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Into the Water

2・目覚めた力2

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「由真、今日何も予定ないなら今から水族館に行かないか?」
 ある日曜日。朝食を食べているとき、兄の浩大が由真に言った。
「予定はないけど……彼女と行ったら?」
 兄の浩大には彼女がいた。付き合いたてのときに紹介されたので、由真はその人の顔を知っている。長い髪の、優しそうな人だった。兄から聞いた話によると、その人は能力者で、けれどその能力は触れたものを10グラム程度軽くすることができるという些細なものだった。
「その彼女に断られたから妹を誘ってんの」
「ふぅん。なんで断られたの?」
「普通に風邪だって。学校も一昨日から休んでたしなぁ。昨日見舞いに行ったんだけど、熱は下がったけど咳が残っててしんどいって」
「それなら……行こうかな」
 予定はなかったし、水族館は好きだった。兄もデートにしょっちゅう水族館を選ぶくらいには好きだったのかもしれない。朝食を食べ終わった由真は、自分の部屋に戻って出かける準備をした。
「なんか今日の服かっこいいな」
「これお兄ちゃんのお下がりだけど」
「そうだっけ? 全然覚えてない」
 自分の服も持っていたが、由真は時折兄のお下がりを着ていた。少し大きめのその服は純粋に楽なのだ。由真は兄のお下がりの服と黒いボストンバッグの組み合わせで水族館へ向かった。
 水族館に着くと、真っ先に由真の目に止まったのは売店のイルカのぬいぐるみだった。
「売店ってのは最後に行くとこじゃないか?」
「でもこのぬいぐるみかわいいじゃん!」
「由真ってイルカとかサメとか好きだよなぁ」
 由真は兄を待たせたまま、イルカのぬいぐるみを選び始めた。どうせなら誕生日が近い梨杏のものも買おう。由真はぬいぐるみの山の中からイルカのぬいぐるみを二つ選び出して、そのあとで値段を見て固まった。
「由真? そろそろ決まったか?」
 浩大がイルカが描かれた弁当箱を手に由真に尋ねる。それは彼女へのお土産にするつもりらしい。
「これを、梨杏と私の分買おうと思ったんだけど……」
「なるほど、お金が足りないんだな? じゃあ由真の分はお兄ちゃんが買おう。梨杏ちゃんの分は由真が買うといい」
 そう言って兄は、イルカの片方を由真の手から受け取り、会計に向かった。由真はそのあとで梨杏の分を買った。荷物が増えてしまったので、それをロッカーに預けてから水族館の中に入る。
「お兄ちゃん、シロイルカいるよ!」
「ふふ、そうだね」
 由真はそれからめいいっぱい水族館を楽しんだ。元々水辺は好きで、魚や海洋哺乳類が泳ぐ姿を見ることも好きだった。水槽で作られたトンネルの中にいると、自分も一緒に泳いでいるような気分になれた。
 途中で昼食を挟みながらも、由真たちは一日中水族館を満喫した。そして帰ろうとしたとしたときに、先程通った水槽のあたりから叫び声が聞こえた。
「離れてください!」
 警備員が規制線を張り、客を避難させようとしている。何が起こったのか。状況を把握したくて覗き込んだ由真に、兄が幾分か硬い声で言った。
「……暴走してるんだ、あの子」
 由真がそれを目の当たりにするのは初めてのことだった。おそらく物を凍らせることができる能力者なのだろう。蹲る少女の周辺が氷に覆われてしまっている。
「行こう、由真。野次馬はよくない」
 けれど由真は動くことができなかった。少女の悲しげな表情が目に焼き付いてしまって、どうしても気になったのだ。暴走している状態は、本人もとても苦しいのだという。けれど鎮静剤を打つしか対処方法はなく、そのまま死んでしまう人も多いのだ。
「由真?」
 助けたいと、何故か由真はそう思った。自分に何かできるわけではないのに、ただその少女の表情がどうしても気になり、由真は思わず駆け出していた。
「あ、君! 危ないよそっちは!」
 警備員の制止を振り切り、由真は少女に近付いた。泣いていた少女は、いきなりやってきた由真に驚き顔を上げる。
「来ちゃダメ……みんな凍っちゃうから……! 私は、バケモノだから……」
「……私も、あなたと同じだよ」
 由真と同じように、この少女もたくさん傷つけられたのだろうと思った。そして耐えきれなくなって、何かのきっかけで暴走してしまったのだ。そして暴走してしまえば、軽度ならば鎮静剤でおとなしくさせて回復を待つか、重度なら死を待つくらいしか方法はない。誰も、少女に手を差し伸べたりはしないのだ。由真は驚いている少女を抱きしめて、その背中にゆっくりと触れた。
「え……?」
 少女の背中に触れたその手の下が白く光る。由真自身が何が起こっているかもわからないうちに、由真の手にはいつの間にか、黒い煙が噴き出しているシードが握られていた。
(これを、壊せば――)
 直感的に、どうすべきか理解できた。これを壊せば少女は苦しみから解放される。少なくともこの暴走が原因で死んでしまうことはない。由真は確かめるように少女の顔を見る。少女は穏やかな表情で静かに頷いた。
 由真は左手をきつく握る。その瞬間に、由真の手の中で少女の種が砕け、跡形もなく消えた。少女が作り出した氷も消え、少女は気を失って由真の腕の中で力を抜いた。
(よかった――これで、この人は死なずに済む)
 由真は安堵の溜息を漏らす。その直後、兄の浩大が慌てて駆け寄ってきた。
「由真……今の」
「わかんない……ただ、助けたいと思って」
「そっか。よくやった。由真は優しい子だ」
 頭を撫でられて、由真はむず痒そうに目を細めた。通報を受けて駆けつけてきた救急隊員に少女を引き渡し、由真と浩大は言葉少なに水族館を後にした。

 後日、由真は能力確定のための検査を受けることになった。単純な能力であれば受ける必要のない検査だったが、由真の能力に当てはまる能力がこれまで一例もなかったことから、検査を受けるように勧められたのだ。
「結論から言いますと、非常に珍しい――いや、理論上はありえるが、これまで例がなくて、存在しないのかもしれないと言われていた能力でして」
「どんな能力なんですか?」
「簡単に言えば、他人の種に触れることができる能力です。発動条件は、相手を前から抱きしめるようにして背中に手を当て、力を込めること。先日発動したときは、おそらく由真さんの『助けたい』と思う気持ちが強かったから発動に至ったのだと思われます」
 種に触れることができるから、それを壊すこともできる。臓器のようなものだと言われているのに、外科手術をしても取り出せない種を、由真は易々と取り出すことができるのだ。
「そして種が大きいので、暴走の危険性は低いでしょう。ですが、本当に例がない能力なので、他にどんな影響があるかは――」
 由真の能力がわかっても、家族は何も変わらなかった。発動条件が限定的であり、能力者以外には何の意味もない能力だったこともある。けれど由真が大勢の目の前で能力を使ってしまったことの影響は、その後すぐに現れた。



 由真のところには、能力を失って無能力者として生きることを望む人たちが大勢訪れるようになった。最初は同級生たち、次に他の学年の生徒たち、数々の習い事を通して、大人にも頼まれるようになった。由真は、その人がそれを望んでいるのなら、と言われるがままに能力を使っていた。能力者として生きることは苦しいから、失いたいという気持ちは由真もわかるのだ。
 けれどその皺寄せは確実に由真の体を蝕んでいた。
「ごちそうさま」
「もういいのか? 最近あんまり食べてない気がするけど」
「あんまり食欲なくて」
 原因はわからなかったが、徐々に食べ物が喉を通らなくなっていった。兄は心配していたけれど、由真自身は少し体調が悪いのだろうと思って、さほど気にしてはいなかった。
「ちょっと出かけてくる」
「こんな時間に? もう外真っ暗だぞ?」
「クラスの子に頼まれてて。能力使って欲しいって。すぐそこだから大丈夫」
 由真はほとんど荷物を持たずに家を出た。歩いて数分の小さな公園で、由真に能力を使って欲しいってクラスメイトが待っていた。
「ごめんね、その……こんな時間に」
「いいよ。でも暗いから、終わったら気をつけて帰るんだよ? 私はすぐそこだけど」
 由真はそう言ってから、ブランコに腰掛ける少女を抱きしめ、背中に手を当てた。取り出された種はとても小さなもの。こんな小さいもの全てで、運命が何もかも変わってしまうのだ。由真は引き抜いた種を左手で握って砕き、柔らかく微笑んだ。
「これで終わり。じゃあ気をつけて帰ってね」
「うん! ありがとう柊さん!」
 笑顔で去っていく背中を見送ってから、由真も帰ろうと足を踏み出した。しかし、その瞬間に視界が歪んでその場に膝を突く。
(あれ……何か……変な感じ……)
 吐き気によく似た、何かが込み上げてくるような気持ち悪さ。由真は地面に蹲りながらも、必死で体を起こそうとした。
(立てない……どうして……?)
 携帯電話も置いてきてしまったのだと、今更由真は気がついた。誰か気がついてくれるだろうか……誰も気が付かなければ、朝までこのままだろうか。そんなことを考え始めたところで、由真を呼ぶ声が聞こえた。
「由真! どうしたの!? 大丈夫!?」
「梨杏……? どうしてここに……」
「たまたま通りかかったの。そしたら由真が倒れてるのが見えて……立てそう?」
「無理……気持ち悪い……」
「吐きそう? 待って、確かいらない袋とかあった……これ! これに吐いちゃっていいから! 私、由真の家に電話しとくから!」
 由真は梨杏に差し出された袋に、食べたばかりの夕食も含めて全て吐き出してしまった。もう何も出ないくらいまで吐いても、まだ気持ち悪さは消えない。そうしているうちに兄と父が慌ててやってきて、由真はそのまま車に乗せられて病院へ運ばれた。



「自家中毒……」
 由真の話を聞いていた星音が呟く。由真は淡々と語っているけれど、それが本当はそんな調子で語られるべきものではないことを星音は理解していた。
「そう。あれが初めてで……歩月に出会うまでは、何度かあった」
「ていうか、最初の頃はそんなに能力使ってたんですね」
「うん。それで誰か助けられるなら、って思ってた。でも結局、自家中毒を起こしてからはあまり使わないようにって言われて」
「そりゃ言うやろ……」
「でも、使うことで苦しみがなくなる人があれだけいたのに、自分の都合で『もうできません』とは……なかなか言えなかったよ。やっと……周りに受け入れられたような気がしてたのに」
 由真の言葉に星音はハッとした。能力が発現するまで、散々酷い目に遭わされてきたのだ。そんな中で明らかになった能力は、由真に著しい負担をかけるものの、能力を捨てたいと思う人間の役に立っていたのは事実だ。だから由真は、自家中毒で自分が倒れてしまうまで力を使い続けてしまったのだ。
 もっと自分勝手で、自分のことばかり考える人なら、ここまで苦しむことはなかったのではないか――星音は、話すぎて喉渇いた、と言いながら冷蔵庫からお茶を出そうとする由真を制し、代わりに冷蔵庫の中のペットボトルを一本取り出した。
「ありがと。じゃあ……続き……こっからは、本当に私がちゃんと話せるかどうかもわからないけど」
「いいです、それで。由真さんが無理になったら、そこで止めてくれて全然構わないので」
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