【R18】龍の谷に白木蓮

深山瀬怜

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十七・残されなかった神の話

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 龍神は川沿いに歩き、山を登っていく。本殿のある滝よりも上は木蓮にとっては未踏の場所だった。おそらく邑の人間でもその先に進んだことがある人はいない。川沿いの道は人間が歩けるようにはなっていなかった。不安定な足場に気をつけながら木蓮は龍神についていく。龍神といえば、そんな道でも苦もなく歩けるようだった。

「どうやって歩いてるの、それ?」
「吾は人のような肉体を持っているわけではない。地面に立っているように見えて、少しばかり浮いているのだ」
「あ、本当だ……」
「焔は元々普通の狐が長生きして妖狐になり、宇迦之御魂の使いになったから、狐の肉体は持っているようだが」

 とりとめない話をしながら山道を進んでいく。鬱蒼とした森がどこまで続くのかと木蓮が思っていると、急に視界が開けた。

 そこには深い青色の水を湛える巨大な湖があった。湖の向こう岸には黒く塗られた鳥居がある。鳥居を建てるのは神ではなく人間だ。つまりここにはかつて人が入ったことがある。だが、そのことは邑にあるどの書物にも書いていなかったはずだ。木蓮がそれを尋ねようとすると、龍神が扇子をすっと広げた。

「かつて――何千年も前の話だ。この山の神が荒れ狂い、頂上が大きく削られた。まだこの地に人がおらぬ時だ。荒れ狂う山の神に対し、高天原は一柱の神をこの地に遣わした。それが其方たちの言う大水津薙命オオミツチノミコト――吾の父だ」

 それは木蓮が知らなかった神話だった。邑を守る龍神の伝説は語り継がれてきたはずだが、その話は伝わっていない。それはまだこの地に人間がいない頃の話だからだろう。

「大水津薙命は山の神と三日三晩、夜を徹して戦い続けた。燃える石のつぶてや身を切る灰を受け、満身創痍にはなったが、父は勝利した。そして山の神の亡骸を大きく削られた部分に沈め、そこを己の水で満たした。それがこの湖である。そして父はそのままかつて山の神が支配していたこの地を治めることを命じられた」

 木蓮は湖にそっと近付く。その話が真なら、ここには山の神の亡骸が沈んでいるのだ。しかし湖は深く、水は澄んでいてもその底は見えなかった。

「そして時は流れ、この湖からは川が生まれ、人間達がその清水を求めて邑を作るようになった。父はこのあたりを治めることに負担を感じるようになっていた。あの山の神はそう――あちらの山までもを治めていたからな」

 木蓮は龍神が指した方を見る。それは木蓮が暮らす邑の更に向こう側だ。今まで邑を高い場所から見たことが見たことがなかった木蓮は、そちらにも山があることにまず驚いた。

「鬼が出てくるあたりまでしか知らなかったな……あの向こうにも山があったのか」
「左様。そしてこの広い範囲を持て余した父は、自分の仕事を手伝う存在を求めた。宇迦之御魂は狐たちを従わせたが、父はそうしなかった」

 龍神はそう言うと、扇子をしまい。胸に手を当てる。すると水で作ったような透明な球体が現れた。遠くの景色がそのまま見えてしまうほど透明だ。しかしそれがただの透明な球体でないことはわかる。肌を刺すような強い力を感じる。

「これは全ての神が持つ『神玉シンギョク』と呼ばれるものだ。神の力の源とも言える。父は己の神玉を取り出し、それを二つに割ってから、片方を更に二つに割った。そして生まれたのが吾と吾の弟だ」
「弟?」
「名を水夜ミツヤと言う。父は、吾には湖を源とする川とそこにある邑を、水夜には向こうの山とそこにある邑を治めるようにと言った」
「神様ってそんな感じで生まれるの?」

 弟のことも、話の続きも気になったが、もう一つ気になったことを木蓮は尋ねた。龍神は神玉を体に戻してから答える。

「神は様々に生まれるものだ。小さな自然霊が信仰により神になることもあるし、人間の子供のように契りによって生まれることもある。そして吾らのように親となる神の神玉の一部から生まれることもある」
「そうなんだ……」
「そして父はこの湖とこの山を、吾は川と邑を、水夜は向こうの山と邑を治めるようになり、特に争いもないまま千年ほどが過ぎた」

 その頃は平和そのものだったという。邑は少しずつ大きくなっていたが、神々が持て余す程ではなかった。人々は豊かな水や土を与えてくれる神を敬い、祈りを捧げていたという。その頃はこの湖にも人が訪れていたのだろう。

「しかしある時――七〇〇年ほど前のことだ。水夜は自らの治めていた邑の娘と恋仲になった。神が人間に懸想すること自体はよくある話だ。しかし神の力は人間の体には耐えられぬものだ。特にその娘は、其方のように霊力が強い者でもなかったという」

 龍神が目を伏せる。神と人間が愛し合うこと自体は禁じられているわけではない。しかし愛する気持ちがどれだけ深くても、人間の脆弱な体はそれに耐えられないという問題が存在するのだ。

「それでも二人は愛し合うことを選んだ。だが――やはりその娘の体は水夜の力に耐えることが出来なかった。娘の体は神の力によってあちこちが異形の姿に変わってしまった。体の半分が龍の鱗に覆われ、胸を貫くように龍の角が生えた。そして苦しみの中で息絶えてしまった」

 それは再三龍神が木蓮に忠告していたこととも重なる。人間の体は神の力を受けるようには出来ていない。龍神が警告していたのはそういうことだったのだと木蓮は改めて実感した。

「娘が死に、水夜は悲しみに暮れた。山は荒れ果て、一部が崩れてしまうときさえあった。だが水夜もそれは自らの選択の結果だと受け入れるつもりではいた。しかし――娘を殺された親たちはそれを許さなかった。それまで敬われていたはずの神は邪神と呼ばれ、社は燃やされ、水夜は土地を追われた。そして近くにあった洞窟に逃げ込んだ」

 淡々と話しているが、時折龍神の声に感情が滲む。愚かな選択の結果だと突き放すことは出来なかった。二人が心の底から望んだことに口を出すことが出来るはずもなかった。しかしその一度で邪神とされ、社を破壊するという仕打ちは許せないようだった。娘を殺されたのだから致し方ない感情であることはわかるが、あまりにも惨い仕打ちだ。

「そこは普段から人も神も好んでは近付かない場所だった。塞いでも塞いでも瘴気が噴き出して来る場所だったのだ。だがそういう場所だからこそ、追っ手は来ない。おそらく水夜はそう思ったのだろう」

 しかしいくら神とはいえ、そんな場所で平気であるはずもない。木蓮は俯いて湖面を見つめた。

「水夜の神玉は噴き出す瘴気に蝕まれ、水夜は『堕ちた神』となってしまった。自らも瘴気を出し、葦原の中つ国を蝕むものとなった。そして――かつて自分が守っていた邑を滅ぼした」

 堕ちた神となった彼は、自分を追い出した人々を殺したのだ。そこまで聞いて、木蓮は一つの可能性に気が付いた。今まで鬼たちはほとんど同じ場所に出現した。鬼は瘴気によって生き物などが変質した姿だと考えられてきた。

「邑を襲いに来ていた鬼たちは、みんなその滅ぼされた邑の――」
「そうだ。それ以外にも水夜の使いが鬼と化したものや、瘴気の泡のように元となるものが存在しない鬼もいるが、人の形をしているものはのほとんどはかつてその邑で暮らしていた者達だ。だがこの邑に鬼が差し向けられるようになったのは、水夜が堕ちた神となってから暫く経ってからだ。――水夜が邑を滅ぼしたことに、父は酷く憤った。そして水夜を始末しようと戦いを挑んだのだ」

 龍神が湖面を指すと、そこにかつての様子が浮かび上がる。激しく降る雨。空を裂く稲妻。それをかき消すように立ちのぼる瘴気の渦。それを見ながら、龍神はどこか痛みを堪えているような顔をした。

「戦いは百日あまり続いた。神にとっては瞬きほどの時間だが、人にとって百日は長い。そなたの邑の者達はその争いに巻き込まれ、どうにかしてくれと吾に頼み込んだ。その先頭に立って吾と話をしたのが最初の巫だ。霊力は其方ほどではないが、気が強く勇ましい娘であった」
「それで、どうしたの?」
「吾はまず説得を試みた。しかし堕ちた神となった水夜は話が通じる状態ではなかったし、父も聞く耳を持たなかった。父の旧知である宇迦之御魂にも説得を頼んでみたものの、効果はなかった。思えば、父もその湖の底に沈めた山の神の影響を少なからず受けていたのだろうな。話が通じぬのなら力で止めるしかない。しかし吾は父と水夜の両方を相手にして勝てるほどの力はなかった――」

 湖面に映し出された絵に、ほのかに青い光が差す。それが龍神の使う浄化の力であることは木蓮にはすぐわかった。

「勝てないとわかっていたから、吾は父と水夜を封印した。父はこの湖に、水夜は根城にしていた洞窟に。そしてその封印が破られぬように、二人の力が拮抗するあの滝壺のところに身を置くことにした。吾自身が要石となるためにな」
「……だから、動くことが出来ない」
「左様。こうして多少なら動くことは出来るが、いくら近くても川のない場所には行けぬ。行けば封印が弱まる。邑の拝殿と本殿が離れているのもそういうわけだ。そして封印に成功したことにより、この地には平穏が訪れたはずだった」

 封印しただけである以上、問題を解決したことにはならない。けれど一時的な平穏はあるだろう。しかしその封印が完全なものではなかったことは現状が物語っていた。

「水夜は自分を封印した吾を恨み、封印の隙間を通すようにして鬼を送り込むようになった。自分は封印の外には出られぬからな。鬼に対抗できぬ邑の者達は、最初は随分と喰われてしまった。そして再び最初の巫が吾に何とかしてくれと頼みに来た。吾はこの湖の水を一部本殿に引き込み、父に助力を願った。少しばかり時間も経ち、多少は落ち着いているのではないかと思ったのだ。しかし封印されても尚、父は堕ちた神となった水夜を殺すことしか頭になかった。――吾は鬼に対抗できる武器を巫に託し、水夜が送り込む鬼を退けることを命じた。根本的な解決ではないことはわかっていた。だが吾は封印でほとんどの力を使い果たし、眠ることを欲していた」
「それで、今までそれは続いているってこと?」

 龍神は静かに頷いた。その青い瞳には深い憂いが湛えられている。

「そのせいで多くの犠牲が出たこともわかっておる。吾がもっと強ければこうはならなかったのだ。だが、其方たちが鬼を水際で食い止められていたのもまた事実だ。だが……水夜はこの停滞を打ち破る方法に気がついた」
「それは……」
「其方のような力の強い人間を引き込めば、吾の封印を破れると考えたのだ。其方に差し向けられる鬼が強く異質なものになっていったのも、其方が影に狙われたのも、全てそのためだろう」

 龍神は目を伏せた。木蓮は龍神に向かって微笑んでみせる。龍神は倒すことはできなかったと言うけれど、封印もできなかったのならもっと酷いことになっていたのだ。封印できたからこそ、犠牲は出たものの邑が滅びることはなく今まで続いているとも言える。

「私は鬼にはなりたくない」
「木蓮――」
「だから、何があっても鬼に……水夜さん? にも力を貸すつもりもない」

 龍神が微笑む。それは苦しい選択である。木蓮が人として生きている限り、水夜は封印を破る力を求めるだろう。既にその体は何度も傷つけられている。その苦しみから逃げたいと言ったとしても仕方がないほどのことがあった。それでも鬼にはなりたくないと言う、木蓮の純粋さを龍神は眩しく感じていた。

「ありがとう、話してくれて。もしかして本当は話しちゃいけないことだったんじゃ……」
「父にはそう言われておった。人には関係のないことだと。人の子に入れ込み過ぎるなと。だが吾は、何故こんな目に遭わされるのかを知らないままでいろとは言えない」
 「――優しいんだね」
「何を言う。ただの気まぐれのようなものだ」

 龍神はそう言って踵を返す。話は終わったから、もう戻るつもりだった。それに続こうとした木蓮はしかし、邑の方から聞こえてきた音に動きを止めた。

「この音……」

 邑では半鐘を鳴らして鬼の襲来を知らせる。その音の違いで鬼の種類と数、そしてどこに現れたかを示すことになっていた。それは木蓮の記憶の底にこびりついた音であった。

「どうして……違う、すぐに戻らないと!」

 その音が示す意味。
 人の形の鬼、しかし巨大なものが一体。出現場所は――邑の中。
 木蓮は地面に手を突いて縮地術を使い始める。しかし龍神はその手を止めた。

「――これは罠だ。其方が行ってはならぬ」
「でも、行かないと」
「もう次はないのだ。吾の力をこれ以上受ければ、其方の体は神の力に耐えきれなくなる。そもそも先程の影の呪いも完全に浄化しきってはおらぬのだ」

 木蓮は手を止めて、龍神を見つめる。寝ている間に浄化されていたため、完全に浄化されているのだと思い込んでいた。しかし龍神は途中でそれを止めたのだ。
 ――木蓮を死なせないために。

「邑には他にも戦える者がいるはずだ。其方が全てを背負う必要はない」
「それでも……ここで何もしないで終わるのを待つだけなんて、私にはできない!」
「木蓮!」

 木蓮は再び縮地術の陣を編み始める。そこに木蓮が自分の霊力を流し始めるのを、龍神は奥歯を噛み締めながら見つめていた。

「ありがとう。私を……死なせないでいてくれて」

 生きているからこそ、戦うことができる。陣に霊力が完全に流し込まれ、木蓮の姿が消える瞬間、龍神は呟いた。

「……死なせたくないと、今も思っておる」

 木蓮が去った湖のほとりに風が吹く。そのざわめきに混ざるようにして、父の声が響いた。

『お前まで、人の子に入れ込んでしまうとは。神の名折れだ』
「……今はそんな話をする時ではない」

 罠だとわかっている。
 これまでとは明らかに様子がちがう鬼が現れたのだ。何かを仕掛けにきていると考えるのが妥当だ。だからといって自らを要石とした龍神はおいそれと動くこともできない。動けない身がもどかしかった。

『お前がこの封印を解いてさえくれれば』
「それはできない。水夜を倒したとしても、邑が潰れてしまったら意味がない」

 神に人を守る義務はない。しか木蓮を始め、自分を守り神と慕う邑の者たちを見捨てるようなことはできないのだ。

『それでは何もできぬだろう』
「――あの娘を侮らない方がいい」

 そう言ったものの、不安は拭いきれなかった。水夜は木蓮を手に入れるためなら何でもするだろう。もうものことが起こってしまったとき、自分はどうすればいいのか。龍神はその答えを未だ見つけられていなかった。
 嘆息とともに空を仰ぐ。空には暗い色の雲がかかり始めていた。暫くすれば雨が降り出すだろう。

「そうか、雨か――」

 龍神はそう呟き、ゆっくりと拳を握り締めた。
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