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二十九・旧きもの
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「――解」
小さく呟くと、これまで繭を作り上げていた糸が元の紐の形に戻る。木蓮は小さく礼を言ってからそれを懐にしまった。
「木蓮! 無事か⁉︎」
水蓮が慌てて木蓮に駆け寄る。木蓮はその姿を見て思わず笑みを浮かべた。これまで、ここまで慌てた龍神を見たことはなかった。本心から心配してくれていたのだろう。
「色々あったけど私は大丈夫。そっちは?」
「数が多くて難儀はしたが、吾らは無事だ」
傷はないようだが、その着物があちこち汚れていて、その戦闘の激しさを物語っていた。水蓮は木蓮の手の中にある小さな神玉に気付いて言う。
「浄化できたのか」
「うん……でも、瘴気の侵蝕がひどくて、こんな大きさに」
「小さくなろうとも、形が残っているならば生きられる。これなら五十年もあれば元の姿に戻ることもできるだろう」
五十年は木蓮にとっては長いと思えるが、龍にとっては違うのだろう。
「数年は寝たままかもしれぬな。ひとまず吾の神域で預かろう」
「え、でも今って神域の入り口壊されちゃってるんじゃ」
「今はこの世界とは切り離しておる。吾が離れたらそうなるようにしておいたのだ」
水蓮は水の龍を呼び、木蓮から水夜の神玉を受け取る。水の龍は神玉をその体の中に取り込み、洞窟の出口に向かって飛び立っていく。木蓮がそれを見送っていたそのときだった。
赤黒い光が水の龍を貫こうとする。水の龍はそれ単体で思考する力を持つのか間一髪でそれを避け、水蓮の元へ慌てて戻った。
「やはりこのまま終わらせてはくれないようだな」
そのまま神玉を回収した水蓮が水の筋を虚空に向ける。すると何もないと思われた空間が割れ、そこから瘴気を纏った巨大な蜘蛛が姿を現した。その赤い目を向けられた瞬間、木蓮は思わず後退る。
「っ……」
あまりの瘴気の濃さに、木蓮は口を押さえる。人間であれば一呼吸ももたない。よろめいた木蓮を焔が後ろで支えた。
「木蓮。呪いを使ったあとでは流石に辛かろう。暫く休んでおれ」
「でも、それは……」
「わかっておる。この地に長く巣食っていた瘴気の主。吾はこれを封印しなかったが為に、封印されていたはずの水夜が力を増す結果となったのだ」
水夜の心に空いた穴につけこんだそれは、水蓮越しに見える姿でも木蓮に恐れを抱かせた。体が裏返るような恐怖がどこから来るのかわからない。それは木蓮が今まで対峙していたものと似ているようで、何かが根本的に違った。
「ソノ娘ハ我ガ恐ロシサヲワカッテイルヨウダ」
「木蓮には指一本触れさせぬぞ」
「神トハイエ脆弱ナ貴様ニ何ガデキル」
それの言葉は間違っていない。水蓮は強い浄化の力を持つが、戦いが得意というわけではないのだ。しかし水蓮の表情には何故か余裕が見られた。
木蓮は距離をとったままその様子を見つめる。水蓮と対峙するそれは、蜘蛛の姿をしてはいるが何か別のもののように感じられる。その赤い瞳の奥底で、何かが蠢いていた。
「あなたは……何、なの」
かろうじて絞り出した木蓮の声は震えていた。前には水蓮がいて、後ろには焔がいる。普通なら無敵だと思えるような状況であるにもかかわらず、震えが止まらなかった。
「流れるものがあれば澱むものがある。それは神の力でも消すことはできぬものだ。それに核が与えられ、成長した――名もなき何か。それが答えだ」
水蓮の言葉は答えであったが、それでその正体を明らかにできるようなものでもない。それは人の力が及ばないものだと木蓮は本能的に察知していた。
不意に蜘蛛が大きな足を地面に叩き付け、瘴気を撒き散らした。それと同時に地響きが起こり、地面が激しく揺れ始める。木蓮は耐えきれずにうずくまり、焔はその木蓮を抱き上げた。
「全部呑マレテシマエ。神モ人モ我ガ敵デハナイ!」
地面の揺れは続いていた。それに耐えきれなかったのか、洞窟の壁が崩れ始める。水蓮は扇を開き、無数の水の筋を出した。
「吾だけなら構わぬが、木蓮を生き埋めにするわけにはいかぬのでな」
水蓮は崩壊よりも先にその水で洞窟を破壊する。細かく砕かれた破片は木蓮たちのいる場所を避けて地面に降り積もっていった。
「すごい……」
木蓮は思わず声を上げる。しかしすぐにそれどころではなくなる。揺れはさらに激しくなり、木蓮は必死に焔にしがみつき、耐えることしかできなかった。焔も木蓮を抱き寄せ、揺れる地面から守る。
「ぐっ……」
水蓮が小さく声を上げた。よく見ると、水の筋が所々途切れている。地面の揺れは止まらず、それに合わせるようにして水の筋は細くなってゆく。
「水蓮!」
「案ずるな。まだ策はある」
しかし蜘蛛は手を緩めることはなかった。蜘蛛が足を踏み鳴らすと、今度は全く前が見えないほどの霧が広がった。
「っ……これは」
木蓮は咄嗟に口を押さえた。霧を少しでも吸い込んでしまうと動けなくなるだろう。それは半神となっている木蓮にも影響がある。木蓮は息を止めて、蜘蛛の様子を見つめた。
「ククク……巫ヨ、我ガ呪イヲ受ケルガイイ」
蜘蛛の目が赤く輝く。その瞬間に木蓮は自分の内側に熱を感じた。熱は内側から木蓮を蝕んでいく。内臓を食い破り、その苦痛は次第に手足の先へと広がっていく。全身を焼き尽くすような熱に、木蓮は悲鳴を上げてのたうち回った。
「く、ああ……っ!」
「木蓮! 貴様、木蓮に何をした!」
水蓮が水の龍を差し向けながら蜘蛛に詰め寄る。蜘蛛はシュウシュウと息を吐き出しながらそれに応えた。
「コレハ自分自身ガ毒ニナル呪イダ。神ヨ、コレハ其方ニモ解ケハシマイ」
これまで受けたことのない苦痛と熱に、木蓮はその場に蹲る。その痛みが徐々に下腹部から下へ下へと移動するのを感じて、木蓮はその痛みの原因を察して更に叫んだ。
「やめて! いやっ……い、やああああああっ!」
大蜘蛛の術によって焼かれた内臓が下へと移動した。木蓮の股の間から二本の脚のようなもの生えてきた。それは灼熱の蜘蛛の脚だった。その脚が木蓮の体を容赦なく切り刻む。
「木蓮!」
水蓮が叫び、木蓮に水の筋を向ける。しかしそれも文字通り焼け石に水にしかならなかった。味わったことのない痛みと恐怖に木蓮の目から涙が流れ落ちる。そうしているうちにも二本の脚は容赦なく木蓮の体を斬りつけた。赤い脚は触れるだけで粘膜や肌の表面を焼いていった。肉が爛れ、焼かれていく激痛が全身を襲う。痛みに絶叫しながらも、木蓮は拳を握り締めた。
「――蜘蛛よ」
全ての熱を一瞬にして奪うような、冷たい声が響く。それは紛れもなく水蓮のものだった。木蓮は苦しみながらも顔を上げ、その姿を見つめる。
「お前は吾を怒らせた。吾らより旧きものとして敬意は払ってやろうと思っていたが、やめにしよう」
水蓮が扇を閉じた瞬間、どこからか湧いた水が地面を満たした。それは木蓮の場所にも到達し、呪いの熱を少しばかり冷ましていく。それに気が付いたのか、焔がすぐに木蓮の近くの水の力を増幅した。
「忘れているわけではあるまいな。吾が水夜とともに封印した者のことを」
「アレヲ解キ放ッタトコロデ、勝チ目ハナイ!」
「その五月蠅い口をそろそろ閉じるがいい!」
水蓮が天に向かって手を伸ばす。渦巻く水がその手の上で球を成した。水球はみるみると大きくなってゆく。
「――深き、昏い湖の底。吾が戒めの鎖を解き放たん」
水蓮がその天に向かって掲げていた手を下ろすと、それが合図とばかりに稲妻が空を裂いた。遅れて大粒の雨が蜘蛛に叩きつけられる。
「グアァアアア!」
蜘蛛は断末魔の絶叫を上げる。
六つの脚を蠢かして蜘蛛が悶え苦しむ度に、そこから黒い瘴気が噴き出した。だがそれはその右目に突き刺さった剣によって即座に浄化される。その剣が人間に扱えるような物でないことは、刀身から溢れんばかりの神力でわかる。
「吾が父が造った剣だ。それに吾が力を刻んでおる。吾はただ闇雲に父上を封印していたわけではないのだ」
そこで生きる人間達をも呑み込む神の力。水蓮は人間達を守るために水夜とともに父をも封印した。しかし水夜とは違い、父と意思疎通は出来る状態にしていたのだ。
「封印されながらも父はその牙を研いでいた。その牙が、この剣だ」
「オノレ……!」
蜘蛛は必死で抵抗する。しかしそれも空しく、剣の刃は右目に食い込んでいった。水蓮は素早く蜘蛛の上に乗り、剣を引き抜く。ぐちゅりと嫌な音がして、蜘蛛の右目の部分に大きな穴が空いた。そこから噴き出す瘴気は水蓮が繰り出す水の龍が食い尽くしていった。
「オノレ……コンナ、神ゴトキニ……!」
「最期の言葉はそれでいいのか?」
水蓮はそう問うと、今度はその脳天に向けて剣を構える。蜘蛛の赤い目がぎょろりと動き、木蓮を見た。そしてニタリと笑って言った。
「ナラバ、コノ娘ヲ道連レニ!」
「っ……いやあっ!」
「木蓮!」
木蓮が悲鳴を上げたその瞬間、その身を苛む灼熱の腕が増えた。水蓮の力でも抑えきれないそれが、木蓮の体を灼いていく。
「ああっ……あっ……」
木蓮の意識が白く塗りつぶされていく。視界が白と黒の斑に染まり、やがて全てが黒で埋め尽くされた。
「木蓮!」
焔が必死で呼びかけるが、木蓮はそれに答えることはなかった。水蓮は歯噛みしながらも、全身の力を振り絞って、その剣を再び蜘蛛に突き立てた。
「これ以上、吾の大切なものを奪わせはせぬぞ……!」
突き立てられた剣を目掛けて、青い雷が空を割る。雷は轟音を響かせながら蜘蛛を貫き通した。その力で崩れ落ちた蜘蛛の体を水蓮の水が浄化し、消し飛ばしていく。
「コレデ終ワルト思ウナ……我ラハ必ズ蘇ル……!」
その言葉を残し、大蜘蛛とそれを倒し切った剣は完全に消滅した。水蓮は水の力を使って静かに着地し、すぐさま木蓮に駆け寄る。
「木蓮!」
蜘蛛が消えたことにより、呪いは消えた。しかしその体にしっかりと火傷の痕が残っている。木蓮はゆるゆると目を開き、水蓮の頬に手を伸ばした。
「かっこよかった……神様ってすごいね」
「そんなことを言っている場合ではない」
呪いがこれ以上進行しなければ死ぬことはない。しかしあまりにも痛々しい姿だ。伴侶である水蓮が力を注げばある程度は治癒できるだろうが、それでも傷が残ってしまう可能性はある。
「でも、これでもう鬼は……」
「あの類のものは一度祓っても復活する。だが……向こう三百年ほどは安泰だろう」
龍にとってはそれは須臾の時間だ。しかし人にとっては長いと言えるだろう。水蓮は扇を手に目を細めた。
「その間に他の何かが起きるかどうかは、吾の預かり知らぬことだが」
神とて万能ではない。浄化の力を持つ水蓮も、それ以上のことは出来ないのだ。ここから何かが起きたとしても、水蓮の力で対処できるかどうかは、そのときになってみないとわからない。どこか言い訳じみてもいる水蓮の言葉を、木蓮は穏やかに笑って聞いていた。
「……そういうところ、優しいなって思う」
「其方は何を言うておるのだ」
「だってちゃんと、神様にもできないことがあるんだって、教えてくれるから」
「それのどこが優しいのか、吾にはよくわからぬ」
二人の会話を、焔は遠巻きに、しかし少し笑いながら聞いていた。水夜の神玉を持ったままの水の龍がどこか所在なげにそれに寄り添う。
「完全に二人の世界って感じね。ここで話しているより、早く神域に戻った方がいいと思うのだけど」
応えはない。水の龍はある程度自分で動けるように作られているが、言葉を交わすようなことはできないのだ。水夜も今は眠りについていて、何を話しかけても反応はないだろう。
「元の姿に戻るのは五十年くらい……目覚めるのは早くて一年後くらいかしらね」
目覚めたら目覚めたで、木蓮に手を出したことで水蓮に咎められる未来が待っている。見せつけるような行為に水蓮は怒髪衝天という言葉が相応しい状態になっていた。際限なく湧いてくる敵を一掃し、あの繭の中に力を届け続けた。それがなければさすがの木蓮も水夜を浄化することは出来なかっただろう。
「それにしても……旧きもの、か」
神々すらもまだ存在しないほどの昔、地上には渾沌があった。渾沌の中には神々ですら扱いきれないほどの膨大な力がある。国産みとは、その膨大な力の渦に秩序を齎す行為だった。しかし国が産まれ、神が降りようとも、渾沌の力が完全に消えることはない。しかもそれは人にも神にも牙を剥くものになる。かといってこの国が渾沌の中に秩序を与えて生まれたものである限り、その力を完全に消すことは出来ない。あの蜘蛛が、そしてこの地に長く巣食っていた瘴気の正体がそれであるということは、蜘蛛の言うとおりいずれは蘇ってしまうものだ。
水蓮の見立てでは三百年は安泰ということだ。おそらく他の神の見立てでもそうなるだろう。けれどそのあとはどうなるかわからないし、水蓮が安泰だと言えるのも、大水津薙命の力が及ぶ範囲だけだ。同じような火種を抱えた場所はこの国の中にいくつもあるのだ。
「まあ、でも……宴会は仕切り直しになるわね」
また気ままに各地を駆け回ることになるだろう。それが焔に与えられた役目だからだ。けれど水蓮と木蓮が結ばれたことと、この地に訪れた平穏を祝う宴が開催されるのは間違いない。それが終わるまでここにいることを許してくれないほど、主である宇迦之御魂が非情ではないことも焔はわかっていた。
「二人とも、そろそろ戻らない? 木蓮ちゃんの手当だって、まだ完全には終わってないでしょうに」
まだ仲睦まじく話している二人に、半ば呆れながら焔は言う。木蓮はそれを聞いて少し照れたように口を閉じた。
「そうだな。――吾も、少し疲れた」
「そのわりには木蓮ちゃんと楽しそうに話してたけど」
「それとこれとは話が違うのだ」
水蓮はそう言ってから、巨大な銀色の龍に転じた。水夜の神玉を抱えた水の龍がそれに寄り添う。木蓮は銀の龍にひらりと跨がり、静かにその体を預けた。
小さく呟くと、これまで繭を作り上げていた糸が元の紐の形に戻る。木蓮は小さく礼を言ってからそれを懐にしまった。
「木蓮! 無事か⁉︎」
水蓮が慌てて木蓮に駆け寄る。木蓮はその姿を見て思わず笑みを浮かべた。これまで、ここまで慌てた龍神を見たことはなかった。本心から心配してくれていたのだろう。
「色々あったけど私は大丈夫。そっちは?」
「数が多くて難儀はしたが、吾らは無事だ」
傷はないようだが、その着物があちこち汚れていて、その戦闘の激しさを物語っていた。水蓮は木蓮の手の中にある小さな神玉に気付いて言う。
「浄化できたのか」
「うん……でも、瘴気の侵蝕がひどくて、こんな大きさに」
「小さくなろうとも、形が残っているならば生きられる。これなら五十年もあれば元の姿に戻ることもできるだろう」
五十年は木蓮にとっては長いと思えるが、龍にとっては違うのだろう。
「数年は寝たままかもしれぬな。ひとまず吾の神域で預かろう」
「え、でも今って神域の入り口壊されちゃってるんじゃ」
「今はこの世界とは切り離しておる。吾が離れたらそうなるようにしておいたのだ」
水蓮は水の龍を呼び、木蓮から水夜の神玉を受け取る。水の龍は神玉をその体の中に取り込み、洞窟の出口に向かって飛び立っていく。木蓮がそれを見送っていたそのときだった。
赤黒い光が水の龍を貫こうとする。水の龍はそれ単体で思考する力を持つのか間一髪でそれを避け、水蓮の元へ慌てて戻った。
「やはりこのまま終わらせてはくれないようだな」
そのまま神玉を回収した水蓮が水の筋を虚空に向ける。すると何もないと思われた空間が割れ、そこから瘴気を纏った巨大な蜘蛛が姿を現した。その赤い目を向けられた瞬間、木蓮は思わず後退る。
「っ……」
あまりの瘴気の濃さに、木蓮は口を押さえる。人間であれば一呼吸ももたない。よろめいた木蓮を焔が後ろで支えた。
「木蓮。呪いを使ったあとでは流石に辛かろう。暫く休んでおれ」
「でも、それは……」
「わかっておる。この地に長く巣食っていた瘴気の主。吾はこれを封印しなかったが為に、封印されていたはずの水夜が力を増す結果となったのだ」
水夜の心に空いた穴につけこんだそれは、水蓮越しに見える姿でも木蓮に恐れを抱かせた。体が裏返るような恐怖がどこから来るのかわからない。それは木蓮が今まで対峙していたものと似ているようで、何かが根本的に違った。
「ソノ娘ハ我ガ恐ロシサヲワカッテイルヨウダ」
「木蓮には指一本触れさせぬぞ」
「神トハイエ脆弱ナ貴様ニ何ガデキル」
それの言葉は間違っていない。水蓮は強い浄化の力を持つが、戦いが得意というわけではないのだ。しかし水蓮の表情には何故か余裕が見られた。
木蓮は距離をとったままその様子を見つめる。水蓮と対峙するそれは、蜘蛛の姿をしてはいるが何か別のもののように感じられる。その赤い瞳の奥底で、何かが蠢いていた。
「あなたは……何、なの」
かろうじて絞り出した木蓮の声は震えていた。前には水蓮がいて、後ろには焔がいる。普通なら無敵だと思えるような状況であるにもかかわらず、震えが止まらなかった。
「流れるものがあれば澱むものがある。それは神の力でも消すことはできぬものだ。それに核が与えられ、成長した――名もなき何か。それが答えだ」
水蓮の言葉は答えであったが、それでその正体を明らかにできるようなものでもない。それは人の力が及ばないものだと木蓮は本能的に察知していた。
不意に蜘蛛が大きな足を地面に叩き付け、瘴気を撒き散らした。それと同時に地響きが起こり、地面が激しく揺れ始める。木蓮は耐えきれずにうずくまり、焔はその木蓮を抱き上げた。
「全部呑マレテシマエ。神モ人モ我ガ敵デハナイ!」
地面の揺れは続いていた。それに耐えきれなかったのか、洞窟の壁が崩れ始める。水蓮は扇を開き、無数の水の筋を出した。
「吾だけなら構わぬが、木蓮を生き埋めにするわけにはいかぬのでな」
水蓮は崩壊よりも先にその水で洞窟を破壊する。細かく砕かれた破片は木蓮たちのいる場所を避けて地面に降り積もっていった。
「すごい……」
木蓮は思わず声を上げる。しかしすぐにそれどころではなくなる。揺れはさらに激しくなり、木蓮は必死に焔にしがみつき、耐えることしかできなかった。焔も木蓮を抱き寄せ、揺れる地面から守る。
「ぐっ……」
水蓮が小さく声を上げた。よく見ると、水の筋が所々途切れている。地面の揺れは止まらず、それに合わせるようにして水の筋は細くなってゆく。
「水蓮!」
「案ずるな。まだ策はある」
しかし蜘蛛は手を緩めることはなかった。蜘蛛が足を踏み鳴らすと、今度は全く前が見えないほどの霧が広がった。
「っ……これは」
木蓮は咄嗟に口を押さえた。霧を少しでも吸い込んでしまうと動けなくなるだろう。それは半神となっている木蓮にも影響がある。木蓮は息を止めて、蜘蛛の様子を見つめた。
「ククク……巫ヨ、我ガ呪イヲ受ケルガイイ」
蜘蛛の目が赤く輝く。その瞬間に木蓮は自分の内側に熱を感じた。熱は内側から木蓮を蝕んでいく。内臓を食い破り、その苦痛は次第に手足の先へと広がっていく。全身を焼き尽くすような熱に、木蓮は悲鳴を上げてのたうち回った。
「く、ああ……っ!」
「木蓮! 貴様、木蓮に何をした!」
水蓮が水の龍を差し向けながら蜘蛛に詰め寄る。蜘蛛はシュウシュウと息を吐き出しながらそれに応えた。
「コレハ自分自身ガ毒ニナル呪イダ。神ヨ、コレハ其方ニモ解ケハシマイ」
これまで受けたことのない苦痛と熱に、木蓮はその場に蹲る。その痛みが徐々に下腹部から下へ下へと移動するのを感じて、木蓮はその痛みの原因を察して更に叫んだ。
「やめて! いやっ……い、やああああああっ!」
大蜘蛛の術によって焼かれた内臓が下へと移動した。木蓮の股の間から二本の脚のようなもの生えてきた。それは灼熱の蜘蛛の脚だった。その脚が木蓮の体を容赦なく切り刻む。
「木蓮!」
水蓮が叫び、木蓮に水の筋を向ける。しかしそれも文字通り焼け石に水にしかならなかった。味わったことのない痛みと恐怖に木蓮の目から涙が流れ落ちる。そうしているうちにも二本の脚は容赦なく木蓮の体を斬りつけた。赤い脚は触れるだけで粘膜や肌の表面を焼いていった。肉が爛れ、焼かれていく激痛が全身を襲う。痛みに絶叫しながらも、木蓮は拳を握り締めた。
「――蜘蛛よ」
全ての熱を一瞬にして奪うような、冷たい声が響く。それは紛れもなく水蓮のものだった。木蓮は苦しみながらも顔を上げ、その姿を見つめる。
「お前は吾を怒らせた。吾らより旧きものとして敬意は払ってやろうと思っていたが、やめにしよう」
水蓮が扇を閉じた瞬間、どこからか湧いた水が地面を満たした。それは木蓮の場所にも到達し、呪いの熱を少しばかり冷ましていく。それに気が付いたのか、焔がすぐに木蓮の近くの水の力を増幅した。
「忘れているわけではあるまいな。吾が水夜とともに封印した者のことを」
「アレヲ解キ放ッタトコロデ、勝チ目ハナイ!」
「その五月蠅い口をそろそろ閉じるがいい!」
水蓮が天に向かって手を伸ばす。渦巻く水がその手の上で球を成した。水球はみるみると大きくなってゆく。
「――深き、昏い湖の底。吾が戒めの鎖を解き放たん」
水蓮がその天に向かって掲げていた手を下ろすと、それが合図とばかりに稲妻が空を裂いた。遅れて大粒の雨が蜘蛛に叩きつけられる。
「グアァアアア!」
蜘蛛は断末魔の絶叫を上げる。
六つの脚を蠢かして蜘蛛が悶え苦しむ度に、そこから黒い瘴気が噴き出した。だがそれはその右目に突き刺さった剣によって即座に浄化される。その剣が人間に扱えるような物でないことは、刀身から溢れんばかりの神力でわかる。
「吾が父が造った剣だ。それに吾が力を刻んでおる。吾はただ闇雲に父上を封印していたわけではないのだ」
そこで生きる人間達をも呑み込む神の力。水蓮は人間達を守るために水夜とともに父をも封印した。しかし水夜とは違い、父と意思疎通は出来る状態にしていたのだ。
「封印されながらも父はその牙を研いでいた。その牙が、この剣だ」
「オノレ……!」
蜘蛛は必死で抵抗する。しかしそれも空しく、剣の刃は右目に食い込んでいった。水蓮は素早く蜘蛛の上に乗り、剣を引き抜く。ぐちゅりと嫌な音がして、蜘蛛の右目の部分に大きな穴が空いた。そこから噴き出す瘴気は水蓮が繰り出す水の龍が食い尽くしていった。
「オノレ……コンナ、神ゴトキニ……!」
「最期の言葉はそれでいいのか?」
水蓮はそう問うと、今度はその脳天に向けて剣を構える。蜘蛛の赤い目がぎょろりと動き、木蓮を見た。そしてニタリと笑って言った。
「ナラバ、コノ娘ヲ道連レニ!」
「っ……いやあっ!」
「木蓮!」
木蓮が悲鳴を上げたその瞬間、その身を苛む灼熱の腕が増えた。水蓮の力でも抑えきれないそれが、木蓮の体を灼いていく。
「ああっ……あっ……」
木蓮の意識が白く塗りつぶされていく。視界が白と黒の斑に染まり、やがて全てが黒で埋め尽くされた。
「木蓮!」
焔が必死で呼びかけるが、木蓮はそれに答えることはなかった。水蓮は歯噛みしながらも、全身の力を振り絞って、その剣を再び蜘蛛に突き立てた。
「これ以上、吾の大切なものを奪わせはせぬぞ……!」
突き立てられた剣を目掛けて、青い雷が空を割る。雷は轟音を響かせながら蜘蛛を貫き通した。その力で崩れ落ちた蜘蛛の体を水蓮の水が浄化し、消し飛ばしていく。
「コレデ終ワルト思ウナ……我ラハ必ズ蘇ル……!」
その言葉を残し、大蜘蛛とそれを倒し切った剣は完全に消滅した。水蓮は水の力を使って静かに着地し、すぐさま木蓮に駆け寄る。
「木蓮!」
蜘蛛が消えたことにより、呪いは消えた。しかしその体にしっかりと火傷の痕が残っている。木蓮はゆるゆると目を開き、水蓮の頬に手を伸ばした。
「かっこよかった……神様ってすごいね」
「そんなことを言っている場合ではない」
呪いがこれ以上進行しなければ死ぬことはない。しかしあまりにも痛々しい姿だ。伴侶である水蓮が力を注げばある程度は治癒できるだろうが、それでも傷が残ってしまう可能性はある。
「でも、これでもう鬼は……」
「あの類のものは一度祓っても復活する。だが……向こう三百年ほどは安泰だろう」
龍にとってはそれは須臾の時間だ。しかし人にとっては長いと言えるだろう。水蓮は扇を手に目を細めた。
「その間に他の何かが起きるかどうかは、吾の預かり知らぬことだが」
神とて万能ではない。浄化の力を持つ水蓮も、それ以上のことは出来ないのだ。ここから何かが起きたとしても、水蓮の力で対処できるかどうかは、そのときになってみないとわからない。どこか言い訳じみてもいる水蓮の言葉を、木蓮は穏やかに笑って聞いていた。
「……そういうところ、優しいなって思う」
「其方は何を言うておるのだ」
「だってちゃんと、神様にもできないことがあるんだって、教えてくれるから」
「それのどこが優しいのか、吾にはよくわからぬ」
二人の会話を、焔は遠巻きに、しかし少し笑いながら聞いていた。水夜の神玉を持ったままの水の龍がどこか所在なげにそれに寄り添う。
「完全に二人の世界って感じね。ここで話しているより、早く神域に戻った方がいいと思うのだけど」
応えはない。水の龍はある程度自分で動けるように作られているが、言葉を交わすようなことはできないのだ。水夜も今は眠りについていて、何を話しかけても反応はないだろう。
「元の姿に戻るのは五十年くらい……目覚めるのは早くて一年後くらいかしらね」
目覚めたら目覚めたで、木蓮に手を出したことで水蓮に咎められる未来が待っている。見せつけるような行為に水蓮は怒髪衝天という言葉が相応しい状態になっていた。際限なく湧いてくる敵を一掃し、あの繭の中に力を届け続けた。それがなければさすがの木蓮も水夜を浄化することは出来なかっただろう。
「それにしても……旧きもの、か」
神々すらもまだ存在しないほどの昔、地上には渾沌があった。渾沌の中には神々ですら扱いきれないほどの膨大な力がある。国産みとは、その膨大な力の渦に秩序を齎す行為だった。しかし国が産まれ、神が降りようとも、渾沌の力が完全に消えることはない。しかもそれは人にも神にも牙を剥くものになる。かといってこの国が渾沌の中に秩序を与えて生まれたものである限り、その力を完全に消すことは出来ない。あの蜘蛛が、そしてこの地に長く巣食っていた瘴気の正体がそれであるということは、蜘蛛の言うとおりいずれは蘇ってしまうものだ。
水蓮の見立てでは三百年は安泰ということだ。おそらく他の神の見立てでもそうなるだろう。けれどそのあとはどうなるかわからないし、水蓮が安泰だと言えるのも、大水津薙命の力が及ぶ範囲だけだ。同じような火種を抱えた場所はこの国の中にいくつもあるのだ。
「まあ、でも……宴会は仕切り直しになるわね」
また気ままに各地を駆け回ることになるだろう。それが焔に与えられた役目だからだ。けれど水蓮と木蓮が結ばれたことと、この地に訪れた平穏を祝う宴が開催されるのは間違いない。それが終わるまでここにいることを許してくれないほど、主である宇迦之御魂が非情ではないことも焔はわかっていた。
「二人とも、そろそろ戻らない? 木蓮ちゃんの手当だって、まだ完全には終わってないでしょうに」
まだ仲睦まじく話している二人に、半ば呆れながら焔は言う。木蓮はそれを聞いて少し照れたように口を閉じた。
「そうだな。――吾も、少し疲れた」
「そのわりには木蓮ちゃんと楽しそうに話してたけど」
「それとこれとは話が違うのだ」
水蓮はそう言ってから、巨大な銀色の龍に転じた。水夜の神玉を抱えた水の龍がそれに寄り添う。木蓮は銀の龍にひらりと跨がり、静かにその体を預けた。
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