【R18】龍の谷に白木蓮

深山瀬怜

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十八・鬼成

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「木蓮様!」

 木蓮に気が付いた男衆の一人、悠來ユウラが声を上げた。悠來は男衆の中では一番若いが、霊力が強く、活躍を期待されている者の一人だった。

「状況は?」
「とりあえず俺たち以外はみんな家の中に隠れてる。でも俺たちじゃ手が出せないから、ただ牽制してるだけだ」

 邑の中に現れた鬼は人の形をしていたが、明らかに巨大だった。家などすぐに踏み潰してしまいそうだが、男衆の牽制によって動くことは出来ないようだった。

「あの鬼、時々髪の毛で攻撃してくるんだよ。それが厄介で。食らうと間違いなく死ぬっていうのはわかるから避けるしかなくて」
「……わかった」

 髪の毛による攻撃は、武羅瀬を喪ったときの鬼と同じだ。男衆達もそれがわかっているからこそ、自分の身を守る戦い方を選んだのだろう。

「それにしても、どうして急に邑の中に……外から入り込んだなら、見張りも気付かなかったなんてことはないと思うんだけど」

 悠來は鬼の動きを観察しながら言う。木蓮は頷いた。大抵の鬼は邑の外に現れる。だからそれを邑に入れないことが巫と男衆の役目なのだ。しかしこれまでもいきなり邑の中に鬼が現れたことはあった。穴が開くほど読み込んだ歴代の巫の残した記録を思い出しながら、木蓮は言う。

「鬼が現れたんじゃない。この邑の中で誰かが鬼になった」
「誰かって……」
「それはわからない。……でも鬼になったらもう助からない」
「でも鬼に成る程瘴気に触れてる奴なんて、俺たちの他にはいないはずだろ?」

 そうだ。最近では男衆も鬼とは戦っていなかった。この邑で木蓮だけが瘴気を受け続けてきたのだ。でもその木蓮は今ここにいる。

「……人の心からも、わずかだけど瘴気は生み出される。誰かを呪う気持ちだとか、嫉妬だとか……それが鬼に成る程膨れ上がってしまうことも、もしかしたらあるかもしれない」

 いずれにしろ、誰が鬼になったのかを突き止めているようないとまはない。木蓮は長い髪を振り乱して叫ぶ鬼を見つめた。鬼は確かに人の形をしているが、その表面は黒い紋様に覆われている。大きく裂けた口には乱雑に歯が並び、眼は眼球全体が血のような赤に染まっていた。異様な姿だ。どうすれば倒せるのかわからない。けれどこれを倒さなければ、間違いなく邑は壊滅状態になるだろう。

「鬼である以上、根気よく浄化していけばいつかは倒せるはず」
「わかった。ある程度は俺たちも援護するから」

 男衆を巻き込めば、また犠牲が出る可能性はあった。しかし今は一刻も早く鬼を倒さなければならない。時間をかけすぎると、邑にも大きな被害が出てしまうだろう。木蓮は抜刀しながら鬼に向かって跳躍した。
 鬼に向かって斬りつける。しかしその表面に大きな傷をつけることは出来なかった。木蓮は近くの屋根に着地し、木蓮を睥睨する鬼に向かい合う。

(浄化はできているか……でも、この瘴気を全部浄化するのは至難の業……)

 それでもやるしかない。木蓮は刀を中段に構えた。
 鬼の髪の毛が木蓮に向かう。木蓮はそれを切り落としながら再び鬼の本体を狙った。

(浅いな)

 髪の毛の攻撃を避けながらでは、致命傷を与えるのは難しい。しかし髪の毛は切り落としてもまたすぐに再生する。瘴気が尽きない限り、それに力を与えられるのだ。

天照皇太神あまてらしますすめおおがみのたまわく、人はすなわ天下あめがした神物みたまものなり――」

 長い祝詞を唱えればそれだけ隙を生むことになるが、得られる力は大きくなる。木蓮は鬼の攻撃をいなしながら祝詞を紡ぐ。身に負ったあらゆる罪穢れを祓う言葉だ。

「目にもろもろの不浄を見て、心に諸の不浄を見ず
 耳に諸の不浄を聞きて、心に諸の不浄を聞かず
 鼻に諸の不浄を嗅ぎて、心に諸の不浄を嗅がず
 口に諸の不浄を言いて、心に諸の不浄を言わず
 身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず 
 意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず――」

 言葉には力がある。神に向かってにえる言葉ならさらにその力は強くなる。木蓮の心の中にはあの龍神の姿があった。その清らかな姿が、人を突き放しきれない優しさが、澱んだ空気を清めていく。

「皆花よりぞ木実このみとはる、我が身はすなわ六根清浄ろっこんしょうじょうなり
 六根清浄なるが故に五臓の神君しんくん安寧なり、
 五臓の神君安寧なるが故に天地の神と同根なり、
 天地の神と同根なるが故に万物の霊と同体なり、
 万物の霊と同体なるが故に為す所の願いとして成就せずといふことなし」

 鬼の攻撃を躱した木蓮は、その瞬間に空を見た。分厚い雲がかかっていて、そこから糸のような筋がいくつも現れる。木蓮はその薄紅色の唇に笑みを浮かべた。

無上霊宝むじょうれいほう神道加持しんどうかじ!」

 全てを唱え終わった瞬間に雨が強くなり、全ての場所に平等に降り注ぐ。雨は体力を奪う側面もあるが、強い浄化の力もある。雨が磐を穿つように鬼の瘴気を少しずつ削り取っていく。
 木蓮が霊力を注ぎ込んだ刀で鬼に斬りつけた瞬間、鬼が叫び声を上げた。初めて有効と言える程度の攻撃が通った。しかし致命傷には至らない。木蓮はそのまま二撃を放つ。その瞬間に傷口から瘴気が溢れ出し、木蓮はそれを浴びてしまった。

「っ……!」

 何て強い瘴気だろうか。それだけで全身が重くなる。しかし雨が降っている今が好機だ。今のうちに仕留めてしまわなければならない。木蓮は鬼の目を突く形に刀を構える。しかしその瞬間に鬼の深紅の眼に映ったものを見て動きを止めた。

「どうして……」

 鬼の目は木蓮を見てはいなかった。そこに映っていたのは、木蓮によく似ていたものの、別の人物の姿であった。木蓮の知らないその人物の姿。巫だった頃の母の、緑波の姿。そして緑波を見つめている宿堤の姿であった。
 これが鬼が見ていたものだとすれば、その頃に生まれていない者は当然除外できる。いや、そんな方法で絞り込む必要もない。その場所で宿堤を見ることが出来る人間は一人しかいない。

「――已須見イスミ様」

 泰良タイラの母親であり、宿堤の妻。宿堤の隣でその姿を見ることが出来るのは、伴侶である已須見だけだ。木蓮に正体を感化された鬼は、その爪で木蓮を狙う。木蓮は間一髪でそれを躱したが、再びを瘴気をかぶってしまった。

『ドウシテ、ドウシテ――私ガ、一番アノ人ヲ愛シテイタノニ!』

 瘴気と一緒に、その感情も流れ込んでくるようだった。聞こえてきたのは慟哭。愛故の憎悪。木蓮は龍神の言葉を思い出した。これは罠だと言っていた。宿堤に取り憑いた影が呪いとなり木蓮を襲っていたということも聞いた。けれど影が取り憑いたのは宿堤だけだったのだろうか。派手な動きによって、もう一つの呪いが隠されていたとすれば。
 木蓮は拳を握り締めた。どのような理由があったとしても、それで無関係の人間を鬼に変えていいはずはない。しかも鬼に成る程強い感情を利用するなど許されることではない。鬼になった人間はもう戻ることは出来ないのだから。
 鬼が髪を振り乱して叫ぶ。それは悲痛な声だった。一度認識すれば人の言葉として木蓮の耳に届く。木蓮は鬼の攻撃を避けながら、静かにその言葉を聞いていた。

***

 いつも、その姿を遠くから見ていた。
 この邑において巫は特別な存在だ。そして邑長の一族も同じように特別な扱いをされる。霊力を持つ者は邑を守るために身を捧げる。そのための鍛錬を欠かさない宿堤の姿を已須見はいつも見つめていた。
 その恋慕が本人に届くことはないと已須見は思っていた。しかし已須見は選ばれたのだ。巫になることはできなかったが、それに次ぐ力を持つ者として、宿堤と契りを結ぶことになった。已須見は粛々とそれを受け入れているように見せかけていたが、内心では喜びに満ち溢れていた。已須見は宿堤に尽くし、そしていつの日にか、そう望まれているように宿堤との間に男児をもうけることを心に誓っていた。
 しかし喜びはいつの間にか小さくなっていた。もとより愛のない結婚であることはわかっていた。けれど傍にいられればそれでいいと思っていた。けれど宿堤の気持ちがどこに向いているかに気付いた瞬間、心の奥底に黒く澱んだものが生まれてしまった。
 巫であった緑波は、純潔を守らねばならなかった。だから宿堤はその気持ちを決して表には出さなかった。ただ邑長の一族としてできる限り、緑波を支え続けたのだ。しかし緑波はそんな宿堤の気持ちなどつゆ知らず、男衆の一人であった那久弥を選んでしまった。
 その頃から、恨みの感情がずっと心の中に燻っていた。

『アノ人ノ愛ヲ受ケテオキナガラ、何モ知ラズニ』

 緑波が巫でなくなり、一人娘である木蓮が生まれてからも、宿堤の心は緑波のもとにあった。けれど已須見に対しても冷淡だったわけではなかった。慈しみを持って接してくれていた。しかし已須見はその心の全てを求めてしまっていた。振り向いて欲しくて、さりとて嫌われたくはなくて、ひたすら静かに宿堤に尽くし続けた。

『アノ時、ヤット死ンデクレタト思ッタノニ』

 しかしある戦いで巫が破れ、鬼が邑に侵入することを許してしまった。邑の最後の砦として宿堤は戦ったが、巫と男衆、そして緑波を死なせてしまった。けれど已須見はそれでようやく宿堤の心が緑波から解放されると思った。傷心の宿堤を慰め、待望の男児も生まれた。しかし緑波がいなくなってからも、その心から緑波の姿は消えなかった。それは鬼への強い恨みへと姿を変えていただけだった。遺された木蓮は、已須見の目から見ても気の毒に成る程厳しく育てられた。その甲斐あってか、これまでのどの巫よりも強い力を持つようになった。全ての鬼を滅する。その目的に宿堤は突き動かされていた。

『死ンデモナオ、アノ女ハ宿堤様ノ心ニ在ル。ドウシテ、ドウシテ私ヲ見テハクレナイノカ』

 悲嘆が心の澱みを育てていった。
 そこに現れたのが爪の先よりも小さな影だった。
 影は結界で隔てられた向こう側を已須見に見せた。まやかしであると知りながら、影を纏った緑波の幻影と交わり続ける宿堤の姿を。自分にはついぞ見せてくれなかった烈しさで緑波を抱くその姿。それは已須見が恋慕した宿堤のものとはかけ離れていた。

『穢ラワシイ……アンナモノハ、違ウ……!』

 死んでも尚その心を縛り、幻影になって宿堤を狂わせた女のことがどうしても許せなかった。
 膨れ上がった憎悪は小さな影を大きく育てていく。内側からその者を鬼に変えてしまうほどに、影は肥大した。

『ァ……アァ……グ、ァアアァァァァァ……!』

 鬼と化したその喉からは人間の言葉はもう漏れては来なかった。かつて已須見だったものは、ただ本能が赴くままに立ち上がり咆哮を上げた。
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