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蒼き櫻の満開の下

2・病院に行く3

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「ブレンドひとつ、お願いします」
 星音がカウンターに立つ由真に言うと、由真は棚からコーヒー豆が入った保存容器を取った。豆をミルに入れる音が心地よく響き、由真が真鍮色のハンドルを回すと珈琲のいい匂いが漂ってきた。コーヒーサイフォンのアルコールランプに火を点け、フラスコのお湯が沸騰したら、漏斗に挽いたばかりのコーヒー粉を入れ、一分計をひっくり返してから木べらでかき混ぜていく。真剣な表情でコーヒーを淹れる由真の横顔を眺めるのが星音は好きだった。
 客が選んだコーヒーカップに由真がコーヒーを注ぐ。星音はそれをトレイに乗せて、本を読んでいる客のところまで運んでいった。穏やかな日。窓から差し込んでくる日の光も柔らかく暖かで、その陽だまりの中にいると眠ってしまいそうだ。
 使い終わった道具を洗う由真を横目に、星音はカウンターでノートと教科書を広げた。英語の長文読解問題をあらかじめ解いてから授業に臨む必要があるのだが、どうしても紙いっぱいにつまったアルファベットを見ていると眠くなってきてしまう。
「宿題?」
「宿題っていうか、予習です。やっていかないと当てられたときやばいんで」
 由真は由真で、店内の様子に気を配りながらも紙にペンを走らせている。何か絵や文字を書いているようだが、勉強をしているようには見えない。星音は何となくそれには触れない方がいいだろうと思い、英文の羅列に目を落とした。

「ありがとうございました」
 最後の客を見送って店に戻る。もうレジ清算は由真が済ませていて、清掃とほとんど終わっている。今日は少し早めに上がれるかもしれない。結局英語の予習が終わらなかったから、家に帰ってやらなければ。星音がそう思っていると、由真の携帯電話が鳴った。由真は壁に寄りかかって電話を取る。
「……ハルさん?」
 由真の声が剣呑さを帯びる。由真はそれからハルと二、三言やりとりをしてから電話を切った。
「――C-5エリアで複数の事件が起きてるらしい。もう杉山さんたちも機動隊も動いてるし、寧々と黄乃も出したけど手が足りないって」
「それだけいて手が足りないって明らかにやばいやつやん……」
「寧々の見立てではおそらく事件を起こしてる全員がアズールの使用者だろうって。それなら対処しようもある」
「対処って……由真さんまたあれやるつもりなん?」
「だってそれが一番効率いいし」
「いや昨日それで病院行ったばっかりやん!」
 由真は掃除道具を片付けて、喫茶店の制服の上着を脱いでから私服のパーカーを羽織る。星音が止めても由真は行くつもりだろう。歩月の力で体調が良くなったばかりだとかそういうことは考えないのだ。それなら、星音は由真について行くしかない。その場にいることができるのなら、最悪殴ってでも止めることはできるだろうから。
「行きましょう、由真さん」
「うん」
 星音は由真にヘルメットを渡し、バイクにまたがる。まるで由真を戦場に運ぶような行為に星音の胸は僅かに痛んだが、それを隠すように星音はエンジンをふかした。

 十五分ほどでC-5エリアに辿り着くと、そこは阿鼻叫喚の様相を呈していた。至るところで機動隊と能力者たちがぶつかり合っているし、車が横転して炎上しているのも見える。星音は思わず息を呑んだ。良くも悪くも特殊光線を使えば能力者は動きが取れなくなるはずで、それを使っている警察ですらこれだけ苦戦するなんて、今までにはないことだった。
「アズールの根は種を覆うから、反応が鈍るのかもしれない。使用回数が少なくて侵蝕がそれほど進んでなければ効く感じかな……とりあえず寧々を探して状況を――」
「私ならここにいるわよ」
 左目を押さえた寧々が由真たちの背後から声をかける。後ろにある建物から状況を見ていたらしい。
「おそらくはここにいる全員が空間支配能力で操られている。元から強い能力者も混ざってるもんだから厄介で。……Clanの連中もいるしね」
「Clanってあのカラーギャングの?」
「そう。アズールをばら撒く駒になってた奴等。しかも光線が効きにくいみたいで……黄乃のBenetnaschベネトナシュには麻酔針も装備してたから、今はそれを使ってもらってる。由真はこのまま突っ込んでいって、悠子の方に加勢して欲しい。雑魚は私と黄乃のペアで片付ける。そして星音には――そのバイクを使ってもらうわ」
 寧々の作戦を聞き、それぞれの持ち場につく。星音の仕事は、まずはバイクに由真を乗せたまま現場の中心まで運ぶことだ。どう考えても事故を起こしそうな作戦だが、攪乱には充分すぎるほどだ。この大人数を動かすには、支配している側も相当脳に負担をかけている。そこにイレギュラーが入り込めば一瞬でも隙が生まれるかもしれない、と寧々が言っていた。
「じゃあ今からは安全運転度外視で。振り落とされないでくださいよ、由真さん」
「いいよ、私ジェットコースターとか好き」
 こんな状況なのに、何故か由真は笑っているような気がした。星音は一抹の不安を覚えながらもバイクを走らせ、人の波を掻き乱しながら、パワードスーツを着て特殊警棒を手に奮戦する悠子のところまで由真を運んだ。
「じゃあ私は轢き殺さない程度にやってくるので」
 由真を下ろし、星音は再びバイクを走らせる。由真は一呼吸おいてから右手に剣を出現させた。
「私がアズールの根を引き剥がす。そうしたら光線が使えるようになると思うから、そこからは任せるよ」
「いいけど……ここにいる全員にやるつもり?」
「やれるだけやってみる」
 由真はそう言うなり、助走をつけて飛び出した。剣に薄く能力波を纏わせ、手足を中心に攻撃していく。あくまで行動不能にするのが目的だ。ここにいる人間を操っているのが、行動不能になった駒をすぐに切り捨てる傾向にあることは既にわかっていた。相手の動きが鈍った好きに距離を詰め、その背中に触れ、種から青色の根だけを引き剥がす。戦闘不能になった能力者を床に引き倒し、すぐに次に移る。
「……っ、これ、ほんっと最悪なんだよな……っ」
 アズールに触れた瞬間に頭の中に流れ込む映像を振り払いながら、由真はひたすら突き進んだ。何人のアズールを引き剥がしたかは、十人目で数えるのをやめた。
「由真!」
 能力を使って種を取り出す瞬間が、由真にとって一番大きな隙になる。一人に向き合っている間に背後から由真に殴りかかろうとする影があった。悠子の叫び声に気付いた由真が振り向く直前に、由真に向かっていた影が地面に倒れた。
「由真さん、大丈夫ですか!?」
「助かったよ。ありがと、黄乃」
 直前で突入してきた黄乃が麻酔を打ったらしい。黄乃は能力波を見ることができる寧々の指示を受けているから、事前に動きを予想して攻撃することも可能だ。
「寧々さんから伝言なんですけど、『外側はだいたい片付いた。星音もそろそろこっちに来ると思う』って」
「わかった。こっちはあと――十人くらいか」
 広範囲に攻撃を仕掛けられる黄乃がいるならば、戦闘不能にする役目は任せた方がいいだろう。脚や腕を傷つけるよりは麻酔の方が傷も浅く済む。
「今、悠子と戦ってるのが多分一番厄介だから、私はそっちに行く。黄乃は残り全員に麻酔を打ってとりあえず動けないようにして」
「由真さん、でも」
「あと一人ならいけるから」
 何人のアズールを引き剥がしたかはもう数えていなかったが、毒が体に蓄積しているのはわかっていた。昨日、歩月のところに行っていたからまだ良かったと言える。それでもあと一人くらいなら耐えられる。由真は心配そうな目をしている黄乃の背中を軽く押し、剣を構え直してから走り始めた。
「悠子!」
 悠子と相対している青い服に身を包んだ男がポケットからいくつかのパチンコ玉を出すと、次の瞬間にそれが一斉に発射される。悠子はパワードスーツを着ているが、それでも何発か被弾したのか、あちこちが壊れていた。由真は悠子を突き飛ばすと、剣を一振りし、飛んできた鉄の玉を砕いた。男はまたパチンコ玉を取り出す。由真は男に向かって走りながら、再び飛んできた玉を砕き、そのまま飛びかかるようにして男の背に触れた。アズールを引き剥がせばその衝撃で一時的に意識を失う。このまま戦闘を終了できるだろうと手に力を込めた由真は、これまでの相手とは全く違う感触に気が付いた。
「っ……なんで……!」
 直感で理解してしまう。
 この男からアズールを引き剥がすことはできない。
 引き剥がしてしまえば、間違いなくこの男は――。
 由真の迷いを嘲笑うように、指先に触れた青い枝が由真をも侵蝕しようと成長を始める。
「由真!」
 悠子が叫ぶ声が遠くに聞こえた。青色の枝が由真の右腕を覆い尽くし、細い首筋にも伸びていく。触れたところから滲み出す毒が、由真の現実と幻の境界を壊していく。
 青い枝に貫かれる女の姿が視界の中で変化していく。最初は女と似た顔立ちの或果に。それからその顔がぐにゃりと歪み、由真の見知った人間の顔に次々と変わっていく。
「……っ、やだ……っ」
 これ以上の侵蝕を許せば由真も危ない。自分自身がそれを一番理解していた。けれどこのままこのアズールを破壊してしまえば、取り返しのつかないことになる。
(――由真)
 普段は聞こえないはずの、80UMaアル自身の声が響き、由真はゆるゆると首を横に振った。
「だめ……やめて……アル……っ!」
 けれど、このままどうすればいいかも由真にはわからなかった。一度種を引き出してこの状態に気が付いてしまった以上、戻すこともできない。迷っている間にも侵蝕は進み、悪夢が思考を食い尽くしていく。
「私が……私がやるから……っ」
 このまま膠着状態が続くようなら、アルは手を出してしまうだろう。普段は押さえつけている彼が由真の体の制御を奪い、事態を終結させる。けれど――これ以上、彼に罪を重ねさせたくはない。由真は強く唇を噛んでから、手の中にあるがらんどうになった種ごと、右手の拳を握りしめた。その瞬間に左腕に刺すような痛みが走る。
「っ……ぁ、う……!」
 由真の喉から押し殺した叫びが漏れる。地面に膝をついた由真に悠子たちが近付こうとしたが、由真は首を横に振ってそれを拒絶した。
「由真さん……その腕……!」
 星音がバイクから降りて由真に駆け寄る。由真は星音から離れようとするが、星音は構わずにその距離を詰めた。
「見せてください、腕。めちゃくちゃ血出てるじゃないですか」
「見ないで……来ないで……お願い……っ」
「由真さん……?」
「もう手遅れだった……このままでいても、多分……だけど……ッ!」
 嗚咽を漏らしながら頭を抱える由真の左腕に触れながら、星音は由真の横に倒れている男に目をやった。星音はそれを実際に見たことはなかった。けれど男の見開かれた光のない目を見れば、何が起きたかは理解できる。見ていなかった星音には詳しい事情はわからない。けれど、推測することはできる。この薬に冒された男が手遅れだったとしても、結果的に手を下したのは由真なのだ。
「由真さん……」
 星音は、取り乱す由真をただ抱き締めることしかできなかった。それで何かが伝わるかはわからない。けれど何と声をかけるべきかもわからなかったのだ。
「――星音」
 抱き締めているうちに、由真の体から少しずつ力が抜けていく。それを見ていた寧々が、星音に声をかけた。
「由真を歩月さんのところに連れて行ってあげて。このままだとかなり危ない状態だから」
「わかりました。でも……」
 由真が動ける状態かどうかが不安だったが、由真は力なく頷きながらも立ち上がった。寧々が不安げな目で由真を見る。
「……由真」
「ごめん。あとのことは……任せるから」
 そう言うと、由真は寧々に支えられながらもバイクの後ろに乗った。星音は由真がしっかりと星音に掴まったことを確認してからバイクを走らせる。
「星音」
 背中越しに、由真の声が星音の皮膚を震わせる。
「なんで、星音は私に優しくしてくれるの……?」
「何でって……別に理由なんてないし、優しくしてるつもりもないで?」
「でも私は……人殺しだよ」
 事実だけ見ればそうなのかもしれない。けれど、もう手遅れの人間を死なせてしまうことさえ人殺しになるなら、医者は全員人殺しだ。けれどそんな慰めや正論を口にしたところで、由真が納得することはないだろう。結局のところ、由真自身が由真を許せないのだから。
「……星音みたいに、誰かを助けられる力だったらよかったのに……っ」
 その言葉が、星音の胸を締め付けた。人の傷を癒す力。確かにこの力で誰かを死なせてしまうことはないかもしれない。けれど、今この瞬間に何もできない力でもある。体の傷は治せても、逆に言えばそれしか治すことはできないのだ。
「……ねえ、星音」
 歩月の病院の手前の信号で停まったとき、由真が小さな声で呟いた。
「いつか私は、星音を殺してしまうかもしれない」
「え……?」
「咲いてしまったら、もう助けられない……そのとき、きっと私は……今日と同じことをしてしまうと思う」
 自分の体に起きていることは、寧々から説明を受けている。星音の場合は種が大きく、今すぐ体内で種が割れる――いわゆる「咲く」という状態になることはないと言われた。けれどその可能性は決してゼロではないのだ。そして、仮に咲いてしまったそのときは――。
「今日の人は、アズールの侵蝕が最後まで進んでて……アズールに種の力を全部吸われてて、咲いているのとほとんど同じ状態だった。……どうにも、できなかった。あのままにしてても、多分一週間ももたないくらいだった……でも」
 由真の悲痛な声を、星音は背中で感じていた。振り向いてはいけないと思った。背中を向けているこの状態だからこそ、星音の表情を見なくても済むからこそ、今、由真は言葉を紡ぐことができているのだと思ったから。
「……殺したくなんて、なかったよ……」
 信号が青に変わる。星音は頷く代わりにアクセルを踏んだ。由真に何を言えばいいかは相変わらずわからなかった。結果的にではあるが人を殺めてしまった、その大きな罪を前に、何も知らない星音が言えることなどない。けれど無言のままバイクを走らせながら、由真はもう十分なほどに罰を受けていると思った。彼女の罪を赦せないでいるのは彼女自身だ。能力使用の代償として生じる左腕の傷を治させなかったのも、人を殺した自分の傷が消えてしまうのが許せないからだ。
「由真さん」
「何……?」
「病院に着いたら、先にその腕を治します」
「いいよ。大した傷じゃないし」
「未だに血止まってない傷が大したことない傷なわけないやろ。うちが嫌なんです。だから、私の勝手で治します」
 本音を口にすることはできなかった。このままにしていたら、いずれ由真が自分自身を取り返しのつかないくらい傷つけてしまうような気がした、なんて、言ったところで星音の望む答えは返ってこないだろう。
「着きましたよ。由真さん、歩けます?」
「うん、大丈夫」
 バイクの音を聞きつけた歩月が慌てて病院の扉を開けて出てくる。由真は歩月に寄りかかるようにして、その肩に顔をうずめた。
「ゆーちゃん……苦しかったね、でももう大丈夫だから」
 由真は首を横に振る。歩月はその頭を優しく撫でた。
「苦しくないの? じゃあしんどいかな?」
 その言葉に、由真は迷いながらも頷いた。歩月は柔らかな笑みを浮かべて、由真を抱きしめる。
「しんどいね……。うん、ここまでよく頑張った。中入ろっか」
 二人の様子を見ながら、星音はこの人になら由真を任せられると思った。その能力だけではない。その慈しむような手と、ほのかに光る灯りのような、その優しい言葉が、きっと今の由真に一番必要なもののように思えた。星音は由真にそっと近付いて、左腕を捲り上げてから能力で作った包帯を巻く。かなり深い傷だから、塞ぐ程度に留めておいた。本当は全部綺麗に治してしまいたいが、それは由真が望んでいないとわかっていた。
「じゃあ……由真さんのこと、よろしくお願いします」
「大丈夫よ。ちゃんとしんどいって言えたから。……星音ちゃんも、今日はゆっくり休んだ方がいいわ」
「そう……ですね。言われてみればめちゃくちゃ疲れてる気がします」
「大変な事件になってたもの。本当は、こんな子供をこんなつらい目に遭わせちゃいけないのに」
 歩月は大人なのだ、と星音は気が付いた。アルカイドにはハルという大人がいるが、彼女はほとんど姿を見せない。いないのとかわらないくらいだ。あの場所には星音を含め子供しかいない。それなのにいつも、戦いに駆り出されているのだ。星音も含めて望んでそこにいるとはいえ。
 理不尽な世界に生きている。星音はそう思った。そして――この理不尽な世界に生きるには、由真はあまりにも純粋で、優しすぎるのだ。
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