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番外編4
蝶の籠1
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*
月の女神と美しい青年の恋の物語を知っている?
月の女神は美しい青年に恋をして、そして全知全能の神にこう願ったの。
――彼の美しさを永遠のものにしてください、と。
全知全能の神は月の女神に二つの選択肢を提示した。それは死か、眠りか。女神は永遠の眠りを選んで、美しいまま眠り続ける青年のもとに夜毎通うようになった、というお話よ。
何が言いたいのかって?
私は、その女神の気持ちがよくわかるのよ。人は老いていく。世界の塵芥に塗れ汚れていく。せっかく美しいのにそれってもったいないじゃない。美しいものの時間を止めて、その美しさを永遠にしたいの。
そう。そして私にはその力がある。
あなたの美しさが誰にも損なわれないように、私が護ってあげるわ。
*
「まるで陶器のような肌膚……この傷も美しいわ」
整えられた爪。水仕事など一度もしたことのないだろう女の白い手が由真の腕を撫でた。由真は何も答えない。答えることは、声を発することは、許されていない。
「ああ本当に……こんなに綺麗な子は見たことがないわ」
女の指が由真の頬をなぞる。そしてその手は首筋から鎖骨へと、慈しむように、愛でるようにゆっくりと移動した。
「もうあなたを傷つけるものはどこにもないわ。あなたはここで、永遠に美しいままでいられる」
女は右手で由真の肩を抱き、左手の掌を上に向けた。何もないはずの場所から紫色の半透明の蝶が生まれ、女の手を離れた蝶が由真の左手の甲に止まり、その肌に吸い込まれるように消えていく。
「もう少しの辛抱よ。そうしたら、もう苦しいことは何もなくなるのだから」
女が陶酔したような声で言う。由真の目はどこか虚で、女の話を聞いているのかいないのかもわからない。
部屋の中は影すらも白いと思われるほどだった。一切の汚れを許さないように、調度品は全て白が保たれている。色を持っているのはそこにいる二人の人間だけだった。
やがて、白い部屋の中にノックの音が響く。
「――奥様、お時間です」
漆黒の洋服に身を包んだ髪の長い女中が言う。女はそれを聞くと、溜息交じりに立ち上がった。
「厭になるわね。折角愉しい時間を過ごしていたのに」
女には仕事がある。いつまでもこの白い牢獄にいるわけにはいかないのだ。女は女中を部屋に残し、一人で出て行った。仕事の内容は誰にも知られてはならない。それが使用人であっても、だ。
扉が閉まり、白の部屋に静寂が生まれる。十秒ほど数えてから、使用人――寧々は由真のうなじに手を伸ばした。そこに貼り付けられている黒く小さな石をそっと外す。その瞬間に、由真の唇から深い溜息が漏れた。
「――お疲れ様」
「ほんっとに疲れたんだけど」
「ちゃんと様になってたわよ。役者になれるんじゃない?」
「何で私がこんなことしなきゃなんないわけ……?」
「自分でやるって言ったくせに……」
「囮捜査なんて他の人にやらせるわけにいかないでしょ……こんなん星音とか或果とか梨杏とか黄乃だったら大変なことになってるよ」
由真はベッドに寝転んで寝返りを打つ。この屋敷の主である女が用意した真っ白なドレスが揺らめく。あとで気付かれないように直す身にもなってほしいな、と思いながら、寧々はベッドに腰掛けた。
「ていうか黄乃の場合は脱がせたらバレるからそもそもダメでしょ」
「ああ……そういえばそうか……。てか私はいつまでこんなことやんなきゃいけないわけ?」
「もう少し……まだ調べたいことがあるのよ」
「なるべく早くして……私だからまだいいけど、結構キツいんだから」
寧々は寝転ぶ由真の髪を撫でた。急がなければならないのはわかっている。そして、この作戦は由真だから成立しているのだということも。
事の発端は、二週間前にアルカイドに持ち込まれた悠子からの依頼だった。一年ほど前から起きている能力者の少女の失踪事件、そしてそれに関係していそうな、山奥の洋館に住んでいる揚羽透子という女の調査――警察で捜査が打ち切られそうになっているからといって、悠子が頼み込んできたのだ。最初は外から調査をするつもりだったのだが、やがて屋敷に潜り込む必要があると気が付き、囮捜査を決行したのだ。
まさかそれがうまくいくとは思わなかったが――と寧々は目を細める。使用人の一人を買収し寧々が潜り込む。それと同時に誘拐される被害者として由真が潜入する。そうすることで透子が少女たちに何をしているのかを知る必要があった。由真が選ばれた理由は、持ち物を全て奪われたとしても、いざとなったら戦えること、精神汚染系の能力に並みの人よりも耐性があること、そして――透子の目を引く美しさを持ち合わせていることだ。しかし狙い通り透子が由真に目をつけてくれるかどうかはわからなかったのだが――結果として、寧々が驚くほどに事がうまく運んだ。
「体調はどう?」
「いいわけないでしょ……あの蝶、結構強いんだけど」
「今日で三日目……並みの人間ならそろそろ限界ね」
「……人を並みの人間じゃないみたいに」
「能力の副作用なのか知らないけど、やたら精神汚染系の能力に耐性あるじゃない。アズールの侵蝕だって一応は耐えたし」
「ああ……あの薬に比べたらだいぶ弱いね。数を重ねないと効果が出ない。能力としてはそれほど大したことはないのかも。だからその石を使ってるんだろうけど」
透子の能力自体はそれほど脅威でもない。問題は、連れてこられた少女たちがうなじに取り付けられる黒く小さな石だった。それは人の体の動きを奪い、意識を混濁させる。由真の場合は意識の混濁には抵抗もできるが、身動きはほとんど取れないようだ。
「こっちが抵抗できないからってやりたい放題だし……ぜんっぜん理解できないんだけどあの人……」
「そう? 由真が綺麗なのは理解できるけどなぁ」
寧々は手の甲で由真の頬をなぞる。由真は呆れたように溜息を吐いた。
「で? あとは何を調べる予定なの?」
「この石を誰が作ったのか――そして失踪した女の子たちはどこに行ったのか。共犯は炙り出しておきたいし……あの人は誘拐した人間を殺す趣味はなさそうだから、きっと全員この屋敷のどこかにいるはず」
「最悪私もそこに運ばれるやつじゃんそれ」
「その前に決着をつけたいところね。とはいえ尻尾が掴めなくて。あんまり派手に動くと私も怪しまれちゃうし」
「できれば早くしてくれると嬉しい。能力には多分耐えられるだろうけど……あまりここに長居したくない」
寧々は頷いた。そろそろ仕事に戻らなければ怪しまれてしまうだろう。寧々は由真を抱きしめるようにしてうなじに手を伸ばす。
「それじゃあ私はそろそろ行くから。これ……付けるわね」
「うん」
「もう少しの辛抱よ。なるべく急ぐから」
黒く小さな石が取り付けられた瞬間、由真の目がわずかに虚ろになる。声を出すことも、動くこともできないその姿はまるで精巧に作られた人形のようだった。
*
寝台に寝かされていても、体を動かすことはできない。由真はただぼんやりと天井を眺めていた。今は部屋には誰もいない。透子は夜も由真の隣で寝ているが、今日は仕事が終わらないらしく、先に寝ていてと言われ、布団を被せられたのだ。
体は動かないが、意識はそれなりにはっきりしている。そこだけは透子に気付かれないように、わざとぼんやりと振る舞っているのだ。
(――由真)
80UMaが表に出てきたところで、言葉は発せられない。けれど喉の僅かな振動で何を言いたいかはわかる。思うだけでは伝わらないが、喉を使おうとすればアルとの意思疎通はできる。この三日で知った、誰にも言うつもりのない事実だった。
(本当に大丈夫なのか?)
(大丈夫だってアルならわかるでしょ)
精神汚染能力への耐性。それがどこで身につけられたものなのか知っている人はいない。何度も使われて、それに抵抗しているうちに耐性がついてしまったのだ。
(それでも、あまり何度も受けていいものではないから。影響が全くないわけではないんだし)
(まだ少し頭がぼんやりするくらいだけど……どちらかというとこの部屋が嫌だ)
無菌室のような、一切の汚れを許さない真っ白な部屋。この部屋のように広くはなかったが、北斗の家で過ごしていた部屋を思い出してしまう。真っ白で狭い部屋。ぼんやりとする意識。寧々には言わなかったが、本当は今すぐにここから出たいと思っているほどに苦痛だ。
(寧々もできる限り急いでるのはわかってるけど、こっちでも何か掴めそうなら掴みたい。アルは何か気付いたこととかない?)
(残念ながら、特には。強いて言うなら……揚羽透子の能力である蝶と、誰だかわからない人間の能力であるこの石から、似通ったものを感じる)
(似通ったもの?)
(僕には能力波を見る力はないからあくまで感覚だ。けれど、例えば親戚とか……能力波が似通る例はあったはずだ)
(寧々は揚羽透子が能力を使うところを、まだその目では見てない。だから気付かなかったのか)
血が繋がっている場合、能力波が似ているということは珍しくないことらしい。それなら共犯者は揚羽透子の親戚なのだろうか。しかし、事前の調査で現在の揚羽透子に親戚の類はいないということがわかっている。事故で前の当主である透子の父親と母親が亡くなったあと、透子は天涯孤独の身となったのだと聞いている。
(どこかに隠れている親戚がいるのか……)
(あるいは、揚羽透子が多重能力持ちという可能性もあるだろう)
(多重能力持ちは……普通じゃ無理だよ。種に触れるならまだしも)
(もう一つあるだろう。一人の中に二つの人格。そして二つの能力――多重人格のパターンだ)
由真ははっとした。その可能性は知っていたし、目にしたこともある。けれど思いつかなかったのだ。寧々もおそらくそうだろう。解離性同一性障害の能力者で、稀に能力も複数に分かれていることがある。元は一人の人間の一つの能力なので、能力波は当然似通ってくる。
(その可能性も視野に入れて、こっちでも探ってみるか……寧々にも言ってみる)
(それがいい。僕としてもあまりここに長居はしたくなくて)
(その割には調子良さそうだけど)
(それは由真のおかげだと思うんだけどね。まあいい。そろそろあの女が戻ってくる)
アルに言われ耳を澄ませば、確かに足音が聞こえた。しかしいつもとは違っている。子供の走り方のような、バタバタとした音。やがてその音は部屋の前で止まり、静かに扉が開いた。
「この子がトウコの言ってた子? わぁ……本当にきれい!」
幼い喋り方だが、声は間違いなく揚羽透子のものだ。由真は意識があることに気付かれないように目を閉じながらも、自分に近付いてくる気配を感じ取っていた。
「まっててね。みんなのところに行く前に、いっぱいきれいにしてあげる」
布団をそっと捲られ、白いドレスの下の足に触れられる。その瞬間に触れられた部分に激痛が走り、声を封じられた由真の喉から吐息だけが漏れた。
「これでもうどこにもいけない……ずっときれいなままで、わたしとあそんでくれるよね?」
触れられた部分に何が起こっているのか、見ることはできない。けれど楽しそうに笑いながら触れられる度に、体が硬い殻に覆われていくような感覚に襲われる。あの蝶とも、黒い石とも違う能力。そして何より子供のようなその口調と気配。
(二人じゃなくて、三人……)
寧々にそれを伝えるにしても、体の自由を奪われている状態では何もできない。それどころか時間が経つ程に窮地に追い込まれていく一方だ。
(寧々……!)
最終手段はまだ残っている。けれどそれを使うのは躊躇われた。それは耐えられないと思う瀬戸際まで使えない方法だ。だからその前に、早く。
月の女神と美しい青年の恋の物語を知っている?
月の女神は美しい青年に恋をして、そして全知全能の神にこう願ったの。
――彼の美しさを永遠のものにしてください、と。
全知全能の神は月の女神に二つの選択肢を提示した。それは死か、眠りか。女神は永遠の眠りを選んで、美しいまま眠り続ける青年のもとに夜毎通うようになった、というお話よ。
何が言いたいのかって?
私は、その女神の気持ちがよくわかるのよ。人は老いていく。世界の塵芥に塗れ汚れていく。せっかく美しいのにそれってもったいないじゃない。美しいものの時間を止めて、その美しさを永遠にしたいの。
そう。そして私にはその力がある。
あなたの美しさが誰にも損なわれないように、私が護ってあげるわ。
*
「まるで陶器のような肌膚……この傷も美しいわ」
整えられた爪。水仕事など一度もしたことのないだろう女の白い手が由真の腕を撫でた。由真は何も答えない。答えることは、声を発することは、許されていない。
「ああ本当に……こんなに綺麗な子は見たことがないわ」
女の指が由真の頬をなぞる。そしてその手は首筋から鎖骨へと、慈しむように、愛でるようにゆっくりと移動した。
「もうあなたを傷つけるものはどこにもないわ。あなたはここで、永遠に美しいままでいられる」
女は右手で由真の肩を抱き、左手の掌を上に向けた。何もないはずの場所から紫色の半透明の蝶が生まれ、女の手を離れた蝶が由真の左手の甲に止まり、その肌に吸い込まれるように消えていく。
「もう少しの辛抱よ。そうしたら、もう苦しいことは何もなくなるのだから」
女が陶酔したような声で言う。由真の目はどこか虚で、女の話を聞いているのかいないのかもわからない。
部屋の中は影すらも白いと思われるほどだった。一切の汚れを許さないように、調度品は全て白が保たれている。色を持っているのはそこにいる二人の人間だけだった。
やがて、白い部屋の中にノックの音が響く。
「――奥様、お時間です」
漆黒の洋服に身を包んだ髪の長い女中が言う。女はそれを聞くと、溜息交じりに立ち上がった。
「厭になるわね。折角愉しい時間を過ごしていたのに」
女には仕事がある。いつまでもこの白い牢獄にいるわけにはいかないのだ。女は女中を部屋に残し、一人で出て行った。仕事の内容は誰にも知られてはならない。それが使用人であっても、だ。
扉が閉まり、白の部屋に静寂が生まれる。十秒ほど数えてから、使用人――寧々は由真のうなじに手を伸ばした。そこに貼り付けられている黒く小さな石をそっと外す。その瞬間に、由真の唇から深い溜息が漏れた。
「――お疲れ様」
「ほんっとに疲れたんだけど」
「ちゃんと様になってたわよ。役者になれるんじゃない?」
「何で私がこんなことしなきゃなんないわけ……?」
「自分でやるって言ったくせに……」
「囮捜査なんて他の人にやらせるわけにいかないでしょ……こんなん星音とか或果とか梨杏とか黄乃だったら大変なことになってるよ」
由真はベッドに寝転んで寝返りを打つ。この屋敷の主である女が用意した真っ白なドレスが揺らめく。あとで気付かれないように直す身にもなってほしいな、と思いながら、寧々はベッドに腰掛けた。
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「もう少し……まだ調べたいことがあるのよ」
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寧々は寝転ぶ由真の髪を撫でた。急がなければならないのはわかっている。そして、この作戦は由真だから成立しているのだということも。
事の発端は、二週間前にアルカイドに持ち込まれた悠子からの依頼だった。一年ほど前から起きている能力者の少女の失踪事件、そしてそれに関係していそうな、山奥の洋館に住んでいる揚羽透子という女の調査――警察で捜査が打ち切られそうになっているからといって、悠子が頼み込んできたのだ。最初は外から調査をするつもりだったのだが、やがて屋敷に潜り込む必要があると気が付き、囮捜査を決行したのだ。
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「体調はどう?」
「いいわけないでしょ……あの蝶、結構強いんだけど」
「今日で三日目……並みの人間ならそろそろ限界ね」
「……人を並みの人間じゃないみたいに」
「能力の副作用なのか知らないけど、やたら精神汚染系の能力に耐性あるじゃない。アズールの侵蝕だって一応は耐えたし」
「ああ……あの薬に比べたらだいぶ弱いね。数を重ねないと効果が出ない。能力としてはそれほど大したことはないのかも。だからその石を使ってるんだろうけど」
透子の能力自体はそれほど脅威でもない。問題は、連れてこられた少女たちがうなじに取り付けられる黒く小さな石だった。それは人の体の動きを奪い、意識を混濁させる。由真の場合は意識の混濁には抵抗もできるが、身動きはほとんど取れないようだ。
「こっちが抵抗できないからってやりたい放題だし……ぜんっぜん理解できないんだけどあの人……」
「そう? 由真が綺麗なのは理解できるけどなぁ」
寧々は手の甲で由真の頬をなぞる。由真は呆れたように溜息を吐いた。
「で? あとは何を調べる予定なの?」
「この石を誰が作ったのか――そして失踪した女の子たちはどこに行ったのか。共犯は炙り出しておきたいし……あの人は誘拐した人間を殺す趣味はなさそうだから、きっと全員この屋敷のどこかにいるはず」
「最悪私もそこに運ばれるやつじゃんそれ」
「その前に決着をつけたいところね。とはいえ尻尾が掴めなくて。あんまり派手に動くと私も怪しまれちゃうし」
「できれば早くしてくれると嬉しい。能力には多分耐えられるだろうけど……あまりここに長居したくない」
寧々は頷いた。そろそろ仕事に戻らなければ怪しまれてしまうだろう。寧々は由真を抱きしめるようにしてうなじに手を伸ばす。
「それじゃあ私はそろそろ行くから。これ……付けるわね」
「うん」
「もう少しの辛抱よ。なるべく急ぐから」
黒く小さな石が取り付けられた瞬間、由真の目がわずかに虚ろになる。声を出すことも、動くこともできないその姿はまるで精巧に作られた人形のようだった。
*
寝台に寝かされていても、体を動かすことはできない。由真はただぼんやりと天井を眺めていた。今は部屋には誰もいない。透子は夜も由真の隣で寝ているが、今日は仕事が終わらないらしく、先に寝ていてと言われ、布団を被せられたのだ。
体は動かないが、意識はそれなりにはっきりしている。そこだけは透子に気付かれないように、わざとぼんやりと振る舞っているのだ。
(――由真)
80UMaが表に出てきたところで、言葉は発せられない。けれど喉の僅かな振動で何を言いたいかはわかる。思うだけでは伝わらないが、喉を使おうとすればアルとの意思疎通はできる。この三日で知った、誰にも言うつもりのない事実だった。
(本当に大丈夫なのか?)
(大丈夫だってアルならわかるでしょ)
精神汚染能力への耐性。それがどこで身につけられたものなのか知っている人はいない。何度も使われて、それに抵抗しているうちに耐性がついてしまったのだ。
(それでも、あまり何度も受けていいものではないから。影響が全くないわけではないんだし)
(まだ少し頭がぼんやりするくらいだけど……どちらかというとこの部屋が嫌だ)
無菌室のような、一切の汚れを許さない真っ白な部屋。この部屋のように広くはなかったが、北斗の家で過ごしていた部屋を思い出してしまう。真っ白で狭い部屋。ぼんやりとする意識。寧々には言わなかったが、本当は今すぐにここから出たいと思っているほどに苦痛だ。
(寧々もできる限り急いでるのはわかってるけど、こっちでも何か掴めそうなら掴みたい。アルは何か気付いたこととかない?)
(残念ながら、特には。強いて言うなら……揚羽透子の能力である蝶と、誰だかわからない人間の能力であるこの石から、似通ったものを感じる)
(似通ったもの?)
(僕には能力波を見る力はないからあくまで感覚だ。けれど、例えば親戚とか……能力波が似通る例はあったはずだ)
(寧々は揚羽透子が能力を使うところを、まだその目では見てない。だから気付かなかったのか)
血が繋がっている場合、能力波が似ているということは珍しくないことらしい。それなら共犯者は揚羽透子の親戚なのだろうか。しかし、事前の調査で現在の揚羽透子に親戚の類はいないということがわかっている。事故で前の当主である透子の父親と母親が亡くなったあと、透子は天涯孤独の身となったのだと聞いている。
(どこかに隠れている親戚がいるのか……)
(あるいは、揚羽透子が多重能力持ちという可能性もあるだろう)
(多重能力持ちは……普通じゃ無理だよ。種に触れるならまだしも)
(もう一つあるだろう。一人の中に二つの人格。そして二つの能力――多重人格のパターンだ)
由真ははっとした。その可能性は知っていたし、目にしたこともある。けれど思いつかなかったのだ。寧々もおそらくそうだろう。解離性同一性障害の能力者で、稀に能力も複数に分かれていることがある。元は一人の人間の一つの能力なので、能力波は当然似通ってくる。
(その可能性も視野に入れて、こっちでも探ってみるか……寧々にも言ってみる)
(それがいい。僕としてもあまりここに長居はしたくなくて)
(その割には調子良さそうだけど)
(それは由真のおかげだと思うんだけどね。まあいい。そろそろあの女が戻ってくる)
アルに言われ耳を澄ませば、確かに足音が聞こえた。しかしいつもとは違っている。子供の走り方のような、バタバタとした音。やがてその音は部屋の前で止まり、静かに扉が開いた。
「この子がトウコの言ってた子? わぁ……本当にきれい!」
幼い喋り方だが、声は間違いなく揚羽透子のものだ。由真は意識があることに気付かれないように目を閉じながらも、自分に近付いてくる気配を感じ取っていた。
「まっててね。みんなのところに行く前に、いっぱいきれいにしてあげる」
布団をそっと捲られ、白いドレスの下の足に触れられる。その瞬間に触れられた部分に激痛が走り、声を封じられた由真の喉から吐息だけが漏れた。
「これでもうどこにもいけない……ずっときれいなままで、わたしとあそんでくれるよね?」
触れられた部分に何が起こっているのか、見ることはできない。けれど楽しそうに笑いながら触れられる度に、体が硬い殻に覆われていくような感覚に襲われる。あの蝶とも、黒い石とも違う能力。そして何より子供のようなその口調と気配。
(二人じゃなくて、三人……)
寧々にそれを伝えるにしても、体の自由を奪われている状態では何もできない。それどころか時間が経つ程に窮地に追い込まれていく一方だ。
(寧々……!)
最終手段はまだ残っている。けれどそれを使うのは躊躇われた。それは耐えられないと思う瀬戸際まで使えない方法だ。だからその前に、早く。
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