長屋入口にあった物置小屋を借りた。荷物小屋なので下は土間である。その小屋の、奥の空いている所に藁を敷いて二人で寝た。
 信長は、この頃から集団を有効に動かすために、銭で雇った兵隊の管理化を進めていた。
 効率の悪い半農半兵をやめ、合戦専用の兵隊を組織して、直接管理することだ。
 猿の給地は、小折村地境の加納馬場の十五貫。     
 それに直参である。新規の小者には破格の待遇だった。
 信長は、有能な者には金をだした。
 
 (ここから猿男を、藤吉郎に改める)
 
 藤吉郎の仕事は雑用係りである。
 小者頭に一若がいた。一若も藤吉郎と同じ愛知郡中村の生まれだったので、丁重に教えてくれた。が、小者の仕事は、一度覚えるとそればかりする。
 毎日、同じことを同じようにする。
 これに藤吉郎がまいった。
 藤吉郎の性格は、すぐに改良できることは、あたりまえのようにしてしまう。
 そう思ってどんどんやっていると、小者頭の一若に呼ばれた。
「藤吉郎、でしゃばったらいかん」
「べつに、でしゃばってはおらんがー」
 藤吉郎が、怪訝な顔で聞くと、
「みんなと同じようにやらないと、まとまらんではないか」
 一若が、諭すようにいったが、
「少しやり方を変えるだけで、みんなが楽になるのにー」
 藤吉郎が進言すると。
「そうなるとな、人が減らされる」
 小者頭を勤めている一若は、前しか見ていない藤吉郎と違って、現状に満足している者の視野も考える。仕事の効率よりも、人の和を優先させるのだ。部分に徹すれば、他のことはする必要がない。やればやるだけ混乱するのだ。
 
 うこぎ長屋に帰った藤吉郎は、ふてくされていた。
 帰ってきた早足に、
「ドタバタ働き過ぎると言われたー」
 吐き捨てるようにいったら、
「それでは出世せんではないか」
「腹が立つが、小者頭から直接言われたら無視もできんわ」
「まいったな」
 早足も、藤吉郎の気持ちが分る。
「わしは当分控えているが、早足は、信長さまの頭に忍び込んでくれ」
 藤吉郎は、ときどき理解できないことをいう。
「信長さまの、頭の中じゃとー」
「頭の中に忍び込んで、信長さまがどんなことを考えているのか、何を企てているのか調べて欲しい」
 早足は、やはり藤吉郎は面白い男だと思った。
 他の家来は、信長さまの命令を待って動くが、この男は考えることが大きい。
 入ったばかりの小者が、一番上の殿様である、信長さまと同じ発想を持とうとする。
「岩倉城の、動きが気になるわ」
「織田信賢か」
「織田信賢は、美濃の斎藤義龍と組んで、尾張を我がものにしょうと企てておる」
「そういえば、美濃の遣いが、岩倉城に何度も出入りしている」
「だからじゃー。その対策を考えていないと手遅れになる」
 岩倉城は、信長のいる清洲城の北三十町ほどにある。
 尾張八郡の守護は、足利幕府の管領を務めた斯波氏であった。
下の愛智、知多、海東、海西の四郡の守護代が織田大和守で、その下に三人の奉行がいた。その奉行の一人が、織田備後守信秀で信長の父である。
 信秀は攻撃的な性格で、下の四郡を実質的に支配していた。
 上の丹羽、葉栗、春日井、中島の四郡は、岩倉の織田伊勢守が守護代を勤めていた。この頃の岩倉城主伊勢守信安は、武芸よりも猿楽や歌舞に興味を持ち、舞い好きの信長と仲が良かった。その父に比べ、息子の信賢は美濃斎藤家の援護を受け、尾張八郡の支配を目論むと、宿老の稲田修理と謀り、父信安を追放して岩倉城の実権を握った。
 信長は、岩倉の織田信賢が、犬山城の織田信清と境界にある、小久地三千貫の領地を巡って争っていることに目をつけた。
 信長と信清は、敵の敵と手を結ぶことで岩倉城を挟んだ。
 それに対し、不利を悟った信賢は斎藤家に救援を求めた。
 七月十二日、両軍が激突した。浮野の合戦である。
 信長が岩倉勢を撃破して勝利すると、信賢は岩倉城に閉じこもって、美濃からの援軍を待つ状態が続いていた。
「図がいる。早足、敵と味方の配置を書いた地ノ図をつくる」
「地ノ図じゃとー」
 聞きなれない言葉に、早足が聞きなおした。
「図にすれば、分かりやすいではないか」
 藤吉郎と早足は、物置小屋の狭い土間に土を運び込むと、二、三日かけて三河、尾張と美濃の地ノ図を作った。その図に城や街道、川を書き込むと、敵に囲まれている清洲織田家の現状が一目で理解できた。
 藤吉郎は、地ノ図を、上から覗くことで戦国の世を見ていた。
 
 ある日、藤吉郎と早足は、飯を食いながら話をしていた。
「早足、犬山城の動きはどうじゃー」
「それが不可解なことに、犬山にも、美濃斎藤家からの使者が頻繁に来ているわ」
「やはり、そうか」
「人の心は読めん」
「織田軍に囲まれている岩倉城は、今年の暮れか来年には陥落すると見ている」
「岩倉は、孤立無援じゃからな」
 早足も、国盗りの駆け引きが面白くなっている。
「美濃の斎藤家は、尾張進出の足掛かりが欲しいからな」
「犬山は、川一つ越せば美濃じゃ」
「犬山の信清さまを味方にすれば、尾張進出の拠点が築けるからな」
 藤吉郎が、飯を掻き込みながら喋るから、飯と唾が飛ぶ。
 早足も、飯を食いながら喋る。
「弟の信行さまも分からんぞ」
「蜂須賀さまがいった、味方も探れは本当だったな」
「信清さまも信行さまもー」
「うん」
「信長さまが怖くて信用できんから、斎藤家の誘いに乗るのじゃ」
 信長の弟である信行は、この八月に、重臣の林通勝と柴田勝家に擁立されて、信長に挑んだが稲生の合戦で破れた。
「大将、何杯食ったー」
「何を言うか、おまえこそ五杯も食ったくせに」
 玄米飯である。副食は漬物か味噌だったし、たまに汁をかけただけの飯を何杯も食った。
 味よりも、体力維持であった。
 二人は食事に満足すると、筵の上でごろんと横になった。
「うまかったな」
「ああ、うまかった」
 腹が満たされればよい。
 後は寝るだけだったが、このときが、二人には自分たちだけの幸せな空間だった。
 
 数日後、予感が的中した。
 落城寸前の岩倉城の織田信賢は、美濃の斎藤家からの援軍を待っていたが、来ないと分かると、末森城の織田信行に誘いかけた。
 その誘いに、信行の生母である土田御前が乗った。
 御前の腹から生まれた信長と信行だったが、御前は、素直に自分の意見を聞く信行を尾張国の支配者にしたかった。反対に自分を無視して、聞く耳を持たぬ信長は殺したいほど憎かった。稲生の合戦で負けた信行の首を、勝った信長が切ろうとしたとき、御前は涙を流して止めた。  
 生母の切願を聞き入れた信長は、信行を助けた。
 御前は、このとき信長に頭を下げたことが悔しくて堪らなかった。
「あのうつけ者に・・・・・」
 御前は、もう一度信行を信長に挑ませ、今度こそ勝って、信長を亡き者にすることだけを願っていた。御前は、信賢の誘いに飛びつくと、信行に嗾けた。
 信行は、清洲城にいた元家老の柴田勝家にも声をかけた。
 勝家は迷わず信長を選ぶと、信行の造反計画を打ち明けた。
 
 永禄元年十一月二日
 信長は仮病を装い、病気見舞いに訪れた信行を清洲城内で殺害した。
 
 
 
     二  ね ね

 尾張をほぼ平定した織田信長は、上洛を目指した。
 隣国美濃の、斎藤義龍に対抗した行為だった。
 前年に斎藤道三を討ち取って美濃の実権を握った義龍は、室町幕府政所執事の伊勢氏に働きかけて、受領とほぼ同等の「冶部大輔」(じぶのたいふ)の任官に成功していた。
 信長の父信秀も、天文十年(一五四一)伊勢外宮に七百貫を寄進し、さらに二年後の十二年、内裏の修理費として千貫を朝廷に寄進した。これによって信秀は、後奈良天皇から武門の名誉である「弾正忠」を賜った。これらの官位の多くは、幕府の官途奉行に働きかけて報酬を払って貰った。要は成功(じょうごう)といって、私財を寄付することで「官位」を買うのである。
 信長も、上洛すると、足利十三代将軍義輝に拝謁して「尾張守」を求め、名実ともに尾張国の支配者として認められることを狙った。
 信長が、将軍から尾張守を賜ると、尾張国内の反信長勢力の抵抗も徐々に治まり、しぶとく抵抗していた岩倉城も陥落した。
  
 一方、藤吉郎は、小者頭の一若から、
「他の小者たちと、同じようにしろ」
といわれ、一ヶ月ほどは命令を守っていたが、
「我慢していたら、わしは窒息するー」
 出る杭は打たれるが、打たれるのには慣れている。
 藤吉郎は、一若がなんと言おうと、思ったことを実行した。
 一若は、近所に住んでいる、上司の弓衆足軽頭の浅野又右衛門に言いつけた。
「猿が、言うことを聞かんのじゃー」
 一若が苦々しく言うのを、又右衛門は黙って聞いた。
 又右衛門は、いつも笑って働く藤吉郎に好感を抱いていたが、何度も小者頭の一若からつつかれると、無視できなくなった。
 二日後、又右衛門は、藤吉郎の物置小屋を訪ねた。
「おい、藤吉郎いるかー」
「入って下さい」
 中から、大きな声が返ってきた。 
 又右衛門が入ると、狭い土間に二人の男がいた。
 一人は藤吉郎だったが、もう一人は狸に似た若い男だった。
 二人は土を盛り上げたり削ったりしては、何かを作っていた。
 又右衛門は、二人が顔を汚して作っているものを見た。
「こ、これは・・・・・」
 二人が作っていたのは、三河と美濃に挟まれた尾張の地ノ図だった。
よく見ると、地ノ図には城だけでなく、街道と河川までが正確に書かれていた。
「藤吉郎、おまえはー」
 又右衛門は、 
「敵国の細作(スパイ)かー」と、言いかけて止めた。
「これは何じゃー」
 もし部下の藤吉郎が敵の細作なら、上司の又右衛門も咎めを受け罰せられる。
「これは、尾張周辺の地ノ図です」
 藤吉郎は、汚れた顔で平然と答えた。
「どうしておまえが、尾張と、三河や美濃の地ノ図を作るのか」
 この質問に、藤吉郎が戸惑った。
 強国に挟まれている織田家の現状を理解するには、地ノ図が一番ではないかー。
「織田家の、いまの、状況を知るには図がいります」
「この地ノ図と、おまえと、何の関係がある」
 上からの命令を待って行動する又右衛門に、藤吉郎の発想は理解できない。
 又右衛門は、改めて土間の土に書かれている地ノ図を覗き込んだ。
(―――確かに分かりやすいわ)
 じっと見ると、所々に色を付けた印があった。
「この赤い印は何かー」
「美濃の稲葉山城です」
「ふーん、じゃー青い印は、味方の城と砦じゃな」
「はい」
「おい、犬山城も赤色が付けてあるではないか。犬山城は味方の青ではないのかー」
「近いうちに、犬山は叛旗をあげ、信長さまと合戦になります」
 藤吉郎が、よどみなく答えるとー。
「なにー、犬山が敵になるだとー」
 又右衛門が、藤吉郎を睨むと、
「この間、信長さまは、犬山の織田信清さまと力を合わせて、岩倉の織田信賢さまを攻めたばかりではないか」
 又右衛門は狐の家に来ているような、いや狸に似た男がいるから狸の家かも知れん。
「それは、その家の利害が絡むからでございます」
「難しいことを言うな。利害とはなんじゃ」
 藤吉郎は、猿顔を引き締めると、
「もともと岩倉の織田伊勢守家と、犬山の織田信清家は、狭間にあります小久地三千貫の領地を争っていました。このたびの岩倉攻めで、犬山の織田信清さまは信長さまと組んで、岩倉の信賢さまに勝ちました」
「そんなことは、皆が知っておる」
「当然、信清さまは小久地の土地が自分のものになると考えていたのに、信長さまは、信清さまの気持ちを無視して、小久地三千貫を返しておりません。犬山の全軍を出馬させて岩倉を破った信清さまとしては、念願の土地を取り返したい。しかし相手が信長さまではうかつに仕掛けられません」
「・・・・・」
「その不満を抱いている信清さまに、美濃の斎藤義龍が誘いかけると、その誘いに乗るのが人の心でございます」
「人の心じゃーと」
 又右衛門は、ついこの間仕官したばかりの小者が、織田家の立場を、自分よりも明確に把握していることが信じられなかった。
「その岩倉家が、斎藤義龍に援軍を催促しているのは周知のとおりですが、この岩倉の信賢さまは、末森城の信行さまをも誘っておられました」
 又右衛門は、
 (やはり、狸じゃー。たぬきに化かされている)
「幸い信長さまは、清洲城にきた信行さまを殺害されると、岩倉も滅ぼして危機を免れましたが、尾張領内にはまだ犬山が承伏しておりません」
 城と道筋、河川の印は分かったが、数ヶ所に黒い印があった。
「藤吉郎、ここはどこじゃ」
 又右衛門が興味を持った。
 藤吉郎の窪んだ目が笑うと、
「墨俣でございます」
「墨俣じゃあーと、墨俣に何がある」
 当時の墨俣は木曽川と長良川が合流する地点で、古代の官道が走り駅舎が置かれた交通の要衝だった。洲の股とも呼ばれ、川の砂洲が溜まった湿地帯だった。
「西から美濃に侵入するのは、ここを足掛かりにしなければなりません。墨俣の横を流れる長良川を遡れば、稲葉山城の足元に辿り着きます。要は稲葉山城の物流が阻止できるのです。」 
 藤吉郎は、東に目を移すと、
「東は、犬山城の対岸にある鵜沼城と伊木城を攻略しない限り、東美濃から稲葉山城を攻めることはできません」
 浅野又右衛門は
(負けた、完全に負けた)と、心底思った。
 小者頭の一若が、いくら他の者と同じことをしろと命じても、こやつが従う訳がない。
 この猿男は、一若や又右衛門とは違う人種なのだ。

 又右衛門は、狐に化かされたような顔で家に帰った。
 焦点が定まらない又右衛門の目に、養子に来ていた兄妹が、心配して声をかけた。
「なにかあったのかー」
 兄を林孫兵衛、妹をねねと言った。
 二人の父林弥七郎は、信長の敵方だった岩倉家の家臣だった。弓の達人だった弥七郎は、浮野の合戦で、信長の家臣で鉄砲扱いに長けた橋本一巴と闘い、討ち死にした。
 二人は杉原家に引き取られていたが、途中から浅野又右衛門の養子に入った。
「猿は、いや狸だった・・・・・」
 兄の孫兵衛は、又右衛門のいっていることが分からなかった。
「ほれ長屋の入り口の物置に住んでいる、猿に似た男じゃー」
「その猿に似た男なら、知っておりますがー」 
 なにしろ声が大きい。小さな身体で長屋中に響く声で喋る。
「あの猿男は、狸が化けているのー」
 ねねが、可笑しそうに聞いた。
「奴は、とんでもない奴じゃー」
「とんでもない奴ですか」
 孫兵衛は、とんでもない奴を悪いことをする人間と解釈した。
「我々とは違う。今まで出会ったことのない人間じゃー」
 又右衛門は兄妹に、藤吉郎が書いていた地ノ図の話をした。
 兄の孫兵衛にとって、殿様の真似をする男は出すぎた奴でしかなかったが、妹のねねは違う受け止め方をした。
 戦の段取りをする男の考えは分からないが、この猿そっくりの男に興味を抱いた。
 女子は、夢を持つ男が好きだ。
 夢を夢中で追いかける姿は、博多駒に似ている。
 博多駒は全身を震わして、一心に回っているときほど見る人を惹きつける。
 ねねは、藤吉郎が全身を震わせて、やろうとしている何かに触れてみたいと思った。

 翌日、又右衛門は登城すると、上司に藤吉郎が作っている地ノ図を報告した。
 聞いた上司は、自分の上役に報告する。
 その日のうちに、藤吉郎の地ノ図と考えていることが、信長の耳に入った。
 信長は一言、
「猿めー」と漏らした。

 数日後、藤吉郎は小者頭を飛び越して、十人の足軽組頭三十貫に躍進した。
 孫兵衛は、国々の土地ノ図を造ったぐらいで、どうして出世したのか分からなかったが、ねねは何となく、期待していた予感が的中したことが嬉しかった。

 その夜、ねねは長屋入り口で、藤吉郎が帰って来るのを待っていた。
 藤吉郎は足軽頭になったことで、飛んで跳ねるようにして帰って来た。
 ねねは、うこぎ垣根の後ろに隠れていた。
 藤吉郎が長屋に入ろうとしたとき、
「うわー」
 大声で驚かした。
 この声に藤吉郎が驚くと、大袈裟に転んだ。
「足軽の組頭になっても、女子の声にびっくりするようでは弱い組頭じゃー」
 ねねは、相手が思ったより驚いたのが愉快だった。
 反対に藤吉郎は、悪さをしたのが又右衛門の娘だと知ると、悔しさを押さえて、
「お小女郎と思ったら、組頭の小娘か」
 尻に付いた土埃を払いながら、悔しさを隠して言った。
「おこじょろとはなんじゃ、おまえこそ猿のくせにー」
 ねねは十三歳だったが、気が強く口が達者だった。
「小娘が夜うろうろしていたら、化け物にかどわかされるぞ」
 この時代、夜は人間の世界ではなく、魔物や化け物の世界と考えられていたから、誰もが暗闇を怖れていた。
「お父ーがおまえの家に行くと、化かされた顔で帰ってくるのじゃ」
「知らんー」
「聞くが、おまえは猿ではなく狸か」
「狸に似た男を、一匹飼っているがー」
 その答えが面白かったのか、ねねは藤吉郎の身体に鼻を近づけると、
「人間の匂いがする。顔は猿だがな」
「猿、猿と減らず口を叩くな。おまえこそ人をたぶらかす女狐かー」
 藤吉郎は、小娘を相手に大人気ないと思ったが、負けずに言い返すねねが新鮮に感じた。
「藤吉郎、いや猿ー」
「こら、大の大人を、猿、さると軽く呼び捨てにするな」
 睨んで怒っても、
「わしは、おまえの家来ではないわ」
 すぐ、ぴちぴちで跳ね返ってきた。
「いつまでも、おまえの相手をしているわけにはいかん」
「急いでいるのか」
 ねねは、猿ともっとじゃれていたかった。
「腹が減っているから、帰って飯を食う」
「今から、飯を食うのかー」
 急に、ねねの声が低くなった。
「なんじゃー、おまえも腹が減っているのか」
 まだ子供だったが、全身から女の匂いがした。
 藤吉郎は、ぴちぴち跳ねる、ねねの無邪気さが眩しかった。
 ねねは藤吉郎について、暗い小屋の中に入った。
 入った土間に、父がいっていた地ノ図があった。
「これが地ノ図か」
 平たかった山や川が、手を加えられて立体的になっていた。
 ねねは、夢の世界を覗くような気がした。
「わしらがいるのは、どこじゃー」
 地ノ図を見ながら探していると、藤吉郎が横に来て、
「ここがわしらのいる清洲で、ここが那古野じゃ」
「この線は」
「それは川じゃ、木曽川じゃ、こっちが長良川」
 ねねは地ノ図から目が離せなかった。
 生まれた浅野邑と、この足軽長屋周辺しか知らないねねには、美濃は遠い国だった。
「ふーん、美濃がここで、三河がこっちにあるのか」
 父や兄からよく耳にする言葉だったが、この図で見ると一目で国の配置が理解できた。
 ねねは、横にいる猿のような男が、急に大きく感じた。
 最近、早足は出て行くと、遠くまで足を伸ばしているのか、何日も帰ってこない。この日も早足は帰ってこなかったので、二人で飯を食べた。
 焼いた味噌と漬物だけの食事だったが、なぜか、普段より何倍も美味しかった。
 ねねは、いろいろなことを聞いた。
 今まで口にしたこともない戦や、他の国のことを聞いても、藤吉郎は笑いながら、面白く分かりやすく教えてくれた。
 藤吉郎の飯を飛ばしながら喋る話は、そのままずっと未来に伸びていく気がした。そして、その話の上を、この猿男がまっすぐに走って行くように思えた。
「猿、これはなんじゃ」
 相変わらず、とうきちろうさまとは呼ばずに、猿と呼ぶ。
「これは下池という大きな池でな」
「これが池かー」
 現在、この下池はないが、江戸時代まで多芸郡に巨大な池があった。

 五日後、早足が帰ってきた。
 早足はよほど腹が減っていたのか、すぐに飯を食った。
 いつもは喋りながら何杯も食う早足が、黙って四杯平らげると、
「今川家が、尾張を攻めるぞ」
「なにー、いよいよ合戦が始まるのか」
 藤吉郎の窪んだ目が飛び出したが、期待していたことだ。
 合戦で手柄を立てないと、褒美も貰えないし抜擢されない。
 ただ相手が悪かった。
「今川は駿河、遠江、三河を支配する大国じゃあー」
「その大国が、全軍を率いて攻めてくる」
 早足の目が、鋭い。
「どうしてー、分かった」
「今川義元が家来衆に、合戦の準備を命じたからじゃ」
「戦の準備じゃと・・・・・」
「一つは、三河と尾張の国境の豪族たちに働きかけている」
 戦の前になると、国境の地侍を味方に付けておきたい。
「他はー」
「戦の陣立てじゃー。この触れ書を読むと分かる」
 早足が、一枚の紙を藤吉郎に渡した。
 藤吉郎は、触れ紙を一字いちじ確かめながら読んだ。
 永禄二年三月、今川義元は密かに七ケ条の軍令書を出していた。兵糧や飼馬の準備。出勢の日の確認、城攻めにおいては自分の持場に専念すること。合戦では奉行の下知を厳守し、かってな行動を慎むことなど細かく命令していた。
 藤吉郎はこの軍令書を何度も読んで、
(今川義元は、負けることを考えていないー)
 駿河、遠江、三河の三国を支配する、義元が率いる軍勢は少なくても二、三万なのに対し、尾張一国が制圧できていない、信長が動員できるのは二、三千人しかいない。
しかし、合戦は生き物だ。
「今川義元を、直接狙う以外勝利はないな」
 早足も、地ノ図の街道を指でなぞりながら、
「しかし、尾張に入られたら防ぐ手がないぞ」
 尾張と三河との国境は、小高い山が何重にも入り組んでいるが、尾張に入ると紙の上を走るように、清洲まで平地である。
「なら国境で、隙を見て、義元を狙うしかない」
「早足、大軍に守られた義元を襲撃できる場所がないか、詳しく調べてくれ」
 国境の重要性は、信長も義元も知っている。
 両勢力とも、この国境に出城や砦を築いて牽制し合っていた。海側にある鳴海と大高の砦に、今川軍が兵を入れて尾張を睨めば、織田軍は鳴海と大高砦を囲むように、丹下、善照寺砦、中島、丸根、鷲津の砦を築いて対抗していた。
「一人では無理だ」
 駿河から三河を抜け、尾張に入る本筋は鎌倉街道だったが、それ以外にも大高道、東浦緒川道、三河道、近崎道があったうえ、それぞれが何本もの脇道につながっていた。
 義元を確実に仕留めるには、現地を詳しく把握しておくことだ。

 翌日、藤吉郎と早足は、蜂須賀小六に会いに、宮後の安井屋敷に向かった。
 安井屋敷が見えたとき、゛どん゛と轟音が響いた。
「種子島じゃ」
 川並衆の間ではやっている火縄銃である。
 鉄の筒に硝石、硫黄、木炭末を混ぜた妙薬を入れ、かるかと呼ぶ棒で鉛球を押し込む。筒先を的に向けて構え、鉄筒の手元の縄に火を付けて引き金を引くと、妙薬が爆発して、大きな音を発して鉛球が飛び出す。
 どの大名もこの火縄銃を求めるのだが値段が高い。噂では一挺が足軽十人分だと言う。
 そんなに高価な種子島を、野伏せ同然の川並衆がぶっ放して遊んでいる。
 屋敷に入ると、やはり小六が、庭の大木に吊り下げた的を目がけて種子島を放っていた。
 藤吉郎と早足は、小六が扱う種子島の操作を見ていた。
 使い慣れているのか、小六は鉄筒の掃除、妙薬の流し込み、弾込め、押し込みを流れるように行った。そして火縄に付けた火に息を吹きかけて煽ると、種子島の筒先を的に向けて構えた。流れるように動いていた体をぴたっと止め、静かに引き金を引いた。
゛どんー゛
 轟音と一緒に、真っ黒な煙が飛び出すと、周りに焦げ臭い匂いが漂った。
 藤吉郎と早足には、種子島が異国からきた怪物に見えた。その怪物を使いこなしている、蜂須賀小六の財力に驚くと、改めて、とてつもない男だと知らされた。
 小六は、後ろで見ている二人に気がつくと、
「なんじゃ、猿と狸ではないか」
 的を狙っていた、凍った目が溶けだした。
「蜂須賀さま、その種子島をー」
 小六は、手に持っている種子島を見た。
「一度、わしに撃たせてくれんか」
 藤吉郎は、種子島がどんなものか、撃ってみたくなった。
「よし、撃ってみろ」
 小六は、種子島を藤吉郎に渡した。
 藤吉郎は種子島が暴れないように、慎重に受け取った。
 思ったより重かったが、その重さが反って安心できた。
「まず筒に残っている妙薬の燃えカスを、取り除く」
 小六が一つひとつ教えてくれた。
 藤吉郎は言われたことを口で復唱しながら、ゆっくり行った。
「いいか種子島を肩にしっかり当てろ。抱くようになー。撃ったときの反動を、肩と腰で受け止めるのじゃぁ」 
「こうかー」
 藤吉郎は、両足を踏ん張って、種子島を構えた。
「そうじゃ、ぐっと腰を落として構える。そして的に筒先を向ける。狙うのじゃ」
 両手を伸ばし、ふらついて構えている藤吉郎の姿勢を直し、
「的と筒先と手前の窪みの印が一つに重なったら、動かないように息を止めーる。そうそう、初めて女子に触るように、そっと引き金をひけー」
 藤吉郎は、引き金を引いた。
 引き金は軽かったが、同時に、゛どんー゛と轟音が響くと、刺激が肩を襲った。
 弾は的から大きく外れ、一間ほど上の枝を裂いた。
 藤吉郎は、的には当たらなかったが、瞬時に、
「これは使える」
 弓より強力だ。戦体験のない百姓でも、何回も練習させると、槍や刀では立ち向かえない敵の大将でさえ仕留めることができる。
 問題は銭だ。銭がなければ種子島は買えない。この種子島を練習するのにまた高い鉛弾と妙薬がいるが、近い将来、この種子島が合戦の主役になると確信した。

 その後、座敷に通された藤吉郎と早足は、
「猿と狸が揃って、何の用じゃ」
 小六が改めて聞いた。
「駿河の今川義元が、尾張侵攻を企てておってなー」
「そのようじゃが、それがどうした」
 小六の情報網は、とっくに掴んでいた。
「今川義元が、尾張に入る道が知りたい」 
「それは分からん。前衛が通る道は飼葉や兵糧が集めてあるから、ある程度想像できるが、義元の本隊は待ち伏せされないよう、直前まで明かさないのが鉄則でな」
「そうか、考えたら当然じゃなー」
 藤吉郎の悩む顔をみた小六は、まさかーと思ったが、
「なぜ、おまえが今川の本隊を探る」
「敵の大将を討ち取れば、戦に勝てるではないか」
 藤吉郎が、すまして答えると、
「敵の大将を討つだとー」
「戦に勝つには、敵の大将の頸を獲ることに尽きる。織田軍は、今川軍の半分もおらん」
「それを、なぜ下っ端のおまえが調べるー」
 小六の質問に、
「敵に勝つ方法を考えるのに、上も下もないわ」
 藤吉郎が、むきになって言うと、 
「足軽のおまえが、でしゃばって考えることではない」
 小六は冷たく切り捨てた。
「重臣や参謀の考えることが、正しいとは限らんではないかー」
 まさかーが、こだまになって返ってきた。
 小六は、猿男の顔を見た。
 この貧弱な身体で、一ヶ月前に十人の足軽頭になった。
 僅か二年で、一番下の小者から足軽組頭に昇進したのだ。
「やはり三河との国境が勝負になるな」
 猿がぼっそりと、いった。
 小六はじっと藤吉郎の顔を見ていたが、何も言わなかった。
 この猿は、常に一軍の将のつもりでいる。
 
「ふーん、種子島は重たいのか」
「重い。だがずっしりとしているのに、持ちやすくてな」
 ねねは毎日のように、藤吉郎が帰って来るのを待っていた。
 猿男が、大袈裟に、身振りをしながら喋る話が面白かった。
「ずどーん、と、びっくりするほど大きな音が体の中まで入ってくる」
「音が、体の中に入ってくるってー」
 ねねは、音が何処から体に入るのか、考えた。
「猿、種子島はねねでも撃てるか」
「女子には刺激がきついわ」
「でも、撃ってみたい・・・・・」
 ねねも藤吉郎と同じで、なんでも試してみたいのか、目が輝いていた。
「猿は、信長の殿様と、よく話をするのか」
「一回か二回だけじゃ。それも頭を下げていたのでよく顔も見ていないわ。声は種子島と同じで、体の中まで入ってくる」
「お父ーは、長年織田家に仕えているが、信長さまとは口をきいたことがないというとったぞ」
 それはもっともな話で、藤吉郎も生駒屋敷でたまたま出合ったから口がきけたが、足軽が殿様と会話なんかできる訳がない。
 ただ良禽が止まる木を択ぶように、藤吉郎も自分なりに考えて仕える主人を選んだ。逆に信長も有能な家来を求めていたから、両者の考えが一致した。
 そこから先は実力が優先する。足軽組頭に躍進しても下っ端はかわらない。その下っ端の者を、殿様が直接呼んで話をするほど世の中は甘くない。
 しかし、信長が、藤吉郎の型にはまらない能力に注目していたのは事実だった。
 組織を重んじる信長は、藤吉郎との間に一人の男を入れた。
 男の名前は太田又助牛一(またすけぎゅういち)。
 後年、織田信長の一生『信長公記』を書いたことで有名になった。
 ねねは、一回でも、殿様と話ができただけでも大変なことだと知っている。
やはり、この猿はどこかが違う、と女の勘が知らせた。

 信長から藤吉郎の監視役になった太田又助は、尾張国春日部郡の安食で生まれた。成願寺の僧だったが、信長の足軽になり、弓に長けていたことから、弓衆に引き上げられた。その後、事務能力を買われ、年貢の催促や、境目の裁定などに携わったのだが、今はまだ信長の弓衆のときだった。この又助と同じ弓衆に、ねねの養父の浅野又右衛門がいた。二人は堀田孫七とともに、信長の弓張三人衆と呼ばれていた。
 信長は、又助に、藤吉郎の監視を命じていたが、監視と言うよりも、この下賎出の男の仕来りや名門意識にこだわらない発想に注目していた。一直線に目的はなにか、どうすればそこに辿り着くのか、何処が悪いのか、を単純に考える。
 猿の考えは、聞くに値する。
 それには、猿男の考えていることを伝える者がいる。その役を同じ長屋に住んでいることと、信長の親衛隊の弓衆にいたことから、又助が任命された。
 又助も、藤吉郎に注目していたが、この猿男の噂はあちこちから入ってきた。ただ噂では口先男、と言うのが多かった。何一つ武芸を身に付けていない小さな猿男が、二年で足軽組頭になったことも反感を買っていた。又助も、弓を扱う武芸者である。口で出世する男を嫌った。
 又助は気が乗らなかったが、藤吉郎を訪ねた。
「同じ長屋に住んでいる、弓衆の太田又助じゃあ」
「勝手に入ってくれ」
 小屋の中から大きな声が返ってきた。
 又助が入ると、藤吉郎が手を真っ黒にして土間の土を盛り上げていた。
「ほう、これが地ノ図なのか」
 噂で聞いていた、地ノ図を覗き込みながら聞いた。
「そうじゃ、尾張と三河と美濃が一目で分かる」
(―――下っ端の足軽がこんなものを作ってどうなるー)
 口先まで出ている言葉を飲みこんだ。
「来年、駿河の今川家が、尾張に攻めてくるからなぁー」
 今度は目が飛び出すようなことを、簡単に言った。
「なにー、今川義元が尾張を攻めるって―」
「ああ、それをどこで防ぐのがよいのか、考えているのじゃ」
 又助も、駿河の今川が尾張に侵攻する噂は何度も聞いていた。
「で、どうする」
 又助は、今川軍の大勢力を知っている。
 猿男は、しきりに尾張と三河の国境の道をなぞっていた。
「そこに、何かあるのか」
 又助も気になった。
「今川義元が通る道筋を考えているのじゃー」
「義元が通る道を調べているだとー。それを調べてどうする」
「義元はな、自分が攻められることを考えていないから、必ずどこかに隙がある」
 こやつは、何を目論んでいるのかー。
 
 翌日、又助は登城すると信長に呼ばれた。
 又助は、藤吉郎が三河と尾張周辺の地ノ図を作って、今川義元が通る道筋を調べていることを伝えると、
「それでー」
「はい、今川義元は、隙があるとかー」
「なに、義元は、攻められるとは思っていないだと。たわけー」
 この頃の信長は、心とは反対の表情を見せることが多かった。
「尾張に入る前の、国境が勝負だとかー」
 猿男は、いつもぶつぶつ独り言を喋っている。
「ふん、能無し猿の考えることは浅いわ」
 信長の言葉は短い。
 又助が下がった後、信長は、鎌倉街道沿いにある九坪の豪族梁田政綱を呼び出した。
 梁田政綱は土地柄、三河との国境に明るい男だ。
「今川家の、陣営作事奉行はだれか」
「今川家の一族であります瀬名城主、瀬名氏俊でござます」
 政綱は、目の吊り上った大柄な瀬名氏俊を思い出した。
「そいつの動きを調べ、逐一報告せい」
「はっ」
 梁田が帰ると、信長は一言漏らした。、
「猿めー」
 顔は白く厳しかったが、目は笑っていた。

 槍足軽十人の組頭になった藤吉郎は、組頭用の長屋に移った。
「今川義元の、三河からの進路が掴めんー」
「駿河から三河の岡崎、沓掛までの道筋は間違いないぞ」
「その後じゃ。沓掛城からまっすぐ尾張に攻め込むか、左に進んで大高砦に入るかー」
 動く前に対策を練っておかないとー、
「鎌倉街道から大高砦に入る道は、どんな道なのじや」
「小高い山がぼこぼこと重なっていて、その底に幾つもの田圃がある」
 早足は、思い出しながら答える。
「二千人ぐらい、いや、せめて千人ぐらい潜むところはないか」
 小山が接近しているので、谷筋を一つ隔てただけで隣の谷が見えないのは良いのだがー。
「百人程度なら隠せるが、千人近い兵を潜めるところはないわ」
 それに本軍が動くときは、敵が待ち伏せしていないか、探る偵察部隊を先に行かせる。
「わしは、大高城に入ると読んでいるが・・・・・」
 大軍を先行させる義元は、危険な橋は渡らず、制圧した後をゆっくり進む。
「かも知れん。大高は河口にあり交易で栄えている。城も大きいから、ここを拠点に尾張制圧を狙うにはふさわしいわ」
 早足は、この辺りを何度も通っている。
「猿、なぜ谷間の道がよいのか」
 ねねが、不思議そうに聞いた。
「細い道はどんな大軍も一人か二人ずつしか進めん。大軍が細い線になるから、敵の大将を襲いやすくなるのじゃ」
「そうか」
 ねねは幼いが理解が早い。藤吉郎はそんなねねが好きだった。一度ぐらいなら詳しく説明できるが、毎度のこととなると一から十まで教えておれない。
 行軍は広い道だと二列で進み、道が狭くなると交互に交わって一列で進んだ。また道が広くなると、元の二列に戻した。
 真中に大将をおいても、道が細いと何重にも囲むことはできない。
「その手薄になったところを襲うのか」
「だから、三河と尾張の国境しかないのじゃー」
「なぁー、猿に狸・・・・・」
 そこで、ねねは口を閉じた。
「どうしたねねー」
 二人は、飯を食う手を止めて聞いた。
「おまえたちが、義元の頸を獲ればよいではないか」
 ねねは、二人に大手柄を上げさせたかった。
「十人の足軽組頭では無理じゃ。それは信長さまの仕事になる」
「獲物を追い回しておきながら、黙って見ているのかー」
 ねねは悔しかった。
「何日も追いかけた獲物は、追いかけたものが捕るのが一番ではないのか」
 気の強いねねの目に、涙が浮いていた。
 毎日土を捏ねて地図を作って、義元の通る道を調べておきながら、最後の詰めを人に任す猿と狸に腹が立った。
 そして、その二人を見ているだけの自分も悔しかった。
 初めて見せたねねの涙に、藤吉郎と早足も返す言葉がなかった。
 この涙に応えるには、一日も早く、大軍を率いる侍大将になる以外ない。

 年が変わり、永禄三年に入ると、今川義元が動いた。
 義元は後顧の憂いをなくするために、甲斐の武田家、小田原の北条家と善得寺で会見して甲相駿の三国同盟を結んだ。東からの脅威を消した義元は、
 五月一日、二万五千の堂々たる軍勢を駿河に集結させると、
 十日、先鋒部隊五千を、尾張に向けて発進させた。   
 二日後の十二日(現代の太陽歴では六月十五日)、赤地の直垂に胸が白の具足をつけ、八竜の冑をいただいた、義元が駿河を発した。
 先鋒部隊が露払いをした後を、義元本隊がゆっくりと進んだ。
 その日は藤枝に泊まり、十三日に掛川、そして十六日岡崎に入ると前線の様子を聞いた。
 今川の大軍を前に、織田軍はなす術もなく沈黙している、と報告を受けた。
(たった三千ではー)
 義元は、大軍に睨まれた、信長の心境を哀れんだ。
 そして十七日地鯉鮒を通り、十八日国境の手前、沓掛城に本営を置いた。
 ここで義元は全軍に戦の準備を命じる一方で、大高砦を監視している目障りな丸根と鷲津砦の攻撃を優先した。
 今川軍の接近を聞いても、清洲城の信長は動かなかったが手は打っていた。
 家来どもが献策する籠城はしない。
 援軍もない平城が十倍の敵に囲まれたら、防ぐ手立てはない。
 信長は、今川義元一人を攻め、頸を獲ることを考えていた。
 正面から二万五千の大軍とぶつかると、たとえ部分的に勝利を得ようと、少数の味方勢ではやがて戦えぬようになることが明らかである。
 人間五十年、死ぬのは一定である。
 納得のいかない合戦で死ぬのは、信長の性格から許せないことだった。
 今川の先陣などどうでもよい。
 一撃に懸けた。ただ、義元を急襲するには一撃できる場所まで駒を進めておく必要がある。義元は暑がりだし、その上具足を付けている。公家かぶれの義元は、この暑さに耐えられるわけがない。必ずどこかで休息し、瀬名氏俊が作った休憩所で涼を求める。
 ここだ、このときだ。
 信長は、梁田政綱を、今川軍の幕奉行瀬名氏俊に張り付ける一方で、配下の細作、乱波、忍び者全員を、必ず通る沓掛城周辺の鎌倉街道に貼り付けていた。
「義元が、どこで休息するか」
 それだけを探れーと。
 国境では緊張感が高まっていた。
 今川軍が鳴海と大高砦に食糧を運び込んで、尾張侵攻の足掛かりにすれば、織田軍はそれらの砦に対抗して、丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の砦に兵を入れ防衛線を強化させていた。
 ただ織田軍の砦は数では優っていたが、屋敷や寺を補強したもので、小さく兵も少なかった。信長は重要な位置にある丸根砦には、佐久間大学盛重に七百の兵を与え守らせていた。その丸根砦から八百メートル隔てた鷲津砦には、飯尾近江守定宗以下四百名が守備している。
 しきりに国境から情報が届くが、信長は聞き流していた。
 夜中になり、待っていた梁田政綱からの情報が入りだしても、情報の漏洩を恐れ、素振りすら見せず一人で聞いた。
 そして、ついに義元の居場所に関する情報が届いた。
「瀬名氏俊が桶狭間山の北側に、仮小屋を造営しております」
「桶狭間山の北か」
 信長は、頭の中で桶狭間山への道を描いていた。
 尾張に向かって陣を構えるには、最適な山だ。
 この辺りでは二番目に高い山だし、桶狭間山を守るように前方には高根山、幕山、巻山が立ち塞がっている。それにこの桶狭間山の北側の松林は風が通る。
(あり得る)
 信長は、情報の真偽を確認するため、今川軍の陣配置を見てからだと考えた。
 
 十九日未明、今川軍は国境にある織田方の丸根と鷲津の砦に攻撃をかけた。
 義元から丸根砦の攻略を命じられた松平元康(後の徳川家康)は、二千五百の兵で攻めた。死を覚悟した佐久間大学は、敵を引き付けると門を開いて撃って出た。
 決死の佐久間勢に松平勢が押されていたが、時間とともに佐久間勢の勢いが落ちると、砦は松平元康の家来左右田正綱に火をかけられ、佐久間大学以下全員が討ち死にした。
 一方の鷲津砦も朝比奈泰朝勢二千の攻撃を受けると、ひとたまりもなく陥落した。
 この報告を聞いた義元は、藤吉郎が予想した通り、鎌倉街道から大高砦に向かった。
 
 信長は急遽出陣すると、熱田神宮で祈祷した。
 その後、前線にある善照寺砦に入ると、いつでも奇襲ができるように軍勢を揃えさせた。そして前方の高地に陣取る今川軍の陣配置を確認した。
 今川軍は漆山を最前線にして高根山、幕山、巻山に陣取っていた。
 ここに織田軍が攻撃をかけると、高台にある漆山の前線で叩ける上に、後方の高根山、幕山、巻山から即援軍が駆けつけられる。万が一に混戦になっても、大高砦からの軍勢が織田軍の側面を突けば、鳴海砦の今川軍が背後から襲いかかる。
 見事な陣取りである。この扇を広げた陣形の要に桶狭間山があった。
(―――間違いない。義元は桶狭間山にいる)
 と、信長の戦いの本能が知らせた。。
 この陣配置は『信長公記』に、゛おけはさ山に人馬の休息在之。午後、戌亥に向て人数を備゛と記載されている。
 信長が決断すればあとは早い。
 信長は、善照寺砦から、密かに先行部隊を桶狭間山の北側の山沿いに発進させた。その一方で、高台の今川軍の陣地から見えるように、残りの軍勢を進軍させると、最前線にある中島砦に入った。ここでさらに軍勢を二つに分けると、信長は本隊を率いて山間を隠れるように進んだ。もう一隊は、千秋四郎と佐々隼人に三百人をつけると、今川軍の前線を攻撃させた。この二人には時間を稼ぐように申し付け、周りが深田だから一騎打ちの戦いになる。それに敵は鷲津と丸根砦の攻略で疲れているから、敵が懸らばひけ、しりぞかば引付くべしと命じた。
 もし、この合戦で死んでも、織田軍が勝てば、この戦に参加した者の家の面目は末代まで高名が残ると言い聞かせた。
 要は、今川軍の目を引き付け、信長が義元に接近する時間を稼げとー。
 信長は走った。
 桶狭間山の今川義元の本陣を攻めるまでは、どんなことがあっても敵に見つかってはいけない。この機会を逃したら、永遠に義元を討ち取れない。
 小山に隠れるようにして間道を走った信長本隊は、桶狭間山の北側にある太子ケ根の山際で、義元に張り付けていた草者の出迎えを受けた。
「との、こっちじゃぁ」
 数名の草者が案内する。
「義元を見つけたかー」
「今、輿から降りて具足を外しております」
「そうか」
「くれぐれも音は立てぬように・・・・・」
「分かっておる」
 太子ヶ根から尾根沿いに進んだ信長本隊は、尾根の切れ目で、谷一つ隔てた山の中腹で休憩をしている義元の本隊を見つけた。
(梁田政綱の情報どおりじゃ)
 義元は、丸根と鷲津砦で討ち取った、織田方の武将の首を見ていた。
 そのとき両軍を猛烈な雷雨が襲った。
 一瞬、視野が遮られ何も見えなくなった。
 大粒の雨を避け、慌てて木陰に隠れた今川軍を、戦意が高揚している織田軍が攻撃した。
 織田軍二千人は、太子が根の端から一気に尾根を駆け下りると、その勢いのまま桶狭間山を駆け上っていった。
 ここが勝負とみた信長は、鑓を振り上げると、
 ゛すわ、かかれ、かかれー゛
 と、大音声で叱咤して、全軍を義元一人に突入させた。
 これには義元の旗本も防戦できなかった。旗本たちは必死で義元を守ろうと試みたが、織田軍二千の怒涛のような攻撃の前にはどうすることも出来なかった。
 この桶狭間の合戦も、又助(太田牛一)の筆によると、
 ゛・・・・・初めは三百騎計り真丸になって義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合い帰し合い、次第しだいに無人になって、後は五十騎計りになりたるなり、信長下り立って若武者共に先を争い、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかかった、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす・・・・・゛
と記されている。
 また後年、桶狭間の住民から聞いて書いた山澄英竜の『桶峡合戦記』にも
  ゛義元、桶峡山ノ北ノ松原二至テ゛
 と所在を明らかにするとともに、信長軍の進撃を ゛旗ヲ巻キ兵を潜メ、中島ヨリ相原村ヘカカリ、山間ヲ経テ、太子ケ根ノ麓ニ至ル゛と残されている。
 そして、信長の馬丁をつとめた男は、まるで火の側にいるような暑い日で、信長がやたら山に乗り上げ乗り降りたと記述しているから、中島砦から山に隠れながら太子ケ根に到り、軍勢を整えて突撃したのだろう。
 信長は、今川義元を討ち取った功績の評価を、直接義元の頸を獲った者より、義元が桶狭間山で休むことを探った、簗田政綱に沓掛三千貫の恩賞を与えた。
 次に、義元本人を見つけた服部小平太には千貫を与え、自分の人刺し指を食いちぎられながら、義元の頸を獲った毛利新介には五百貫だったことから、信長は勝利の根本的な要因を的確に把握していたのだ。
 藤吉郎は、情報が敵を倒すのにいかに重要で、銭になるかを改めて知った。
 
 
 
     三  弟 小 一 郎
 
 桶狭間で、今川義元の大軍を破った、織田信長の威勢は大いに盛り上がった。
 尾張国内でも、信長の破天荒な振る舞いに、猜疑心を抱いていた者もまでが、
「うつけは、隠れ蓑だと知っていたー」
 現代も昔も同じで、手の平を返して評価した。
 藤吉郎は、信長の奇襲攻撃を奇跡だとは思わず、敵の陣営作事奉行を探り、瀬名氏俊を見張ることで、暑がりの義元がどこで休むか、探りだして完璧な勝利に導いたのだ。
「見事な、読みと采配じゃ」
 計画と実行の差は、今の城主信長と、足軽藤吉郎のように、天と地ほどの開きがあった。

 藤吉郎は、うこぎ長屋で、織田家中での自分の立場を改めて見つめ直していた。
 二年で小者から足軽組頭になって、有頂天になっていたのではないかー。
 藤吉郎は、己の分身になる家来がいると考えた。
 前しか見ない藤吉郎にとって、先を探る早足は欠かせないが、もう一人、後ろから弱点を指摘し支えてくれる家来が欲しい。
 藤吉郎は周囲を見て、家来になる者を探した。
(―――いた。弟がいる)
 小竹だ。
 今は、小一郎と名前をかえているが、尾張の中村で百姓をしている目立たない男だ。
 案外、何事にも腰を据えて行動する小一郎は、藤吉郎とは違う立場で侍に向いているのではないかー。

 藤吉郎は、実家に小一郎を訪ねた。
 実家のある中村は、野は広く土地は肥えていた。
 ただ農業に適した土地を耕していても、当時の農業は、朝早くから、夜遅くまで体を痛めないと米が作れなかった。さらに天候に左右された。運良く豊作を迎えても、戦国の真っ只中である。戦争をするには金がいる。米が金に替えられた時代だったから、戦争のたびに米を取られた。
 小一郎も、
「何度も取られる、百姓は損だ」と考えていた。
 反対に、何になるのが得か考えると、取られるよりも、取る方の侍が良い。
 その侍になる話を、長年行方の分からなかった兄が持ってきた。
「本当に、侍になれるのかー」
「侍といっても、わしの家来じゃぁがー」
 風格のない身体では侍に見えないが、嘘を言っているのでもない。
 現に、家来を二人連れてきている。
「わしは二年で、小者から足軽組頭になった」
「ほうー、足軽の組頭かー」
 侍になったことも信じられなかったが、それ以上に信じられない。
「百姓の生まれじゃから武芸もない。兵法も知らんし、上司の縁もない」
 小一郎が心配していたことは、兄にも当て嵌まる。
「要は、やる気じゃー」
 窪んだ目で、にゃーっと笑った。
「ただしー」
 その目が、一転して尖がると、
「人と、同じことをしていたのではいかん」
 口は昔から達者だったが、さらに理屈を言うようになっていた。
「じっと、命令を待っていてもいかんー」
 言っていることは分かるがー。
「人と違うこととは、なんじゃー」
「なぁーに、先を考えたらええ」
「何の、先じゃー」
「常に考えていたら、自然に分かるようになる」
 簡単に言うが、先など、読めるわけがない。
「要は慣れ、考えることに慣れると分かってくる」
 兄は、自分に言っているような気がする。
「命懸けで、敵と闘うのじゃー」
 敵も考えるから、考えが浅い方がやられる。
 昔は、兄の考えが全く理解できなかったが、今は何となくわかった。
 小一郎は、このまま中村で百姓を続けるよりは、侍の方が、将来性があると想った。
「できるだけ早く来てくれー」
 兄は、自信満々で喋り、夢を置いて帰った。
(―――わしも、侍になれるのか)
 小一郎は、兄が置いていった夢を見ていた。
 
 数日後、早足のいない長屋の奥の部屋で、藤吉郎とねねは寝ていた。
 板間に薄縁を敷いた上で、二人は結ばれた。
 藤吉郎は、ねねを嫁にすれば、自分の運が大きく羽ばたくと信じた。
 ねねも、藤吉郎の嫁になって、一緒に大きな夢を追いかけたかった。
 当時の婚前交渉は野合と呼ばれ、たとえ足軽の娘でも許されるものではなかった。
 二十五歳の藤吉郎はともかく、十四歳のねねは、何度も陰口を囁かれたが、後悔するよりも、自ら望んで藤吉郎の胸に飛び込んでいった。

 野良仕事が一息ついた頃、小一郎は、清洲城内にある兄の長屋を訪ねた。
 藤吉郎は、笑って小一郎を迎えると、嫁のねねを紹介した。
「嫁のねねじゃー」
 紹介をする、藤吉郎の細い小さな顔が丸く膨らんでいた。
 よほど、ねねに惚れているのだ。
 そして、もう一人の若い男を、
「わしの、一番の家来だ」
 小一郎が、若い丸顔をじっと見るとー、
「何を想ってか、家来になった。今もよう分らんー」
「その通り、わしは、押しかけて家来になったのじゃ」
「押しかけて、家来にかー」
「あぁー押しかけて家来になった。この男は違う」
 若い狸男が、兄に入れ込んでいると、横からねねが、
「わしは、押しかけ女房」
「押しかけ家来に、押しかけ女房かー」
 小一郎が、二人を見て聞くと、
「わしも、猿の夢に乗る」
 同じように、威張って言った。
(―――夢を追いかけるとか、乗るとかー)
 小一郎は、三人が好き放題に喋りながらも、将来を見据えていると感じた。
 それが、若い丸顔の男と、ねねが言った ゛夢゛かも知れない。
 小一郎は、この三人が醸し出す、雰囲気を同じように味わいたかった。

 長屋で一緒に暮してみると、藤吉郎は忙しい男だった。
 なにしろ、じっとしていない。
 藤吉郎の忙しいのは、自分の職務だけに満足しないことが原因だった。
 目下の仕事は、配下槍組十人の指導である。
 信長は隣国に隙があれば攻め入る。
 それには強い軍隊が必要だったから、鍛錬に熱心だった。集団戦を想定した百人、二百人単位の戦闘訓練をする。ときには弓組や鉄砲組と連携した、大規模な演習も行う。
 信長が模擬演習を始めると、参加する組頭は配下の足軽の動きから目が離せない。
 他の組から少しでも遅れると、じっと見ている信長が、
゛大暖山―゛と怒鳴る。
゛おおぬるまやま゛とは遅鈍の極みの者を呼ぶ。
 怒った信長の罵声は、集団の動きを凍らすほど険があった。
これからの合戦は、より大きな集団と集団が激突する。
゛どんー゛と太鼓がなると槍を構える。
 太鼓が激しく連打されると、槍を構えたまま突撃するのだが、織田家の槍は他家の槍より長く三間から三間半もある。その槍を突き出したまま走るのだから、槍先が揃うことがめったにないのに、信長は平然とやり直しを命じる。
 その度に、元の位置まで戻って、最初からやり直す。この訓練を、胴丸を付けて行うから体力勝負だった。組頭は、自分の配下が他の組より遅れないように口酸っぱく指導するのだが、なかなかうまく揃わなかった。
 半日かけた訓練が終ると、足軽だけでなく組頭もへとへとに疲れていた。
 ほとんどの者がすぐに帰宅するのに、藤吉郎は城内を見回って、無駄や改善できるところはないか、探し回っていた。
 
 ある日、塀が崩れた現場をみた。 
 清洲城の東を流れる五条川は、大雨が降るたびに氾濫した。その度に清洲城に川の水が浸水してきた。たまたま大雨が何日も続いて、濁流が城の塀を根こそぎ壊した。
 その修復の途中だった。
 当時の清洲城は、東の五条川と、西の湿地を利用した広い堀で守られていた。守りの防御塀が大きく崩れたのだから、城の存在そのものを不安にした。
 信長は、この塀の修復をさせていたのだが、二十日を過ぎても柱一本建っていなかった。
 藤吉郎は、じっと作業の手順を見ていた。
 多くの人間が忙しそうに動いているのに、早く仕上げようとする緊張感がなかった。
 織田家が尾張をほぼ制圧したから安心しているのか。何人かの親方が、多くの人夫を使って
作業を進めているのだが、同じような作業をあちこちで何組もがしていれば、何に遠慮してい
るのか、譲りあったりして無駄が多かった。一組が食事の用意を始めると、そのときだけ競争
するように全ての組が食事の準備を始めた。
「こんな生ぬるいやり方では、何日かかっても完成せんわ」
 藤吉郎が嘆いて言った。独り言でも藤吉郎の声は大きいから、周りにも十分聞こえる。
 その声を、近くにいた人夫頭の五平次が聞いた。
 顔色を変えた五平次は、 
「おい猿、今なんと言ったー」
 顔中に怒りが浮いていた。
「独り言じゃー」
 藤吉郎は慌てて逃げようとしたが、五平次は藤吉郎の腕を捕まえて離さなかった。
「こんなやり方では、完成せん、と言ったな」
「いやいや、そのー独り言じゃー」
「じゃー、おまえならやれるのか」
 五平次の怒鳴り声に、工事責任者で普請奉行の山淵九郎次郎が飛んできた。
「でしゃばりの猿かー」
 みんなが、城内をうろつきまわっている猿男を警戒していたから、このときとばかりに藤吉郎を責めた。
 山淵は、顔見知りの家老林勝通に言いつけた。
 勝通も、厚かましく、どこにでも顔を出す藤吉郎を毛嫌いしていたから、信長に、
「職務にない者が、組織をないがしろにする」と報告した。
 万事に目を配る信長は、塀の修復が捗っていないことを気にしていた。
職人のすることなので黙っていたが、もう少し様子を見ても捗らないようなら、担当者を変えようと考えていた。その信長の考えを代弁する者が現れた。
 ただ、その代弁者が、猿とは思わなかった、がー、
(―――やはり)と、想った。
組織は規律で成り立っている。簡単に許すことも出来なかった。
 信長は、猿男を思い出していた。生駒屋敷で猿男に、
「何事も出来ることと、出来ないことがあるだろう」
 聞いたとき、猿男は平然と、
「やる気があれば、どんなこともできる」
 と、生意気に答えた。
 信長の目が、冷たく光った。
(素人がやる気だけで、壊れた塀が直せるかー)
 一度、猿男にやらせて試してみよう、と考えた。

 翌日、信長は、猿男を呼び出した。
 地面に頭を擦りつけている猿男に、
「崩れた塀が早く直せると、大口を叩いたそうだな」
 いつもの凍った顔で、聞いた。
「いえ、滅相もないことです」
 頭を下げたまま否定したが、声が大きいので肯定ともとれる。
「山淵が侮辱されたと、泣き付いてきたわ」
「しかし、普請が始まってすでに二十日が過ぎております」
(これを言わなければ良いのだがー)
「猿、人を批判したら、おまえがやれー」
「私が、ですかー」
「いいか、おまえは二十日じゃ。二十日を過ぎても塀が出来ていなかったら、その頸がないと思え」
 厳しく言うと、信長は奥に消えた。
「そんなー」

 藤吉郎は悩んでいた。
(―――どうしたら塀が早く直せるか)
 を、考えていた。
「やるしかないぞ」
 早足が、決断を迫った。
 どうせ信長に厳命されたら、後ろには引けない。
「できなかったら、その頸が切られるだけではないか」
 ねねが、笑っていった。
「な、何を言うか、亭主の頸が切られるのだぞー」
 戦でもないことで、死ぬのは嫌だ。
「猿の頸の代りはなくても、亭主の代りはたくさんいるから、心配いらん」
 ねねは、冗談で言っているようだが、本気にも聞こえる。
 三人のやり取りを、小一郎がはらはらしながら見ている。
「作業の、何が気に食わなかったのだ」
「無駄じゃー。無駄が多すぎる」
「じゃー、その無駄を省けばよい」
「簡単に言うな。わしは普請などしたことがない。石垣どころか柱一本建てられん」
「それは石工や大工に任せて、その者たちが働きやすいように段取りしたらいい」
 その通りだ。
「働きやすい段取りか・・・・・」
 藤吉郎は喋ることで、自分の考えをまとめ、組み立てていく。
 具体的に組みあがるに従って、喋る声が大きく張りのあるものに変わっていく。そして目が爛々と輝いて、唾を飛ばしだすと、もう大丈夫だ。

 次の日、藤吉郎は、配下の足軽を連れて作業現場に出向いた。
前普請奉行の山淵九郎次郎が更迭されたことを知っている人夫たちは、不信な目で藤吉
郎を見ていた。
 藤吉郎は、じっくりと工事現場を見て回った。
 資材も揃っている。崩れた塀と土砂も、この二十日余りで取り除かれていた。
 藤吉郎は、人夫たちを集めた。
 全員が険のある目を藤吉郎に向けていたが、ここで逃げる訳にはいかない。
 後ろには、人夫より何倍も怖い織田信長がいる。
 気持ちを引き締めると、
「新しく普請奉行になった、木下藤吉郎じゃ」
 無視している。
「わしは大工でも石工でもないから、作業の内容は分からん」
 当然じゃー、と、人夫たちの顔が言っていた。
「信長さまから、尾張中から最高の職人を集めたと聞いているぞー」
 褒められてか、少し顔が和らいだ。
「わしも普請奉行の責任がある」
 藤吉郎は、人夫たちを見渡すと、
「おまえたちも、職人の責務があるはずだ」
 強くいった。
「よいか、細かいことは抜きにして、どんなことをしても塀を完成させる」
といっても、人夫たちは、藤吉郎の話に耳を傾けながらも油断なく構えていた。
「今日は作業はなし」
 凍っていた職人たちの顔が、一転した。
「何もせんが、親方衆に話を聞きたいー」
 前の普請奉行は、工事が捗らなかったから更迭されたことを知っている。
 新しい普請奉行は、より厳しい労働をさせると覚悟していた。
 それが、作業をしないとはー。
「すまんがわしの家へ、といってもぼろ長屋だが来てくれ」
 藤吉郎は、棟梁たちを自分の長屋に連れて行った。
 二間をぶち抜いて、酒の用意がしてあった。
 ねねと早足と小一郎が、長屋の入り口で待っていた。
「さぁー入って下さい。狭いところですが、みんな入って入って」
 ねねが、明るい声で気軽に声をかける。藤吉郎には警戒していた棟梁たちも、幼いねねの笑顔には、苦虫をかみつぶしたような顔で応じている。
 棟梁たちが用心深く構えながら入ると、空いている席に座った。
 板間に筵が敷いてあるだけだったが、酒は十分に用意してあった。
 座った棟梁たちに、早足と小一郎が酒を注いで回った。
二人とも慣れないせいか、ぎこちない仕種で酒を勧めていた。
 初めのうちは、警戒して遠慮していた棟梁たちも、酒が入ると陽気になり喋りだした。
 頃合をみていた藤吉郎が、立ち上がると、
「今日はどんどん飲んでくれ。わしは嬉しい」
 溶けかけていた職人たちの顔が、また険しくなった。
「信長さまから、尾張一番の職人を集めたとー、何度も聞いているぞ」
 信長の名前を聞くと、職人たちも気が引き締まった。
 なにしろ、何をするのか分からない恐さがある。
 先日、その信長が、十倍の敵を動員した駿河の今川義元を打ち破ったから、より畏怖感を増長させる一方で、尊敬していた。
 その信長が、棟梁たちの腕を褒めちぎっていたとはー。
 誰一人、信長に褒められていたとは考えもしなかった。
 煽てられた、棟梁たちの酒が進みだした。
「わしはな、腕のよい棟梁たちの力を借りて、清洲城に最高の塀を作りたいと考えている」
 褒めるだけではいけない。高い目標をぶら下げ、職人魂に呼びかけるのだ。
「そうだろう。尾張一の塀は、尾張一の腕を持った職人にしか作れんではないかー」
 藤吉郎の天性は、人を褒めることだ。誠心誠意褒める。
「あたりまえじゃー」 
 黙って飲んでいた、清洲大工の棟梁弥五兵衛が言えば、熱田の左兵衛も負けずに言い返した。
「ガキの頃から鍛えられた腕は正直じゃー」
 藤吉郎は、棟梁たちが反応を示すと、
「このたびの清洲城には、本物の大工の技がいるのじゃー」
 どうせ造るのなら、目立つ塀を造りたい。
「なら、わしに任さんかい」
「ぬかせ、わしの建てた願隆寺を見てから、言え」
 大工同士が、腕を競い合いだした。
「分かっておる。ただ時間がないのじゃー」
 信長から、二十日と厳命されている。
「弥五兵衛より、わしの方がええ腕をしとる。わしに任さんかいー」
 今度は津島の千代松が反応すると、
「なにをー」弥五兵衛が怒って飛びかかろうとすると、
「ふん、わしも十の歳から仕込まれたわ。大工の仕事なら誰にも負けんわい」
 那古野の角冶までが、言いだした。
 職人は腕前の話になると黙っておれないのか、意固地になった。
 個性を表に出したい反面、その個性を殺すのも職人の技である。しかし単に腕前の競争となると話は別だった。
「そこでじゃ、みんながばらばらに仕事にかかっても、持場の取り合いになる。それでは反って作業が捗らん」
「分けたらええ。仕事の範囲を分けたら、誰が一番早く丈夫な塀を作るか、一目で分かるわ」
「おお望むところじゃ。誰が、尾張一番の腕かはっきりするわ。後でほえ面かくなよ」
「なにをー」
「大体、持場も決めずに作事をするから、仕事に無駄がでるのじゃ」
 棟梁たちの、自慢の腕が鳴り出した。
 作業が進まなかった原因を、当の棟梁たちが一番よく知っていた。
「それならどう担当する場を決めるのが良いか、教えてくれ」
 現場は作業をする職人に任すのが一番だ。任すのだが規則だけは平等にしておかないと、後で不平不満がでて揉める。
 藤吉郎は棟梁たちと相談をして、現場を十等分にした。
 そして、その十組の人数を決め、それぞれの組に同数の石工と大工を配置した。
 この間に、藤吉郎配下の足軽たちが、残っている人夫を使って作業現場を均し、十等分していることを教えた。同時に飯の賄いは木下組が責任をもってするので、一切飯の心配をすることなく、作業に専念するように伝えた。
 話がまとまると、藤吉郎は大声で、
「手際良く、丈夫な塀を作った組には報酬をだす」
「なに、褒美がでるのかー」
「一番早く仕上げた組は三倍の給金を出す。二番の組は二倍じゃ」
「三倍とは、有難い話じゃ」
「たわけ、一番になってから言えー」
 また棟梁たちの、腕自慢が始まった。
「それに期限を七日と決める。七日間の給金を払う。だからじゃ五日で仕上がったら、二日分丸儲けになる。四日なら三日分が儲けじゃが、七日を過ぎても出来なかった組には、悪いが罰金を払ってもらう。八日かかったら一日分差し引く。九日かかったら二日分を引くが良いかな」
 藤吉郎の声が、長屋の外まで響いていた。
「ああ、それでよい。七日もかけんと仕上げるからー」
 一人の棟梁が、自信を持って言うと、
「わしもそれでよいわ。どうせ褒美はわしが頂くのだからー」
 横にいた棟梁が、ぐっと酒を煽ると対抗して言った。
「わしも、不満がないわ」
 藤吉郎も、棟梁たちがここまで競い合うとは思わなかった。 
「それより誰の腕前が本物か、それが楽しみだわい」
「ふん、それはわしが言うことじゃ。口だけの奴とは出来映えが違うからな」
「何をぬかす。玄人の目にも、納得できるものを作れ。それを作ってから大口を叩け」
 この千代松の言葉に、挑発された棟梁たちの顔が一変すると、目が異様に燃え出した。
「まぁまぁー話はこれで終わりじゃ。後は無礼講じゃー」
 藤吉郎が宥め、説明を終えると、棟梁たちに酒を注いで回った。
 左兵衛に酒を注ごうとすると、
「ちょっと用事を思いだした。奉行、悪いが先に帰らせてもらうわ」
 急に左兵衛が帰ると、
「そうじゃー、わしも用事があった。途中で悪いが帰えらせてくれ」
 慌てて千代松もが帰ると、のんびり飲んでいた棟梁たちが急に飲みかけの杯を干すと、みんな帰ってしまった。

 翌朝、藤吉郎が、木下組の足軽を連れて普請現場に行くと、暗いうちから全十組が仕事にかかっていた。
 これには藤吉郎も驚いた。
 この頃の職人は一日十四時間ぐらい働いていたのだが、隣に競争相手がいるとさらに労働時間が延びた。早さだけの争いではなく、、腕前を競い合ったから、命がけで働きだした。
 棟梁たちが手下に下す指示にも気合いが感じられたし、それに従う人夫たちも、競争に負けたくなかったから熱く燃えていた。
 全員が声をだし、走り回って作業をしていた。
 隣との継ぎ目も、初めに話し合っていたから揉めなかった。
 三日目には全組が石垣を組み、その上に基礎石で土台を固定した塀を建てた。所々に弓や鉄砲が放せる狭間も設置されていた。
 前より丈夫な塀が百間近く組みあがると、城が壮大なものになった。
 完成すると、藤吉郎は信長に目通りを願い出た。
 二十日の猶予が、三日で出来たことを聞いた信長は当然疑った。
「是非、是非塀の検分をお願いします」
 藤吉郎は、直接信長に検分をして欲しかった。
 信長が、近習を引き連れて工事現場に出向くと、棟梁たちを先頭に普請に携わった全人夫が平伏して待っていた。 
(塀よりも、こやつらに声をかけて欲しいのだ)
 気がついたが、信長は、とりあえず石垣から塀の出来栄えを見て回った。
 出来栄えは上々である。
 短期間に、前よりも丈夫な塀が完成していた。
「猿―、見事じゃ」
「はい」
「手落ちもない丈夫な塀を、よく三日で完成させた」
 めったに褒めない信長も、貶すところがなかった。
「これも、尾張一の職人衆を集めて頂いたから出来たことでございます」
 信長は地面に座って、頭を下げている職人たちを見渡すと、
「見事な腕前じゃ。さすが尾張の職人ー」
 この信長の一言は、職人たちを感激させた。
 信長は、塀を三日で完成させた褒美に、二倍の報奨金をだした。
 この給金に、棟梁たちだけでなく、その下にいる石工や人夫が大喜びをした。 
 その夜も、無礼講の宴会が開かれた。
 藤吉郎の狭い長屋で、木下組の足軽と棟梁たち合同の大宴会だった。
部屋に入れない者は、外で飲んでいた。
 ねねは、前回と同じように、大人数の賄いを早足と小一郎の三人でこなした。
 三人は、棟梁たちと、肩を組んで酔っ払っている藤吉郎を見ていた。
もちろん頸は切られなかったが、素人がたった三日で、百間近い石垣と塀を完成させるとは、誰一人思わなかった。
 やはり、猿は違うー。
「三日、三日でお城の塀を直したぞ」
「そうじゃー、清洲城の塀を三日で直したんじゃー」
 完成前は、途中で帰った棟梁たちも、塀を見事に完成させ、信長から褒められたことが嬉しかった。
「どうじゃー奉行、わしら尾張大工の技を見たか」
「見た見た。大した腕じゃった」
 藤吉郎が煽ると、
「尾張一の大工なのじゃから、当然じゃー」
「まてまて、みんなが尾張で一番なのか」
 この間の入れ方が、藤吉郎はうまい。
「当たり前ではないか。みんなが、尾張で一番の大工なんじゃ」
 酒が入り、酔いが回ると、更に大口になる。
 藤吉郎が頭に手拭を巻いて、みんなの前にでると、
「尾張で一番の棟梁がー、あぁ何人もーいるのはおかしいなー。おかしいなー」
 外れた調子で歌い踊りだすと、棟梁たちも立ち上がって踊りだした。
「尾張で一番の棟梁がー、何人いてもーあぁーよいもんじゃー。何人いてもーあぁーよいもんじゃー」
 座っているものまでが、声を合わせ手拍子で応えると、
「尾張で一番の棟梁はー、腕よしー顔よしー器量よしー」
「そうじやそうじゃー。腕よしー顔よしー器量よしー」
 こうなると奉行と職人ではなく、人間と人間の付き合いだった。
 給金もたっぷり貰った。手下の職人たちにも大盤振る舞いができた。
 無礼講を、達成感と開放感がより盛り上げる。
 この弥五兵衛に左兵衛、小源三郎、千代松、角冶たちが、後日、藤吉郎が作る墨俣砦と、長浜城下の町造りに協力することになる。

 藤吉郎は止まらない。
 駒と同じで、止まると転ぶ。
 清洲城の塀は職人たちの協力で完成させたが、どう考えても清洲城は位置が悪い。
 尾張の国府で、鎌倉街道と伊勢街道が合流する要所だが、南により過ぎている。
 それに五条川が、氾濫する度に浸水する。いくら防御しても自然災害には勝てない。
 この先は美濃との全面戦争になる。
 負ける戦なら敵から離れた方が良いが、勝つためには攻めることだ。
 小一郎は、考えに没頭している兄を見直していた。
 聞いたところでは十人の足軽組頭に過ぎない。それが場違いの城の塀普請を請け負うと、見事に完成させた。なぜ下っ端の足軽頭に、そんな仕事が任されるのか。
 失敗すれば頸が飛ぶのに、それを引き受ける兄も分からない。
 どうであれ、兄は只者ではない。
 小一郎は、先日の無礼講のどんちゃん騒ぎを思いだしていた。あの底抜けの陽気さは何からくるのか。奉行も足軽も、職人も垣根がなかった。みんなが仲間意識で結ばれていた。
 塀が出来たのも、兄が先頭に立ってあれこれと指図をしたのではない。
 棟梁たちのやる気を引き出しただけだ。
 兄は、またなにやら先を考えている。
「清洲城はいかんー」
「清洲城の何が、いかん」
「信長さまはいずれ美濃を攻める。それには清洲城は場所が悪い」
「なら、どこが良いのじゃ」
 早足とねねはすぐに反応するが、この間、清洲城の塀を修復したばかりではないか。
 その城を、捨てる話をしている。
「もっと北が良い。清洲からだと美濃の稲葉山城が遠すぎる」
「稲葉山城は難攻不落じゃ」
 早足は、東の今川家から、北の美濃斎藤家に探索目標を変えていた。
「―――今度こそ、蜂須賀さまの力がいる」
 兄はぶつぶつ喋りながら、これから起こることを予想して策を組み立てる。
 その小一郎に、藤吉郎が、
「小一郎、侍はどうじゃー。百姓より面白いだろう」
 と、思い出したように聞いてきた。
「まだよう分からん。ここに来てしたのは大工の棟梁たちに酒を注いで回っただけじゃから」
 ところが、この小一郎はものの本筋が見える男だった。
 少したった頃、藤吉郎の給地、加納馬場村は生駒屋敷のある小折村の隣にあったから、この村の年貢を生駒八右衛門が取り立てて藤吉郎に届けていた。この年貢を鐚銭で持ってきたとき、小一郎は、年貢は公用であるから正銭(当時は永禄銭)で納めるように要求した。この頃、鐚銭と正銭とでは五倍から十倍もの差があった。
「次ぎの相手は、美濃の斉藤家か」
 小一郎が聞いた。
「美濃の斎藤義龍は、難敵じゃ」
「いくら手強くても、どこかに弱点はある」
 藤吉郎は先入観をもたない。いろんな角度から、可能性を探す。

 永禄四年五月十一日、信長が怖れていた斎藤義龍が三十五歳の若さで急死した。
 その日に、妻と二人の子供も同じ病状で死んだ。
 病状から、毒殺の噂が立ったが、下手人は分からなかった。
 義龍の跡目を継いだのは、十四歳の虎福丸(龍興)だった。
 信長は、美濃の動揺を狙って陣立てを発すると、西の津島から木曽川を越えて美濃に攻め込んだ。防ぐ美濃勢も、信長の攻撃を予想して陣立てをしていた。
 織田軍と斎藤軍は、長良川の西岸にある森部で激突した。
 この合戦は、攻めに出た織田軍の勝利に終った。
 しかし織田軍は、そこから先には進めなかった。
 信長は、稲葉山城を攻める足場を美濃国内に求めた。可能性があるとすれば、藤吉郎が指摘した墨俣だった。墨俣は、尾張から不破の関を通って京に向かう要所であるが、当時は、墨俣で木曽川と長良川が合流して尾張湾に流れていた。  
 中洲の湿地帯で、ここから稲葉山城まで僅か三里しかなかった。
 信長は交通の要衝墨俣に砦を築いて、西美濃への浸入路にするつもりだった。
 一方の斎藤方も、墨俣に砦を作られると、稲葉山城の喉下に刃を突きつけられたことになる。断固阻止したい斎藤勢は、織田軍を攻撃した。
 五月二十三日、両軍は墨俣の北、十四条で再び戦火を交えた。
 猛将の牧村牛介に率いられた斎藤軍は、織田軍に打ち勝ち、織田軍の織田信益が戦死する。この合戦で生駒家の当主で、藤吉郎と早足が世話になった生駒八右衛門も負傷した。
 この後も、美濃国内で一進一退の攻防が繰り返されたが、織田軍は芳しい成果も挙げられず、戦線は膠着したままだった。
 突破口を見つけたい信長は、絵図から目を離すと太田又助を呼び出した。
「猿は、塀の普請で威張っているか」
 信長は、猿が三日で塀を完成させたことで有頂天になっていると思っていた。
 その猿の戯言を聞いてみたかった。
「それが、清洲城は捨てるべきだとかー」
 意外な答えが返ってきた。
「なにー、この清洲城を捨てるだとー」
 信長の声が、険のある声に変わった。
「猿は、普段から、ぶつぶつ独り言を呟いておりますからー」
 又助が、慌てていい訳をすると、信長は追いかける。
「清洲城を捨てて、どこへ行くと言うのか」
「もっと北で、美濃に近いところとかー」
 信長も、美濃攻めの敗因は距離だと考えていた。
 美濃に攻め込むには清洲は遠い。戦力に大きな差があるのなら遠征できるが、均衡した戦力では、距離のある方が補給するにも不利だ。尾張は街道よりも河川が血管のように張り巡らされていて、軍隊の移動には難儀な土地だった。
 信長は行き詰まった西からの侵入を諦めると、東から美濃への浸入口を探した。
東は小久地三千貫の不満から、敵に回った犬山城がある。
 信長に反感を抱いた犬山城の織田信清は、美濃の斎藤龍興と手を結んだ。犬山城の横を流れる木曽川を渡ると、斎藤方の猛将大沢次郎左衛門の鵜沼城がある。そして川筋には伊木城、猿啄城、堂洞城、加冶田城らが連携して織田軍の侵略に備えていた。
 西美濃からの侵攻が失敗したままでいると、
(織田も大したことがないわー)
 この噂は避けなければならない。それには、
(―――勝ち戦が欲しい)
 どんな戦であろうと、敵に勝つと勢いがつく。
 信長は、敵の弱点を探した。
(犬山城は陸続きで、攻めやすい)
 決断した信長は行動に移す。
 犬山城攻めである。
 犬山城の織田信清も、信長が必ず攻めてくると思い対策を練っていた。信清は、犬山城の前衛にあった小口城を補強して、目代の中島左衛門を入れて待ち構えていた。
 この中島左衛門は、信長が信清と組んで岩倉城を攻めたとき、信清と供に一族を出馬させ信長に加勢した。その結果、岩倉に勝ったのにもかかわらず、小久地領は返らなかった。
 ただ働きに終ったことから、信長に敵意を燃やしていた。
 信長は、その小口城から攻撃した。
 守備兵三百人の小さな城であったが、四方の掘割が二重になった上に、土塁を巡らせた強固な城だった。前方にあった砦の申丸を息子の豊後に守らせていた上に、信長に攻め滅ぼされた岩倉城の残党が駆け込んで、信長に刃向かった。
 敵の溢れる血気を感じた信長は、丹羽長秀を使者に立て和議を申し入れた。
 しかし、戦意が高揚している中島親子は、
「ふんー」とあしらうと、
「和議に応じたら、小久地三千領を返してくれるのかー」
 信長には、はっきり言わないとー。
 和議の失敗を聞いた信長は、近習と、生駒八右衛門の配下を引き連れただけで、申丸砦に襲いかかった。
 早足から、小口城の情報を得ていた藤吉郎は、足軽と小一郎を急きたてると、信長の後を追いかけた。
城攻めは勢いである。恐さを振り払うには、がむしゃらに攻めることだ。
藤吉郎は、蜂須賀小六から、
「恐くても相手の目を見ろ」
と何回も教わっていたから、家来たちにもそう指示していた。
 恐いのは相手も同じだ。やられるのは、恐さを克服できず下を向いていた者が多かった。
 小一郎は、藤吉郎の後からついていった。
 驚いたのは、小男の藤吉郎がどうどうと槍を遣って、武者働きをしていたことだった。
「相手の顔を狙え」
 組頭は、自分が活躍することよりも、配下の足軽を奮い立たせ戦力にすることが一番の務めだった。小一郎は兄の働きをつぶさに見ることで、初陣にも関わらず落ち着いていた。同時に一人熱くなることより、戦況を把握する大切さを学んでいた。
 織田軍は、徐々に駆けつけた人数で小口城を何重にも囲んだが、小口城は陥落しなかった。
 一時は、小姓の先駆けで物構えを打ち破ったが、そこで可愛がっていた小姓の岩室長門守を死なせ、撃退された。
 その後も、執拗に攻めたが、落城させることは出来なかった。
 信長は、じっくりと戦況を見つめ直していた。
(―――どこかに無理がある)
 斎藤家は、幼い龍興を老臣が輪になって守っている。その美濃を攻めるには、やはり清洲からでは遠かった。
 信長は真剣に清洲を捨て、北に美濃攻略の拠点を移そうと考えた。だが、何処に移したら良いのか分からなかった。
 以前、太田又助が言ったことを思い出すと、
「猿、清洲は美濃攻めには不向きか」
「北に、拠点を移動させるべきだと愚考しております」
猿は、他の者より素直に無理を見抜くことができる。
「どこに移すのじゃ」
「春日部の小牧山でございます」
小牧山は清洲城から三里北に在るが、稲葉山城のような要害な山ではない。
「そんな山に、城を移すのか」
 信長は、北に拠点を移すことに異論はなかったが、小牧山には不服だった。どうせ移すのなら険峻な山で、美濃の稲葉山に匹敵する城を望んでいた。
藤吉郎は、その先を考えていた。
「小牧山は、美濃を攻略するまでの城でございます」
「なにー」
「美濃を制圧すると、稲葉山を本拠地にするのです」
 この答えに、信長が唸った。
 一所懸命は先祖代々の土地を守り続けることが、一族最大の使命であり責務だった。
 その執着ある土地を、簡単に捨てろと言う。 
「小牧は分かった。猿、木曽川筋の豪族どもを調略せいー」
 信長は、美濃侵出には、木曽川の攻略が欠かせないと考えていた。その木曽川七筋は、川賊とも野伏とも呼ばれる川並衆が支配している。
 一筋縄ではいかない連中だ。この任務は足軽の組頭には重すぎるのだが、小柄な男の、枠のない能力に期待する気持があった。。
 信長は、手詰まりの局面を打破して、少しでも駒を進めたかった。

長屋に帰った藤吉郎に、
「何が、あった」
 小一郎が、早足よりも先に聞いた。
「猿、今度も頸が切られるのか」
 ねねは面白がって聞いた。
「木曽川筋の、調略じゃ」
「斉藤義龍が死ぬと、美濃が手に入ると想ったがー」
 藤吉郎も早足も、信長と同じように考えていた。
「敵は、密に連携していておる」
「分かっている」
「小口城の後ろに犬山があるし、川の向こうには伊木城に伊木清兵衛、鵜沼城には東美濃の虎とも狼とも呼ばれている大沢次郎左衛門、猿啄城には多治見修理、加治田城には岸勘解由衛門と並んでいる」
 早足は、敵を数えている。
「猿は、何一つ知らなかったのに、塀の普請が出来たからー。今度も大丈夫じゃ」
 ねねは、藤吉郎よりも楽天的な性格をしている。
「堀の普請は棟梁たちのやる気で、たまたまうまくいっただけではないかー」
 塀は抵抗しないが、人間は、命懸けで逆らい反撃する。
 話を一つ間違えば確実に殺される。
「木曽川は蜂須賀さまが取り仕切っておる。蜂須賀さまに頼るしか策がないわ」
 決断すると、すぐ行動するのは信長に似ていた。
 藤吉郎は、早足と小一郎を連れて、蜂須賀小六に会いに行った。

 一方、蜂須賀小六も猿が来るのを愉しみに待っていた。
(―――本当に侍大将になるのか)
 気になっていた。
 猿は侍大将への道を着実に歩いていた。それも、人の数倍の速さで・・・。
「猿と狸に、馬が加わったかー」
「弟の小一郎でな、家来になった」
 小一郎は頭を下げながら、侍でも商人でもない男が放つ、得体の知れぬ迫力に押された。
 男は、小一郎から藤吉郎に目を移すと、
「猿、清洲城の塀の普請は見事だったな」
 小六の情報力は、機密性の高い城中にまで根を広げていた。
「あれはまぐれ、まぐれじゃあ」
 藤吉郎が大袈裟に手を振って言うと、
「しかし、完成しなかったら頸がなかった」
 小六が、頸に手を当てて言った。
「今日は、力を借りにきた」  
「またか、今度は何を引受けてきたのじゃー」
 小六はでしゃばりの猿が、また何かをやらかしたと思った。
 小六の目を読んだ、藤吉郎は、
「でしゃばってはおらん。信長さまから命じられたのだ」
 威張って言うのが面白いー。
 やはり、この猿は不思議な男だ。織田家に仕えて日も浅い。家の格式もない。その浮浪者上がりの男に、猜疑心の塊のような信長が、次々と仕事を与える。
 小六は、信長をよく知っている。人を信じないことも、簡単に人を殺すこともー。
 だから、蜂須賀小六と前野小右衛門は、織田信長には仕官しない。
 これは信長のほうも、小六たちのように利に聡く、金で仕事を請け負う傭兵集団は不安で使えない。双方の考えが、尽くせば尽くすだけすれ違う。
「木曽川筋の、豪族を調略したい」
「銭は、いくらだす」
「そんな銭はない」
 大きな任務を与えられても、実禄は十人の足軽組頭だ。
「命を懸けるだけの銭がなければ、誰も転ばんわー」
 小六の言うことが正解である。
が、藤吉郎も引き下がることはできない。
「今は、ないと、言うている」
 弱みは見せられないから、胸を張って言った。
「期限はー」
 小六の目が、真剣になっていた。
「美濃を手に入れるまで」
 この無責任な返答に、蜂須賀小六が呆れた。
 織田軍は桶狭間で今川義元を討ち取ったすぐ後から、美濃侵略を繰り返している。
 勢いのある織田軍が、三年立っても木曽川すら越えていない。
 藤吉郎も無茶を言っていることを知っていたが、言うしかなかった。
「来年あたりにー」
「来年が、どうした」
「清洲から小牧山に城を移すから、美濃攻めが一気に捗るはずだ」
 早足は、何度も藤吉郎の直談判を見ているが、初めて見る小一郎には驚きの連続だった。
 なによりも、兄の詐欺まがいの度胸にびっくりした。
「なに、清洲の城を、小牧山に移すだとー」
 この話は小六の情報網にもかかっていない。
 小牧山に織田軍の城が出来ると、犬山城の織田信清が慌てる。
「うーん」
 この小牧築城は、膠着状態の戦況を打破する布石になる気がした。
「誰の策じゃ」
 譜代の家来衆には、本城を移転させる発想はない。
「わしの考えじゃ」
「お前かー」
「あとは信長さまがどう決断するかだ」
 小六は、信長は小牧山に築城すると想った。
 そして、この猿男の発想の豊かさを改めて知らされると、前に進むことしか知らない男の夢に、早足や小一郎と同じように、乗りたくなっている己に気がついた。

 永禄六年、年が明けると、信長は小牧山城の普請を発表した。
 造作奉行は丹羽長秀が任命された。小牧山は駒来山と呼ばれ高さは五十間ほどだったが、周辺に高い山がなかったので四方を見渡すことができた。これは平野にあった清洲城とは大きく異なっていた。生えていた大木や竹薮を切り開いて山上を均した。
 小牧山城の普請と作事は突貫工事でおこなわれ、九十日で完成した。
 信長は城の機能を充実させ、山麓に侍屋敷や足軽長屋を作った。さらに馬好きの信長は、五十間もある厩を作り駿馬を集めた。城には楼を設け、その楼閣からは尾張はもちろんのこと、美濃から三河まで眺めることができた。
 攻略に苦心している小口城が、目の前で震えていた。



     四  川 並 衆

 小牧山城の出現に慌てたのは犬山城の織田信清よりも、小口城の中島左衛門と豊後の親子だった。先日、織田の大軍を撃退していたが、平野を睥睨する敵の城が目の前に現れると、日常茶飯事、小牧山城から睨まれているようで精神的に追い詰められた。
 中島親子の心境が分かっていても、信長は急がなかった。
 一つは、ここ数年の戦乱で土蔵の兵糧米が空になっていたからである。そこへ小牧山城の普請と作事は、尾張の住民にとって迷惑だった。
 戦闘的な性格の信長も、これ以上住民に負担を背負わすことは憚られた。
 一つは藤吉郎に、斉藤方の加担している、木曽川の豪族を調略するように命じていたからである。
 清洲城の塀普請と、小牧山城の献策は見事だった。
 小牧山城の楼閣に登って分かったことだが、清洲城からたった四里足らず美濃に前進しただけで、相手に与える脅威が格段に大きくなった。
 美濃攻略には、欠かせない近道だったことが一目で理解できた。

 永禄六年六月、藤吉郎と小一郎は、木曽川の中洲にある松倉城に向かっていた。
「小一郎、ええもんじゃろう」
 藤吉郎は馬の背中から、木曽川を見下ろしながら言った。
 小一郎も、馬に乗っていた。
 最初は馬が恐かった。しかし、この動物はよく人間を見ていた。
 小一郎が優しく、
「頼む、乗せてくれ」
 頭を下げると、分かったのか暴れなかった。
「兄者、直接、小口城の中島親子を口説いた方が早いのではないのか」
「いやいや、もっと大きな近道がある」
 藤吉郎はずっと先を見ている。
 永禄年間の木曽川は、現在の木曽川よりも北を流れていた。各務原市の三井山から西に向かい、岐南町役場の北を蛇行して長良川に合流していた。川幅が広いところでは、今の木曽川の五倍ぐらいあって、その中に河田島、柳島、牛子島、草井島、笠田島、鹿子島、小網島などが島になって散在していた。
 その島の一つに、蜂須賀小六の仲間である、坪内一党が本拠とする松倉島があった。
 藤吉郎は、小六と前野小右衛門を通じて、坪内又五郎を紹介してもらおうと考えていた。
 坪内家の元は、加賀国富樫家の藤原藤左衛門頼定である。頼定は尾張国に来て、犬山城主織田信康に仕えた。その後、葉栗郡野武の坪内家を継いで坪内と名乗るようになった。
 それから時代が流れ、坪内又五郎が四代目を継いで、松倉城と呼ばれるほど大きく頑丈な屋敷に住んでいた。
「猿、少しは侍らしくなったな」
 久し振りに会った、前野小右衛門が笑いもせずに言った。
「侍らしく見えるかー」
 藤吉郎が素直に喜ぶと、
「なかなかの活躍と、小六から聞いている」
 小右衛門も、猿男の将来を期待するようになっていた。
 小一郎は、まだ兄の藤吉郎が分からない。
 どこへでも平気で出かけて行くが、会うのは素性の分からぬ野伏せみたいな男たちばかりだ。
「服装が侍らしくなっても、その汚れた猿顔は変わらんな」
 やっと小右衛門が笑った。
「坪内又五郎じゃ」
 横から、初老の男が口を挟んだ。
 顔は温和な表情を浮かべていたが、目は相手を値踏みするように見ていた。
 藤吉郎は、この目が嫌いだった。
 放浪していたとき、ずっとこの目で見られた。人を値踏みしてどうなる。言葉を換えれば利用価値があるかないかで量っている。この人種は、自分だけが相手を見ていると思っているが、反対に、相手からも見られているとは考えない。
「この二人が、黒田城にいた和田新助と八郎の兄弟じゃ」
 緊張しているのか、表情の硬い二人の男を紹介された。
「有難い。これで小口城の中島親子が調略できる」
 中島左衛門と和田新助は、共に犬山城織田家の家老を勤めていた。
 信長に敵対している犬山の織田信清は、数年前、城の前衛にある黒田城に和田新助を入れ、小口城に中島左衛門を配置していた。同職はお互いに主張することがあってよく権力争いをするのだが、中島左衛門と和田新助は、実の兄弟のように仲が良かった。
 信長と信清が争いを始めると、最前線にある黒田城は織田信長に攻められ、間一髪で逃げた新助と八郎は、松倉の坪内又五郎に世話になっていた。
 藤吉郎は、織田信長が小牧山城から無言の圧力を加えたことで、中島親子が追いつめられた心理状態になっていると読んだ。
 早足に、中島親子を探らせると、和田新助に行きついた。
 その和田新助に、藤吉郎が目をつけた。
 人と人の縁は、血よりも濃いときがある。中島親子は追い詰められていても、信長には首を横に振って意地を通すが、和田新助の説得には応じる。と考えた。
 藤吉郎が和田新助を、小牧山城の信長のところに連れて行こうとすると、
「なぜ、おまえが、直接小口城に乗り込まないのだ」
 小六も、小一郎と同じことを聞いた。
 侍大将になりたいのなら、少しでも多く手柄をたて、扶持と家来を増やす必要がある。
「小口城攻めは、丹羽長秀さまの担当じゃー」
 藤吉郎が、すまして言うと、
(でしゃばり猿が、いまさらなにを言うかー)
 小六は、口先まで出ていた言葉を飲み込んで、猿を見た。
 猿が、大人しく引いている訳がない。
「何を、企てているのだー」
 それは、後ろにいる小一郎も知りたかった。
「今回の信長さまの作戦は、東美濃を制圧することだ」
「・・・・・」
「小口城を陥してから犬山を攻めるのも良いが、東美濃一番の難関は、鵜沼城の大沢次郎左衛門だ」
「東美濃の虎かー」
「その手強い虎が鵜沼にいる限り、犬山を陥落させても木曽川は越せん」
「大沢の鵜沼城は小さいが、岩盤だらけで簡単には落ちんぞ」
「わしは犬山の攻撃に合わせて、鵜沼の大沢次郎左衛門を調略する」
 この作戦に、坪内又五郎が驚いた。
「ばかなー、大沢次郎左衛門は、調略には乗らん」
「なかなかの人物と聞いている」
「それにな、次郎左衛門はな、なによりも義を重んじるー」
「面白いではないか」
 すぐに転ぶ男の方が、危険だ。
「無駄じゃー」
「会ってみないと、分からん」
「犬山の信清よりも、難儀な相手だぞ」
 小六も小右衛門も、又五郎と同じ考えだったが、それだけに、二人は藤吉郎がどうするか、大いに興味があった。
 事実、織田軍は、何度も大沢次郎左衛門に痛い目に合わされていた。
 犬山の信清がしぶとく信長に反抗するのも、対岸に大沢次郎左衛門と主永の親子がいたからだ。
「しかし大沢次郎左衛門を落とさな限り、東美濃には入れんー」
 猿が言うように、鵜沼の大沢が落ちたら、東美濃の突っ張り棒が外れる。
 前野小右衛門は、小六から、猿が織田家中で活躍していることを聞いていた。ツテも特技も家の格式もない男が、どうして躍進したのか、
(サル顔に似合わず、おもしろい男だ)

 藤吉郎は、和田新助と八郎の兄弟を、織田信長のいる小牧山城に連れて行った。
 敵の一角に楔が打ち込めると聞いた信長は、新助と八郎を丹羽長秀に託した。
 城攻めに足踏みしていた長秀は、和田新助を小口城に送った。
 追い詰められて焦り始めていた中島親子は、元同僚だった新助の説得に応じ城を明け渡した。
 攻略に苦渋していた小口城が手に入ると、信長は、中島左衛門に関の銘刀一腰を授けた。
 犬山城も、前衛にあった小口城が織田軍の手に落ちると、後は時間の問題だった。
凍り付いていた織田信長の東美濃進出が、春の日差しを浴びたように一気に溶け出した。
 信長は、配下の武将を小牧山城に集めると、小口城懾伏の恩賞を発表した。
「一番は五郎左じゃ、依って小久地三千貫を与える」
「有難うございます」
 丹羽五郎左衛門長秀は、平伏して礼を言った。
「二番は猿、おまえじゃ」
「有難うございます」
 藤吉郎も、同じように平伏して礼を言う。
「和田新助と八郎に目をつけたのは見事だ。依って槍組百人の組頭に任命する」
 ここからが違った。
「有難うございます。しかし、槍組組頭はお返ししとうございます」
「なにー」
 信長の顔が、強張る。
「どうか槍組ではなく、鉄砲組百人を預かりたいと思います」
 意外な答えに、
「槍組では不服かー」
「藤吉郎は、今、鉄砲を学んでおります」
 蜂須賀小六のところで、種子島を一回撃っただけだったがー。
「そうか、猿は鉄砲で戯れておったかー」
 信長は武芸が好きだった。武器を色々試した結果、これからの合戦は鉄砲が主役になると考えていた。同じように考える、猿の意見は的を射たものだった。
「分かった。猿に鉄砲組百人を任す。精進せい」
 信長の決断は早かったが、周りで聞いていた織田家の重臣たちは、猿の厚かましさに呆れた。反面、信長に堂々とものが言える猿を妬んだ。
 どうであれ藤吉郎は、信長に異議を唱えるだけでなく、ちゃっかりと鉄砲組百人を預かる扶持五十貫になった。

 藤吉郎は再度、小一郎を伴って松倉を訪れた。
 手元には、集められるだけ集めた酒があった。
 小口城の中島親子調略の礼を言うためだった。
 この猿の行為に、蜂須賀小六と前野小右衛門が感激した。
 ―――坪内党を紹介した顔が立つ。
 それに猿は、今度の活躍で鉄砲組百人の組頭に躍進する大出世である。
 酒は、川並衆に大歓迎された。
 その宴の途中、藤吉郎は立ち上がると、
「聞いてくれ。今日来たのは、先日の礼だけではないー」
 藤吉郎の大声は、いつも、みんなの動きを止める。
「わしが百人の組頭になれたのも、ここにいる川並衆のおかげじゃ」
「おお、分かっておるではないか」
「あぁ分かっている」
 川並衆の力は、木曽川だけでなく、尾張にも美濃にも浸透している。
「そのうち侍大将になって、どばっと木曾川の水ぐらい酒を持ってくるからなぁー」
「またまた、猿の大法螺が始まったぞ」
 一人が、愉快そうに反応すると、
「猿、いつになったら侍大将になって、わしらを家来にするのじゃー」
「そうじゃ、わしらをいつまで待たすのか。早くせい」
「腰が立たんようになってからでは、役に立たんわ」
 稲田大炊助や、日比野六太夫、青山新七、梶田隼人たちは放浪中の猿を知っているから、気軽に喋り囃し立てる。
「そう煽るな。わしが千人の侍大将になるのは、もう少し待ってくれ。ところでみんなー」
「どうしたー」
「織田信長さまに仕官せんか。悪い話ではないぞ」
 信長の名前がでると、急に静かになった。
「信長さまが、川並衆を直接雇っても良いと言ったのじゃ。せっかくの機会なのだから、みんなが、織田家に仕官することを勧めにきた」
「・・・・・」
 今までと、話の進み方が違った。
「みんなも織田家の威勢を、肌で感じているはずだ」
「・・・・・」
「わしについて小牧山城に行こうではないか。この先、京に軍馬を進めるのは織田信長さまだけじゃあ」
「そうかも知れん」
 小六も、信長が、他の武将とは、発想力も統率力も違うことに気が付いている。
「だったら、早い方がよいー」
「まて、その前に。猿は、昔、おまえはわしらを家来にすると大口を叩いたな」
 猿に、小六が噛みついてきた。
「それは昔の戯言ではないか。くだらん意地を捨てて、織田信長さまに仕官せいー」
 川並衆の能力なら、織田家の中でも十分活躍できる。
 藤吉郎は、双方にとって良い話だと考えて、勧めたのだがー。
「わしらは、おまえとの約束を忘れておらん」
 小右衛門までが、恐い顔で言った。
「いいか、野伏せは何年立っても野伏せのままじゃが、織田家に仕官すると、この儂でも六年で五十貫の扶持が貰えるようになったではないか」
「信長は、わしらとは違う人種じゃ」
「何が言いたい。信長さまは数年先を見て、対策を煉っておられるお方だぞ」
「信長は、桶狭間の合戦のとき、鷲津砦と丸根砦に籠もった佐久間大学たちを見捨た。それだけではない。今川軍の前線攻めでは、佐々隼人以下三百人が捨て駒にされた」
「それは上に立つ者の務めではないか。上に立つ者は全体の勝利を考える」
 当然、悪い面も現れる。
「勝つためとはいえ、平気で家来を捨てる。そんな人間を大将と崇めることはできん」
「国と国が争えば、当然犠牲はでる。合戦は所詮殺し合いで、殺さなければ殺されるのだ。確かに鷲津と丸根砦の家来は皆殺しになったが、そのお蔭で織田軍は十倍の今川軍に勝った」
「使い捨てにされた者は、浮かばれん」
「もっと大きな目でみいー」
「大きな目だとー」
 みんなが猿と、小六の話に、全神経を注いでいる。
「もし織田軍が負けていたら、少なくとも二千人は死んで、尾張は今川軍に蹂躙されていた」
「それが、当然の犠牲だと言うのかー」
「それを考えれば千人は死んだが、千人は死なずにすんだ」
 藤吉郎は、小六を睨むと、
「それに勝ったから、東からの脅威が消え、国境の膨大な今川領が手に入ったではないか」
 小一郎は、いつの間に、兄が理論整然と喋るようになっていたのか、知らなかった。
 小六も、猿の意見の方が理に適っていると思った。
 猿の才覚は、我々とはどこかが違うがー、
「わしらも織田信長が、街道に並ぶものがいない闘将だと知っている」
「知っていたら、くそ意地を捨てて、信長さまの家来になれー」
 藤吉郎が強く迫ると、逆に小六は冷静に受けた。
「同時に、気性が雷電だということもな」
「何が、言いたい」
「これでは安心して奉公できん。長年命懸けで尽くしても、たった一つの小さなしくじりや、そのときの気分で頸が飛ぶわ」
 今度は、藤吉郎が黙った。
「川並衆には川並衆の掟と、人を選ぶ物差しがある。信長と我等とは根から肌が合わん」
 人間の価値観は、人それぞれだ。
 何度も合戦を行ってきた信長は、川並衆が持つ情報網と物資の運搬能力に注目して、機会があると生駒八右衛門を通じて誘ったが、義を重んじる川並衆が応じなかった。
「信長さまは尾張の完全支配を目指している。従わない者は徹底して攻め滅ぼすぞ」
「その覚悟はしている。だが、信長に仕官するのが最善の方法ではない」
 また小六が、屁理屈を捏ねた。
「この尾張で、信長さま以外誰に仕官するのだ」
 藤吉郎が嗜めると、
「猿、おまえじゃ」
「話の、腰を折るなー」
 藤吉郎は、この大事なときに冗談を言う小六を睨んだ。
「今は冗談を言っている場合ではない。川並衆が生きるか死ぬかの話をしているのにー」
「わしも、浮いた考えでも、冗談で言っているのではない」
 二人の言い争いを、前野小右衛門はじめ、稲田大炊介、日比野六太夫、青山新七、梶田隼人、長井半之丞、河口久助たちが恐い顔をして聞いていた。
「よいかー、この先、蜂須賀家や前野家は生き残れなくなるのだぞー」
 藤吉郎は、声を枯らして言った。
「わし等もいつかは仕官する。猿、おまえなら仕官してもよい」
 小六の言っていることが理解できない。
 信長は、いまや尾張一国五十万石の領主である。その信長の誘いを蹴って、やっと鉄砲足軽百人の組頭になったばかりの男の、家来になる酔狂な男がいるとは思えない。それも早足のように一人者ではない。蜂須賀小六は、木曽川筋の荒くれ者を束ねる大親分だ。
「猿、おまえの頭は柔らかい」
「可笑しな田舎物差しを、持っているわ」
「そうかも知れん」
「それとも、お前の頭が、狂っているのかー」
「かもなー」
 小六は苦笑いすると、
「先日と今日の酒にしても、おまえには義と情がある」
「世話になったら、当然じゃわ」
「わしら川筋に生きる人間は、その義と情を重んじる」
 いつも嗜めていた小六が、藤吉郎を褒めた。
「信長は剛毅だが、攻め一本の男だ」
 この時代は、攻めて攻めることで生き残れた。
「攻めだけの人間はどこかで必ず失敗する。わしも多くの人間を見てきたが、猿ほど万時において、緩慢穏当に対処できる男はいない」

(小六の予言通り、数年後、信長は本能寺で家来の明智光秀に殺された)

「もし、物差しが狂っていなければ、飲み過ぎたのか・・・・・」
「黙って聞け。おまえは、今は百人の組頭かも知れんが、百人は千人に繋がる」
 小六の目が、真剣だった。
「何年かかる」
「案外、早いかもな」
 横から、小右衛門が口を入れた。
「十年、少なくとも十年はかかるのだぞ」
「それでも、おまえには大きな夢がある」
 野伏せの親玉である蜂須賀小六が、子供のように目を輝かして言った。
「―――かってにせい」
 藤吉郎は、匙を投げた。
 そのうち、あほらしくなって諦める。
「ああ、勝手にする」
 小六も、すぐに投げ返した。
 言い争いがひとまず終ると、当面の障害である東美濃攻めを優先させた。
 藤吉郎と小一郎は、蜂須賀小六、前野小右衛門に松倉党を加え、作戦を具体的に練りあげていった。
 斎藤龍興の稲葉山城は、美濃の東西に防衛線を張っている。
 西美濃には、三人衆と呼ばれる大垣城の氏家ト全、曽根城に稲葉一鉄、北方城の安藤守就(もりなり)がいた。
 東美濃には、木曽川沿いに伊木城、鵜沼城、猿啄城、加治田城、堂洞城が連携して、織田軍の侵略に備えていた。それらの城を後ろから支えるように、斎藤家の重臣長井隼人の関城があった。

 その数日前、
 藤吉郎は、織田信長に東美濃攻略を献策していた。
「猿、何のようじゃー」
 信長は身分の低い藤吉郎が、何かの用につけて現れるのを半分煩わしく、半分歓迎していた。始めは清洲城の塀の修復や、小牧城の築城のこともあり、そっけなく断れなかった。
それに味をしめたのか、猿は何か思いつくことがあると、嬉しそうにやって来た。
 話を聞くと一理あったし、納得のできる話だったから、その話を取り上げなくても、ひとつの意見として聞く価値があった。それを小さな猿顔に微笑みをいっぱい浮かべて喋るから、家来に心を閉じている信長も、つい釣り込まれて聞いてしまう。
 それに猿は、引き際を心得ていた。無駄なく分かりやすく喋ると、さっと風のように去った。信長の性格を考えての行動だったが、無駄を嫌う信長には好ましいことであった。
 打たれづよい人間は、粘り強い性格から、本人も得する一面があったが、一方では打った上司も助かった。真剣に怒って、根に持たれたのでは心から怒れなくなる。常に相手の反応が気になると、本心を隠すようになり、言いたいこともいえない。そうなると真心と真心が響きあう関係にすすむことはない。今まで費やした時間が無駄になってしまう。
 信長が、藤吉郎を本気で怒れたことと、藤吉郎もその罵声にもめげず何度も顔を見せに行ったことから、二人の間に心が通うようになっていた。
「犬山城攻めでございます」
 藤吉郎は、頭を畳に擦りつけたまま答える。
「―――犬山がどうした」
「犬山攻めを機に、一気に東美濃に侵入しては如何でしょう」
 小口城を攻略した織田軍は、犬山勢の五倍の軍勢を持っている上に戦意も旺盛だった。
 このまままでは時間の浪費になる。
「なにー」
「犬山城を制圧すると、その勢いで木曽川を渡りー」
「・・・・・」
「木曽川を一気に渡り、東美濃の伊木城、鵜沼城、猿啄城、加冶田城を攻めるのです」
 犬山までは陸続きであるが、その後ろに、暴れ川と呼ばれた木曽川の急流が渦を巻いていた。少数の兵隊なら手際良く渡ることが出来ても、大軍を渡河させるのは一大事である。
 まして、対岸には斎藤勢の城が犇いている。
「あほうも、休みやすみに言え」
 信長は、何度も木曽川で反撃されて失敗している。
「対岸では敵が鉄砲を構え、弓を絞って待ち構えている中を、五千の軍勢をどうして渡らすのじゃー」
 渡河作戦は、川の中にいるときに襲撃されると、陣を乱し統制が取れなくなる。一部が急いで対岸に辿り着いても、後続部隊が続いて上陸しないと、孤立して討ち取られてしまう。
「船を並べて、橋をかけます」
「たわけー、船橋など、何度も組んだわー」
 対岸にある敵の城を攻略して拠点を確保しない限り、船橋をかけることも渡ることもできない。
「犬山周辺で船橋が架けられるのは、伊木山の下にある浅瀬のみです」
「伊木城はどうする」
「犬山攻めに合わせ、伊木城の伊木清兵衛を調略します」
 信長の目は凍っていたが、耳が聞いていた。
「犬山を攻撃した軍勢をそのまま船橋に向かわせ、一気呵成に東美濃に侵入させて下さい」
「・・・・・」
 藤吉郎は、自信満々に続けた。
「東美濃に侵入すれば、要害の鵜沼城も小さな岩城にすぎません」
 岩崖に守られている鵜沼城は、絶壁のある木曽川から攻めるのは不可能だったが、裏から包囲して、北にある関城の長井隼人との連絡を絶てば孤立する。
「分かった。任せる」
 それで十分だった。失敗しても死ぬのは猿だ。

 藤吉郎は、鵜沼城と伊木城を比べた。
 犬山城の対岸にある二つの城は、僅か一里足らずで並んでいた。二城あるから連携して立ちはだかるが、一城落とせば残った城は孤立する。
 藤吉郎は伊木城を威嚇して、戦わずに味方に引き入れる作戦を練上げた。
 作戦会議が終ると、もう夜だった。
 その夜、藤吉郎と小一郎は松倉城に泊まった。
 二人が寝ようとすると、なにやら騒がしい声がする。
 博打だった。川並衆二十人ほどが、車座になって博打をしていた。
 藤吉郎の体が一歩前に出ると、
「おい、博打ならわしにもやらせてくれ」
 藤吉郎は、諸国を流離っていたとき、何度かやったことがあった。
「兄者、止めろ」
 小一郎が慌てて止めるが、藤吉郎の目はサイコロしか見ていなかった。
「おおー、猿がやるのかー」
「猿、銭を持っているのならやれー」
 何人かが、喜んで誘った。
「銭ならあるぞ」
 藤吉郎は、坪内党の調略に用意していた十貫文持っていた。
「なら、男の勝負じゃー」
 青山新七が、いままで見せたことのない笑顔で誘いをかけた。
「おうー」
 その誘いに、勇んで乗った。 
 この頃流行った博打は「チョボ一」とか、「大目小目」「一転がし」など、何処ででも出来る簡単なものが多かった。
 チョボ一は紙に一から六までの数字を書いて、自分がこれと思う数字に賭ける。そしてサイコロを三寸三分に切った竹の筒に入れて振る。出た数字の者が勝つ単純なもので、紙がないときは地面に書いた。勝った者は四人分貰い、後の一つは胴元か筒を振った者が頂いた。勝った者が四人から頂くので、
「一分が四分じゃー」と言って、勢いよく賭けていた。
 大目小目は、大きい目の四、五、六に賭けるか、小さい目の一、二、三に賭けるかで、勝負が決った。一転がしは、一の目が出た者が賭けた銭を取った。
 今夜、川並衆が開いていたのはチョボ一だった。
 藤吉郎は、一から六までの数字が書かれている罫紙の前に座ると、
「まずは、一番の一じゃ」
 藤吉郎が加わると、場が一気に盛り上がった。
 顔は猿そっくりでも、れっきとした織田軍鉄砲足軽百人の組頭である。やくざの団体の中に一流会社の管理職が混じって、同じ悪さをするのだから、荒くれ者たちは歓迎した。そのエリート管理職が弱いと更に盛り上がる。そのとおりで、藤吉郎には博打の才能が全くなかった。
 十貫の銭が、二貫になった。
「兄者、もう止めろ。銭がなくなる」
 小一郎が、顔を青くして止めるが、
「何を言うか。負けたままで引き下がれるかー」
 熱くなっている藤吉郎は、次ぎの目を読むことしか眼中にない。
 流れを読んで賭けた「三」も外れると、さらに残りが少なくなっていた。
「どうした猿、もう降参か」
「負けたまま、おとなしく寝るかー」
 荒くれ者たちが面白がって挑発するから、よけい頭に血が上る。
「やかましい、本気の勝負はここからじゃー」
 最後に賭けた「六」も外れると、霧が晴れるように十貫が消えていた。
 一銭もなくなると、さすがの藤吉郎も落ち込んだ。
 賭けているときは、いつか運が回ってきて取り返せると信じていたが、一銭もなくなると一気に現実に戻された。
 しかし、藤吉郎より、もっと負けた者がいた。
 桑名の甚六と、尾張の武太夫だった。
「ええい、面白くないわい」
「もうやめじゃー。帰るわ」
 大負けの二人は、足元に散らばっていた百文足らずの銭を、同じ大負けをした藤吉郎に、
「猿、これで餅でも買え」
 投げつけて行った。
 この百文足らずの銭を、小一郎が賭けた。
 小一郎は、十文ずつ賭けた。じっと場を見て賭けていった。
 半刻が過ぎる頃には、百文足らずの銭が五百文になっていたが、小一郎は冷静だった。サイコロの目に夢中にならず、その場の流れに任せていた。そして夜半には六貫になり、夜が明ける頃には、元金の十貫に戻っていた。
「小一郎、おまえは博打に強いわ」
 藤吉郎は恐縮して礼を言ったが、ある面では全く気にしていないように見えた。
「兄者は、一気に勝とうとするから無理がでる」
「元金が何倍にもなるのが、博打の面白いところではないか」
 博打は一貫が十貫になると考えても、十貫が一貫になるとは考えない。
「一貫を五貫にしょうとする。十文を十二文にすることから始めないとー」
「それは、儂の性には合わん」 
 その日以来、藤吉郎は銭の勘定を小一郎に任せ、一切口を出さなくなった。
 藤吉郎は博打の才能は無かったが、川並衆は、織田家で出世しても偉そうにしない、猿男の人間性を買った。特に蜂須賀小六は、子供みたいに夢中になって遊び、負けて悔しがる藤吉郎を父親のように見ていた。

 木下藤吉郎から、川並衆の協力を取り付けたことを聞いた信長は、
 永禄七年八月、犬山城攻めの陣触れを発した。
 出陣の準備が整うと、小牧山城から六千の軍勢を出動させた。
 川並衆と供に行動する藤吉郎は、木下組の鉄砲隊を率いて松倉に向かった。
 この頃、藤吉郎の配下には小一郎以外に、ねねの養父浅野又衛門と、兄の林孫兵衛に、姉の婿である木下源助たち身内が加わっていた。
 藤吉郎は、坪内党を交えた二百八十名を率いて木曽川を渡ると、北島口(前渡)から北の三柿野(各務野市鵜沼地区)に出て東に進み、芋ヶ瀬から巾止の竹薮を背にして陣を構えた。
 ここに陣を構えると、鵜沼城と伊木城の両方が牽制できる上に、北の関城からの援軍を阻止できた。
 蜂須賀小六と前野小右衛門たちの一隊三百人は、船で木曽川沿いに進み伊木山に向かった。
 伊木清兵衛と顔なじみの二人は、清兵衛の性格を考え、堂々と戦意を見せ付けながら面談を申し込んだ。
 清兵衛は、伊木山に鹿垣、逆茂木を張り巡らせて要塞化していたが、団結した川並衆の夜襲、火付け、脅しから、かどわかしなど、手段を選ばない戦術を知っていた。
 清兵衛は、蜂須賀小六と前野小右衛門との面談に応じた。
 二人が本気だと知ると、
「おまえたち川並衆とは争わん」
 この清兵衛の一言で調略が終った。と、言うよりも、清兵衛も、日々威勢を増す織田信長の噂に押されていた。尾張を制圧した信長に抵抗しても、いつかは負けることを悟っていたのだ。それなら、一日も早く織田軍に加わった方が良いと考えた。
「誰にも仕えんと、言っていたおまえたちがー」
 清兵衛は、二人が、織田信長の誘いすら断っていたことを知っている。
「木下藤吉郎さまじゃ」
「木下藤吉郎―」
 聞いたこともない名前だった。
 そして巾止の陣営で、その木下藤吉郎と会った。
(あの二人を、家来にした男とはー)
 その予想が大きく外れた。藤吉郎は小さな猿のようで、威圧感のない男だった。
 その男に、清兵衛が合力の口上を述べようとすると、
「木下藤吉郎でござる。いまだ無冠の一僕で、扶持は五十貫に過ぎないが、この度の清兵衛殿の忠節は生涯忘れない」
 清兵衛の手を握って、飾らずに言った。
 たった五十貫の扶持しかない者が、誰もが恐れる織田軍の一部隊を率いていることに驚いた。それ以上に、降参した者の手を握って、恩にきる男も始めてだった。
 その頃、信長は犬山城を猛攻撃していた。
 柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、瀧川一益、飯尾信宗たちが競って大手口に打ちかかると、必死に抵抗していた信清も支えきれず、山伝いに東の善師野から栗巣に逃げた。
 信長の目的は東美濃の制圧だったから、丹羽長秀に鵜沼城の北にある猿啄城の攻撃を命じた。
 
 伊木山で、犬山城の落城を確認した蜂須賀小六と前野小右衛門は、狼煙を三発打ち上げた。
 この合図を、待っていた草井長兵衛が率いる船橋組が、勢いよく船を漕ぎ出した。
 競うように川を上ると、伊木山麓の大伊木と、犬山城下の木津の間に数十艘を並べた。
 そして、手早く船の上に道板を渡すと、水で湿らせた藤つるで縛った。
 この船橋を、犬山城を陥落させた織田軍が駆けるようにして渡った。
 一気に伊木山に登った信長は、夢を見ているようだった。
 何回も、美濃領内に拠点を確保しようとして失敗していた。
 今日は、犬山城を陥落させると、同時に東美濃に橋頭保を築いた。
 丹羽長秀の東への進軍も手際が良かったが、藤吉郎の木曽川筋からの侵入も見事だった。
 この信長の電撃作戦に、鵜沼城の大沢次郎左衛門が肝を冷やした。
 犬山城は、いずれ織田軍の手に陥ちると予想していたが、織田軍が犬山城を落とすと、その日に、西にある伊木城まで制圧するとは想像もしなかった。
 西だけではない。織田軍は犬山から山越えに継鹿尾(つがお)に抜けると、木曽川沿いの細道を、栗栖に出て強引に飛騨川を渡り、鵜沼城の東にある猿啄城に猛攻撃を加えている。
 恐らく、猿啄城も持ちこたえられず陥落する。
 北の巾止にも織田軍の部隊が陣を張って、関城からの援軍を阻止している。
 このままでは、鵜沼城が東西から挟まれ、孤立無援の状態になる。
 次郎左衛門は籠城を覚悟すると、徹底抗戦して、
「死に際をみせてやる」
 反って戦意を燃やした。

 巾止の陣で藤吉郎は、織田軍が猿啄城を攻撃していることを確認すると、足軽七十人を引きつれ鵜沼城に向かった。
 鵜沼城の大手で足軽たちを残すと、一人で大手門の前に馬を進めた。
「織田家家臣の木下藤吉郎でござる。大沢次郎左衛門殿に面談を申し込む」
 藤吉郎の大声は、十分城内に聞こえているはずだが、城からの返事はない。
 この様子を、巾止の陣営で、弟の小一郎と坪内党が心配しながら見ていた。
 鵜沼城の大手にいる藤吉郎は、弓と鉄砲の恰好の的だった。
 織田軍の威圧に耐え切れなくなった、城兵の誰かが引き金を引けば、藤吉郎は死ぬ。
 藤吉郎が何度も呼びかけると、大沢次郎左衛門が馬に乗って降りてきた。その後ろに数人の兵が続いていたが、次郎左衛門は兵を大手に残すと、一人で藤吉郎の前に出てきた。
 次郎左衛門は、黙って藤吉郎を見ていたが、体中から闘志が滲み出ていた。
「わしは、織田家足軽組頭の木下藤吉郎じゃぁ」
 次郎左衛門は、聞き間違いだと思った。
 目の前の小さな男は、゛足軽組頭゛と言った。
 もし、足軽の組頭なら役不足である。
 織田家が、敵の一城主を調略するのに、足軽の組頭を寄越したのなら屈辱だ。
 次郎左衛門が黙っていると、猿顔の小男は、
「大沢次郎左衛門どのならー」
「大沢次郎左衛門だがー」
「この城は岩だらけで、攻めにくい城じゃ」
 ぐるっと城を見上げると、世間話をするように言った。
「・・・・・」
「意地を張るだけ、家来が死ぬ」
「侍は意地を通して、死ぬものだと教えられている」
 春先の風のように冷たいが、凛とした答えが返ってきた。
「そうか、それは立派な心構えだが、大沢殿はそれでよいかも知れんがー」
「・・・・・」
「己の意地で、家来まで道連れにすることはない」
 藤吉郎は、情けに弱い次郎左衛門の弱点をついた。
「家来にも大事な家族がいるし、乳の恋しい赤子もおるだろう」
「・・・・・」
「父親が死んだら、その子はどうなるー」
「戦の宿命ではないかー」
 次郎左衛門も、鵜沼城は岩だらけで簡単には攻略されないことを知っているが、所詮小さな城だ。織田の大軍に何日も包囲されたらいつかは落城する。そのときは城のほとんどの者が死んでいる。負けると分かっている戦で、多くの家臣を死なすのは忍びなかった。
「宿命ではなく、無駄死にではないか」
 次郎左衛門は、じっと猿顔の男を見た。
「一日、考えさせてくれ」
 次郎左衛門は、それだけを言うと、城に登っていった。
「分かった。一日待つ」
 藤吉郎も、答えると、馬を返した。
 藤吉郎が足軽たちを引き連れ、巾止の陣地に戻りかけたときだった。
 突然、東の山手から喊声が沸き起こると、現れた一団が藤吉郎隊に襲いかかった。
 北にある関城の長井隼人が、鵜沼城救援に送った三百人の軍勢であった。迫間山の多賀坂を越えてきた長井勢は、藤吉郎が鵜沼城から引き返すところを見つけると、猛然と攻撃してきた。
 この不意打ちに、藤吉郎は慌てた。
 必死になって抵抗しても、七十人の少数だ。藤吉郎は泥田の後ろに回って敵の攻撃を防ごうとするのだが、少人数では支えきれず、足軽の半数が討たれた。
 巾止の陣地で見ていた小一郎は、藤吉郎が窮地に陥ったことを知ると、
「兄者が危ない」
 坪内党を引き連れて陣を飛び出した。考えるより体が動いていた。無我夢中で長井勢の後方に突入した。
 不意の攻撃に長井勢が乱れた。泥田を乗り越え奮戦しているところを、後から攻撃されると、足場が悪いだけに、すぐに対応できなかった。
 混戦は一度陣形が乱れると、なかなか元に戻らない。
 長井勢は、多数の死傷者を残して逃げた。
 敵兵が消えると、藤吉郎は田の畔に座り込んだまましばらく立てなかった。肩で大きく息を吐きながら、
「ふうー、危なく死ぬところだった」
 そして、援けてくれた小一郎に、
「始めての采配とは思われん。見事じゃ」
「合戦は、百姓仕事よりもしんどいものじゃーなぁー」
 小一郎も、藤吉郎の横に座り込むと動けなかった。
 
 翌日、鵜沼城から、大沢次郎左衛門の息子の主水が巾止の陣にくると、
「父大沢次郎左衛門の命を助けるなら、開城する」と、言った。
 藤吉郎は、すぐに信長に使者を送り、大沢親子の助命を条件に鵜沼城の開城を伝えた。
 この申し出を聞いた信長は、頭を下げている使者の坪内喜太郎に、
「大沢親子は殺せ」
 冷たく命じた。
「鵜沼開城の条件は、大沢親子の助命です」
 喜太郎は、もう一度、言った。
 信長は、しつこく食い下がる喜太郎を睨みつけると、
「ならん。大沢次郎左衛門に、何人の織田兵が犠牲になったと思っている」
「しかしー」
「犬山の信清も、次郎左衛門にそそのかされて刃向かってきた。斬れ」
 信長が厳命したら、実行するしかない。
 喜太郎から、信長の命令を聞いた藤吉郎は、
゛困った゛と、一言漏らすと考え込んだ。
 鵜沼開城の条件は、藤吉郎が請け負った。
 約束は結果が全てだ。
 いくら考えても妙案が浮かばないのなら、己の命を懸けるしかない。
 藤吉郎は、坪内喜太郎に二つの指示をだした。
 ひとつは、藤吉郎が、鵜沼城に捕らわれ人質になったことで、大沢親子を殺せば藤吉郎も殺される。と、信長に伝えさせた。
 ひとつは、信長の信頼する生駒八右衛門に、事情を説明して助けを求めた。
 大沢親子と一諸に殺されるのなら、藤吉郎はそれだけの価値の人間だと思った。
 その指示を、小一郎が複雑な表情で聞いていた。
 信長は激情家であるが、冷静に判断をする。
 この信長の判断で、自分の本当の価値が分かる。
 藤吉郎は、自分が試されているとは考えず、反対に信長を試していると思うことにした。
 決断した藤吉郎は、自ら進んで鵜沼城に入ると、信長からの返事を待った。
 その藤吉郎を、大沢次郎左衛門と主水の親子は、不思議な生きもののように見ていた。
(攻撃方の大将が、自ら人質になるとは・・・・・)
 二人には考えられなかった。
 一方、喜太郎から、藤吉郎が鵜沼城の人質になったことを聞いた、生駒八右衛門は考えた。ここは八右衛門が出ていくよりも、老臣からお願いする方がよいと判断した。
 八右衛門は、佐久間信盛と林通勝に相談した。
 二人は、信長に、
「今は東美濃制圧が優先する。ここで大沢親子を殺し、鵜沼城を徹底抗戦に追い込むと、せっかく確保した東美濃の拠点が脅かされる。ここは大沢親子を藤吉郎に委ね、加冶田城、堂洞城と、長井隼人の関城の攻略を優先して考えるべきだ」
と、意見した。
 美濃を手に入れたい信長は、空を睨んで考えた。
 憎い大沢親子と、自分の手足になって働いている猿とを比べた。
「猿を、殺すことはできん」
 一言いい残すと、奥に消えた。
 信長からの吉報が鵜沼城に届くと、藤吉郎は胸を撫ぜ降ろした。
(―――助かった)
 鵜沼城から、息子の大沢主水を連れて下りてきた藤吉郎を、小一郎が怒って迎えた。
「なぜ、自ら敵の人質になる」
「命の綱渡りだったな」
 藤吉郎が、苦笑しながら答えると、
「なぜ、そこまで命を粗末にする」
 小一郎の、怒りは収まらない。
「決して粗末にはしておらん」
 藤吉郎は否定したが、小一郎は不服だった。
「ひとつ間違えば、死ぬではないか」
「間違わなくても、死ぬときは死ぬ」
「なにも、自分から人質になることはないわ」
 その言葉に藤吉郎が、珍しく厳しい顔を見せて、
「家も郎党もいないわし等は、目に見えないものほど大切に積み重ねていかなければならん」
「それはなんじゃ」
「信頼じゃー」
「信頼だと・・・・・」
「これは何回も、何度も積み重ねて初めて得られる。それになー」
「それに、なんじゃ」
 小一郎は、まだ納得できない。
「相手を信じる信じないは、相手の心が決めることだ」
 横で聞いていた大沢主水は命を助けられたせいか、藤吉郎を輝く目で見ていた。主水だけではない。坪内党に付いてきた宮後の若い源太郎も、藤吉郎を熱い目で見ていた。
 小一郎は二人の目から、藤吉郎の言っていることが、なんとなく理解できた。
 
 伊木城、猿啄城に続いて鵜沼城までが織田軍の手に渡ると、加冶田城の佐藤紀伊守は織田信長に内応した。佐藤紀伊守の降伏を機に、東美濃攻略が一気に捗った。
 念願の東美濃を制圧した織田信長は、満足する一方で、手際良く根回しをした川並衆の実力に不安を抱いた。そして、その川並衆を手足に操る、木下藤吉郎に忌々しさを感じた。
(川並衆が、猿の言うことしか聞かないのは面白くないー)
 絶対的な権力を求める信長は、川並衆の分裂を画策した。
 猿の言うことしか聞かない者は、信長の家来ではない。依って恩賞は不要である。
 東美濃進出の恩賞に、坪内又五郎一族には下野、加納、宮田等六百八十七貫文と、加納城を与えたが、蜂須賀小六や前野小右衛門等の川並衆には、びた一文の恩賞もなかった。
 この信長の処置に、川並衆に協力を依頼した藤吉郎が辛い立場に立たされた。
 命を懸けて働くのは、見返りがあるからだ。
(―――なぜじゃ)
 藤吉郎は一途に信じていた信長が分からなくなった。。
 藤吉郎と小一郎は悔しかった。
「すまん・・・・・」
 小六と小右衛門から、いつも見せる笑顔が消えていた。
 陽気にちゃかす稲田大炊助と青山新七の目には、
(―――何が侍大将になるじゃー)
 見せたことのない憎悪が浮かんでいた。
 誰にも恩賞がないのなら、川並衆も気持の整理が出来るのだが、坪内党に過大な恩賞が与えられただけに、簡単には諦められなかった。
 藤吉郎はひたすら頭を下げ、濁り酒を差し入れすることしか出来なかった。
 言葉を尽くせば尽くすほど、自分が惨めになった。 
  
 その落ち込んでいる藤吉郎に、大沢次郎左衛門が、
「藤吉郎殿、まだ西美濃が残っておりますぞ」
 次郎左衛門は、藤吉郎の人間性に惚れた。
 普通の武将だったら、自分と、倅主水の命はなかった。
(自ら、人質になるとはー)
 この男は、自分が契った約束を守るために、自分の命を懸けた。
 次郎左衛門は、剛には剛で応えるが、義には義で返したい。
「曽根城の、稲葉一鉄を紹介する」
「なに、稲葉一鉄と懇意なのか」
 奥に隠れていた、藤吉郎の細い目が開いた。
「私も一鉄も、同じ斎藤家の家臣ですぞ」
「そうだった。大沢殿と稲葉一徹は、同じ斎藤家の家臣じゃったわ。あっはは」
 先ほどまで泣いていた、藤吉郎の顔が一変した。



     五  西 美 濃 墨 俣 
 
 西美濃は木曽川の北西にあたり、現在の大垣市、神戸町、穂積町、墨俣町、北方町周辺であった。ここに西美濃三人衆と呼ばれる三人の豪族がいた。
 大垣城の氏家卜全、北方城の安藤守就に、曽根城の稲葉一鉄である。
 織田家は信長の父信秀の時代から、西美濃に侵入を繰り返しては撃退されていた。
 信長の時代になっても、木曽川から北には進出できなかった。
(この三人衆がいる限り、木曽川を越せない)
 東美濃を攻略した信長は、美濃の中央にある河野島から侵攻したことがある。この河野島を抜けると、稲葉山城へ最短距離で進める。勝ち戦の勢いで中央突破を図ったのだが、このときも斎藤軍に阻まれ、木曽川を背にして陣を張った。
 この夜、暴風雨が両軍を襲った。
 翌日、水が引くと同時に安藤守就、氏家卜全、日野根弘就を主力とした斎藤軍が、織田軍に襲いかかった。この攻撃に打ちのめされた織田軍は、木曽川に逃げ、多くの兵が溺死する大敗をした。
 なんとしても美濃を併呑して、上洛への道を確保したい。
 美濃を制する者は、天下を制するである。
 どうすれば稲葉山城を落せるのか、小牧城の楼閣から美濃を睨んで考えいた。
 稲葉山城に接近するには、西美濃の動脈である長良川を支配することだった。
 それには長良川の要衝、墨俣が鍵になる。
 六月初め、信長は、藤吉郎を呼び出した。 
「どうすれば西美濃に侵入できるのかー」
 大袈裟に頭を畳に擦り付けている、小さな男に尋ねた。
「西美濃は道よりも河川が多く、足場のよい地場は斎藤方が押さえています」
「おまえなら、どうする」
 信長は、猿男だけが持つ、独自な発想を聞きたかった。
「私なら、長良川の運航を止めます」
「そうかー、なら墨俣じゃ。猿、墨俣に砦を築け」
 
 長屋に帰った藤吉郎の渋い顔を、ねね、早足と小一郎が迎えた。
「また、恐い顔をしてー」
 ねねは、藤吉郎の沈んだ顔が嫌いだった。
「難題を、押し付けられたわ」
「どうせ、大将が安請けしたんじゃろう」
 早足が、からかうと、
「墨俣に砦を築くのじゃー」
「なに、墨俣じゃとー」
 早足の顔が凍った。早足は墨俣の重要性と、その裏に潜む危険性を知っていた。
 墨俣は、西美濃一の激戦地であった。
 織田信長は、この墨俣に、何度も砦を築こうとして失敗している。 
 最初は永禄五年、佐々成政に六百余名をつけ小さな砦を作らせたが、すぐに斎藤軍に追い払われた。
 二度目は、佐久間信盛に二千五百の兵を与えて、本格的な砦の構築を目指した。
 信盛は二十日以内に完成させると公言すると、伊勢から材木を運び込んだ。墨俣の工事現場に篝火を焚き、昼に夜をついで普請を急がせた。
 敵の要所は味方の急所でもある。斎藤龍興は牧村牛之助、長井隼人、長井飛騨守に五千の兵をつけると西美濃に送った。
 佐久間信盛が、墨俣で工事を始めて三日目の夜だった。
 闇の中、長井飛騨守が西から二千で攻撃すると、敵の夜襲を予想していた信盛は、素早く対応して撃退した。長井飛騨守勢が逃げ出すと、勝ち戦に乗った信盛は、敵に大打撃を与えようと追撃した。そこへ南から長井隼人の二千と、北から牧村牛之助の千人が襲いかかった。
 敵を追撃していた佐久間信盛勢は分断され、反対に工事現場から追い出されてしまった。運び込んだ多くの資材が取られた。
 その次は、柴田勝家だった。
 猛勇と評判高い勝家は墨俣に入ると、三千の兵を三隊に分けた。斎藤軍の襲撃に備え、西、東、北に配置すると、各部隊の千人も昼隊と夜隊に分割して、隙のないように備えた。
 これに対し斎藤軍は、柴田隊の陣配置を調べ、長井飛騨守の第一襲撃隊を、北東から向かわせた。長井隊と柴田隊が合戦を始めると、戦の体験が多い勝家は、敵を引きつけてから一斉に鉄砲を放った。
 この合戦の間に、斎藤軍の二隊が、東西から忍び寄ると、日野根禰五衛門隊が柴田隊の繋いでいた船と、筏の綱を切って流してしまった。そして西から接近していた牧村牛之助隊と、左右から挟んで攻めると、前線に集中していた柴田隊は一気に乱れた。
 最初に人夫が逃げ出したが、乗る船がないと分かると、工事現場の混乱が蜂の巣を突付いたように収拾がつかなくなった。
 全員が浮き足立って西に東に逃げ回った。
 結果は、佐久間隊と同じで、斎藤軍の組織的な攻撃にひとたまりもなかった。勝家が声を嗄らして部下を叱咤し、斎藤軍に立ち向かわせただけ犠牲者が増えた。
 織田軍の中でも、戦功者の三人が、命からがら逃げ帰った死地だ。
「墨俣の砦かー」
 珍しく、早足が考え込んだ。
「じゃー私は、新しい主人を探した方が良いのかー」
 ねねが、澄まして早足に聞くと、
「まだ死んでもいないのにー」
 藤吉郎が、目を吊り上げるとー、
「死ぬときは迷わず死んだ方が良いぞ。私もすっぱり諦められるわ」
 ねねが、諭すように言った。
「簡単に死んでたまるかー」
「ひとり残るのは嫌だから、今から新しい主人を見つけておく」
「わしは、死なんと言っておるのにー」
 藤吉郎が、つばを飛ばしていっても、
「猿に自信がないのなら、死ぬわ」
 ねねの気持ちが、よく分からないがー、
「男を見つけるのは止めろ」
 藤吉郎の苦虫を噛みつぶしたような顔が、泣き顔に変わっていた。
「本当に、死なない」
 ねねが、少し笑った。
「ああ本当に死なん。必ず砦を作ってみせる」
 今の藤吉郎にとって、ねねはやる気の根源になっていた。
 ねねのためにも、砦を造る。
 藤吉郎は立ち直ると、行動に移る。
「早足、小一郎、墨俣に行くぞ」
「今から、かー」
「三人で行って、柴田さまたちが失敗した原因を調べる」
「それはうまい考えじゃ」
「土地も知らずに、素早く砦を築くことなど出来る訳がないわ」
「当然じゃー」
 二人は、笑って応じた。
「ねね、飯じゃー。飯を食う」
 まずは腹ごしらえからだ。
「それに二、三日分の飯をにぎってくれ。一日では調べられん」
「握りは、食べている間に作るから」
 ねねの声にも、張りが戻っていた。
 四人の呼吸が一つになった。

 三人は小牧から西に向かい、境川に沿って進んだ。
 当時の墨俣は、今のように長良川の横にあったのではなく、長良川と木曽川の合流地にあった中洲だった。この中洲が両川の喉下に位置していたから、稲葉山城にとって物資の流れを止める咽喉にあたった。
 問題は、墨俣が西美濃三人衆の真中にあったことだ。
 北に北方城の安藤守就、すぐ西に大垣城の氏家卜全、西北に稲葉一鉄の曽根城がある。
 三人は、木曽川を渡って、墨俣に入った。
 湿地帯の荒地に、人間の背より高い葦草が一面に生え、大小の松が生い茂っていた。
 その中に、作りかけて中断した掘割と土塁があった。
「土塁だけではいかん」
 かんたんに乗り越えられる。
「土塁に柵がいる。丈夫な柵で食い止めんと、追い出されるぞー」
 三人は、造りかけて、壊された土塁跡を見て想った。
 斉藤勢は何千人で、組織だって攻めてくるから、簡単には防げない。
「ここの地形を、出来るだけ詳しく図面を書いて帰る」
 早足は、図面の重要性を、藤吉郎から学んでいる。
「柵を造るのに、どれだけの材木と時間がかかるのか、具体的に調べんとー」
「それなら大工がいるぞ」
 早足が言うと、小一郎も、
「大工でないと、素人では正確には掴めん」
 土地の図面にできても、その上に建てる砦は、大工でなければ分からない。
「分かっておる。とにかく土地の図面だけでも作ろう」
 三人は、斎藤方の偵察隊の目を避けながら、三日かけて距離を測り、土地のでこぼこを調べて図面を作成した。
 
 その図面を、清洲城の塀を修復した、大工の棟梁弥五兵衛に見せに行った。
「棟梁、頼みがある」
 藤吉郎が墨俣築城を説明して、この図面から砦を作るにはどのくらいの資材と、人夫の数と、組み立てる時間が必要か聞いた。
 じっと土地の図面をみていた、弥五兵衛が顔を上げると、
「奉行、墨俣の現場が見たい」
 職人は実際に現場を見ないと、正確な見積もりはできない。
「しかし、墨俣は敵が監視している土地だぞ」
「奉行はその敵地に入って、この図面を作成したのだろう」
 弥五兵衛は、藤吉郎の目を覗き込んで言った。
「もちろん、墨俣に入って作った図面だがー」
「ならわしも、現場に行って見積もるー」
 弥五兵衛は引かなかった。
「命の保障が出来んぞ」
 と、藤吉郎が脅しても、
「死ぬときは死ぬ。二日後に迎えに来てくれ」
 弥五兵衛は、考えごとをしたまま言った。

 二日後、藤吉郎が弥五兵衛を迎えに行くと、弥五兵衛だけでなく清洲城の塀を直した六人の大工棟梁が集まっていた。
 藤吉郎の顔を見るなり、
「奉行、水臭いではないかー」
 六人の棟梁が、怒って言った。
「なぜ、弥五兵衛だけに声をかけるのじゃ」
 左兵衛が、険しい顔で言った。
「危険なことは、少ない人数の方がよいではないか」
 藤吉郎が、慌てて言い訳をすると、
「奉行は、一生懲りん性格のようだわ。またそれが奉行の良いところでもあるがな」
 口数の少ない千代松までが、笑っていうと、
「奉行、砦の普請と作事は、大工の仕事じゃ」
 棟梁たちの笑った顔が、怖い顔に変わると、
「わしらも、墨俣砦の見積もりに加えて欲しい」
 強い声で迫ってきた。
「砦の普請はな、大工がいないと出来ないぞ」
「それは、そうだが」
「それに奉行よ、これは信長さまの命令だろう」
 命を懸けて、砦を作ろうとする藤吉郎の立場を見抜かれていたが、無性に嬉しかった。
侍でもない、七人の棟梁の顔を順番に見ているうちに、涙が浮かんできた。その涙を手で払
うと、自分の命に代えても、この大工たちは死なせないと誓った。
 
 藤吉郎、早足、小一郎は、準備が整うと、棟梁たちと暗闇を選んで墨俣に入った。
 そのまま息を潜めて、朝が来るのを待った。
 朝になって視界が広がると、棟梁たちは、ぐるっと墨俣を一周した。
 そのあとは各自で持場を分担しているのか、それぞれが散って行った。
 藤吉郎と小一郎は、敵の偵察隊に気をつけた。
 斉藤方の船が現れる度に、刀に手をかけて様子を伺った。
 自分の任務で、責任のない棟梁たちを死なせることはできない。
 普段緊張したこともない藤吉郎も、一日がいつもの何倍も長く感じられた。そして夜になって、辺りが見えなくなると、侵入したときと同じように、闇に紛れて脱出した。
 
 数日後、七人の棟梁が藤吉郎を訪ねてきた。
「奉行、砦の見積もりができたぞ」
 棟梁たちは、墨俣砦の設計図と、資材の数字を書いた紙を藤吉郎に見せた。
 中洲の高台に櫓を組み上げ、その周りに数棟の小屋が並んでいた。それらの建物を守るようにぐるっと馬柵が取り巻いている。
 予想以上に、大規模な配置になっている。
 もう一枚の紙には、使用する木材の量が、長さごと分けて書かれていた。
 その数字を見た藤吉郎は唸った。
「こ、こんなにいるのかー」
 桁外れの木材の量だった。
「ぎりぎりに切り詰めて、少なく見積もったつもりだ」
 弥五兵衛は言ったが、これだけの木材が集められるか、藤吉郎が悩んでいると、
「奉行、斎藤方の襲撃に耐える砦は、丈夫でないとすぐに壊されるぞ」
「これは織田軍と斉藤軍の合戦だから、当然、相手も命懸けで壊しにくるわな」
「それにな、峻険な山の上に築くのではないのだからー」
 大工たちが、織田と斉藤の命懸けの争いを実感していた。
「斎藤方の攻撃を考えてみろ」
 言われなくても、分っているのだが、
「丈夫な柵で砦をぐるっと囲まないと、すぐに追い払われる」
 藤吉郎も、佐久間隊と柴田隊のようにはなりたくない。
「今までの三回の失敗は、土塁だけだったからだ」
 それも、分っている。 
「もし土塁を乗り越えられたら防げんぞ。馬で引っ張られても壊れん馬柵を取り付けないと、斎藤軍の猛攻を防ぐことはできん」
「しかし、櫓まで、立てるのか」
「そうだ。砦だが、小さな城と思えばよい」
 確かに城並みの、頑丈な砦でないとー。
「砦には、少なくとも何百人は籠もるのだろう」
 砦を造るのが目的ではない。長良川の運行を止め、稲葉山城の機能を削ぐのだ。
「その者たちの寝るところもいるし、食べる物を保管する倉庫もいる。低い土地だから敵の侵入を見張る櫓がどうしてもいる」
 弥五兵衛に、具体的に指摘されると、確かにそのとおりだった。
 図面は、墨俣の地形に合わせ、どのように築くか立体的に設計されている。
 櫓の高さと位置以外にも、馬柵が地上一間、地面下三尺埋め、その柵には狭間を付け、藤ツルで縛ることまで書いてあった。
 敵の襲撃を予想してあるのだが、問題は、資材の量だ。
 平地の砦をぐるっと囲むのだから、大量の材木が必要なことは分かるのだがー。
 珍しく、小一郎がでしゃばった。
「これほど詳しく計算してくれたら、やりやすいではないか」
「しかし二間半の長木材(四・五四メートル)が二百五十本に、松の短木材が二千五百本もいるのかー」
 予想した量の五倍だった。それに、これだけの木材を集めるだけでも大変だし、集めた木材を、敵に悟られずに置く場所もない。
「資材は、必ず用意する」
 小一郎が、自信満々で応じた。
「おいー」
 藤吉郎が、慌てて止めようとすると、
「集める。必ず集める」
 小一郎は、墨俣で勝ち残るか脱落するかで、自分たちの将来が決まるー、と。
 後ろに引けないのなら、やるしかない。
「奉行、図面と資材だけでは砦はできんぞ」
「うん」
「なぜ、わしらに手伝えと言わないのじゃー」
 七人の棟梁たちが、藤吉郎を取り囲んで迫った。
 藤吉郎も、みんなの気持ちは嬉しかったがー、
「墨俣に砦を作り始めたら、必ず斎藤軍が襲ってくるのだぞ」
「分かっておるわ」
「それに墨俣に入ったら、砦が完成するまでどこにも逃げられんぞ」
「初めから、逃げる気もないわー」
「おまえたちの、命の保証が出来んぞ」
 今までにも三回、織田軍の砦構築が失敗している。
 何千の斎藤軍が、組織立てて攻めてくるのだから、多くの死傷者が出ることを教えた。
 これで、諦めると思ったら、
「斎藤軍の攻撃は奉行に任せる。わしらは砦を作る」
 簡単にいった。
「尾張一の、何人もの大工がいないと、丈夫な砦は完成せんわいな」
「何人、死ぬかも分からん。この中の誰かが、死ぬ仕事になるぞ」
と、脅かしても、
「奉行、死ぬのは大工も侍も同じじゃー」
「いやいや敵と戦う奉行の方が、さきに死ぬ確率が高いわ」
 大工たちは滅入るどころか、威張って言った。

 翌日、藤吉郎と小一郎は、図面と資材の量を書いた紙を持って、松倉の坪内又五郎を訪ねた。
 坪内一族には東美濃進出の見返りに、過大な恩賞が与えらていたから協力を要請した。
 藤吉郎が持ってきた図面を見ていた又五郎は、しばらく空を睨んで考えていた。
 湿地帯に砦を構築するのだが、準備する資材が多すぎる。
 それを敵地で戦いながら作ると、最低でも砦を普請、作事する人夫が千人と、敵の襲撃を防ぐ兵隊が千人もいる。
 又五郎は、坪内党には手も足もでないと思った。そして、
「これだけの材料を揃え、短期間に砦が作れるのは、川並衆の中では蜂須賀小六と前野小右衛門だけだ」
 その二人に頼めないから、頼んでいるのにー。
 何度も、藤吉郎と小一郎が頭を下げて頼んでも、又五郎は首を縦に振らなかった。
 坪内党の協力が得られなければ、蜂須賀小六と前野小右衛門に頼むしかなかった。
 木曽川を支配する二人の川並衆の頭領は、東美濃攻略に命懸けで協力してくれたのに、何一つ恩賞が出ていない。
 百人の足軽組頭でしかない藤吉郎に、千人の人夫と、それを守る千人の兵隊が揃えられるはずがなかった。
 しかし、信長の命令は絶対である。
 いつもは冗談をいって迎える、蜂須賀小六と前野小右衛門が、黙って二人を迎えた。
 藤吉郎が図面を広げ、唾を飛ばして、墨俣砦の普請と作事が稲葉山城攻略に欠かせないことを説明しても、一言も喋らなかった。
 藤吉郎は、小六と小右衛門の気持ちが分っても、どんなことをしても、木曽川を支配する川並衆を率いる二人の協力を取り付けないと、墨俣に砦を作れなかった。
「前回の働きに恩賞がないのに、再度、難題を依頼するのは心苦しいのだがー」
 藤吉郎は、ひたすら頭を下げて協力を要請した。 
 蜂須賀小六は、猿のくぼんだ目を見た。
 初めて会った時と同じ、力強い目をしていた。
 こんな無謀な砦の普請が、本当に出来ると思っているのかー。
「それなら、詳しく聞きたい」
「おお、なんでも聞いてくれ」
 気持ちで、負けてはいかん。
「これだけの資材をどうして揃え、どうして墨俣に運ぶのか」
 具体的に細かく考えていないと、すぐに頓挫する。
「砦に使う木材は、飛騨川の上流、八曽と七曽(七宗町)の山中に切って積んでおく」
「それでー」
「木が貯まると、川に落として管流しにする」
 官流しとは材木を一本一本流すことである。当時、上流から流した材木を墨俣と鵜沼で陸揚げして表佐(おさ)から柏原、朝妻(近江)に運び、船で琵琶湖を渡って、大津から京に運んでいた。
「それを鵜沼、松倉、草井で集めて、墨俣で組み立てられるように細工をしておく」
「細工じゃとー」
 小六と小右衛門が同時にいった。
「墨俣で材木を削っていたら、時間がかかって斎藤方に襲われるではないか」
「墨俣では、合わせて組むだけにしておくのかー」
 奇抜だか、良い方法だ。
「そうじゃ。墨俣では組み立てるだけにしておく」
 現代のプレハブ建築だ。
 砦の構築は分かったが、最大の問題は、斎藤軍の襲撃をどう防ぎ、その中でどうやって砦を作るのかだ。
 前の三組とも、敵の多方面からの波状攻撃が防ぎ切れずに敗退している。
「馬柵を優先して作る組と、攻撃を防ぐ組に分ける」
「それは佐久間も柴田も、手を打っておったわ。それでも失敗した」
「これは、大工が実際に墨俣で調べ、計算して書いた図面でな」
「大工と、墨俣に入ったのか」
「先日、清洲城の塀を直した棟梁たちと墨俣に入って、馬柵を手際良く建てられるように調べた。それとー」
「それとー」
「斉藤方の、攻撃隊を分断する」
 小六と小右衛門は、猿の術中に嵌っている思ったが、二人が嵌るだけの、興味をひく計画だった。
「分断とはー」
「西美濃三人衆に、攻撃させないようにすればよい」
「三人衆を、調略するのか」
 小六が、初めて顔を和らげた。
 藤吉郎が、東美濃の虎と恐れられた、大沢次郎左衛門さえも調略したことを知っている。
 小六が、聞いた。
「猿はどうして、難しい仕事ばかり引き受けるのじゃ」
 失敗すれば、確実に死ぬ仕事ばかりではないかー。
「そんなもの、引受けたくて受けているのではないわ」
「しかし、でしゃばるのも事実だ」
「わしはな、良いと思ったことを献策するだけで、一度もでしゃばってはおらん」
 その献策が、でしゃばっているのだ。
「それで死んだら、どうなる」
「それまでじゃ」
 あっさり言った。
「死ぬときは、迷わず死んだらええ」
「迷わず、な」 
「迷うと悔いが残るだけじゃ」
 見事な心構えだったが、そんな奴に限ってなかなか死なないのだ。
「もう一度聞くが、おまえは清州城の塀も、墨俣の砦も、難しいとは考えないのか」
「そんなことはない。どんな仕事も、真剣にやれば結構面白いものだ」
 二人が織田信長の誘いを蹴って、貧乏猿の家来に憧れるのは、猿が普通の人間にない何かを持っていたからだ。
 それが今日、はっきり分かった。
 小六は、目の前にいる猿男とは、縁が切れない運命なのだと思うと、
「わかった。墨俣のことお受けいたす」
と、力強く返事した。

 蜂須賀小六と前野小右衛門は、藤吉郎が持ってきた計画書をさらに掘り下げて考えた。
これは、時間との勝負だ。
墨俣を挟んで、織田軍と斎藤軍が生き残りを懸けて激突する。
その激戦地での砦作りが、困難を伴うほど面白くなっていた。

 このとき織田信長三十三歳、木下藤吉郎三十歳、小一郎二十七歳、ねね十九歳、早足二十二歳、蜂須賀小六四十一歳、前野小右衛門三十九歳であった。
 誰もが、敵と戦うだけでなく、時代に翻弄されながらもたくましく生きていた。

 動くことを止めない藤吉郎は、小一郎を供に、稲葉一鉄の曽根城に向かった。
 服装は百姓姿にかえているが、もともとが百姓なので、慣れない武将よりも似合っていた。
 養老山塊の新緑と、その上に広がる真っ青な空を眺めながら、二人は揖斐川を呂久で渡った。そこから平野井川沿いに進むと、二重の堀に囲まれた曽根城があった。
 早足の情報では、稲葉家は池田の山裾にあった小寺の出自である。それを一鉄が、雪が少なく、交通の便のよい平地の曽根に城を築くと、一族を引き連れて移動してきた。
(山から平地に城を移すのは、先の見える男だ)
 藤吉郎は、将来を考える男なら、斎藤家の行く末に不安を抱いていると思った。
 実際に会った稲葉一鉄は、まつ毛が濃く、目に力のある偉丈夫な男だった。
 一徹は、藤吉郎が渡した、大沢次郎左衛門からの書状を黙って読んだ。
 藤吉郎は、単刀直入に言った。
「墨俣に、砦を築くように命令された」
 一鉄は、大きな目で藤吉郎を見据えると、
「斉藤家を攻める砦作りを、指をくわえて見ていろとー」
「いや、欲をいえば、手伝ってくれると助かるのだがー」
「なにー」
 おちょくるにもほどがある。
 一徹の目が一気に燃え上がると、藤吉郎に襲い掛かりそうになった。
 藤吉郎は、その目を笑って正面から受けると、はっきり断言した。
「斎藤家と共にするか、織田家の上洛に協力して生き延びるかじゃー」
「織田信長かー」
「信長さまに懸けるのも、悪くない話だと想わんか」
 信長の性格は強引たが、その強引さがないと、近隣を制圧し上洛できない。
「それに、誰かが天下を統一して、戦のない国を作らなければならん」
「・・・・・」
 一鉄も、近年、押されぱなしの斎藤龍興に不安を感じていた。
「斎藤家は滅んでも、稲葉家まで滅ぶことはない」
 藤吉郎は言葉で攻めながら、一鉄の反応を探っていた。
 武将は、家を存続させることが一番の使命とされていた。反対に自分の代で一族の血を絶やすことは、屈辱であり避けたい責務だった。
「できれば、三人衆が揃って、織田家の天下統一に協力して頂きたい」
 一鉄は、自信満々に喋る小男を睨みつけた。
 猿そっくりの風格のない男である。木下藤吉郎など名前も知らないし、一介の足軽組頭ではないかー。稲葉一鉄も、大沢次郎左衛門と同じことを考えた。
 大胆というか、厚かましい男が目の前にいる。
 もし、一鉄に下心があれば簡単に殺せる。しかし、大沢次郎左衛門の書状には、この男は約束を守るために、自ら進んで人質になったという。
 一鉄は、信長が家の格式よりも、銭で人材を集める強さを知った。織田軍は信長だけが強いのではない。この男のように、平然と敵陣に入って、胸を開いて話をする男が何人もいるのだ。 
 戦に勝つのは戦闘力だけではない。こんな男が何人もいると、じわじわと真綿で首を締めるように、周りからゆっくりと締め付けて、気が付いたときには、陥落寸前に追い込まれているのだ。残念だが美濃にはこんな男はいない。
 いや、ひとりいる。
 この男みたいに、厚かましくも騒がしくもない男がいる。
 西美濃三人衆のひとり安藤守就の娘婿で、竹中半兵衛という。
 この静かな男は、初対面では凄みを感じさせないが、時間がたてば恐ろしさに気が付く。
 竹中半兵衛は、永禄七年二月、僅か十六名を率いると、奇策を用いて斎藤龍興の居城稲葉山城を乗っ取った。原因は龍興が、重要する斎藤飛騨守の横暴に立腹したとか、龍興の寵愛する家臣団の弛緩に愛想がつきたとか噂されたが、半兵衛が本当のことを言わなかったので、真実は分からない。どうであれ、織田信長が、何度攻めても跳ね返された難攻不落の稲葉山城を、二十歳の半兵衛が占領した。
 竹中半兵衛は、ある面では、目の前にいる猿男と似ている。
 風で大木は折れても、竹は細くてもしなるだけで折れない。
 一鉄は、゛時代が変わる ゛と想った。
 国の統治機構だけではない。流通面でも米中心から銭に移っている。家臣団の統制も士豪を束ねる方式から、貫高制の直接支配にかわり、半農半兵が、信長の家臣団のように、農繁期にも出撃ができる足軽専門に雇われた部隊が作られている。
 戦場での直接対決から、あらゆる方法を駆逐して、敵を倒す総合戦になっていく。
「どうしたら、先の時代が読めるのだ」
 一鉄は、猿顔に聞いた。
 藤吉郎は、一瞬怪訝な顔を見せたが、
「時代の先、か」
「時代の先が読めないと、どう対応して良いのか分からん」
 素直に、聞いた。
「意地とか格式を捨て、素直に数年先を考えることかな」
「意地も、格式も捨てるのかー」
「楽になる」
「たしかにな」
 初めて一徹が笑った。
 世の中のしがらみほど邪魔なものはない。格式に囚われず、稲葉家だけの数年先を考えるときがきたのだ。それを優先して考えると、逆に、義理や家の繋がりが消える。
「忠義を尽くしても、我が家が滅亡したのでは、何一つ残らないではないか」
 考えると、家も格式もない藤吉郎の短所が、長所でもあった。
「そうだな」
「家を残したいのなら、斎藤家か稲葉家かの選択になる」
 傲慢な態度で威嚇するのも作戦だが、これはしばらく話せばその者の実力が分かる。反対に、威圧感のない猿男が、話す度にどんどん大きくなるのは、的確に時代の流れをよみ、その流れが、どこにどのように流れていくか分っているのだ。
 斎藤家か稲葉家かの選択は、斉藤家か一族の命かになる。
「信長さまは龍じゃ」
「確かに、天下に昇る龍かもしれん」
 じんわりと脅かし、煽てる。
 一鉄は、稲葉家が生き残る方法を優先させると、斎藤龍興よりも、数倍灰汁が強い織田信長を選択した。

 永禄九年六月、木下藤吉郎は、墨俣砦の構築作戦を実行に移した。 
 長江半之丞、梶田隼人、河口久助の三人に数十名をつけると、敵の目に触れないように、少人数に分けて八曽と七曽の山中に送り込んだ。
 きこり部隊が密かに山に入ると、砦に使う木材を片端から切っていった。
 一ヵ月後には、大量の材木が、八曽と七曽の山中に積み上げられた。
 別の班は荒縄を綯い、藤ツルを採取していた。ある班は材木を運搬する船を集める。武器を用意する班、食糧を用意する班、工事道具を集める班が至るところで活動していたが、野伏せ同然の、川並衆の行動を怪しむ者はいなかった。
 長江半之丞から、材木が揃ったことを知らされた藤吉郎と蜂須賀小六は、砦普請担当の松原内匠と、大工の棟梁弥五兵衛たちを松倉と草井の河原に集めた。弥五兵衛は清洲大工だけでなく、尾張中の大工に声をかけ、犬山から村久の大工棟梁を十二人も集めていた。 
 その棟梁たちが配下の大工を連れてきたので、数百人の大工が集まった。その大工たちが持場につくと、八曽と七曽の山中に積め上げられていた材木を、川に投げ落として流した。その材木を、稲田大炊助と日比野六太夫の班が鵜沼で拾い集めた。
 それを筏に組み直して、下流の松倉と草井に送った。
 待ち構えていた大工と人夫たちは、その筏をばらし一本ずつ川から引き上げると、長さを二間半と一間半に揃え、墨俣で組み立てやすいように加工した。
 各班が割り当てられた任務を、手際良く処理していった。
 効率のよい流れ作業だった。
 
 一ヶ月後、
 藤吉郎は、松原内匠から材木の加工が終了した報告を受けると、小牧山城にいる織田信長に報告に行った。
「猿、墨俣にいつ入るのじゃー」
「九月十二日の深夜でございます」
 信長は、藤吉郎が願いごとに来たことを見抜いていた。
「で、わしは何をするのか」
「砦を築いた後の、守りでございます」
「・・・・・」
「墨俣に織田方の砦工事が始まりますと、斎藤龍興が大軍で潰しにくるのは必定」
「分かっておる」
「手前の家来は鉄砲足軽百人と、普請を手伝った大工と人夫どもです。これでは敵の大軍が防げません」
「・・・・・」
「砦完成と同時にー」
「くどくど言うな。いつ砦に入ればよいのか。それだけを言え」
 信長は、決論だけを求めた。
「三日後の十五日です」
「なにー、三日後だとー」
 猿が、狂言を言っているとは思えないがー、
「墨俣に、三日で、砦を作ると言うのかー」
「砦そのものはもう少しかかりますが、三日で馬柵さえ構築すれば敵の攻撃を防げます」
「おまえの背中には、三日の神がついておるのか」
 清洲城の塀も三日だった。
 信長は、呆れて聞いた。
「本当に、三日で砦が作れるのかー」
 どう考えても、出来るわけがない。
「時間をかけるだけ、敵にも攻撃の時間を与えます」
 墨俣は敵地である。二十日で作ると公言した佐久間信盛と、猛将の柴田勝家でさえ失敗した死地である。その死地に、三日で馬柵を作るという。がー、
「―――どうしてつくる」
 信長は、猿の計画が聞きたくなった。
 藤吉郎は、川上で準備を整え、それを木曽川に流して、墨俣で組み立てる作戦を説明した。
 信長も、独特の発想をする。
 作戦は体験から学べるが、発想は生まれながらの素質がいる。
「分かった。猿、十五日、軍勢を率いて、墨俣に入れば良いのだな」
 信長が、笑って応じた。
「猿ー」
「はい」
「三日じゃ、三日で馬柵を完成させろ」
 信長の一段と甲高い声が、部屋中に響いた。

 九月十二日、丑八つ、夜空に三発の狼煙が上がった。
 待機していた木下藤吉郎以下二千四十人が、一斉に行動を開始した。
 凄まじいのは川筋だった。
 数千本の木材を積んだ川船と筏が、川面を埋め尽くして、墨俣を目指して移動して行った。
 水の流れが鈍いところは、船を紐で引っ張って進めた。
 昼前に第一陣の藤吉郎、小一郎組の鉄砲隊七十五人と、蜂須賀小六と松原内匠が率いる大工たちが墨俣に到着した。
 続いて、第二陣の馬柵作りを買って出た前野隊三百五十二名が着いた。そのあとに稲田大炊助隊の木材を満載した川船が到着すると、墨俣は一変して大工事現場に変身した。
 最初に、敵の襲撃が予想される、丑寅方向に馬柵を作ることを伝えていたので、全員が穴を掘り、土を盛り上げ一間半の丸太を立てた。その丸太に横木を貼り付けると、水で濡らして叩いた藤ツルできつく縛り、所々を支え棒で固定して、馬に引き倒されないようにする。
 敵に知られるまでの、時間との戦いだった。
 工事が大々的に始まると、敵の物見が姿を現した。
 織田軍の砦普請を確認すると、慌てて姿を消した。しばらくすると丑寅の方向から単発的に鉄砲玉が飛んできたが、組織的な攻撃ではなく、馬柵作りに影響はなかった。
 しかし、時間の経過ともに、敵の放つ鉄砲の数が増えると被害が出始めた。
 藤吉郎配下の鉄砲隊と、青山新七の鉄砲隊が応戦すると、本格的な射撃合戦になった。
 この矢玉が飛び交う中でも、馬柵の普請は続けられた。
 砦が完成するかしないかは、敵の攻撃を防ぐ馬柵ができるかできないかにかかっていた。全員が馬柵の重要性を認識していたから、夜までには五百間の馬柵が作られ、敵の攻撃に備えることができた。
 夜になり、敵の攻撃が止んでも、墨俣の現場は全員が忙しく働いていた。
  
 九月十三日、夜が明け、視界が遠くまで確認できるようになると、敵の本格的な攻撃が始まった。斎藤軍は、西美濃三人衆の協力が得られず、大軍を動員できなかったが、五百人ほどが稲葉山城のある、丑寅の方向から鉄砲を打ちかけてきた。この射撃に被害が出だした。
 敵の攻撃を防御する馬柵普請が攻撃の的になったが、敵の射撃に怯んでいたら馬柵は完成しない。
 前野小右衛門は、部下が撃たれ倒れても作業を止めさせなかった。
「丈夫な馬柵が出来たら、敵の攻撃が防げるのだ」
 黒の鎧を纏った小右衛門は、仁王立ちでわめいていた。
 この出来たばかりの馬柵の狭間から、梶田隼人、長江半之丞に、藤吉郎の鉄砲隊が反撃する。鉄砲の矢玉が激しく飛び交っても、誰一人手を止める者もなく、黙々と馬柵作りが行われた。 
 最前線で作業を続ける前野隊は被害が大きい。隣の仲間が銃弾に打ち倒されても、介護班に任せ、悔し涙を流しながら作業を続けた。
 夕方から小雨が降り始めたが、全身が濡れ、顔から雨が滴り落ちていても、作業の手を休める者は一人もいなかった。
 二日目の夜には、千間余りの馬柵が、ぐるっと砦現場を取り囲んでいた。
 九月十四日、墨俣砦を断固粉砕したい斎藤軍は、巳四ツ刻(午前十時)猛将の長井隼人が二千有騎で、今度は手薄な辰巳(東南)から怒涛の如く攻め寄せてきた。
 木下隊の鉄砲にも恐れず、一直線に砦を目がけて突入してくる。
 丑寅に構えていた青山新七、梶田隼人、長江半之丞たちが慌てて駆けつけて、長井勢に立ち向かった。
 何度も墨俣砦を襲撃している長井勢は、地形に詳しい上に組織的に攻めて来た。この鋭い攻撃に押され、馬柵まで寄せられた。寄せてきた長井勢は馬柵に火をつけた。その火を砦の中から慌てて消す。また外からつける、中から消すの攻防が柵を挟んで続いた。
 長井隼人は機が熟したとみると、一気に馬柵を壊して砦に乱入しょうとした。が、土に埋めた馬柵が倒れなかった。
 木下隊は、その馬柵を楯にして反撃した。
 砦の真中で指揮をしていた藤吉郎は、馬柵に近づくと体中から声をだして、
「敵を柵から入れるな。追い返せ。追い返せー」
 (大工を死なすと、化けて出られるわ)
 藤吉郎は思わず笑うと、一段と気合が入った。
「踏ん張れ、踏ん張って、敵を追い払え」
 大声でわめきながら、体力の続く限り槍を振り回した。
 この藤吉郎の奮戦がみんなに浸透すると、突貫工事で疲れていた体に気合が入った。
「おうー、追い返せ、追い払え」
「叩けー、突け―、追い出せー」
「負けるなー。ここが勝負どころじゃー」
 押されていた戦いが、踏ん張って押し返しだすと、今度は攻めに転じた。
 馬柵から出て六尺の樫の棒を振り回す者がいれば、少しでも敵に近づいて、鉄砲を放す者もいる。
「うつけー、馬柵から出るな。柵の中から反撃するのじゃー」
 斉藤勢もしぶとかった。押し返されると、隊形を整え押し返えしてくる。
 乱戦が最高潮に達したとき、斎藤軍の別部隊が乾(北西)から押し寄せてきた。
 前の三回の普請も、この多方向からの波状攻撃にやられていた。
 両側から攻められた砦の守備隊は、馬柵を楯にして鉄砲を放ち、槍を突き出した。
「耐えろ、柵は丈夫だ。柵を使え。柵を楯にして守れ」
 土に埋め藤ツナで縛った馬柵は、斎藤軍の猛攻にも倒れなかった。
 このとき子方向に待機していた稲田大炊助の部隊が、危険覚悟で柵から出ると、斎藤軍の別部隊の横腹を突いた。
 前方だけに集中して砦を攻めていた別部隊も、思いがけない側面からの攻撃には隙だらけだった。別部隊が前後に分断されると、組織的な攻撃が出来なくなった。
 斎藤軍の攻撃が何度も空回りしだすと、攻めていた斉藤勢の中に不安が広がっていった。不安に耐えきれなくなった一人が姿を隠すと、それに一人、二人と同調して姿を消した。
 斉藤勢から勢いが消えると、孤立を恐れた長井隼人の攻撃隊も、潮が引くように稲葉山城へ撤退して行った。
 墨俣から敵の姿が消えると、砦の中は守り抜いた嬉しさよりも、全員がその場にへたり込んだ。昼夜の突貫工事に加え、敵との激戦に明け暮れた三日間だった。
 数年後、蜂須賀小六とともに木下藤吉郎の手足になって、天下取りに協力した前野小右衛門は、幾多の合戦を体験したが、この墨俣の合戦ほど苦しい戦いはなかったと述懐している。
 実際、前野小右衛門が率いた前野党は、敵の攻撃に晒される最前線での馬柵作りを請け負ったため、墨俣に進出した三百五十二人のうち四十四人が討ち死にしている。それ以外にも重傷と軽傷者が五十三人と、合わせて九十七人の約三割が死傷した。
  
 翌、九月十五日、巳四ツ半刻(午前十一時)、織田信長は柴田、佐久間、佐々、森、丹羽等、三千の軍勢を連れて西美濃に侵入すると、一部の部隊を対岸に残し、墨俣砦に入った。
 藤吉郎以下が、勢揃いして信長を迎えた。
 信長は、砦の隅々に残る激戦の傷跡から、命懸けの馬柵作りだったことを知った。
 信長は、地面に頭を擦りつけている藤吉郎を見た。
「猿―」
「はっー」
「猿、本当に三日だったな。見事じゃ」
「この者たちが敵の猛攻に耐え、砦を完成させたのでございます」
 藤吉郎は、全員が死に物狂いで砦を築いたことを伝えた。
「もっともじゃー。猿一人が尾っぽを振って怒鳴っても、馬柵はできんわ」
「中でも前野小右衛門の一党は、三割の犠牲を出してこの馬柵を完成させたのです」
 藤吉郎は、後ろに控えている小右衛門の功績を称えた。
 これには、小右衛門が息を呑んだ。
「ふん、情強者の小右衛門か」
 信長は、小右衛門をじろっと睨むと、
「小右衛門、これをとらす」
 信長は腰に差していた脇差を、小右衛門に差し出した。
 備前長光の短刀だった。
 長光は、景光、兼光と流れる長船系の名工である。
 小右衛門が神妙に受け取ると、信長は、
「猿、褒美じゃー」
 信長は用意していた金子五十枚と、銀子百枚を藤吉郎に与えた。
 その後、信長は砦を守る藤吉郎に、敵が押し寄せても砦から出るななど、細かい注意を言い渡したあと、珍しく細い目で笑うと、
「猿、博打はするなよ」と、諌めた。
 気持が大きくなった藤吉郎と、川並衆の性格から、必ず博打をすると思ったのだ。
 最後に信長は、三百人の鉄砲隊を並ばすと、稲葉山城に向けて一斉に放させた。
「どんー、どどんー」
 黒煙と、大音響が空を割った。
 信長はこんな余興が好きで、特に機嫌のよいときは、遊び心も旺盛だった。
 信長は八百人の守備隊を残すと、藤吉郎に墨俣砦を任せ小牧山城に帰った。
 藤吉郎は、信長から貰った金子と銀子を、小一郎に渡し、
「直ぐに、全員に分けてしまえ」
「今、直ぐか」
「ああ、今直ぐだ。残らず渡せ」
 そして、戦闘員以外を砦から出した。
 大工の棟梁たちが、帰る挨拶に来ると、
「棟梁、また借りができたわ」
 藤吉郎が、弥五兵衛の肩を抱いて言うと、
「あはは、今回は奉行も危なかったな」
 普請中は目が落ち込み、恐怖で震えながら作業をしていた棟梁たちが、藤吉郎を冷やかした。
「奉行がよー、槍を振り回して闘っていたのには、びっくりしたぞー」
 棟梁たちも、墨俣築城が、一つ間違えば落命していたことを知っている。
 その難工事を乗り切っただけに、感激も大きい。
「何を言うか、わしも織田軍の大将だぞー」
 藤吉郎が威張って言うと、
「そのとおりじゃー。奉行は織田家一の大将だわ」
「わしが織田家で一番なら、棟梁たちは何番なのじゃー」
 藤吉郎と棟梁たちは、砦を完成させて生き延びた、余韻を楽しんでいた。
「決っているわ。尾張で一番の大工ではないか」
「ふん、何人もいる尾張で一番か。呆れるわ」
 今度は、藤吉郎が冷やかした。
 藤吉郎は、棟梁たちと肩を組みながら、侍でもない大工たちが命を懸けて協力してくれたことに感謝していた。反対に棟梁たちも、藤吉郎が命懸けで砦を造ったことを、自分のことのように喜んでいた。
「今回も、たっぷり銭をもらったわ」
 棟梁たちは、何度も振り返りながら、名残惜しそうに墨俣を去って行った。

 墨俣砦に織田軍が立て籠もると、稲葉山城からの攻撃が途絶えた。
 そして、織田信長に東西美濃を制圧された、斎藤龍興は反撃したくても出来なかった。
 稲葉山城に閉じ込められた状態になると、美濃を君臨していた斎藤家の威勢に蔭りが見え始めた。
 
 
    
      六 天 下 布 武

 永禄十年七月、早足は稲葉山城下の井ノ口にいた。
 早足は浮浪者姿で、近々始まる、織田信長の稲葉山城攻めの下見をしていた。
 と、いうよりも、藤吉郎のための情報収集だった。
 東美濃と西美濃を攻略して包囲網を狭めていても、斎藤龍興には長井隼人と日野根備中守の両将と、百八十間(三三八メートル)の頂上に築いた稲葉山城があった。
 この稲葉山城は金華山城とも呼ばれ、鎌倉時代の砦を室町時代に土岐氏の守護代斎藤利永が城に修築した。その城を、天文八年、斎藤道三が山頂にあった伊奈波神社を移転させると、山裾に居館を構え、それを防衛する堀と土塀を築いて、城の機能を一段と強化して難攻不落の城に仕上げた。
 道三は、濃尾平野を睥睨する急峻な金華山上に城を築くと、扇形に広がる西平野に家臣団の住居を構えた。油売りの商人から美濃一国の主に成り上がった道三は、国を治めるには武力だけではなく、商業を興し、繁栄させることが不可欠だと知っていた。
 近隣から商人を呼び集めると、保護して座を与え自由に商いをさせた。
 穀倉地帯の美濃に商業が加わると、天下を制することが夢ではない。
 早足は、その賑やかな城下町をうろつきながら、黄金色に輝く稲葉山城を見ていた。
(これは天狗の城じゃ)
 天に突き出した城に、人間が登れる訳がない。
 空に浮かぶような城を睨みながら、早足は藤吉郎に、何としても手柄を立てて欲しかった。
 墨俣砦の築城で大きな手柄を残していたが、織田家の重臣たちは藤吉郎の能力を認めようとはしなかった。
(信長さまに、口で取り入った男じゃー)
 藤吉郎を信頼して、家来のように従事していた、前野小右衛門の兄小阪孫九郎や、生駒屋敷の当主生駒八右衛門家長でさえ、口では褒めても、藤吉郎を心底から敬ってはいなかった。
(いつか化けの皮がはげよるー)
 出自の定かでない藤吉郎の実力を認めると、暗に自分に能力がないことを認める。
 分かっていても、家の格式が邪魔をした。
 救いは主人の信長が、藤吉郎の実力を認めていたことだ。
 信長は多くの家臣を使い、牛や馬の尻を叩くようにこぎ使っていたから、常にその者たちの誰が期待に応えるか結果を見ている。
 出自よりも、実力優先で結果を重視する。
 その信長の期待に、藤吉郎が一番応えていた。実際に、信長は、藤吉郎を多用するようになってから、何回も侵入を企てては失敗していた美濃進出に成功した。
 早足は考えた。
 それなら、織田全軍が参加する稲葉山城攻めで、抜きんでた働きをすれば、誰もが藤吉郎の手柄を否応でも認める。、
 その手柄を立てるためには、天狗しか侵入できない稲葉山城の攻め口を探すことだ。
 しかし、盗人の嗅覚を最大に働かせても、稲葉山城は侵入が難しい城だった。
 斎藤道三は城下の井ノ口に、御園町、早田、中河原の三ヶ所に市を開き保護した。
 市が成り立つと町全体が、果実が熟すように繁栄しだした。
 その繁栄していた町から、活気が消えかけていた。人も商品も多かったが、以前あった明るさがない。じりじりと東西から攻め寄せてくる、織田信長の重圧をみんなが感じているのだ。
 それに対抗するためか、城兵が慌ただしく、稲葉山城に兵糧を運び込んでいた。
 今の斎藤家は、城の外に出て反撃する力がないが、一岩山とも呼ばれ、岩盤を鎧のように纏った稲葉山城は、攻めにくく守りやすい城だった。守る方は足の下の敵を叩けばよいが、攻める方は、頭の上の敵を突かなければならない。
(人間が作った城だ。どこかに盲点があるー) 
 早足は、乞食のように、道端に座り込むと城を見上げた。
 何度見ても、城が空中に浮かんでいる。
 早足から少し離れたところで、同じように城を見ている男がいた。
 その男も、早足のように密かに城を観察していた。
 早足は、自分と同じ匂いを嗅いだ。
(―――あいつも盗人だ)
 周りを見るときと、城を見るときの目が違った。
 周りは流して見ていたが、城を見るときは獲物を見る粘っこい目に変わった。
 ただ何が目的で、警備が厳重な城に盗みに入るのか分からなかった。
 早足は、その男に興味を持つと、気づかれないように男の後ろに回った。
 一見、商人にも見えるが、売るものも買ったものも持っていない。
 男は立ち上がると、目立たないように長良川に向かって歩いていった。
 川に沿ってしばらく進むと、さりげなく振り返った。
 (追跡者を確認している)
 盗み独特の嗅覚がある。その行為を何回か続けると、急に姿を消した。
 早足は、男が隠れるように、葦の繁みに入ったのを見逃さなかった。
(絶えず追跡者を気にするのは、盗人の本能だー)
 早足が、足音を消して男が消えた葦に近づくと、潜めて話す声が聞こえた。
「城下の様子はどうじゃ」
「城に、勢いがない」
「城に勢いがないとはー」
「どろーんと澱んで、城も兵も元気がないわ」
「そうか、これでは斉藤家の負け戦は避けられんな」
 盗人は、空気を読む才能に長けている。
「城は籠城の準備をしているが、これも活気がないわ」
 織田信長の威圧が、じりじりと城の中にも浸透しているのだ。
「そのどさくさに紛れて、銭を盗むのかー」
 葦草の中で、数人の盗人が城に忍びこむ相談をしていた。
「美濃の斉藤家じゃ、今までに溜めこんだ銭が腐るほどあるーと、わしは睨んでおる」
「後は、いつ忍びこむかーじゃー」
 盗人たちは、城の番兵も巻き込んでいた。
 そうでなければ籠城で殺気だっている城に、盗みに入れるわけがない。負けると分かっている戦に、下っ端の足軽が、斎藤家に殉じて討ち死にするのを嫌がったのだ。
 城に残れば、包囲網を縮める織田軍の攻撃を受けて死ぬ。
 それなら、その前に城の銭を掠めて逃げれば、死ぬこともないし家系も残る。
 そのあと、またどこかに仕官すれはよい。この時代はこんな考えを持つ者が多くいて、二君に仕えず、は、ずっと後の合戦がなくなった江戸時代の話だ。
「忍びこむ道は、大丈夫かー」
「裏番人の庄助と八平衛を手なずけて聞いた。城の裏から中ノ尾を抜け、カラス谷に沿って尾根伝いに西山の手前まで行って、長良川に降りる抜け道があるそうだ」
 西山は、稲葉山の東にある低い山だ。
「その抜け道を逆に登るのか。岩だらけの厳しい道ではないのかー」
 盗人のひとりが聞いた。
「ああ岩だらけの道らしいが、それ以外は警戒が厳しくて侵入できん」
 この抜け道は負け戦になったとき、城主が逃げるように切り開いて作った道だった。

 その後、早足は、盗人たちが話していた抜け道に向かった。
 ゆっくり城山を迂回しながら、長良川の浅瀬を遡行して進んだ。
(西山の手前、口ノ岩のあたりと、いっていたな)
 城に通じる尾根筋を伺いながら、辺りを見回した。
 尾根の筋と谷間から推測すると、丁度、稲葉山と西山の中間に来ている。
(この辺りだか・・・・・)
 よく見ると、対岸の崖の一部が樹木に被われていた。
 そこが、盗人の勘を突いた。
 早足は川に入ると、その樹木を目指して泳いでいった。
 流れが以外に速かったが、川を横切ってその樹木の中に入った。
(あったー)
 船が二艘、隠れるように繋がれていたが、人はいなかった。
 船を繋いでいる所から、雑草と落ち葉で埋め尽くされた急斜面を、ジグザグに細い道が上に伸びていた。
(ここだ。間違いない)
 勘が当たった。
 ジグザグに伸びているのは、人間が手を加えたからだ。
 早足は用心しながら川から上がると、その道を這うように登っていった。そして少し登っては人の気配を探り、登っては探ったが、誰もいなかった。
 道らしいものはないが、歩けるように手が加えられている。
 尾根筋を城に向かって進むと、切り立った崖にぶち当たった。
 隠れるように、かずらで編んだ梯子がぶら下がっていた。
(間違いない抜け道だ。この道を辿れば城の裏口に行ける)
 その梯子を伝って岩肌を登ると、雑木に隠れるように、尾根が稲葉山城の裏側に続いていた。
(やはり抜け道かー)
 早足は、この道を藤吉郎に教えようと考えたが、城までかなりの距離が残っていた。
抜け道に、船や梯子を備えているぐらいだから、まだ仕掛けがあると思った。
 それを探っておかないと、土壇場でしくじる。
 一方で、これ以上城に近づくのは危険だと、盗人の本能が警告していた。
 行くか止めるかー、迷った。
 藤吉郎が、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ姿を想像した。
 その笑顔には勝てなかった。
 早足は、足場の悪い屋根筋を城に向かって進んだ。
 体中の神経を逆立て、岩を掴みながら一足ずつ登っていくと、天狗の城の下に出たが、その先は、崖が屏風のように立ち塞いでいた。崖と崖の間に隙間があったが、その隙間を頑丈な板で蓋をするように門があった。
 
 (この抜け道は、現在、稲葉山登山道の一つで、ベテラン向けの鼻高コースとして整備されているが、尾根から長良川に抜ける箇所は危険で通行が禁止されている)
 
 早足は、その門を調べた。
 厚い板を組合せて作られていた。
(―――これは)
 一目で、簡単には破られないことが分かった。
 そのときだった。
「どんー」
 轟音が谷間に響いた。
(―――熱っ)
 早足の肩に激痛が走った。焼け火箸が、肩を貫いた感じがした。
「曲者だー」
(くそー、見つかったかー)
 蓋が開く音がすると、数人が飛び出してきた。
 撃たれた肩が、急に石を乗せたように重たくなると、体に力が入らなかったが、岩場に身を隠しながら逃げた。
 ここで捕まったら、藤吉郎にこの抜け道を知らせることができない。
 逃げたー。
 崖を降りるたびに手足の皮膚が破れ、血が流れたが気にならなかった。早足は手負いの獣みたいに走っていたが、だんだん意識が薄れ、岩を掴んでい手に力が入らなくなった。 
 その手が、すっと滑るように岩から離れ、体が宙に浮くと記憶が消えた。
 
 稲葉山城の斎藤龍興も焦っていた。
 美濃は斎藤家の領土である。その領地が少しずつ削られていく。
 尾張のうつけ者、織田信長に強奪されるのだ。
(この男だけは、八つ裂きにして殺したい)
 龍興は、父義龍もこの男に毒殺されたと信じている。
 父が死んだ同じ日に、母と二人の弟も、父と同じように胃のものを吐き出し、胸を掻き毟り苦しみながら死んだ。
 その織田信長に、負けることが屈辱だった。
 龍興は、名前を義棟(よしむね)に変えた。
 信長は、東美濃から西美濃を制圧すると、稲葉山城下に迫ってきた。
 義棟は、また名前を義糺(よしただ)変えた。
 義糺は名前を変えることで、押されるだけの流れを変えたかった。
 そのため伊勢神宮に領土の一部を寄進すると、幸運到来の祈念を依頼した。
 しかし、弱肉強食の流れは変わらなかった。
 
 早足は体が火照ていた。
 体中が熱で膨れているのがわかったが、意識は定まらなかった。
(―――あの世なのか)
「おい、気がついたか」
(誰かがいるー)
「茂助、無理に起こすなー」
 女の声だ。
 また意識が消えた。

 八月一日、織田信長は、稲葉山城攻めの軍勢を発進させた。
 小牧山城から、稲葉山城まで五里余りである。
 信長は、攻め口を大きく三隊に分けた。
 信長本隊は木曽川を渡り加納砦を抜け、長森から瑞龍寺山の東に回った。
 一隊は、柴田勝家と佐久間信盛に三千人を付けると、瑞龍寺山の西から大手門のある七曲口に向かわせた。
 もう一隊は、墨俣砦の木下藤吉郎に二千をつけて、長良川沿いに進ませると、矢島町から長良川に面した水門口を破って、馬ノ背を攻めるように指示した。
 藤吉郎は、老臣の柴田勝家や佐久間信盛と共に、堂々と織田軍の一翼を担った。
 瑞龍寺から尾根伝いに攻め上がるのは距離があった。反対に、藤吉郎が担当する馬ノ背からの攻め口は稲葉城の真下にあたり、距離はないが急な岩盤が牙を剥いている難所だった。
「馬ノ背からじゃ。ここはな功名が得られる攻め口じゃぁ」
「城兵が、下を向いて待ち構えておるわ」
 いつものことながら、蜂須賀小六はよく調べている。
「その分、一番乗りができるではないか」
 藤吉郎は、何事も前向きにやる方が楽しいと考えるがー、
「岩盤が相手では、侵入も出来んわ」
 人間が相手なら、攻め方を工夫できるが、垂直な岩が相手だと兵を損じる。
「早足はどうした」
「そういえば、十日ほど姿を見ていないがー」
 最近、早足を見ていない。
「奴のことだ、どうせ稲葉山城の下見だろう」
 前野小右衛門は、早足の行動を読んでいる。
「とにかく馬ノ背を正面から挑むと、犠牲が大きすぎる」
 誰もが、馬ノ背の岩盤を知っていた。
 評定の場に、番兵が飛び込んできた。
「早足さまが、帰ってこられました」
 番兵が慌てて言った。
「―――早足がどうした」
 いつもなら、音も立てずに勝手に入ってくる。
「大ケガをされています」
「なにー」
 藤吉郎は飛び出していた。
 皆が、藤吉郎の後を追った。
 門の横にある番小屋の中で、早足が横になっていた。
 その横に、見知らぬ若者が付き添っている。
「早足―」
 藤吉郎が駆け寄ると、
「長良川から城の裏門に行ける、抜け道を見つけたぞ」
 早足が体を起こそうとしたが、起き上がれなかった。よく見ると、顔にも大きな傷がある。上体を起こすことも出来ないほど、大ケガをしているのだ。
「城の抜け道だとー」
「ああ、稲葉山城への侵入口を見つけたのじゃぁ」
 傷のある顔に微笑みを浮かべて、嬉しそうに藤吉郎に説明した。
 抜け道を探っている途中、鉄砲で撃たれ、谷底に落ちて気を失っていたところを、横にいる若者に助けられたそうだ。
 若者は、稲葉山と西山の東にある船伏山に、母親と二人で住んでいる猟師だった。
 その若者が早足を背負って、墨俣まで走って来たと言う。
「大した力持ちじゃー」
「猪や鹿はもっと重いわ」
 若者をよく見れば、顔は幼いが腕は太く胸も厚い。
「名は、なんという」
「もすけ。堀尾の茂助じゃ」

 この茂介は、後年の堀尾茂介吉晴である。
 出雲、隠岐二十四万石の領主で、いまも残っている松江城を造った男である。

「茂助、礼はするが、城の抜け道を知っていたら教えてくれ」
 藤吉郎は、この抜け道以外ないと・・・・・。
「あの辺りは、わしの庭みたいなものじゃー」
「助かるー」
「ただ岩だらけで、道らしい道はないから、大人数では行けんぞー」
「何人なら行ける」
 小六が聞いた。
「十人かな。それに身の軽い者でないとあの岩場は登れん。一歩でも足を滑らせたら、滑落して一気に長良川まで落ちる」
「分かった」
「最後に、頑丈な木の門がある」
 早足が寝たまま、訴えるように言った。
「木の門かー」
「小さいが太い丈夫な板で、崖の隙間を塞いでいるのじゃぁ」
「なら火を使う。火薬で吹き飛ばすわ」
 小右衛門が即座に答えた。
 木は火に弱い。場数を踏んでいる小右衛門は臨機応変に対応できる。それに川並衆は種子島だけでなく、火薬にも精通していた。
「それより、おまえの身体は大丈夫か」
 藤吉郎が早足の体を調べると、薬草で丁重に血止めがしてある。
 藤吉郎が、若者に、
「おまえが、してくれたのか」
「おっかぁーじゃー。生傷には弟切草の生葉の汁がよく効くからな」
「―――そうか」
「山の中に暮しておると、自分の傷口ぐらい直せんと生きられん」
 幼顔が、威張って言った。
 藤吉郎は、早足の手を握ると、
「わしが、織田家で一番の大将になるまで、無茶はするな」
 握っている手に力を入れ、念を押していった。
「なにー、今度は織田家一の大将だと」
 ただの侍大将になる夢話が、また一回りも二回りも大きくなっていた。
「気持は大きい方が、にぎやかで良いではないか」
 藤吉郎が平然と言うと、小六が、
「織田家で一番などは、口が裂けてもいわない方がよい」
 小六は、猿の大口に反感を抱く武将がいることを知っている。
 織田家の家臣は、信長に一言も逆らえないから、同僚に不満をぶつける。
「わしは、声も大きいぞー」
 控えることを知らないのか、胸を反らしていった。
「たわけ、そんなものは迷惑なだけじゃー」
 小六は、父親が子供に諭すように教える一方で、むしろ駄々っ子の成長を楽しんでいた。
 藤吉郎も、自分が置かれている足軽組頭の立場と、その下っ端が大役を担うことに反発する武将がいることに気が付いていた。
 皆が、藤吉郎を見た。
 この男は悩むことを知らない。難題を突きつけられても、悩みと感じないのだ。
 早足は、そんな藤吉郎が好きだった。
 藤吉郎は、夢を実らせていく。
「命懸けで抜け道を探した、早足の苦労を無駄にはできん」
「そうじゃぁー、稲葉山城に一番乗りをして、手柄を立てんとー」
 みんなが、早足の功績を称えた。
 早足の見つけた城の裏からの侵入口が、藤吉郎たちに希望を与えた。
 早足の横で成り行きを見ていた茂吉は、野伏のような連中が、織田軍の一角を受け持っているのが信じられなかった。
 その荒くれ連中が、狸に似た若い男を、まるで兄弟のように大切にしている。
「―――礼はいらんから」
 茂吉は、一番侍らしくない猿顔に言った。
「抜け道を案内したら、わしを家来にしてくれ」

 小牧山城から出撃した織田軍六千は、一気に木曽川を渡ると、河野島から瑞龍寺山を目指した。稲葉山城の北は岩盤が切り立って長良川に落ちているが、南は比較的に穏やかで、腕を伸ばしたように尾根が続いていた。
 その尾根の先端にも、斎藤方の砦があった。
 織田軍は稲葉山城下に侵入すると、井ノ口を南から焼き払っていった。
 墨俣砦を夜中に出撃した木下隊は、月の光を頼りに井ノ口を目指して進んだ。
 稲田大炊助隊が陸路を進むと、藤吉郎隊は三十数隻の船で長良川を遡り、矢島から井ノ口に入った。小一郎が率いる部隊は、陸路から侵入してきた稲田隊と合流した。そして北から火をつけて回りながら、駆け足で水門口に向かった。
 一方の藤吉郎は八名を引き連れると、茂吉の案内で長良川から抜け道に入った。
 細い崖道を這うようにして、一歩一歩登っていった。
 蜂須賀小六が、配下の中から身の軽い者八名を選んだだけに、崖を駆け上っても、息が乱れていなかった。
 身の軽さに自信を持っていた、藤吉郎が遅れる。
 茂助が止まった。前方を睨んで安全を確認すると、また登る。
 一刻余り登ると、城の裏門に辿り着いたが、早足が警告した木の門があった。
 その門に一人が取り付くと、背負っていた火薬を取り出した。
 その火薬を、門に取り付けると導き縄を岩陰に引き込んだ。全員が岩陰に身を隠すと、導き縄に火をつけた。
 いつもは鼻につく焦げ臭い匂いが、今夜は香ばしく感じた。
 耳の穴を塞いで待った。
「どぉんー」
 大音響が谷間に響き渡ると、門がこなごなに飛び散って燃えていた。まだ煙が漂っていたが、人が通れる隙間ができていた。
 岩陰に隠れていた藤吉郎たちは、一斉に立ち上がると、出来たばかりの隙間から城内に侵入した。
 何人かの番兵が、爆風をまともに浴びたのか、焼け爛れて倒れている。
 城内に飛び込んだ藤吉郎隊は、所かまわず火を付けて回った。
 藤吉郎の奇襲隊は少人数だったが、城兵たちは、天狗が空から降りてきたと思った。
 城内の一角が煙に包まれると、そのどさくさに紛れ、藤吉郎たちは馬の背を滑るように駆け下りていった。その勢いで水門口にある丸山砦にも火を付けた。
 丸山砦に、火の手が上がるのが合図だった。
 水門口前に待機していた、小一郎の本隊が一斉に攻撃をかけると、上と下から攻められた砦兵は、訳が分からず狼狽えた。もともと織田軍の猛攻に押され、戦意が消えかけていたから、敵を見ると慌てて姿を消した。
 木下隊が丸山砦を占領すると、柴田勝家と佐久間信盛は七曲口から二の丸に攻め込んでいた。信長本隊が、瑞龍寺山を占領して、稲葉山城の手足を奪うと、逆垣を二重に並べて、本丸を孤立させた。
 攻め手と守り手には、戦意に大差があった。
 難攻不落を誇っていても、守るのは人間である。
 義糺は、藤吉郎たちが登った抜け道を、逆に下って逃げた。
 そのあと船で長良川を下ると、川内長島にある一向宗の願証寺に逃げ込んだ。このとき義糺に追従した者はわずか十数名だったという。
 八月十五日巳の刻(午前十時)、織田信長は、念願の稲葉山城に登った。
 信長は、山頂から見下ろす下界に満足すると、城の片付けを前田利家に命じた。
 続いて、焼き払った城下の再建を柴田勝家と林通勝に申し付け、上洛に備えた拠点づくりを急がせた。
 そして稲葉山城と井ノ口の修復が一段落すると、信長は長年心に秘めていた「天下布武」に手をつけた。それは尾張と美濃の完全支配からだった。人心と経済の両方を把握することだ。信長は、斎藤道三と同じように、城下井ノ口の商業力に目をつけた。美濃は穀倉地帯だけでなく、東海道と中山道が通る交通の要衝である。
 人が集まるところは、銭も集まる。
 道三よりも、人と物を多く集めることだ。
 信長は、人の移動を遮断する関所を取払うと、他国の商人を疎外する座も解放した。
 自由経済を求める信長は、制圧した国々から一切の権力を排除した。
 この方法を強行することは新旧体制の激突になった。そのため信長は戦闘能力だけでなく、作法や事務能力にも長けた人材が必要になった。家来の使い方は能力主義を優先させた。
 信長が、家来の採用に関して、出自や格式、古参、新参などに一切こだわらなかったから、木下藤吉郎や明智光秀、滝川一益らが実力を発揮できた。
 この者たちも、信長の期待に応えたが、使われる藤吉郎も芽が出せた。
 信長は、時代の先が見える。
 社会の矛盾を排除して、少しでも平等で、住み易い世の中を築こうと考えていた。
 ただ信長の家臣は多くいたが、藤吉郎ほど、信長の目的を素早く理解した者はいなかった。
 美濃を併呑した織田信長が止まらなければ、藤吉郎もとまらない。
 大国美濃を手に入れた信長は、天下布武に向かって邁進した。

 永禄十一年に入ると、足利十三代将軍義輝の弟、奈良興福寺の一乗院門跡覚慶が、名前を義昭と改め、将軍就任への援助を織田家に求めてきた。
 上洛の名分が欲しい信長は、喜んで手を差し伸べた。
 
 七月二十七日、岐阜西庄の立政寺で、信長は義昭に拝謁した。
 能力を優先させる信長は、格式よりも実力を重視する。
 義昭は、煌びやかな権力が欲しいだけの男だったが、この男を擁いて上洛ができればよい。
 後は、器量のある者が、天下のまつりごとをすればよいのだ。
 信長は、全国の実力のある大名に、義昭の入洛に供奉することを伝え協力を要請した。
 この信長の態度に、南近江の六角義賢(承禎)が難色を示した。
 信長は、六角家と敵対する、北近江の浅井家に協力を求めた。
 浅井家当主である長政は、信長の妹いちを嫁に貰っていたから、信長との会見に応じた。
 二人は、浅井家の支城である佐和山城で会った。
 この会見に参列した浅井家老臣の遠藤喜右衛門が、信長から危険な匂いを嗅いだ。
 歳の功が、信長が隠している野獣の牙を見抜いたのだ。
 数日後、岐阜に帰る信長は、柏原の成菩提院に泊まった。
 喜右衛門の居城須川城から、成菩堤院は目の前だった。
 喜右衛門は、長政に、信長殺害を願いでた。
 信長は面従腹背の人物で、将来浅井家の敵になると確信した喜右衛門は、どんな手段を用いても、信長を殺しておきたかった。
 
 その頃、信長の宿舎成菩提院では、
「遠藤喜右衛門が、小谷城に走りました」
 黒い影が、信長に告げた。
「―――襲ってくるのか」
 信長は、自分以外を信じない。
「浅井の軍勢が小谷城を発進すると、直ぐに繋がります」
「―――寝ていてよいのか」
「いざとなれば、私の手の者で、殿の逃げる間を稼ぎます」
 影は忍び独自の繋ぎを、蜘蛛の巣のように張り巡らせていた。
 家来にも忍びを貼り付けている信長の情報網は、決して表には現れない。
「―――任す」
 信長は、再び床についた。
 
同じ頃、喜右衛門の怪しげな行動を、早足の手の者が察知した。
 足を負傷している早足は、自分が動き回れないかわりに、腕の良い忍びや山伏、商人を雇って情報を集めていた。
 藤吉郎の扶持が六千石に増加したから、早足の給金も大幅に増えた。
 ひとり者の早足は、この給金で情報を買っていた。
「大将、起きろー。信長さまが危ない」
「なにー」
 藤吉郎が、蒲団を跳ね除けて起きた。
「近江柏原宿に泊まっている信長さまを、浅井家の重臣が襲撃を企てている」
「―――確かか」
「その重臣が、小谷城に駆けこんでいる」
「よし、出陣する」
 藤吉郎の決断は早い。
 家来衆も、藤吉郎の疾風迅雷の行動に鍛えられていた。
 半刻もしないうちに、稲葉山城の麓にある木下屋敷を、六百の軍勢を引連れて飛び出していた。何が起こっても、おかしくない時代だ。油断した者が負け一族が滅ぶ。
「で、上様はどうなった」
 藤吉郎が、馬で駆けながら聞いた。
「信長さまは、裏警備に甲賀忍びを配置して万全に構えている」
「さすが上様じゃー」
 改めて信長の用心深さを思い知らされたが、今の藤吉郎にとって、信長は神様でもあった。浮浪者同然の猿を雇い、飯が食える扶持をくれた。横の繋がりの薄い藤吉郎にとって、頼りになるのは上にいる織田信長と、下にいる早足や小一郎、蜂須賀小六、前野小右衛門たちとの、縦に繋がる一本の細い線だけだった。
 信長を失うことは、伸びかけた芽を摘まれることになる。
 夜中の急な出陣にもかかわらず、藤吉郎以下六百名が一団となって江濃国境に向かった。
 誰一人、不平を言う者はいない。勝利は、時間との闘いでもある。
 不破の関に着いたときには、夜が明けていた。
 藤吉郎隊は、そこで待った。
 まもなくして信長一行が現れた。
 信長の先鋒は、待ち構えている軍勢に一瞬警戒を露わにしたが、木下勢の瓢箪の旗印に安心した。
 信長が、藤吉郎に気がつくと、
「猿、何の真似じゃー」
「上様を急襲する化け物に、備えておりました」
「ふん、出すぎた真似じゃ」
 信長は吐き捨てるようにいったが、昨夜の浅井家の不審な動きを知っていたので、内心は喜んでいた。
「申し訳ございません」
 藤吉郎は一言詫びると、引き下がるのではなく、逆に信長一行の前に出た。そして堂々と先頭を進んだ。これには信長も呆れたが怒らなかった。

 

      七 北 近 江 浅 井 家
 
  上洛が成就して、将軍義昭が都に落ち着いた様子を、太田牛一の『信長公記』は、
 信長御感状御頂戴のこと、と記録して、
 「今度国々凶徒等、日を歴ず、時を移さず、悉く退治せしむるの条、武勇天下第一なり。当家の再興これに過ぐべからず。弥国家の安冶、偏に憑み入るの外、他なし。尚、藤孝、惟政申すべなり。 十月二十四日 御父織田弾正忠殿」
 義昭の、天にも昇る心境がありありと読める。
 織田信長は京をでると、二十六日近江の守山、二十七日柏原の成菩提院に宿泊して、二十八日、岐阜城に帰った。
 
 木下藤吉郎は、上洛の任務遂行においても、織田家歴代の武将と肩を並べ、敵を粉砕し追い払う活躍をみせた。その任務も一段落すると、暇を貰った。
 藤吉郎主従は、久し振りの帰国を喜び、稲葉山城の山麓に新築した木下屋敷で酒を酌み交わしていた。
「京の都は華があるのじゃー。街になんともいえぬ匂いがある」
「街に匂いがあるのか、どんな匂いなのじゃ」
 足を摩りながら早足が聞いた。
「甘い。そうじゃー白粉の匂いに似た、なんとも言えんくすぐったい雌の匂いがな、京全体に漂っている」
 藤吉郎は、自慢の大声で都の話をする。
「女子がまたええんじゃー。白い、肌が薄くて白い。その女子がまたええ匂いを出して歩いているから、付いて行きたくなる。うふふふたまらんぞー」
「大将、ねねさんより、ええ女子はおらんぞー」
 早足が、ねねを気にして嗜めた。
「兄者、もうええー」
 小一郎も、台所にいるねねを気遣って押さえにかかるが、久しぶりに自宅でくつろいだ安心感が、藤吉郎の心に隙をつくる。
 藤吉郎は、初めて駐留した京の印象が強烈だったのか、止まらない。
 大袈裟に手を振り回して、面白可笑しく喋るのは、藤吉郎の持って生まれた性格なのだ。
 蜂須賀小六と前野小右衛門、林孫兵衛、浅野長政、木下源助等に、太田牛一が混ざっていた。藤吉郎を毛嫌いしていた牛一も、藤吉郎が口数以上の働きを見せると、少しずつ認めるようになった。
 信長の、弓張り三人衆の一人、牛一は信長の側に控えていることが多い。
 信長は家来を容赦なく罵倒する。その恐い信長が、なぜか他の家臣に見せる目と、藤吉郎を見る目が違った。藤吉郎を見るときだけ、目に浮かべる凍るような険が消えていた。他の者よりも、口汚く怒鳴っていても、目は笑っていることが多かった。
 信長が、藤吉郎を信頼していることを知ると、牛一も藤吉郎に一目置くようになった。
 その牛一にも、
 ゛牛やん、牛やん ゛と、人懐こく話し掛けて誘うから、つい藤吉郎の口車に乗り、一緒に飲み食べるようになっていた。
 みんなが飲み食べている中で、藤吉郎だけが大きな声で喋っていた。
この男の忙しいのは、仕事だけではない。飯を食うのも早い。それを、
「わしの取り柄は、早飯、早糞と、憂いのないことだ」
 皺だらけの猿顔を膨らまして、自慢する。
「鯛の、塩焼きが出来たぞ」
 ねねが、下働きの女と一緒に、焼きたての鯛を運んでくると、みんなに配ったが藤吉郎には配らなかった。
「おい、ねね、わしの鯛がないではないか」
 藤吉郎が、みんなの前に出ている鯛を見て言った。
「ふん、猿は、都のええ匂いのする女子に焼いてもらえ」
 藤吉郎を見る、ねねの顔が凍っていた。
「わしは亭主だぞ。亭主の鯛がないことがあるかー」
「しらんー」
 ねねが台所に引き下がると、慌てて藤吉郎が追いかけていった。
 みんなは、藤吉郎とねねの派手な喧嘩になれているから、顔色ひとつ変えずに黙々と呑み食べていた。本当は早足が一番早く家来になったので、二人の言い合いにはなれているのだが、その分、二人に情が入るから冷静に見ておれない。
「ねね、焼くな。都でのことは仕事じゃー」
「仕事で、都の女子の肌に触れるのか・・・・・」
「そんなに触っておらん。二回だけではないか」
「なにー、二回も触ったのか」
「いやいや都は命が幾つあっても足らんから、忙しいのじゃー。体がひとつでは足らん」
「そんなに忙しいのに、よく女子に手が出せるものじゃー。呆れるわ」
「怒るな。わしの嫁はねねだけではないか。なぁーねね・・・・・」
 早足は、織田信長の氷のような目に睨まれても、少しも動じない藤吉郎が、嫁のねねには全く頭があがらないことが不思議だった。
 小六と小右衛門は、二人の夫婦喧嘩に慣れているのか、素知らぬ顔で飲んでいた。
「ねね、機嫌を直せ。頼むから直してくれ」
「わしの怒ることをする、猿が悪い」
「分かった。もう二度とせん」
 二人とも声が大きいから、藤吉郎が土下座して謝っているのが丸分かりだった。
 一息ついたのか、藤吉郎が首を回しながら戻って来た。
「ねねは、敵の大将よりも強いわ」
「大将、女子を追いかけるのもええ加減にせんとー」
 この頃、蜂須賀小六も早足の真似をして、藤吉郎を゛大将゛と呼ぶようになっていた。
 藤吉郎に、大将と呼ばすだけの実力が備わってきたのだ。
 その一方で、ねねには家来のように仕えていた。
「上洛はうまく運んだが、敵は隠れただけで、消えたわけではないからな」
「数だけでも三好に六角。越前の朝倉も、伊勢の北畠も怪しい動きをしている」
 小右衛門は長時間酒を飲んでいても、的確に状況分析をしている。
 そこへ、小者が、
「大工の弥五兵衛が、仲間の棟梁を連れて来ています」
「なにー、弥五兵衛棟梁が来たか。上がれ、ここに通せ」
 藤吉郎は大きな声で命じると、同時に表に飛び出していた。
 門前にいても藤吉郎の大声は、部屋の中にまで聞こえる。
「やぁーよく来た。上がれ。上がって飲んでくれ」
 藤吉郎が大工の棟梁たちと入ってくると、部屋が一段と賑やかになった。
 弥五兵衛に小源三郎、千代松、角冶、佐兵衛、熊太郎、甚蔵ら、墨俣砦の普請と作事に協力してくれた棟梁たちだった。
「奉行に頼まれていた、左官を連れてきたぞー」
 弥五兵衛の後ろから、落ち着かない男たちが入ってきた。
「左官の源助に四郎と与作じゃー。わしらと同じで尾張一の腕じゃー」
 自信たっぷりに喋る弥五兵衛に比べ、左官の三人は場違いなところにきたせいか、恐縮している。
「おお、よく来てくれた。頼みがある」
 藤吉郎が、口の周りに付いていた食べかすを手で拭きながら、源助たちに話し掛けた。
「ここに土で、国ノ図というか、地ノ図を作ってくれ」
「―――へい」
「ち、地ノ図ですか」
 左官たちが、恐るおそる聞いた。
「国と国が、周りを巻き込んで争う状態がよく分からん。具体的に土地を見比べんことには理解できん」
「へい・・・・・」
「ここにじゃー、京を中心に山城、近江、河内、丹波、若狭、大和、摂津らの国を土で盛り上げてくれんか」
「京の都と、その周りの国ですかー」
 左官の棟梁たちは、藤吉郎が言っていることが分からない。
 この時代に、立体的な地図など庶民には縁がない。
「詳しいことはこの早足が指図するから、棟梁たちは、指示に従って土を盛り上げてくれたらよい」
「へいー」
 左官の棟梁たちは、力のない返事をした。
 言われたことは何となく分かったが、地図、そのものが理解できなかった。
「仕事は明日からだ。今日は祝い、祝いだから座って飲んでくれ」
 藤吉郎が、大工と左官の棟梁を仲間に入れた。
「弥五兵衛に佐兵衛、織田家は昇り竜じゃー。上様の゛天下布武゛も、そう遠くないぞー」
「それそれ、その織田家の隆盛には、奉行の力が大いに貢献しているとの噂じゃー」
「またまた煽てる」
 藤吉郎が嬉しそうに返す。
 棟梁たちが席に着くと、小一郎と早足が酒を持ってきた。
「その節は世話になった」
 と、墨俣砦の礼を言って、酒を注いだ。
「これは弟どの、大変な出世ではないか。井ノ口城下で木下藤吉郎主従を知らぬ者はおらん。たいへんな人気じゃ」
 佐兵衛が酒を受けながら褒めると、口数の少ない小源三郎までが、
「この間の、近江の六角攻めでも、大活躍されたそうじやー」
「いやいやー」
 小一郎は控えめに応えるが、藤吉郎は、
「わし等兄弟には蜂小と前小の飛角がついている。この二人がおれば大抵のことはしてくれる」
 実際、藤吉郎一人の力では、これほど活躍できたか疑わしい。
 左官の棟梁たちは、仕事仲間の大工が急に遠い存在に見えた。
そして織田軍の武将と、対等に話をしている弥五兵衛たちを羨ましく思った。
 その弥五兵衛が、一番武将らしく見えない男に、
「本当はな、奉行が帰宅していると聞いて、顔を見にきたのじゃー」
「そうそう。奉行のよく女子にもてる顔を拝みに来たわ。奉行、どうしたら女子にもてるのじゃ。教えて欲しいわ」
 なんて仲間に喋るように、好き放題言っている。
 言われた男も、怒るどころか、
「それはなー、いかん。ねねがおるからここでは言えん。何でもええ、よく来てくれた。久し振りじゃが、みんな達者かー」
 その武将も、弥五兵衛らを仲間と思っているようだ。
(―――分からん)
 どうして大工と、織田軍の武将が仲間なのか。
「奉行も元気そうでなによりだわ。合戦も大工仕事も体が達者じゃないと良い仕事はできんからな」
 あの大人なしい千代松までが、偉そうに喋っている。
 ねねが料理を運んでくると、
「棟梁が、元気そうで安心したわ」
 ねねが笑顔で薦めた。先ほどの怒っていた顔が嘘のようだ。ねねは持って生まれた世話好きの性格だったから、自然に人が来やすい雰囲気を醸し出す。
 左官の棟梁たちも、座って飲み始めた。
「ねねさんも達者そうじゃな。奉行はええ女房を持って幸せ者だわ」
「またまた上手いことを言ってー」
 ねねは素直に喜んで返した。
 今の藤吉郎は、京を支配する織田軍の一翼を担う司令官である。その司令官が、大工の棟梁と仲間のように肩を組み、冗談が言えるのが嬉しい。はっきり身分が違うと理解していても、その司令官が、自分たちと同じように、喋り飲むのはたまらなく愉快なことだ。
 弥五兵衛たちが、忙しい仕事の合間を抜けて藤吉郎の顔を見に来るのは、そんなところに魅力があるからだ。
「弥五兵衛、城下の作事はどうなっている」
 小六が尋ねると、
「そりゃ―忙しいことです。以前から井ノ口は大きな町だったが、織田家が岐阜に本拠を移すと、それにつられて清洲や小牧から人が集まってきました」
「上様の命令は絶対じゃー」
「それに信長さまが、分国内での通行の自由を認めましたからな。それでますます人と物が集まりました。第一、侍衆の屋敷だけで、町がひとつや二つできるほどです」
「そんなに忙しいのかー」
 ねねの義兄弟になる浅野長政が、横から口を挟んだ。
「この先、一年は仕事に追われますね」
「材木の値が沸騰して一年前の二倍になりましたなぁ。それでも注文が減らん」
 信長が、稲葉山城への登り口の百曲がり口と、七曲がり口前の平地に家臣の屋敷を作らせた。家臣たちは信長に命じられると、競って屋敷を新築した。
「問題は、これからだ」
 蜂須賀小六は、世の中の流れをみている。
「これからとはー」
 藤吉郎は愉快に騒いでいても、見逃せない言葉は捕まえる。
「よいか、信長の゛天下布武゛は、敵を力で捻じ伏せることだ」
「合戦が大きくなるかー」
「国内での争いではない。数カ国の敵を相手に戦うことになる」
 弥五兵衛までが心配して、
「奉行、敵は侍だけではないぞ」
「侍以外に、誰と戦うのだ」
 藤吉郎の目が光った。
「一向宗だ。この連中は侮れん勢力でな」
「それはわしも気にしていた。わしの仲間の何人かが一向宗を信心しているが、領主の命令を無視して大坊主の話を信じる」
 佐兵衛も、口を挟んできた。
「うんー」
 藤吉郎も思い当たった。
 京都の町衆や商人衆に支持されている法華教や、武士に支持される禅宗に比べ、一向宗は貧乏で、財物による寄進が出来ない小百姓や職人たちに支えられて発達してきた。
 特に本願寺第八代法王蓮妙は組織作りに長けていたから、まず村々の有力者である坊主や、年老、長(おとな)たちを門徒にすることから始めた。その者たちに「寄り合い」を開かせ、「南無阿弥陀仏」と六字を唱えるだけで、現世の苦しみが来世では極楽往生できると教えた。分かりやすくすぐに実行できる教えは、各地に水が地面に染み込むように浸透していった。
 戦功者と噂の高い三河の松平家康でさえ、国内の一向宗対策に苦労していた。第一、鎮圧する家来衆に一向宗徒がいると、領主の命令を無視して一向宗側に味方するから、より騒動が大きく広がっていく。そのような「百姓の持ちたる国」が各地に出来ているのは聞いていたが、それほどの力を持っているとは想像していなかった。
「それでは聞くが、信長さまの求める天下布武を一向宗が邪魔をするのかー」
「水と油じゃ。いずれどこかでぶつかる」
 蜂須賀小六の読みは、当たる。
「しかし、坊主や百姓が幾ら集まっても侍には勝てん。いざ合戦になれば恐ろしくなって逃げるのではないのかー」
 藤吉郎が軽くいなすと、
「それが逆なのだ」
「ぎゃく」
「侍は利害関係で組織を築いているが、一向宗徒は精神で結ばれているから、死ぬことを誇りと考えている」
 本当に、死ぬことを誇りと考えているのなら厄介じや。
「それも阿弥陀仏のために死ぬと、極楽に行けると教えられているから、喜んで死ぬ奴がいる。難儀なことに、侍よりもしぶとく抵抗する」
 侍は、意地と名誉で死ぬことがあっても、喜んで死ぬ奴はいない。
 藤吉郎は、侍よりも強い組織があることを知った。

 年が明け永禄十二年正月五日。
 将軍義昭の京都御所である本圀寺が、反勢力に襲撃された。阿波将軍と呼ばれた足利十四代義栄を擁立していた三好三人衆と、美濃から逃亡した斎藤龍興が反織田勢力を集めて反撃にでた。幸い京に在留していたの明智光秀、細川藤賢、津田左近たちが協力して撃退したが、正月早々、争乱を予期させる幕開けだった。

 信長は人心を落ち着かせようと、京都の復旧に努め、荒廃した内裏の修理を行うなど、次々と手を打っていった。
 都が一段落すると、前年中座していた南伊勢の攻略に着手し、これも平定する。
 
 さらに年が変わり、元亀に改元されると、東海から畿内をほぼ制圧した織田信長は、越前の朝倉義景の討伐を真剣に考えていた。
 その前に、朝倉義景を都に呼び出すことにした。   
 二条に築いていた将軍御所の落成祝いである。
 信長は各地の大名に、足利義昭の名で上洛を求めた。
 多くの大名が祝いに駆けつけてきたが、朝倉家からは誰一人参列しなかった。
 それを信長は、
「朝倉家は将軍家に対し、反逆心がある」とすり替えた。
 口実は、どのようにでも作れる。
 四月二十日、信長は配下の武将を琵琶湖畔の坂本に結集させた。
 坂本に軍勢が揃うと、越前攻めを発令した。
 二十五日、敦賀に攻め込み、手筒山城を陥落させると、
 翌日、釜ヶ崎城も攻略した。
 
 織田軍の越前朝倉攻めを知った、浅井家が慌てた。
「織田軍が、越前に攻め込みました」
「なにー、一言も聞いておらんぞー」
「信長さま、独断での攻撃と想われます」
「朝倉家を攻撃するときは、我が浅井家に相談する約束ではないか」
 長政が怒った。
「しかし、織田軍は、敦賀の手筒山城と金ヶ崎城をすでに陥落させております。後は一気に朝倉家の本拠である一乗寺谷に攻め込むとー」
「直ぐに重臣を集めよ」
温厚な長政の顔が、怖いほど白かった。
 長政は、信長の性格からいつか朝倉を攻めると考えていたが、必ず浅井家に相談があると信じていた。甘かった。いや信長を甘く見ていた。
 浅井家と朝倉家の絆は、織田家との縁よりもはるかに深い。
 浅井長政は重臣を小谷城に集めると、織田家と朝倉家のどちらに加勢するか評定を開いた。その結果、昔から同盟を契っている、越前朝倉家を選択した。
 長政は、軍勢を琵琶湖の北の疋田に向かわせ、織田軍の退路を塞ぐと、北の朝倉軍と南の浅井軍が、越前に入り込んだ織田軍を挟んだ。
 土地勘のない敵地で、両面から攻撃されたら逃げられない。
 浅井軍の寝返りを知らぬ織田軍は快進撃を続けていた。木の芽峠を越え朝倉家の本拠地一乗寺谷に攻め込もうとしていたときだった。
 信長に、忍びが急を知らせた。
「浅井家が敵にまわりました」
「なにー」
 信長の眉間に、青筋が浮かんだ。
「近江道は、浅井の軍勢で溢れています」
「・・・・・」
「との、時間がありませんぞ」
「くそー、長政めがー」
 信長は癇癪をおこしたが、覚めるのも早い。
「仙千代いるか、仙千代、至急に重臣を集めよ」
「はい」
 万見重元こと、仙千代は信長が寵愛している近習である。
 いつ信長から声がかかっても、対応できるように控えている。
 四半刻後には、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、明智光秀、佐々内蔵助、三河から援軍にきていた松平家康に木下藤吉郎等重臣が顔を揃えた。
 みんなが、浅井家が朝倉家に加担したことを聞いていたから、評定の場の空気は重く、発言する者もいなかった。
「決戦じやー、この際一気に、浅井と朝倉を蹴散らしてしまう」
 強気の信長は、全面対決を唱えた。
「いや、ここは一旦撤退するしか手はない」
 戦体験の豊富な、佐久間信盛が異を唱えた。
 信盛は墨俣で挟撃され、部隊が惨敗した体験がある。まして敵国に攻め込んでいるので、籠もる城もない。意地を張るだけ傷が大きくなることを知っている。
「逃げるだとー。腰抜けめ」
 信長が強気を見せると、
「いいえ、ここは逃げて下さい」
 藤吉郎がはっきり言った。
「猿、逃げるだとー。ここまで攻め込んで逃げるのかー」
「敵地で挟まれて勝つことは、まずありません」
「・・・・・」
「迷っている時間がありません。早く、一刻も早く逃げて下さい」
 周りで聞いていた武将たちは、信長に物怖じせずに意見を言う猿を呆れながらも正論だと認めていた。中でも松平家康は、人の意見を一切聞かぬ信長に、平然と反対する藤吉郎を、寝ているような目でぼっと見ていた。
「猿、では、どうする」
 いつも独断でことを進める信長が、珍しく藤吉郎に聞いた。
「上様には天下布武という大切な仕事が残っています。後は藤吉郎に任せ、方々も退散してください」
 藤吉郎もここが織田家中だけでなく、自分にとっても正念場だと心得ていた。
「分かった。猿、殿軍(しんがり)を任す」
「皆様方も退き陣はこの藤吉郎に任せ、一刻も早く退散して下さい」
 藤吉郎は、明るく急き立てながら、
「ただ旗指物、幟竿に御馬印は各陣営に立て、かがり火を盛大に燃やしてから退却して頂きたいのです」
 敵に、織田の大軍がいるように見せるためだ。
「分かった。皆は猿の献策に従え」
 飲み込みの早い信長が命じると、武将たちは、部下に撤退の指示を出して準備にかかった。
(これも、運じゃー)
藤吉郎は、そう思うことにした。
ただ、蜂須賀小六や前野小右衛門、小一郎たちに命懸けの戦いを強いるのが辛かった。
「猿、京で会おう。命を粗末にするな」
 信長は一言残すと、素早く消えた。
 周りの重臣たちも、藤吉郎に労いの言葉をかけると、時を惜しむように去っていった。
 信長の退却に従い、織田軍の将兵が撤退すると、あれほど賑わっていた金ヶ崎の陣屋は風の音だけになった。
 藤吉郎は、信長が逃げる時間を二刻と読んで、その時間を稼ぐことを考えた。
 陣地に戻った藤吉郎は、陣地のみんなが忙しく働いていることに気がついた。
「どうした。何かあったのかー」
と、尋ねながら、軽く、
「いやいや、またまた大変な役を仰せつかったわ」
 後ろめたい気持ちを隠して言うと、
「ほれ、わしの勝ちだ」
「わしも、勝ったわ」
「なんじゃー、これでは賭けに勝っても儲けにならんわい」
「おい、なにが勝った負けたじゃー」
 気持ちをはぐらかされた藤吉郎が、怪訝な顔で尋ねると、
「どうせ猿大将のことだ。殿軍(しんがり)を引き請けて帰ってくると、みんなで賭けをしていたのだ」
 前野小右衛門が笑いながら言った。以前に比べ、最近の小右衛門はよく笑う。
「―――それで」
「皆が、大将が退き陣を引き受けてくる、に賭けたから、勝っても銭にならんわ」
と、ぼやいた。
「みんなは、わしが殿軍を引き受けると考えていたのかぁー」
 言いながら藤吉郎は、一気に心の重みが外れた。
だが、殿軍は危険な役である。逃げる方と追いかける方の勢いが違う。
 まして、今回は不慣れな敵国内での退き陣だった。
「おい、何年、お前と一緒におると思っているのだ」
 蜂須賀小六が、急き立てながら言うと、
「いいから早くせい、退き陣の準備はできているぞ」
 小一郎が、ぶすっとして言った。
 周りを見ると、高台に土嚢が積み上げられ、その前には掘割が削られていた。土嚢の上には薪が山のように積まれている。朝倉軍が迫ってきたら、この薪に火をつけて落とせば撤退する時間が稼げる。
「すまん、また命を削る仕事になった」
 涙声でしんみりと言うと、
「泣いている暇はないぞ。後、半刻もしたら朝倉の大軍が押し寄せてくるのにー」
「さぁー早く、大声で喚いて指揮をせんかい」
 川並衆の稲田大炊助と、青山新七の荒くれ者が囃した。
 荒い言い方だったが、今の藤吉郎には嬉しい。
「分かった、分かった。二刻、二刻持ち堪えるのじゃ。二刻持ち堪えたら退却する」
 藤吉郎は、大袈裟に手を振り指示を出した。

 木下隊の退き陣は予想通り多難だった。
 幸運だったのは野伏せ上がりの川並衆がいたことだった。ゲリラ戦は川並衆の得意な戦法だったから、敵を引きつけ、妙薬を爆発させ、薪に火を付けて撹乱した。それを繰り返しながら徐々に引いていった。その上に、藤吉郎を中心に団結していたから、絶妙の呼吸で反撃と撤退を交互に行った。敵が怯めばさっと後退する。敵が頭を上げて追撃にかかろうとすると、反撃の態勢を整えていた。
 それでも、十倍の敵から逃げるのは命懸けだった。

 苦難を極めていた木下隊に比べ、信長は進撃した道を逆に走って抜けると、熊川から山を越えて追分に出た。そこからは敵のいる今津を避けて右に曲がり、山懐にある朽木谷を通って京に帰った。

 木下隊が京に辿り着いたのは、信長が帰った二日後だった。
 藤吉郎が、信長のいる本能寺に顔を出すと、
「―――猿、帰ったか」
 信長の甲高い声が妙に甘かった。
「当然でございます」
「死にかけた顔で、当然と申すのか」
「このぐらいの戦では、猿はくたばりません」
 地を這うようにして逃げて来たから、頭の髪はばさばさな上に、顔には泥がつき鉄砲の煤で黒ずんでいた。山火事から逃げ出した猿にそっくりだったが、心構えを売りものにしている藤吉郎は、苦しいときほど堂々と胸を張って応えた。
「―――反撃する」
「当然でございます」
「猿、おまえは、当然と、三日しか知らんのかー」
 信長が笑った。
 信長が笑うことは少ない。
 いや、信長は決して部下には甘い顔を見せない。その信長がたまらず笑った。
 どんな場面に遭遇しても、へこたれず信長の指図を素直に聞いて、
「―――当然」
 応える猿は、一人で考え、決断する信長にとって、安心できる存在になっていた。
「やられたままでは、朝倉も浅井も図に乗ります」
 信長も藤吉郎も、世間の目が気になる。朝倉と浅井の勢いよりも、都人がどのように聞いて、どう判断するかが問題だった。それが噂になって、巷に、
「織田軍が越前で完敗した」
 などと、流布されると困る。
「岐阜に帰って、陣立てをする」
 しかし、これで終らなかった。
 近江を浅井と六角に押さえられた信長は、京から岐阜に帰るには、険峻な鈴鹿山脈を越える道しかなかった。
 信長は、配下の武将を中近江に配置すると、藤吉郎に多賀まで警護させた。
そして、多賀に藤吉郎を残し、敵の追撃に備えさせると、愛知川(えちがわ)沿いに駆け抜け、険しい渋川谷から甲津畑を通り、千種峠を越える道を選んだ。
 この信長の行動を、六角承禎が読んで罠を仕掛けていた。
 甲賀を支配する承禎は、鉄砲放ちの忍者杉谷善住坊に待ち伏せさせていた。
 善住坊は空を飛ぶ鳥さえも、狙って外したことがない鉄砲の名手である。
 その善住坊が、用心深く、三日前から千草峠の洞窟に潜んでいた。直前だと信長の裏忍びに見つかる。気配を消した善住坊は、信長が通りかかると、谷を隔てた僅か十数間の距離から、二つ弾で狙撃した。
 それが外れた。弾は信長の着物をかすったが、傷をつけることもなかった。

「猿、猿―」
 ねねが、飛び出してきた。
 ねねは、越前で藤吉郎が命懸けの殿軍を務めたことを聞いていたから、心配していた。
「ねね、今帰ったぞ」
「ああ、その汚い顔を見れば分かるわ」
「そうかー」
「相変わらず、猿顔じゃー。それでは都の女子にもてんぞ」
 嬉しそうに言ったが、目には涙が浮いていた。
「ねねは小女郎から、女の顔になったな」
「誰が、女狐なのじゃ」
「あははは、誰でもええ。それより飯を食って寝る。寝むれるだけ寝ておく」
「すぐに出陣か」
 ねねも勘がよいから、先を考える。
「上様は必ず反撃する。もう一度近江に攻め込むはずじゃー」
「当然ではないか」
 ねねまでが、当然と応えていた。

 この信長の反撃を予想していた浅井長政は、美濃と近江の国境の砦を補強して待ち構えていた。美濃から近江への入り口、不破ノ関を抜けたところにある刈安(かりやす、上平寺)と、長比(たけくらべ、長久寺)に、越前からの援兵と兵糧を増強していた。
 不破ノ関は、今の関ヶ原町である。伊吹山塊と養老山塊が接近している隘路だった。
 織田の大軍も、一本の細い線にならないと通れない。絞られて少しずつ出てきたところを、両脇の山裾にある砦で待ち構えて討ち取る作戦だった。
 長政は、砦に鎌刃城の猛将、樋口直房を配置して織田軍に備えた。
樋口直房は、近江一と噂のある、合戦に長けた武将である。
 この情報を、忍びから聞いた信長は、隘路での戦の不利を悟ると、樋口直房を調略しょうと考えた。
 調略は、人物の人柄で成る事が多い。
 一人の人物が浮かんだ。その人物は不破の関の東、美濃側にいた。
 菩提山城主竹中半兵衛である。竹中一族僅か十六名を率いて、稲葉山城を占領した男だった。信長が、美濃半国と、半兵衛が占領していた稲葉山城との交換を求めると、
「これは美濃国内の問題です」
 筋を通して拒否した。
 今回も、信長の要望を、素直に引き受けるとは思えない。
(この役は、猿にしかできない)
 信長は、藤吉郎に竹中半兵衛の調略を命じた。

 信長の命を受けた藤吉郎は、早足だけを連れて、垂井の菩提寺山を訪ねた。
 藤吉郎は、竹中半兵衛に会いたかった。
 織田信長でさえ攻め倦んだ稲葉山城を、一時でも占領した人間に興味があった。それも僅か、十六名を率いてのことである。見事というよりも神業だ。
(―――きっと、この藤吉郎にないものを持っている)
 考えると、美しい女子に会いに行くように、胸がときめいた。
 竹中半兵衛は家督を弟の久作に譲り、江濃国境の山中に建てた庵のような小屋に住んで
いた。俗世間を捨てているから、雨露を凌げればよいのだが、本当に粗末な住いだった。
しかし、不思議と、周りの景色に溶け込んでいた。
「木下藤吉郎殿ですか」
 先に言われた。
こんな山の中にいて、誰が訪ねてくるか知っていた。どのように連絡しているのか分からな
いが、しっかりした情報網を張り巡らせているのだ。
「刈安と長比の砦を、攻略したい」
藤吉郎は、隠さずに言った。
藤吉郎が来るのを知っているのなら、当然、来た目的を知っている。
半兵衛は女子のような白い顔で笑うと、質問には応えず、藤吉郎の後ろに控えている早
足に、
「早足殿ですか。よい家来をお持ちじゃー」
 これには藤吉郎も驚いた。
 早足は表にださないようにしている。今日も供として連れてきたのにー。
 その早足を、一目で見抜いた。
「参った。まいった。早足を見抜いているとはなぁー」
 藤吉郎は大袈裟に驚いてみせたが、内心は冷や汗をかいていた。
 早足は、懐に忍ばせている刀である。
 それを、初対面で見抜かれていた。
「木下殿の仕事振りを見れば分かります。敵の要所を的確に突いておられる。それは敵の急所がどこか、誰が主で、どんな性格かを掴んでいなければできません」
「そのとおり。この早足はわしの弟同然でなー。わしが信長さまの仕事ができるのも早足の助けがあるからなのじゃ」
「木下殿が早足殿を、手足のように使いこなされているからではないのですか」
「そうではない。わしと早足はあの山と同じで、ここから見える部分がわしなら、裏の見えないところが早足なのだ」
「二人で、一人だと」
「山は見る位置によって違うが、表も裏も同じ山で尾根も林もかわりがない」
 半兵衛は、笑うとー、
「目的のある人間ほど、強い者はいないですな」
「早足は夢と言うが、わしの目的に全身で協力してくれる」
「真剣に努力されている、その姿に、早足殿も感銘されたのではありませんか」
「わし一人では、何もできん」
「そうですか。では川並衆はどういう立場なのか、教えて下さい」
 竹中半兵衛は、浮浪者から、軍規の厳しい織田軍の一翼を担うまでに出世した男に、興味を抱いた。
 お互いが、相手を自分の目で確かめたかった。
「あいつらかー、あの川並衆は博打仲間でな」
 穏やかに話していた藤吉郎が乱れた。
「あいつらにな、この間も信長さまから頂いた褒美の銭を半分も取られてー。わしはねねにこっぴどく怒られたわ」
 藤吉郎が思い出したのか、目を吊り上げ、歯をむきだしにして悔しがった。
 その藤吉郎の顔を見た半兵衛は、みんなが゛猿゛と呼ぶ理由が分かった。
「あいつらは、いつも、わしの稼いだ銭を狙っておってなー」
 半兵衛は、まさかこんな答えが返ってくるとは思わなかった。
「わしを大将―、大将―と煽てよってー」
 藤吉郎は、思い出すと腹が立った。
「うまいこと博打に誘い込んで、わしの銭を巻き上げようと考えておるのじゃあー」
「その誘いに、何度も乗る大将が悪いわ」
 早足が嗜めると、
「わしも気が付いた。大炊助じゃ」
 早足に相槌を求めると、
「大炊助と青山の新七はつるんでいたのじゃ。あの二人はぐるでな、交代でおだてて、わしを博打に巻き込みよるのじゃ」
「・・・・・」
「しかし、わしも負けたままでは腹の虫が収まらん。今度こそあの二人から取り返して、有り金を巻き上げてやる」
「もう止めたほうがええと、思うがー」
 早足が、控えめにいうと、
「早足、そろそろわしにつきが来るとは思わんか。つきがきてもええはずじゃ。そこでじゃ、半兵衛どのー」
「はい」
「博打に勝つ方法を教えてくれんか」
「博打に、勝つ方法ですかー」
 気負っていた半兵衛の顔が、一瞬歪んだ。
「そうじゃ。わしが信長さまの命令を命懸けで成し遂げても、その報酬を巻き上げられて
は何もならん。ねねに怒られるだけだ。銭を取られるのも博打に負けるのも悔しいー」
「・・・・・」
「あいつらを、一度ぎゃふんと言わせたいのじゃあ」
「博打は、兵法よりも難しい・・・・・」
「なに、兵法よりも、か―」
 藤吉郎は、博打と兵法との関係が分からなかったが、
「知恵者の半兵衛殿でも、博打は難しいのかー」
 藤吉郎が、落胆して言うと、
「実はー」
 半兵衛は部屋の隅から文箱を引き寄せると、竹筒とサイコロを取り出した。
 その竹筒とサイコロは、使い古して角が取れ、色が黒く変色していた。
「―――これは」
 爽やかだった風も乱れた。
「わたしも霞を食べて生きているわけではありません。それに、いつまでも弟の久作の扶持を掠めているのも心苦しい」
 藤吉郎と早足は、半兵衛の意外な面を覗いた気がすると、急に愉しくなった。
「私も博打で勝てるなら、こんな良い方法はないと考えました。なにしろ労いらずに短時間で元金が二倍、三倍、十倍になるのですからー」
 半兵衛が静かに喋ると、博打の話が高度な兵法の話に聞こえる。
「真剣に、博打に勝つ方法を研究しました」
「ほんとうかー」
「博打に出る目は確率だと考え、サイコロを振って統計をとった」
「統計かー、で、どうなった」
 藤吉郎と、早足の目が飛び出しかけていた。
「毎日、毎日サイコロを振って、よく出る目と出ない目を根気よく調べた。またー」
「またー」
「出た目の後にくる目も、調べた」
「それでー」
「その統計表を持たせ、家来を博打場に行かせました」
「勝ったのか」
「―――無駄だった」
「統計の多い目に賭けたのだろう」
「もちろん統計でよく出た目に賭けたが、全く勝てなかった」
 半兵衛はすまして言った。
 絶大な権力を握って、好き放題に振舞った白河天皇でさえ、自分の意のままにならないものを、゛賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬ者 ゛と嘆いたことでも分かるように、双六の目は統計で研究しても、意のままにはならなかった。
「それで分かったのが、博打は生き物だということだ」
「博打が生きているとー」
「私たちは動かないものと考えているが、とんでもない生き物だ。今度はこの目がくると統計から予測しても、その目が、勝手きままに動き回っているから違う目がくる」
「それで生きているのかー」
「だから、博打は勝つことよりも、負けることの方が圧倒的に多いことが分かった」
 控えめに応対していた半兵衛が、悟ったのか胸を張って言った。
「半兵衛殿でも、だめなのかー」
「負けるたびに原因を探し、次に改めて行ったが、やはり勝てなかった」
「そうか、ずっと勝てないのが博打なのか」
「特に大勝負は、するほど負ける。博打は所詮遊びと悟ると楽になる」
「あっはは、早足、わしはいつも勝つことばかり考えていたわ」
 藤吉郎が愉快に笑うと、
「ところで藤吉郎殿、織田軍の近江攻略は捗っているのですかー」
 半兵衛が、逸れていた話を元に戻した。
「おおーそうだった。それを頼みにきたのだったわ」
 藤吉郎は姿勢を正して、半兵衛に向き直ると、
「不破ノ関を塞がれて困っている。半兵衛殿、知恵を貸して下され」
「やはり、調略が一番の策でしょう」
「樋口直房は江北で一、二番の剛の者と聞いている」
「―――いつまでかな」
「と、言われるとー」
「いつまでに、樋口殿に話をすればよいのです」
「なに、半兵衛殿が話をして下さるのか」
 藤吉郎の、締まりのない顔がさらに緩んだ。
「話をするだけです。あとは樋口殿がどう判断されるのかは分からん。とにかく織田家と、木下殿の考えを話してみましょう」
 半兵衛は目の前にいる、武将らしくない男に好感を抱いた。
 これは藤吉郎も同じで、お互いが相手の人柄に惚れた。
 半兵衛は、この型破りな猿男の行く末を、早足やねね、蜂須賀小六、前野小右衛門に小一郎と同じように見ていたかった。
 そしてこの猿顔の男の夢を、一緒に追いかけて行きたくなっている自分を知った。
 その半兵衛の心理を悟ったのか、早足が、
「半兵衛さま、言っておくが・・・・・」
「―――はい」
「おーほん、大将の一番の家来はわしじゃー」
 顔を膨らませて言うと、
「当然です」
と、半兵衛が笑って応えた。
 その二人を藤吉郎が、怪訝な顔でみていた。


                                                了
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みんなの感想(1件)

宮地元廣
2024.05.13 宮地元廣

江南市在住者です。聞き覚えのある地名・苗字が頻繁に出てきました、
とても近親感がわき興味深さも一塩でした。作者の見識恐れ入りました。

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