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Into the Water

3・優しい場所2

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 由真が小学六年生の冬、六歳違いの由真の兄は指定校推薦で早々に大学合格を決めていたため、比較的穏やかな日々を送っていた。けれど由真は、最近兄が何かを隠していることに気がついていた。特に最近、由真には絶対郵便受けをのぞかせないし、家にかかってくる電話も兄がすぐに取ってしまう。けれど直接尋ねてもはぐらかされるだけだった。
 由真はある日、意を決して兄よりも先に郵便受けを開けた。兄の顔が青褪めたことに気が付いたけれど、そのまま中身を取り出す。ほとんどがチラシの類。一つは父親宛の、電気料金の引き落とし額を知らせる葉書。そしてもう一つは、兄宛の封筒だった。
「由真」
 兄が手を出して、封筒を渡すように言う。由真は首を横に振った。
「最近、お兄ちゃん何か変だよ」
「由真……」
「原因はこれなんでしょ?」
「……確かにそうだよ。でも由真、これは僕の問題だから」
 由真は首を横に振り、封筒を後ろ手に隠す。自分でもどうしてそんなことをしたのかわからなかった。けれど本能的に、それは自分にも関わるもののような気がしたのだ。兄の制止を振り切って、由真は封筒を開けた。
「由真はこんなもの見なくていい」
「でも、お兄ちゃん……」
 中に入っていた紙はすぐに奪い取られたが、そこには兄を中傷するような言葉が並んでいるのが確かに見えた。そこには「能力者の妹」という言葉もあった。
「歴史の教科書レベルの古典的な嫌がらせだよ。ほら、指定校でさっさと合格決めちゃったから僻まれたりするんだ」
「……でも、私がいなかったらあんなこと書かれなかった」
「由真。こういう嫌がらせをしてくる奴らは、由真が能力者でなければ僕の他の欠点を探して来るものだ。叩くことができれば材料は何だっていい。ネットは最近監視の目が厳しくて、逆にリアルの監視が手薄になってきているところを狙ってくるあたりも、相手にするだけ無駄な卑劣な奴なんだよ」
「でも」
「だから由真のせいじゃないんだ。由真は僕の自慢の妹だよ?」
 由真は泣きながら首を横に振った。兄の言うことは理解できたけれど、どうしても自分のせいだという気持ちが拭えなかった。そして兄への手紙に書かれていた言葉は、由真自身にも突き刺さっていた。
「私がやってることは……間違ってるの?」
「由真……そもそも由真の能力は珍しすぎてほぼ何もわかってないってお医者さんも言ってただろう? だからこんなのきっと誰かが適当に考えたか、そういう都市伝説なんだよ」
「でも……これが本当だったら、今まで私は……」
「由真……でも、由真はその人が望んでないのに力を使ったことは一度もないじゃないか」
「全部見てきたわけじゃないのに、どうしてわかるの……!」
 実際、兄の言うことは正しかった。暴走して、もう種を取り除くしか助かる見込みがない人に対しても、基本的にはその意思を確認することにしていた。けれどそれは、種を取り除いても体に特に影響はないのだと由真が思っていたからだ。
「わかるよ。由真は優しい子だから」
「私は……私は、優しくなんてない……だって」
 泣きじゃくりながら、由真は言う。習い事に行きたくなくて何度も嘘をついた。求められたら力を使った。それが全部自分のエゴでしかなかったことに気が付いてしまったのだ。ただそうやって、自分自身が気持ちよくなりたかっただけ。他人のことなんて本当は考えていなかった。
「そうか……それでも、僕は由真は優しい子だと思うよ。優し過ぎるくらいだ」
 由真は何度も首を横に振る。もしも手紙に書いてあることが本当なら――種を抜くことがその人の寿命を縮める行為なのだとしたら、今まで自分がしてきたことは何なのだろうか。それでいい気分になっていた自分は、あの手紙に書かれていたように人殺しなのではないか。
 手紙の言葉が本当かはまだわかっていない。種については普通には取り出せないから研究も進んでおらず、このときもあくまでそういう仮説があったというだけだ。けれどその可能性があるということは、知らなかったとはいえそれでも力を使い続けてきたことは、由真の心に深い傷をつけるのには十分すぎる事実だった。



 それから由真は求められても一切力を使うことはなく、北斗の家から足も遠のいた。由真が時折習い事を無断で休んでいることに気が付いていたらしい由真の母親は、再び真面目に通い始めた由真の姿を見て安心していたようだが、由真の心には確かな変化が起きていた。
(……どうして、この力は自分には使えないんだろう)
 自分の背中に自分で触れてみても力を使うことはできない。自分自身には適用されない能力なのだ。もし自分自身に力が使えたのなら、たとえ寿命が縮んだとしても自分自身の種を壊しただろう。そうすれば無能力者として生きていける。自分が能力者であることで他人を傷つけずに済む。自分のせいで傷つかなくてもいい人たちが傷ついていくのは嫌だった。
 けれどそれはできないから、せめて目立たないように息を殺して、周りに馴染むように、透明になれるように由真は振る舞った。誰かに合わせて喋り、誰かに合わせて笑う。心が軋んでいるのには目をつぶった。
 周りに少しずつ人は増えた。けれど同時に、由真はある疑念を抱くようになっていた。
(私は居ても居なくても同じなんじゃないか――)
 きっとこのまま消えてしまっても、誰も気が付かない。自分が生きているのか死んでいるのかもわからないまま日々は過ぎていき、由真は小学校を卒業し、中学生になった。
 真新しいブレザーの制服を着て家を出ると、梨杏が歩いてくるのが見えた。梨杏は由真を見つけるやいなや駆け寄ってきて、二人は一緒に登校することになった。入学式に参加する両親は式の時間に合わせてあとから出発するらしい。
「そういえばさぁ、由真は部活何入るか考えてる?」
「全然。ていうか入るつもりないし」
「え、一年生は部活全員強制って書いてあったけど」
「それは梨杏のやつでしょ。私のは違うから」
 部活動全員参加の規則は無能力者のものであり、能力者のものではない。由真の言葉で初めてそれに気が付いた梨杏は、俯いて制服のリボンを右手でいじった。
「梨杏は決めたの?」
「弓道か陸上かな。見学に行ってどっちかに決めるつもり」
「そっか。どっちも梨杏に似合ってると思うよ」
「部活に似合うとかある?」
「いや、何となくそう思っただけだから」
 梨杏と何気ない話をするのは久しぶりだ。由真はどことなく安心感を覚えながら、新しい通学路を歩いた。
 中学にたどり着くと、昇降口にクラス分けが張り出されていた。二人は並んだままで自分の名前を探す。
「あー……違うクラスだね」
「そうだね」
「由真と同じクラスが良かったな……」
「――無理だと思うよ」
 能力者は能力者でクラスが固められている。梨杏はそれにまだ気が付いていなかった。自分がそちら側でないが故の鈍感さに今更腹を立てたりはしないが、梨杏とは生きている世界が違うのだとは思った。
 教室に入った由真は窓際の自分の席に座り、外を見ながら溜息を吐いた。早く終わらないかな、などと考えてみるものの、学校が終わったところで、家でも楽しいことがあるわけではない。砂を噛むような日常が過ぎていく。いつまでこんな生活が続くのだろうか。それは自分が能力者である限り変わらないのだろうか。閉塞感に満たされた生活の中で、いつしか未来への希望なんてものはどこにも見当たらなくなっていた。
 夢を見ろと、夢のために努力すべきだと大人は言う。けれど夢は未来を信じられる人だけが見るものだ。未来が明るいなんてどうして信じられるのか。明日には死んでしまうかもしれないのに。
 けれど何も問題を起こしていなければ、心の中で何を考えていても誰も気付きはしない。ただそこにある石が誰にも見向きもされないように、いてもいなくても変わらないのではないか。
(このままいなくなっても――誰も)
 もしかしたら自分がいなくなって安堵する人の方が多いかもしれない。両親だって、将来何が起こるかわからない能力者の娘がいなくなっても、優秀な無能力者の兄がいるのだから問題なんてない。
(――海、行きたいな)
 唐突に由真はそう思った。ただ水に触れたいと思った。全身を包み込む水の中で目を閉じて揺蕩って、ただぼんやりとしていたい。けれど人間の体は、水の中で息ができるようにはなっていないのだ。

(地上でも、水の中でも息が出来ないなら――私はどこに行けばいいの?)



 入学式の次の週、授業が始まったばかりの月曜日のことだった。体育の授業を終えた由真は一人で体育館を出ようとしていた。何らかの係をどれか一つはやらなければならないと言われたので、由真は特に理由はなく体育係を選んでいた。きちんと片付けができていて、体育館が次の授業ですぐ使える状態になっているかを確認するだけの、それほど難しい仕事ではない。多少マットの積み方が雑だったのを直して、次の授業に間に合わせるために急いで体育館を出た由真は、向こう側から声が聞こえてくることに気がついた。次に体育の授業があるクラスの人たちがもう着ているのだろう。けれどその声の中に聞き覚えのあるものがあることに気が付いて、由真は思わず足を止めた。梨杏の声だ。おそらくクラスの友達と連れ立って来ているのだろう。
「そういやさぁ、梨杏って五組の柊さんと幼馴染なんでしょ?」
「うん。三歳くらいのときにうちが引っ越してから」
 急に自分の名前が聞こえてきて、由真は身構えた。この状況で鉢合わせてしまうのは気まずい。けれど一本道の渡り廊下には、隠れるような場所すらなかった。
「梨杏は優しいから同情してんのかもしんないけどさぁ、やめといた方がいいよ?」
「やめといた方がいいって?」
「いや、だから五組って言ったらアレじゃん……隔離クラス」
 陰ではそんなふうに呼ばれていることは知っていた。けれど隔離されている分、小学校にいたときよりは穏やかな日常を過ごせていたのは事実だった。互いの領域になるべく入り込まないという暗黙のルールが、能力者と無能力者の無用な争いを防いでいたところは確かにあった。
「……だから?」
「たまに五組行ったりするのやめといた方がいいよ。多分目つけられてる」
「誰に?」
「三年に佐久間先輩っているじゃん、風紀委員長の。なんか一年に秩序を乱そうとしてる人がいるとか何とか言ってたらしいよ?」
「何それ。馬鹿馬鹿しい」
 梨杏たちは話に夢中で、それが筒抜けであることにも気付かずに由真に近付いてくる。由真はジャージのポケットに手を突っ込みながら、無言でその横を通り抜けようと歩き出した。けれど由真に気が付いた梨杏が声を上げる。
「由真、待って!」
 由真は梨杏の声を無視して歩き続けた。梨杏が友人たちの輪を外れて由真を追いかけてくる。
「待ってってば!」
「もう授業始まるよ」
「そんなんどうでもいいから! 聞こえてたんでしょ、さっきの」
「そりゃああんな大きな声で話してれば聞こえるよね。別にどうでもいいけど」
「どうでもよくはないでしょ」
  由真は足を止めない。腕を掴んで止めようとする梨杏の手を、由真は乱暴に振り払った。
「由真、私は」
「梨杏がどう思ってようと関係ない。私たちは違う世界の人間なんだよ。もう――ずっと前から」
 生まれたときから違うとわかっていれば、こうはならなかったのだろう。最初から線を引いて、友達になんてならなければ。滲む視界を誤魔化すように、由真は視線を落とした。
「そんなのおかしいよ。だって私は由真と友達でいたいのに……こうやって触れることもできるのに……!」
 そのとき、授業の開始を告げる鐘が鳴り、それに一瞬気を取られた梨杏を残して、由真は早足でその場を去った。梨杏の言葉に嘘がないことくらいわかっていた。梨杏は本気で、同情でも何でもなく、由真と友達でいたいと思っているのだ。けれどこの世界でそれは許されない。由真のそばにいることで梨杏が誰かに傷つけられるよりは、由真が一人になる方が余程ましだった。由真はそのまま教室を通り過ぎ、何も持たずに学校を出た。
 どこかに行こうと思っていたわけではない。ただ衝動的に歩いているうちに、由真は今まで足を踏み入れたことのない場所まで来ていることに気が付いた。いったいどれほど歩いたと言うのだろう。気が付けば日が傾き始めていた。どこに行けばいいのかも分からず、由真は立ち止まる。ジャージ姿にはあまりにも似つかわしくない高層ビルの群れが、足を止めた由真を見下ろしていた。
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