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旧校舎の幽霊
10・Myosotis
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どうして邪魔するの?
私はただ、私を思い出して欲しかっただけなのに。あの人ならきっと私をわかってくれると思っただけなのに、どうしてあなたはそんな意地悪をするの?
生きているあなたにはきっとわからない。
愛されているあなたにはきっとわからない。
人は全ての人に忘れられたら完全に死んでしまう。私は死にたくなんてなかった。私はもっと生きていたかった。だから覚えていてほしかった。できるだけたくさんの人に、私のことを知ってほしかった。
けれど時は残酷で、私は人が入れ替わり、目まぐるしく世界が変わっていく中で忘れられてしまった。だからもう一度思い出して欲しかった。ただそれだけなのに。
あなたが私の邪魔をするなら、私はあなたを殺してしまおう。
あなたがいたら私は本当に忘れられて、本当の意味で死んでしまうから。だからあなたがあくまで私の邪魔をするなら、あなたには死んでもらわないといけない。
あなたはきっとあの人たちと同じ。私を虐めて楽しんでいるだけ。あの頃の私は弱くて、何も抵抗なんてできなかったけど、今の私は強いから、だからあなたを殺すことだってできる。
でも、普通に殺すだけだと、あなたに私の痛みをわかってはもらえないから。だからあなたの一番奥の、一番忘れたい記憶に、触れてあげる。
苦しい?
でもあなたが悪いんだよ。あなたが私の邪魔をするから。生きているくせに。愛されているくせに。誰かに覚えていてもらえてるくせに。
あなたが消えてしまった後は何も残らない。あなたはすぐに忘れられてしまう。私と同じように本当の意味で死んでしまう。それが私を邪魔した罰。私が味わってきた無間の苦しみを、今度はあなたが味わう番。
泣いても喚いてももう聞いてあげない。
このままこの海の底に沈んで死んでしまえばいい。
*
頭がぼんやりとして、何も考えられなくなる。あの頃はいつもそうだった。そうしなければ由真が能力を使おうとしないとわかっているからだ。なにも考えられなくなっている間は、聞こえてくる言葉に従うことしかできなくなる。
欺瞞だとわかっているのに。
助けるなんて言葉は嘘だとわかっているのに。
それに従うことしかできなくなって、自分の手だけがどんどん汚れていって、由真を恨んで死んでいった人たちの屍が積み上がる。
でも、絶望の中にも微かな光が差すことがあった。
自分と同じように苦しんでいる、いや、自分以上に――名前すら与えられずにただ道具として扱われていた彼のことを、由真は助けたいと思っていた。こんな場所から、彼だけでも自由にしてあげたかった。自分が犠牲になればそれが叶うのだとしたら、それでも構わなかった。誰一人助けられはしない手でも、せめて彼のことだけは。
――けれど光に向かって伸ばした手が空を切る結末を、既に知ってしまっている。
体が深く沈んでいく。蓋をしているはずの記憶がぼんやりとした頭に浮かび上がってくる。体を押さえつける無数の手を振り払う力さえ出せず、されるがままになっていたあの日。けれど霞がかった意識の中で、自分が成功すれば彼は自由になれるだろうかと考えていた。彼は代わりのきく道具で実験動物に過ぎないという言葉が本当なのなら、自分がその代わりになることだってできるのではないか。
視界が霞んで、何が起こっているのかはわからなかった。でもいつもの実験とは桁違いの不快感に襲われる。自分の中に他人の意識が入り込んでくる感覚。それを拒み続けていたから精神汚染によって意識を朦朧とさせられていたのだった。けれど自分の中に他人が入り込むのを受け入れてはいけない。自分を失ってはいけない。彼が教えてくれたのだ。この世界の中で、自分自身だけは見失わないでいる方法を。
譫言のように彼の名前を呟く。それはこの闇を照らす道標。けれどそれは――あの時、その名を呼んではいけなかったのだ。
君は絶望の中のたった一つの希望。
その光を消してしまったのは自分自身。
あのときその名を呼ばなかったら、こんな結末を迎えることはなかったかもしれないのに。
*
微かに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。強く体を揺すられている。体が重くて指先すら動かせないのに、その声は必死さを帯びていく。ぼやけた視界に映ったのは短い髪の少年。きっとまだ夢の中にいるのだろう。彼の姿が見えるはずはないのだから。だって彼はもう――。
「――しっかりしろ、由真!」
耳朶を打つ声に由真ははっとした。見開いた瞳に鮮やかな緑が飛び込んでくる。ここにいるはずはないのに――けれど目に映る彼の姿は紛れもなく、アルなのだ。
「どう、して……」
「僕も良くわからないけど……ここは死人の世界だからじゃないかな」
「私、あのあと……」
「幽霊……っていうかもうあれは怪物だな。あれにこの世界に引き摺り込まれて……あと少しで死ぬところだったんだ」
無数の手に水に沈められたことは覚えている。そして呪いのように響いた由真に害をなす言葉も。そこからの記憶はない。ただ――嫌なことを思い出していた。
「アルが、助けてくれたの?」
「由真から離れた瞬間に攻撃が通るようになったからね。生者は理世子のような力がなければ死者に触れられないが、死んだものどうしなら話は別なんだろう」
「……そう」
「でも仕留め損なった。流石に水中では退却させるのが限界だったな」
淡々と話すアルの袖を由真は強く掴んだ。また会えるとは思っていなかった。たとえここが死者の世界だったとしても。
「……今はとにかくここを出ることを考えよう。僕はいいけど、由真はここに長居すれば体がもたない」
由真は周囲を見回す。どこかの屋敷の庭園なのだろうか。近くには池があり、そこには鯉が泳いでいる。そして由真たちがいるのは、綺麗に整えられた芝の上だった。樹冠を丸く整えた木が整然と植えられているのも見える。一見現実の世界とほぼ変わらないようだが、葡萄色の空だけが異様で、ここが普通の世界でないことを示していた。
「ここを出たら……アルは」
「異常なのは今の状況の方なんだよ、由真。また今までの状態に戻るだけだ」
少し困ったような顔をしてアルが答える。アルの言う通りにするのが正しいのだとわかっている。ここを出なければならない。外の世界にはきっと由真の帰りを待っている人たちがいる。けれど――。
「っ……う」
吐き気が込み上げてきて、由真は口を押さえた。アルの手が由真の背を撫でる。頭が痛い。けれど自家中毒になるほどに力を使った記憶はない。歩月の治療も数日前に受けたばかりだった。
能力を使い過ぎたことによる自家中毒に似ているけれど、少し違う。久しく忘れていた感覚。自分の中に他人が入り込んで、自分自身が侵蝕されていく不快感。生々しく蘇ってくるあの日の記憶。気持ち悪い。それなのにあのときは拒むことすらできなくなっていたのだ。
目の前の少年に縋りつき、その名前を呼ぼうとした瞬間に、由真は喉が凍りついていることに気がついた。名前を呼んではいけない。あのとき、その名を呼びさえしなければ。
「……由真。今の状況は危機的だけど、あそこに比べれば遥かにマシだ。君をあんな風に傷つける人間はもういない」
「……来ないで……私の中に……っ、入って来ないで……」
虫のいい話だと、どこか冷静な頭の隅で由真は自嘲的に思った。他人には入り込まれたくないくせに、由真の持つ力は誰も触れられないはずの種の、その厚い殻の中にすら入り込めてしまうのだ。歩月にそれを使ったのは、歩月の種の汚染を取り除くためだった。けれど目的があったにせよ使ってしまったのは確かだ。
「大丈夫だ。――もう、由真の中に僕以外の場所はないだろう」
他人が入り込んでくることを拒み続けた由真は、しかしアルのことは受け入れた。そうするしかアルの意識を残す方法がなかったからだ。けれどあのときアルは「殺してほしい」と言ったのだ。その言葉を無視したのは、紛れもなく由真だ。
「ごめんなさい……っ、私……」
「由真」
「いや……来ないで……お願い……っ!」
「由真!」
アルの鋭い声に、由真は顔を上げる。その瞬間に強く抱き締められた。温度は感じない。それでもその腕に懐かしさを覚えた。
「もうあいつらはいないんだ。だから……あんなことはもう二度と起きない」
「ぁ……ア、ル……」
「もう少し落ち着くまで待っていたいけど、どうもそうは言ってられなさそうだ」
アルの言葉に反応した由真が後ろを見ると、そこにはあの黒いものが蠢いていた。目を凝らすと、その中心には少女がいるのが見える。星音やカナエと同じ制服を着ている――つまり、あの学校の生徒だったということか。
「由真は下がって」
「でも」
「決着は死人どうしでつけるさ。それに――今、実は結構怒ってるんだよね」
能力を使用するには対価が必要だ。寧々はその知識を、星音は体力を、由真は感情を使って能力を発動させる。そしてアルの場合は――負の感情だ。
「さっきは黙って聞いてれば好き勝手言ってくれたね」
アルが右手を広げると、その手の中に黒い刀身の剣が現れた。けれどその剣には実体はない。能力波の塊を剣の形にしているだけだ。
「僕は君を許さないよ。君は由真に――あの日のことを思い出させた」
いくつもの黒い腕がアルに向かって伸ばされる。剣の一閃で、それらはアルに触れる前に地面に落ちた。しかし地面に落ちた腕はすぐに少女を取り囲む黒いものに吸収されて再生する。
「やっぱり本体をどうにかしないと無駄ってことか」
アルが一歩を強く踏み込む。伸ばされる腕を躱しながら中心にいる少女に向かっていく姿に、由真は思わず目を奪われた。やはりアルは強い。自分よりも遥かに。
アルの剣が少女に突き立てられるその瞬間、由真の体に激痛が走った。気配を感じて咄嗟に避けたが避けきれず、腹部に熱を感じる。手に触れた生温かい赤色を見ながら、幽霊の世界でも血は流れるのか、と由真は思った。由真の異変に気付いたアルが叫ぶ。
「由真!」
「この世界は私の世界。私はこの世界のどこにでも存在している」
由真を攻撃したのは、背後から急に現れた黒い腕だった。少女の周りからだけではなく、この世界のどこからでも攻撃できるということか。しかし由真は自らの傷よりもアルのことが気がかりだった。
「……っ!」
アルの口から声にならない叫びが漏れる。鮮やかな緑色の瞳が僅かに赤みを帯び始めた。
「アル……! 駄目、力を使わないで!」
由真は傷も構わず走り出し、後ろからアルを抱きしめる。最近は安定していることが多かったが、負の感情が許容量を超えてしまうとアルの力は不安定になる。これ以上力を使わせれば危険なことになってしまう。
「私の邪魔をするなら、二人まとめて――!」
「――あなたは」
アルの体を押さえつけるようにしながらも、由真は少女に問う。
「どうして忘れられたくないの?」
幽霊の行動にも理由がある。由真を排除してでもそれをしようとする動機が確かにあるのだ。由真は少女に問いかけるが、少女は叫ぶように言った。
「うるさい! お前に何がわかるんだ!」
黒い腕が由真たちに向かって伸ばされる。由真はアルを庇いながら姿勢を低くし攻撃に備えた。由真は再び痛みが襲ってくることを予想した。けれど黒い腕が由真を貫く直前に、どこからか飛んできた青い光が歪な世界を切り裂いた。
私はただ、私を思い出して欲しかっただけなのに。あの人ならきっと私をわかってくれると思っただけなのに、どうしてあなたはそんな意地悪をするの?
生きているあなたにはきっとわからない。
愛されているあなたにはきっとわからない。
人は全ての人に忘れられたら完全に死んでしまう。私は死にたくなんてなかった。私はもっと生きていたかった。だから覚えていてほしかった。できるだけたくさんの人に、私のことを知ってほしかった。
けれど時は残酷で、私は人が入れ替わり、目まぐるしく世界が変わっていく中で忘れられてしまった。だからもう一度思い出して欲しかった。ただそれだけなのに。
あなたが私の邪魔をするなら、私はあなたを殺してしまおう。
あなたがいたら私は本当に忘れられて、本当の意味で死んでしまうから。だからあなたがあくまで私の邪魔をするなら、あなたには死んでもらわないといけない。
あなたはきっとあの人たちと同じ。私を虐めて楽しんでいるだけ。あの頃の私は弱くて、何も抵抗なんてできなかったけど、今の私は強いから、だからあなたを殺すことだってできる。
でも、普通に殺すだけだと、あなたに私の痛みをわかってはもらえないから。だからあなたの一番奥の、一番忘れたい記憶に、触れてあげる。
苦しい?
でもあなたが悪いんだよ。あなたが私の邪魔をするから。生きているくせに。愛されているくせに。誰かに覚えていてもらえてるくせに。
あなたが消えてしまった後は何も残らない。あなたはすぐに忘れられてしまう。私と同じように本当の意味で死んでしまう。それが私を邪魔した罰。私が味わってきた無間の苦しみを、今度はあなたが味わう番。
泣いても喚いてももう聞いてあげない。
このままこの海の底に沈んで死んでしまえばいい。
*
頭がぼんやりとして、何も考えられなくなる。あの頃はいつもそうだった。そうしなければ由真が能力を使おうとしないとわかっているからだ。なにも考えられなくなっている間は、聞こえてくる言葉に従うことしかできなくなる。
欺瞞だとわかっているのに。
助けるなんて言葉は嘘だとわかっているのに。
それに従うことしかできなくなって、自分の手だけがどんどん汚れていって、由真を恨んで死んでいった人たちの屍が積み上がる。
でも、絶望の中にも微かな光が差すことがあった。
自分と同じように苦しんでいる、いや、自分以上に――名前すら与えられずにただ道具として扱われていた彼のことを、由真は助けたいと思っていた。こんな場所から、彼だけでも自由にしてあげたかった。自分が犠牲になればそれが叶うのだとしたら、それでも構わなかった。誰一人助けられはしない手でも、せめて彼のことだけは。
――けれど光に向かって伸ばした手が空を切る結末を、既に知ってしまっている。
体が深く沈んでいく。蓋をしているはずの記憶がぼんやりとした頭に浮かび上がってくる。体を押さえつける無数の手を振り払う力さえ出せず、されるがままになっていたあの日。けれど霞がかった意識の中で、自分が成功すれば彼は自由になれるだろうかと考えていた。彼は代わりのきく道具で実験動物に過ぎないという言葉が本当なのなら、自分がその代わりになることだってできるのではないか。
視界が霞んで、何が起こっているのかはわからなかった。でもいつもの実験とは桁違いの不快感に襲われる。自分の中に他人の意識が入り込んでくる感覚。それを拒み続けていたから精神汚染によって意識を朦朧とさせられていたのだった。けれど自分の中に他人が入り込むのを受け入れてはいけない。自分を失ってはいけない。彼が教えてくれたのだ。この世界の中で、自分自身だけは見失わないでいる方法を。
譫言のように彼の名前を呟く。それはこの闇を照らす道標。けれどそれは――あの時、その名を呼んではいけなかったのだ。
君は絶望の中のたった一つの希望。
その光を消してしまったのは自分自身。
あのときその名を呼ばなかったら、こんな結末を迎えることはなかったかもしれないのに。
*
微かに自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。強く体を揺すられている。体が重くて指先すら動かせないのに、その声は必死さを帯びていく。ぼやけた視界に映ったのは短い髪の少年。きっとまだ夢の中にいるのだろう。彼の姿が見えるはずはないのだから。だって彼はもう――。
「――しっかりしろ、由真!」
耳朶を打つ声に由真ははっとした。見開いた瞳に鮮やかな緑が飛び込んでくる。ここにいるはずはないのに――けれど目に映る彼の姿は紛れもなく、アルなのだ。
「どう、して……」
「僕も良くわからないけど……ここは死人の世界だからじゃないかな」
「私、あのあと……」
「幽霊……っていうかもうあれは怪物だな。あれにこの世界に引き摺り込まれて……あと少しで死ぬところだったんだ」
無数の手に水に沈められたことは覚えている。そして呪いのように響いた由真に害をなす言葉も。そこからの記憶はない。ただ――嫌なことを思い出していた。
「アルが、助けてくれたの?」
「由真から離れた瞬間に攻撃が通るようになったからね。生者は理世子のような力がなければ死者に触れられないが、死んだものどうしなら話は別なんだろう」
「……そう」
「でも仕留め損なった。流石に水中では退却させるのが限界だったな」
淡々と話すアルの袖を由真は強く掴んだ。また会えるとは思っていなかった。たとえここが死者の世界だったとしても。
「……今はとにかくここを出ることを考えよう。僕はいいけど、由真はここに長居すれば体がもたない」
由真は周囲を見回す。どこかの屋敷の庭園なのだろうか。近くには池があり、そこには鯉が泳いでいる。そして由真たちがいるのは、綺麗に整えられた芝の上だった。樹冠を丸く整えた木が整然と植えられているのも見える。一見現実の世界とほぼ変わらないようだが、葡萄色の空だけが異様で、ここが普通の世界でないことを示していた。
「ここを出たら……アルは」
「異常なのは今の状況の方なんだよ、由真。また今までの状態に戻るだけだ」
少し困ったような顔をしてアルが答える。アルの言う通りにするのが正しいのだとわかっている。ここを出なければならない。外の世界にはきっと由真の帰りを待っている人たちがいる。けれど――。
「っ……う」
吐き気が込み上げてきて、由真は口を押さえた。アルの手が由真の背を撫でる。頭が痛い。けれど自家中毒になるほどに力を使った記憶はない。歩月の治療も数日前に受けたばかりだった。
能力を使い過ぎたことによる自家中毒に似ているけれど、少し違う。久しく忘れていた感覚。自分の中に他人が入り込んで、自分自身が侵蝕されていく不快感。生々しく蘇ってくるあの日の記憶。気持ち悪い。それなのにあのときは拒むことすらできなくなっていたのだ。
目の前の少年に縋りつき、その名前を呼ぼうとした瞬間に、由真は喉が凍りついていることに気がついた。名前を呼んではいけない。あのとき、その名を呼びさえしなければ。
「……由真。今の状況は危機的だけど、あそこに比べれば遥かにマシだ。君をあんな風に傷つける人間はもういない」
「……来ないで……私の中に……っ、入って来ないで……」
虫のいい話だと、どこか冷静な頭の隅で由真は自嘲的に思った。他人には入り込まれたくないくせに、由真の持つ力は誰も触れられないはずの種の、その厚い殻の中にすら入り込めてしまうのだ。歩月にそれを使ったのは、歩月の種の汚染を取り除くためだった。けれど目的があったにせよ使ってしまったのは確かだ。
「大丈夫だ。――もう、由真の中に僕以外の場所はないだろう」
他人が入り込んでくることを拒み続けた由真は、しかしアルのことは受け入れた。そうするしかアルの意識を残す方法がなかったからだ。けれどあのときアルは「殺してほしい」と言ったのだ。その言葉を無視したのは、紛れもなく由真だ。
「ごめんなさい……っ、私……」
「由真」
「いや……来ないで……お願い……っ!」
「由真!」
アルの鋭い声に、由真は顔を上げる。その瞬間に強く抱き締められた。温度は感じない。それでもその腕に懐かしさを覚えた。
「もうあいつらはいないんだ。だから……あんなことはもう二度と起きない」
「ぁ……ア、ル……」
「もう少し落ち着くまで待っていたいけど、どうもそうは言ってられなさそうだ」
アルの言葉に反応した由真が後ろを見ると、そこにはあの黒いものが蠢いていた。目を凝らすと、その中心には少女がいるのが見える。星音やカナエと同じ制服を着ている――つまり、あの学校の生徒だったということか。
「由真は下がって」
「でも」
「決着は死人どうしでつけるさ。それに――今、実は結構怒ってるんだよね」
能力を使用するには対価が必要だ。寧々はその知識を、星音は体力を、由真は感情を使って能力を発動させる。そしてアルの場合は――負の感情だ。
「さっきは黙って聞いてれば好き勝手言ってくれたね」
アルが右手を広げると、その手の中に黒い刀身の剣が現れた。けれどその剣には実体はない。能力波の塊を剣の形にしているだけだ。
「僕は君を許さないよ。君は由真に――あの日のことを思い出させた」
いくつもの黒い腕がアルに向かって伸ばされる。剣の一閃で、それらはアルに触れる前に地面に落ちた。しかし地面に落ちた腕はすぐに少女を取り囲む黒いものに吸収されて再生する。
「やっぱり本体をどうにかしないと無駄ってことか」
アルが一歩を強く踏み込む。伸ばされる腕を躱しながら中心にいる少女に向かっていく姿に、由真は思わず目を奪われた。やはりアルは強い。自分よりも遥かに。
アルの剣が少女に突き立てられるその瞬間、由真の体に激痛が走った。気配を感じて咄嗟に避けたが避けきれず、腹部に熱を感じる。手に触れた生温かい赤色を見ながら、幽霊の世界でも血は流れるのか、と由真は思った。由真の異変に気付いたアルが叫ぶ。
「由真!」
「この世界は私の世界。私はこの世界のどこにでも存在している」
由真を攻撃したのは、背後から急に現れた黒い腕だった。少女の周りからだけではなく、この世界のどこからでも攻撃できるということか。しかし由真は自らの傷よりもアルのことが気がかりだった。
「……っ!」
アルの口から声にならない叫びが漏れる。鮮やかな緑色の瞳が僅かに赤みを帯び始めた。
「アル……! 駄目、力を使わないで!」
由真は傷も構わず走り出し、後ろからアルを抱きしめる。最近は安定していることが多かったが、負の感情が許容量を超えてしまうとアルの力は不安定になる。これ以上力を使わせれば危険なことになってしまう。
「私の邪魔をするなら、二人まとめて――!」
「――あなたは」
アルの体を押さえつけるようにしながらも、由真は少女に問う。
「どうして忘れられたくないの?」
幽霊の行動にも理由がある。由真を排除してでもそれをしようとする動機が確かにあるのだ。由真は少女に問いかけるが、少女は叫ぶように言った。
「うるさい! お前に何がわかるんだ!」
黒い腕が由真たちに向かって伸ばされる。由真はアルを庇いながら姿勢を低くし攻撃に備えた。由真は再び痛みが襲ってくることを予想した。けれど黒い腕が由真を貫く直前に、どこからか飛んできた青い光が歪な世界を切り裂いた。
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