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番外編2

蒼櫻

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「ねぇ、今から花見行かない?」
 その日の喫茶店の営業が終わり、着替えも終わったところで由真が言った。由真はいつも唐突だ。或果と星音は帰る支度をしながら苦笑を浮かべる。
「今行っても真っ暗やん」
 星音が言う。もう二十時だ。さすがにもう日は暮れてしまって、桜なんてほとんど見えないだろう。或果も星音と同じように思った。
「公園とか街灯ついてて結構明るいよ? それに夜の方が人いなくていいよ」
 その昔は夜桜を鑑賞する風習もあったらしいが、今では暗くて酒も入っている人がたくさんいる空間なんて危険で誰も近寄らない。そこに能力者がいたら何が起こるかわからない。そう思う人が多くて、いつしか誰も夜に花見をしなくなった。
うちは帰ります。実はテストやばくて……流石に勉強せんと」
「そうなんだ。或果は?」
「私は……じゃあ折角だから行こうかな」
 家に帰っても帰らなくても誰も気に留めない――その言葉を飲み込んで、或果は由真と花見に行くことにした。少しの寄り道だ。店を出た由真と或果は、バイクで帰宅する星音を見送ってから駅に向かって歩き出した。
「寧々は誘わなくていいの?」
「寧々は最近別の仕事してるらしいんだよね。はっきりしたことがわかるまで詳細は話せないって言われたけど」
「そうなんだ……どんな仕事だろうね」
「秘密にしてるってことはろくな仕事じゃないのはわかる。……まあ楽しい仕事なんてほとんどないけどさ」
 或果は一瞬遠くを見た由真の横顔を見つめた。或果の能力は紙に描いたものを具現化するだけで、戦闘には向かないので出動する機会は少ない。いつも前線に立っている由真を支援して、見守ることしかできないのだ。いくら彼女がその中で傷ついても、星音のように傷を治すこともできない。
「或果? どうしたの、ぼーっとして」
「ごめん、なんでもない」
 役立たずが――家族に投げつけられた言葉が蘇ってきて、或果は慌てて首を横に振った。自分は役立たずではない。由真の武器だって或果が作ったものだ。それに能力を使っているわけではないが、現在のアルカイドの制服をデザインしたのは或果でもある。ここなら自分も役に立てる。そう思って、或果はアルカイドで働くことを選んだのだ。
「どこに行くの?」
「C-5の公園。たまに行くんだ」
 改札を通り、やってきた環状線に乗り込む。透明なチューブの中を走る、カプセルのようなものがいくつも連なった車体。中に乗り込むとそれほど混み合ってはおらず、二人はロングシートの端に並んで座ることができた。けれど左側に目をやると、そちらのカプセルの中はとても混んでいる。そこは無能力者専用の場所だった。そこに能力者がいれば何をされるかわからない。無能力者はいつだって能力者に怯えながら暮らしているのだ。能力者だって、誰かを傷つけることができるような大きな力を持っている人はそれほど多くはないのに。或果はその光景を見るたびに思ってしまう。
「由真って桜好きなの?」
「うーん……花っていうか、植物は結構好きかも。木とか」
「梨杏も家にテラリウムいっぱいあるって言ってたけど、そんな感じ?」
「どちらかというとその辺に生えてるのが好きかな、私は。梨杏の家みたいなのも……まあ結構落ち着くなぁとは思うけど」
 或果は由真の横顔を横目で見た。由真には獣のような獰猛さを感じさせるときと、植物のように穏やかなときの両方がある。どちらが彼女の本質なのか或果にはまだ掴めていなかった。掴めたかと思うとするりと逃げていく。猫のように気まぐれで、風のようにひとところには留まらない。それが柊由真という少女だ。
 電車が駅に到着し、二人はそのまま公園を目指す。こんな時間に繁華街を歩くなんて初めてだ。或果の家は閑静な住宅街にあって、こんなに明るい夜は知らなかった。繁華街を抜けていく最中、由真はしっかりと或果の手を握っていた。
「夜にこんなところに来るの、初めてでしょ?」
 由真が笑う。その悪戯っぽい笑顔を見て、或果も同様に顔を綻ばせた。夜の明かりの中で由真の姿が煌めいて見える。或果は置いて行かれないように、由真に手を引かれるがまま走り出した。

「本当に誰もいないんだね……あんなに繁華街が近いのに」
「でしょ? ここ穴場なんだよ。桜があるのは奥の方」
 由真に案内されて、公園の奥の桜が植えられている場所に辿り着いた。暖かい場所なのか、桜は満開を過ぎて少し散り始めていた。
「ちょっと遅かったかな」
「私散り際の方が好きだよ」
「そっか。それなら良かった」
 由真は笑って、目の前の桜の木を見上げた。それからゆっくりと枝に手を伸ばす。けれど高い場所にある枝には手が届かずに、由真の指は空を切った。その一瞬の動きに或果の目は吸い寄せられた。全てのものは刹那に過ぎ去ってしまう。けれど絵の形なら、その僅かな時間を縫い止めることができる。由真がぼんやりと桜を眺めている間、或果は鞄からスケッチブックと鉛筆を取り出し、素早く鉛筆を走らせた。
 しばらく夢中になって絵を描いていた或果は、由真が自分のことを見ていることに気が付かなかった。顔を上げた瞬間に目が合ってしまう。
「どうかした?」
「ううん。何か、絵を描いてる或果の顔がいいなって」
「何それ……そんなことないよ」
「一生懸命になってる人の顔ってよくない? すごく綺麗だと思って」
 由真の言葉は真っ直ぐで、嘘がない。適当なことを言っているわけではないとわかるからこそ、或果は顔が熱くなるのを感じた。
「……由真の方が綺麗だと思うよ」
 由真には聞こえないように、或果は呟く。その刹那を残したいと思うほどに由真は綺麗だ。それはただ顔立ちが整っているだとか、スタイルがいいだとかではなく、纏っている雰囲気が冬の空気のように清冽で、月の光を感じさせるような暖かさを持っている。
「……由真は、青い桜って見たことある?」
「青い桜? それは見たことないな……。どこにあるの、それ?」
「うちの庭に植えてあるの。私の――死んだ母親が大切にしてたの」
 その話を誰かにするのは初めてだった。由真は静かに或果の隣に腰を下ろした。
「青い桜か……綺麗なんだろうね、きっと」
「うん、すごく。うちにあるものの中で、私が一番好きなものなんだ。逆に言えば、大事なものはそれしかない」
 どうして今日、この話をする気になったのかはわからない。けれど由真の姿を見ていたら、それまできつく結ばれていたものがほどけていくような気がしたのだ。
「私の家はさ、先祖代々能力者で……強い能力を持った人が当主になるの。そのためには愛人作って子供産ませるとか平気でやるような人たちで。私は能力者だったから母が死んですぐに引き取られたけど、能力は結局たいしたことなくて……だから、アルカイドで働いたら、少しは誰かの役に立ってるって思えるかなって」
「或果の剣がなかったら私は今みたいに戦えてないよ。それは本当に感謝してる」
「でも紙飲み込んだときはびっくりしたよ」
「あれねぇ……紙って美味しくないんだなぁって思ったよ」
 美味しくないという問題ではないけれど、と思いながら或果は笑った。家には居場所がないけれど、アルカイドの仲間と一緒にいると心が緩んでいると感じる。或果は由真の肩に軽くもたれかかった。
「実はこの前コンクールに絵を出したんだけどね、なんか賞をもらえるらしいんだ」
「へぇ、すごいじゃん!」
「まだ正式に決まったわけじゃないから内緒ね。それでね……絵の道っていうのも考えてみようかなって思ってて」
「いいと思うよ、私は。或果がやりたいならそれをやるべきだと思うし」
「だから早く家出たいなぁとも思ってて。どうせ私がいたって意味ないしさ、だったらさっさと出ちゃって自由に生きたいなって」
 役立たずの能力だと罵られながら、ただお金だけを与える家にいるくらいなら。でも踏ん切りがつかない自分もいた。けれど誰かに向かってはっきりと言葉にすることによって迷いが少し晴れた気がする。空を仰ぐと、梢を揺らすように夜の風が渡ってきた。思いの外冷たいその風に、由真が両腕を軽くさする。
「そろそろ帰ろうか。風邪ひいちゃう」
「そうだね。んー……でももうちょっと」
 由真は立ち上がって、桜の木を見上げながら、木にゆっくりと近付いていく。また風が吹いて、或果と由真の間に薄紅色の花が舞った。
「由真……!」
 散る桜の花が一瞬青色に見えて、或果は声を上げた。その姿が青色の桜が散る日にその命を散らした或果の母親に酷似していたからだ。由真が不思議そうな顔をしながら振り返る。
「どうかした?」
「……ううん、ちょっとだけ昔のこと思い出しちゃっただけ」
 由真は心配そうな顔をして或果を見てから、或果を優しく抱きしめた。
「由真……由真はどこにも行かないでね」
「どこにも行かないよ、私は」
 由真の手が或果の長い髪を撫でる。その温度に安心して、或果はそっと目を閉じた。
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