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青の向こう側

1・海へ1

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「ねぇ、星音。海行きたくない?」
 星音が店内を掃除していると、由真が突然言った。唐突に海。どんな意味があるのだろうかと思いながらも、星音は正直に答える。
「行きたいか行きたくないかで言うたら行きたいですね」
「じゃあさ、今から行こうよ」
「いや店どうすんねん……」
「このあと寧々と黄乃が来るから大丈夫だよ」
 今日はたまたま人が多い日らしい。けれど本来シフトが入っている日なのに遊びに行くのはサボりになってしまうのではないか。星音は暫く悩んだが、結局は由真の誘いに乗ることにした。
(由真さん、たまには休んだ方がええやろうし)
 住み込みで働いているから仕方ないとはいえ、由真はほとんど毎日アルカイドの仕事をしている。黄乃を慣れさせるためにも今はあえて出動回数を減らしているらしいが、それでも戦闘に慣れた由真が駆り出されることが多い。黄乃と寧々には悪いが、そういう日も必要だ。
「海ってどこの海がええの?」
「星音が行きやすいとこでいいよ。海ならどこでもいい」
 念のため書置きを残し、私服に着替えてから二人は店を出た。出動以外で自分のバイクに由真が乗るとは思わなかった。由真がしっかりと腰に手を回したのを確認してから、星音はバイクを走らせる。
「でも何で急に海なん?」
「なんかたまに行きたくならない?」
 気持ちはわかる。もしかしたら全ての生物が海から生まれたのが関係しているのかもしれない。それとも、生まれる前は誰もが水の中で生きているからなのか。
「海っていうか、水辺が好きなんだよね。川とか池とかも好き」
 由真の新たな一面を知ることができた。星音は背中越しに感じる由真の体温にふっと笑みをこぼした。
「由真さん、雨は好きなんですか?」
「うん。雨も好き。でも傘は荷物が増えるから嫌だな」
「バイク乗りみたいに雨の日用のジャケットとかにしたらええと思うけど」
 いつ雨が降ってもいいように星音もいつも装備している。かっこいいから買ってみたものの星音にはあまり似合っていないのが悩みだ。でも由真ならきっと似合うだろう。
「ジャケットすら邪魔。できることなら手ぶらでいたい」
 由真の荷物はその辺を歩いている男性よりも少ない。身軽なのはいいことかもしれないけれど、そのままふらっと出かけてしまうこともあるらしいのでそれは心配だ。
「荷物があったら戦闘のとき邪魔になるからなん?」
「んー……それもあるけど、荷物が少ない方が遠くまで行ける気がするんだよね」
「あんまり遠くに行かんといてくださいね」
 思わず漏らした星音の言葉は、たまたま近くを通った大型トラックの音に掻き消された。けれど星音自身には届いたその言葉が、少なからず星音を動揺させた。
 手を離したら、あのときのように見失ってしまいそうな気がする――。
 どうしてこんなことを考えてしまうのだろう。星音は細く息を吐いた。由真とあの子は全然違うのに。それなのに、どうして最近になって何度も思い出してしまうのだろう。

「そういや、砂浜とかある方が良かったですか?」
「いや、どっちでもよかった」
 駐車場にバイクを止める。その真横にある階段は途中から海の中に沈んでいた。干潮の時刻には階段が全て見えるのだが、潮が満ちると途中から海の中に階段が消える。三月の海に入るつもりとは思えなかったから、駐車場の奥にある東屋から海を眺めるつもりで星音はこの場所を選んだのだが、靴と靴下を脱いで、ズボンの裾を捲り上げ始めた由真を見て、慌ててそれを静止した。
「今三月やで!?」
「うん。そうだけど?」
「いや絶対水冷たいやん……」
「え、海来たら入るでしょ」
 それがさも当然のことかのように言わないでほしい。星音は嘆息した。
「星音も入ろうよ、海」
「絶対寒いやん……風邪引いても知らんよ?」
「足元だけだから大丈夫でしょ。本当はもっと入りたいけど水着無いしな……」
 水着があったら入るつもりなのだろうか。何度も言うようだが今は三月だ。しかも決して暖かい日というわけでもない。
「まあ星音が嫌なら別にいいけど。私一人で入ってくるね」
 自分が入るのは変わらないらしい。星音は由真の一歩後ろをついて海へ続く階段を降りた。階段が海に沈む手前で足を止めた星音に対して、由真はそのまま進んでいく。真っ白な足が躊躇いなく海水に浸かっていく。海の中へ続いていた階段が終わると、由真のふくらはぎの中ほどまでが、海水の中で白さを増しているように見えた。
 由真は階段を離れて、浅瀬を進んでいく。水辺が好き、という言葉の通り、その表情は心なしかいつもより柔らかく見えた。しばらくそのまま歩いて行ったのち、不意に由真が星音のいる方を見た。逆光で顔はほとんど見えないのに、何故かその視線に胸を貫かれる。喜びとも苦しみともつかない、少し息苦しいのに笑みが溢れてしまうような、言葉にできない感情が星音の心臓を揺らす。星音は思わずその場で靴と靴下を脱いで、ズボンの裾を捲り上げて海へと降りて行った。
「やっぱ冷たいやん!」
「大袈裟だなぁ。――ね、あっちの岩場まで行ってみようよ」
 由真は子供のように笑いながら星音を誘う。海に来ただけでこんなにも楽しくなれるなんて。由真の喫茶店にいる姿と戦闘時の姿くらいしか知らなかった星音は少なからず衝撃を受けていた。
 岩場まで歩いた由真は、躊躇いなく岩の上を歩いていく。足場が悪いのに体のバランスが崩れないのはさすがと言うべきか。やがて由真はちょうどいい場所を見つけたのか、そこにゆっくりと腰掛けた。星音もその隣あたりに平らな場所を見つけて腰を下ろす。
 それから暫く二人は言葉を交わすこともなく、ただ遠くを眺めていた。波の音だけが聞こえる静かな場所。その静けさに凪いだ心のまま、星音は横目で由真の顔を盗み見た。透けるように白い肌。今は何も考えていなさそうなのに、真正面から覗き込むと深い場所に引き摺り込まれそうになる瞳。もし由真が能力者ブルームでなければ、どんな人生を送っていたのだろう。星音はふとそんなことを考えた。
 星音の携帯には寧々から定期的に報告のメールが送られてきていた。どうやら通報を受けて黄乃と寧々は出動する羽目になったらしい。けれどそれほど大きな事件ではなかったようで、暫くすると無事に終わったというメールも届いた。けれど星音はそれを由真に言うことはなかった。今日くらいはそのことを忘れていてほしかったのだ。
「そろそろ帰ろうか」
 空気に夜の気配が混ざり始めた頃、由真はそっと立ち上がった。もうすぐ日が沈み始める。星音は頷いてゆっくり立ち上がろうとして、不安定な足場でバランスを崩してしまった。
「うわ……っ!」
「大丈夫?」
 由真が咄嗟に頭を打たないように支えてくれたらしいが、着ていた服はしっかりと濡れてしまった。岩で頭を打つよりは損失は少ないが、今からバイクに乗って帰るというのにこんなに濡れてしまうとは。
「近くに何かお店あったよね。着替え買ってくるよ」
「このくらいなら我慢すれば! ここから家までそんな距離ないんで」
「でも私が連れ出した結果だし」
 結局由真に押し切られる形になり、星音は駐車場の東屋で着替えを買いに行った由真を待つことになった。手持ち無沙汰な星音はぼんやりとニュースサイトを開いてタイトルだけを見ていく。中身を見たいと思うほどのものはない。スクロールをしていくとエンタメニュースの欄に辿り着いた。
「え!? まじで!?」
 それはある漫画の実写映画化の一報だった。星音が小学生の頃に連載され、随分前に連載が終了した漫画が今になって映画化。星音ははやる気持ちを抑えながらリンクをタップした。実写映画化なんて成功する例はあまりないし。でもこの作品ならわりと現実に即しているから行けるかも――期待に膨らむ気持ちと冷静な意見が戦う中で、文字を追っていく。
(役者は大事やな……かえで役は誰が……)
 その文字が飛び込んできた瞬間、星音の時間が止まった。風のざわめきさえ聞こえなくなって、無音の空間が広がる。
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