月は夜をかき抱く ―Alkaid―

深山瀬怜

文字の大きさ
上 下
29 / 170
青の向こう側

3・普通の悪意2

しおりを挟む
 制服から私服に着替え、バイクに跨る。エンジンキーを回そうとして、出動のときはいつも後ろに由真を乗せていることを思い出して星音は手を止めた。その温もりを背中に感じないことが寂しいと思うようになるなんて。緋彩の話を聞いてもらってからだろうか。気が付けば星音はふとした瞬間に由真のことを考えるようになっていた。
「いや待て、何やこれ」
 もうそれは恋やない? と頭の中で声が響いた。『青の向こう側』で楓が呉羽に言うセリフの一つだ。呉羽は相手をぼかして楓に自分の気持ちが何なのかわからないと相談する。そして楓は何も考えずに答えるのだ。相手が自分だとは気付かないまま。そのシーンも緋彩と二人で再現した。楓の言葉で自分の気持ちを自覚した呉羽の表情が当時はかなり話題になったりもした。
 もうそれは恋やない?――緋彩の声で、その言葉が頭に響く。
「恋って何やねん……うちが知っとるんは鯉だけや……」
 星音は溜息まじりに呟いてからバイクを走らせる。今は余計なことは考えないでおこう。邪念を振り払うため、いつもよりもっと交通法規を意識して運転した。十数分走ると目的の河川敷が見えてくる。バイクを近くに停めて由真の姿を探すと、橋の支柱を背もたれにして座っているのが見えた。由真は全身黒の服を着ていて、一歩間違えれば見逃してしまうくらいには夜の中に溶け込んでいた。
「……由真さん」
「梨杏に聞いてきたの?」
「そうです。で、こんなとこで何してるんですか?」
 由真は無言で、星音が来たのとは反対の方向を指差す。そこには河川敷の草むらに本を片手に立っている緋彩の姿があった。時折その声が聞こえてくる。発声練習なのだろう。けれどそれだけでは由真が何をしているのかはわからなかった。
「個人的に……ボディーガードみたいなことを」
「え、何でそれ今まで黙ってたん!?」
「寧々にもハルさんにも話してないから。梨杏は知ってるし……多分寧々たちにもバレてると思うけど」
「緋彩から依頼があったってことですか?」
「いや、私が持ちかけたんだけど。結局何もなかったけどね」
 自分で持ちかけたから「個人的にやりたいこと」なのか。けれどどうしてそんな提案をしたのだろう。この前の依頼はもう報酬も支払われて、完全に終わったはずなのに。
「どうして……」
「色々心配だったし……あとは、個人的にちゃんと話してみたいなと思って」
「何話したんですか?」
「んー……たいしたことではないよ。どうして役者になりたいと思ったのかとか、あの役をどうしてもやりたい理由はなんなのかとか。なんか、聞いてみたくて」
 本人もどうして聞きたかったのかはわかっていないのだろう。けれど緋彩は由真に正直に答えたのだ、というのが由真の表情からわかる。少し力を抜いた、優しい目をしていた。
「私には演じるってどういうことなのかすらわからなかったんだけど、でも、それを通して誰かに何かを伝えたいからやってるんだってのはわかった。少なくとも彼女はね」
「誰かに何かを伝えたい……って結構抽象的やな」
「それは演じる役によって変わるらしいよ。じゃあ今度の役は誰に何を伝えたいのかな、と思って」
 緋彩が楓役にこだわるにはそれなりに理由があるのだろう、と星音はそのとき初めて思い至った。二人の思い出もある。けれどそれ以上のものを緋彩は伝えようとしているのではないか。
「『役を見せる前にそれを言っちゃうのは嫌なので』って言われちゃったけど。まあそうだよね。言葉で簡単に説明できたら演技なんてする必要ないんだもん」
「それは確かに。……緋彩にも理由があるんやって、わかってたつもりやけど……全然わかってなかったんやな、私」
「この前車で言ってたこと?」
「聞いてたんですか、あれ……」
「本当に寝てたんだよ? でもちょっと目が覚めたタイミングだったから」
 慌てて言い訳をする由真に、星音はふっと笑みをこぼした。別に聞かれて困るほどの話ではない。星音はその場に腰掛けながら、言葉を置くように話し始めた。
「私は、緋彩が役を降りれば……全部解決するような気がして」
「そんなことないんだよ。叩きたい人は何だっていいんだから、降りたら降りたで『その程度の気持ちだったのか』って言うし、続けたら続けたで『降りろ』って言うし。それなら私は本人がどうしたいかが一番大事だと思う」
 星音は思う。この言葉を発するまでに、由真が辿ってきた道の険しさを。能力者関連の事件を解決する調停人トラブルシューター。けれど能力者には無能力者の肩を持つのかと罵られ、無能力者には恐ろしい力を持った能力者だと怖がられる。今の仕事を辞めたところで同じように批判に晒されるのだろう。それならやりたいことをやると決めた。そんな由真の姿はとても強く、けれど何かを諦めてしまったかのようにも見えた。
「あの子が何したって叩かれるなら、標的が変わればいいと思ったんだけど……正直私も見通しが甘かった。私だけでどうにかなると思ったけど、店にまで影響出ちゃったし」
「寧々さんは『ただでさえバイトに能力者多すぎて星1レビューばっかりだから今更増えたところで』とは言っとったけど」
「いやそんなレビューサイトとかどうでもいいんだよ」
 由真が笑う。由真が本当に気にしているのは別のことだというのは星音もわかっていた。由真が起こした一件以来、脅迫の電話や営業妨害は日常茶飯事になってしまった。幸い今のところ誰も負傷することなく撃退できているけれど、それもいつまで続くかわからない。
「やる前にひとこと言ってくれればもうちょっとあったと思うんやけど」
「でも言ったら止めるでしょ?」
「当たり前やん。何でそんな自分一人で背負おうとするん?」
「……何でかな。自分ではそんなつもりないんだけど」
 力のない声で由真が言う。きっと悲劇のヒロインになりたいだとか、ヒーローになりたいだとか、もしかしたら誰かを救いたいとすら思っていないのかもしれない。ただ手を伸ばしたいと思ったときに手を伸ばしているだけ。数ヶ月一緒にいて、由真がどんな人間なのか少しずつ見えてきたような気がした。
うちは、由真さんにこれ以上傷ついて欲しくないです」
「うん。でも……私のために誰かが何かを諦めなきゃいけないなら、そっちの方が私はつらい。今みたいにみんなを巻き込むのも本意じゃなかったんだけど」
「みんな巻き込まれたのは気にしてへんで。だって私らがどれだけ悪かったとしても、だからって嫌がらせしていいことにはならへんやろ」
 由真は何も言わずに練習を続ける緋彩を見つめている。街灯の光がその大きな目に反射して、一瞬濡れているように見えた。
「嫌がらせがなくなって、緋彩も心置きなく楓を演じられるように出来へんのかな」
「いろいろ考えてみたけど、上手い方法は見つからなかった。人の心を自由にできるわけじゃないし」
「いや嫌がらせとかしてる奴のことなんて人とは思えへん。緋彩なんて殺されかけてんねんで?」
 生放送で緋彩を襲撃しようとした男たちは、殺人未遂の現行犯で逮捕された。ニュースによると、彼らは正義の行いをしたと主張しているらしい。けれど一人だけ、由真にシードを抜かれた男だけはすっかり怯えてしまって、反省の言葉を何度も口にしているらしい。
(あんときの由真さん、めっちゃ怖かったしな――)
 怖い気持ちはわかる。けれど自業自得だ。星音はそう思っていた。
「ああいうことする人って根っからの極悪人だと思ってる?」
「性根が腐った奴だとは思ってますけど」
「でもね、普通に付き合ってると本当に普通の人だったりするんだよ。普通の人なのに、多くの人が正しいと思っていることに乗っかれば人を殺すことだってできてしまう。それが凄く怖いけど――でも、それに負けたくはない」
 これまで由真に何があったのかを星音はほとんど知らない。けれど誰も知らない空白の時間を除いても、アルカイドで働き始めたあとも、様々なことがあったのは想像に難くない。本当なら目を閉じて、耳を塞いで逃げてしまってもいいようなことに、由真はずっと闘いを挑んできたのかもしれない。
(負けず嫌いって言うてたしな)
 理不尽に傷つけられることから逃げることも大切だ。本当は戦う必要なんてないと今でも星音は思っている。けれど負けたくないと言うのなら、それでも立ち向かいたいと言うのなら、無理に止めることもできないと思っていた。
(ああ、そうや。緋彩もああ見えてめちゃくちゃ負けず嫌いだったわ)
 緋彩がオーディションの前日に神社の階段から突き落とされて泣きながら星音に電話をしてきたとき、緋彩はこう言ったのだ。「私、こんなことに負けたくない」と。星音はそれを聞いて、緋彩の怪我を全て治そうと決意した。泣きながら負けたくないと言っていた緋彩に心を動かされたのだ。
(今もそう思ってるんやろな。『こんなことに負けたくない』って)
 それなら、やることはたった一つだ。星音は立ち上がって、服についた土を軽く払った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

桜ヶ丘総合病院

マロ
恋愛
桜ヶ丘総合病院を舞台に小児科の子どもたち、先生達のストーリーをお楽しみください! リクエスト募集してます!

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

〈社会人百合〉アキとハル

みなはらつかさ
恋愛
 女の子拾いました――。  ある朝起きたら、隣にネイキッドな女の子が寝ていた!?  主人公・紅(くれない)アキは、どういったことかと問いただすと、酔っ払った勢いで、彼女・葵(あおい)ハルと一夜をともにしたらしい。  しかも、ハルは失踪中の大企業令嬢で……? 絵:Novel AI

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

落ち込んでいたら綺麗なお姉さんにナンパされてお持ち帰りされた話

水無瀬雨音
恋愛
実家の花屋で働く璃子。落ち込んでいたら綺麗なお姉さんに花束をプレゼントされ……? 恋の始まりの話。

百合系サキュバスにモテてしまっていると言う話

釧路太郎
キャラ文芸
名門零楼館高校はもともと女子高であったのだが、様々な要因で共学になって数年が経つ。 文武両道を掲げる零楼館高校はスポーツ分野だけではなく進学実績も全国レベルで見ても上位に食い込んでいるのであった。 そんな零楼館高校の歴史において今まで誰一人として選ばれたことのない“特別指名推薦”に選ばれたのが工藤珠希なのである。 工藤珠希は身長こそ平均を超えていたが、運動や学力はいたって平均クラスであり性格の良さはあるものの特筆すべき才能も無いように見られていた。 むしろ、彼女の幼馴染である工藤太郎は様々な部活の助っ人として活躍し、中学生でありながら様々な競技のプロ団体からスカウトが来るほどであった。更に、学力面においても優秀であり国内のみならず海外への進学も不可能ではないと言われるほどであった。 “特別指名推薦”の話が学校に来た時は誰もが相手を間違えているのではないかと疑ったほどであったが、零楼館高校関係者は工藤珠希で間違いないという。 工藤珠希と工藤太郎は血縁関係はなく、複雑な家庭環境であった工藤太郎が幼いころに両親を亡くしたこともあって彼は工藤家の養子として迎えられていた。 兄妹同然に育った二人ではあったが、お互いが相手の事を守ろうとする良き関係であり、恋人ではないがそれ以上に信頼しあっている。二人の関係性は苗字が同じという事もあって夫婦と揶揄されることも多々あったのだ。 工藤太郎は県外にあるスポーツ名門校からの推薦も来ていてほぼ内定していたのだが、工藤珠希が零楼館高校に入学することを決めたことを受けて彼も零楼館高校を受験することとなった。 スポーツ分野でも名をはせている零楼館高校に工藤太郎が入学すること自体は何の違和感もないのだが、本来入学する予定であった高校関係者は落胆の声をあげていたのだ。だが、彼の出自も相まって彼の意志を否定する者は誰もいなかったのである。 二人が入学する零楼館高校には外に出ていない秘密があるのだ。 零楼館高校に通う生徒のみならず、教員職員運営者の多くがサキュバスでありそのサキュバスも一般的に知られているサキュバスと違い女性を対象とした変異種なのである。 かつては“秘密の花園”と呼ばれた零楼館女子高等学校もそういった意味を持っていたのだった。 ちなみに、工藤珠希は工藤太郎の事を好きなのだが、それは誰にも言えない秘密なのである。 この作品は「小説家になろう」「カクヨム」「ノベルアッププラス」「ノベルバ」「ノベルピア」にも掲載しております。

処理中です...