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番外編2

変わらないもの

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 由真がいなくなってからの数年間。心に空いた穴を埋めるように梨杏が手を出したのは体を鍛えることだった。柔道、空手、日本拳法、弓道――その他近くに教室があるものは何でもやった。どれか一つを極めるつもりはなくて、ただ強くなりたかったのだ。由真と再会したとき、梨杏は由真の変化にかなり驚いたが、由真も梨杏の変化には驚きを隠せなかったようだ。
「寧々、今日練習場所借りていい?」
「今日は黄乃の練習お休みの日だから大丈夫だよ」
 喫茶店の営業時間が終わると、梨杏は店の裏のただ広い空間があるだけの建物に入った。本来は由真の鍛錬用に作られたものだが、由真が使っていないときは他の人も使っていいことになっている。梨杏は壁のパネルを操作してホログラムの敵を出現させた。まずは準備運動がてら一体。できるだけ相手を引きつけてから、相手の顎を目掛けて掌底を突き出す。寧々がよく使う技だが、拳よりも有効な打撃を与えることができる。次は難易度を上げて三体。ホログラムなので梨杏が攻撃されても怪我をすることはないが、格闘ゲームのようにダメージは数値として計算されている。
 梨杏は夢中になって技を繰り出し続けた。普段は戦闘訓練を積んでいない人を相手にするから隙を突くことが最も重要だ。油断した瞬間を狙えれば、梨杏のような細身の女性でも男性を投げ飛ばすことすらできる。けれどルール無用の戦闘では、相手が能力や武器を使ってくることも想定しなければならない。
 あともう一つレベルを上げて、それが終わったら切り上げるか――そう思った梨杏は、ドアのところに立っている由真に気がついた。腕を組んで梨杏のいる方をじっと見ている。
「いつからいたの、由真」
「敵四体にしたところから」
「もしかして使う予定だった? 一応寧々には聞いたんだけど」
「いや、今日は休みの日だから。でも梨杏がいるって寧々に聞いて」
 星音がアルカイドに来てから、由真は星音との出動が多くなっていて、梨杏と組むこともなくなってきたのに今でも練習を見る必要はあるのだろうか。梨杏は首を傾げた。それに能力を使わなくても、今では由真の方が強い。
「何かあったの?」
「いや、単純に見たかっただけ」
「見てるだけじゃなくて付き合ってよ、せっかくなら」
 梨杏が言うと、由真は「仕方ないなぁ」と言いながら黒いパーカーを脱いだ。下に着ていたTシャツも黒で、由真のクローゼットに黒以外の洋服はあるのだろうかと梨杏は少し不安になった。しかし何よりもその左腕に残る傷痕が梨杏の胸を締めつける。これでも前に見たときよりは薄くなった。星音がアルカイドに来てからこまめに怪我を治療していて、前ほど酷い傷は残らなくなったのだ。
 由真が姿を消していた数年の間に何があったのかを知る人は今のところいない。けれどその体に残った傷を見れば、決して穏やかな日々でなかったことはわかってしまう。
 今でも梨杏は思う。あのときもし――その手を離していなかったら、と。
「……っ、と」
 考え事をしていた梨杏は、空を切る音で我に返った。後ろにずれてかろうじてかわしたが、気が付かなければ由真の蹴りをまともに食らうところだった。
「ねえ、始めるなら始めるって言ってよ由真」
「どこにそんな律儀な敵がいんのよ」
「そりゃそうだけど……」
「ボーッとしてるからだよ。疲れてるなら休憩してからにする?」
 梨杏は首を横に振った。由真はただ立っているだけだが、流石に隙らしい隙はない。梨杏は由真の鼻先に向けて右手の拳を突き出す。それを避けようとそちらに意識が向くと下半身が疎かになる。それを狙って足元を崩しにかかるが、由真もそう簡単に食らってはくれない。躊躇いなく鳩尾を狙ってきた由真の拳を触れる直前にその手首を掴んで受け止める。梨杏はそのまま由真の腕を捻り上げた。そして左手で肘関節を決めて下に絞る。
「痛い痛い痛いってばそれ……っ!」
 由真が騒ぎながら膝を突く。それほど難しくない技だが、本気でやればかなり痛い。梨杏は腕の力を抜いて、床に座り込んだ由真を見下ろした。
「……痛がりなところは変わんないよね」
「あーもう久しぶりに梨杏に負けたんだけど……」
 梨杏は溜息を吐いた。これがもし本当の戦闘の場面なら、この程度で由真に勝つことはできないことを梨杏は知っていた。由真自身にどこまで自覚があるかはわからないが、普段は痛がりのはずの彼女は、戦闘中はまるで全く痛みを感じていないかのように振る舞う。梨杏に負けたのが悔しいのか床に寝そべり始めた由真を見ながら、梨杏はゆっくりとその場に腰を下ろした。
「いやぁ由真に勝つと気持ちいいなぁ」
「何それ! そんなこと言うならもっかいやろう!」
「やだよ、もう疲れたもん」
 文句を言う由真を軽くいなしながら、梨杏は練習場を片付けていく。由真もそれを見て起き上がって、畳んで床に置いていたパーカーを羽織った。
「梨杏はいつもそうやって勝ち逃げする」
「由真は勝てるまでやろうとするよね」
「だって負けると悔しいじゃん!」
 負けず嫌いが過ぎるところも変わらない。結局表に見えるところが変わってしまっただけで、本質は変わらないままなのだろう。子供っぽくて、怖いくらい純粋で、繊細で、怖がりな女の子。
「疲れたから紅茶飲んでから帰ろうかな」
「あ、じゃあ私も飲む」
「今日、由真たちご飯は?」
「今日は寧々がお気に入りの店のテイクアウトだって。だからうちのキッチンあいてるよ」
 店で紅茶を淹れて飲もうと思っていた梨杏だが、由真の誘いに乗って、喫茶店の奥にある住居部分――つまり由真と寧々とハルが暮らす家のキッチンを使わせてもらうことになった。何度か使ったことがあるから、どこに何があるかは把握できている。
「そういえば、梨杏。最近――やっぱいいや、何でもない」
 由真は何かを尋ねようとして、勝手にやめてしまった。梨杏は由真の頭を撫でて、短い髪の毛をわざと乱していく。
「ちょっ……何すんの」
「んー? 由真ちゃんが素直になるおまじない?」
「なにそれ。てかなんか私のことバカにしてない!?」
「バカにはしてないよ、多分。……最近あんまり顔合わせないけど、元気なんじゃないかな」
 由真が梨杏に聞こうとしていつも聞けないことを、梨杏はさりげない調子で教える。由真は少しだけ遠くを見るような目をした。
「今度、久しぶりにうち来る? 寧々が私の部屋見たいって言ってたんだよね」
「梨杏の部屋ってまだあの……なんだっけ、植物のやつ飾ってんの?」
 由真が乱された髪の毛を直しながら尋ねる。テラリウムという言葉が覚えられないのも相変わらずだ。
「テラリウムね。飾ってるよ。代替わりはしたけど……由真が買ってきたイルカもまだいるよ」
「えー……捨てなよそれは。いい加減ボロボロでしょ」
 由真が梨杏の家を訪ねたのはもう何年も前の話だ。戻ってきたあとも、由真は梨杏の家がある付近には近寄ろうとはしない。梨杏の家は由真の家のすぐ近く――由真は自分の家に近付くのを避けているのだ。梨杏も無理に帰らせようとは思わない。けれどいつか、元気でいるかどうかを梨杏に確認するくらいなら、その目でちゃんと見られるようになればいいと思っている。
「いやストレス解消に殴るのにちょうどよくって」
「え、殴ってんの!? それは酷くない!?」
「冗談だよ。由真がくれたものを捨てるわけないし殴るわけないでしょ」
「別にあげたものだから梨杏の好きにすればいいとは思うけど」
 言葉とは裏腹に、由真の口角が少しだけ上がっている。嬉しいならそう言えばいいのに。梨杏は堪らなくなって、由真の頭を再び撫でて、直したばかりの髪をぐしゃぐしゃに乱した。
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