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四・二人静
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木蓮が一人で戦い始めてからも、鬼の襲来は変わらず続いていた。水鏡を使ってその様子を眺めていた龍神は嘆息する。日増しに強くなっていく鬼であっても、木蓮は一人で倒せていた。しかし男衆がいれば負わずに済んでいた傷を負い、一人で鬼化の呪いの全てを受け止めている。
「このままでは、いずれ破綻すると思うが――」
しかし神には人が決めたことを覆すほどの力はない。そして人の世に神が干渉しすぎると良くない結果を招くことも知っていた。龍神にできることといえば、禊のときに気付かれないように手を貸すことくらいであった。
「一人で戦えるほど強いが故、か」
これまでの巫は霊力が高いと言っても男衆と大差ない程度だった。弱い鬼ですら一撃では浄化しきれない。当然男衆の手を借りなければ戦うことすらままならなかった。木蓮は一人で戦えるほどに強いが故に今も孤独な戦いに身を投じることになっているのだ。
「……それにしても、飽きもせずよくもまあこれほど鬼を送ってくるものだ」
龍神は水鏡にもう一つの景色を映し出す。それはどこかの山のようだったが、そこには緑はなく、黒く淀んだ霧に覆われていた。何百年も変わらない景色。水鏡では見ることが出来ないその奥にいるものを、龍神だけが知っていた。
***
「人型だけど、霊体か――」
人型の鬼が一体。しかし、刀で斬りつけると二つに分かれる。そしてすぐに煙のように一つに戻るのだ。実体がないものには捕縛の術も使えない。木蓮は刀を正眼に構えたままで鬼を見つめた。
鬼は水干に緋袴を身につけ、舞うようにして木蓮と距離を取っている。その舞は美しいが、あまり見入ってはならない。鬼の舞に心を奪われれば、簡単に餌食になってしまう。木蓮は暫く思案したのちに、刀を鞘に収めた。
「そっちがそう来るなら」
邑の巫は鬼を討伐する役目を持つが、邑の祭祀を仕切ってもいる。龍神に捧げる舞ならば、眠っていても体が勝手に動く。そして巫の舞はただ美しいだけではなく、それ自体が一つの儀式となっていた。
鬼とはどこから来るものなのか、木蓮をはじめとする邑の人間はその脅威を退けるのに手一杯で、その正体には未だに迫ることができていない。瘴気により生き物などが変質した姿という予想が立てられているが、それが正しいのであれば、目の前にいる鬼はおそらく元々人間だったのだ。美しい舞姿は人間だった頃に身につけたものだろうか。無駄のない所作。ゆったりと動いているように見えて隙はない。
鬼が太刀を抜く。舞の中の自然な動きのようで、確実に木蓮を狙っていた。木蓮はそれを避けながら身を低くし、地面に印をつけた。鬼はまだ木蓮がしようとしていることには気付いていないようだ。優美に見えて、これは命のやりとりだ。鬼の攻撃を躱しながら木蓮は地面に五つの印を描き、刀の柄に手をかけた。
(――今だ!)
鬼が再び木蓮に太刀を向けた瞬間、木蓮がつけた印から細い光が天に向かって伸びた。この細い柱と柱の中にいる間は鬼は霊体でいることはできなくなる。煙を斬ることはできないが、それを器に閉じ込めて、器ごと浄化することは出来る。つまるところ、これは鬼を閉じ込めておくための檻だ。
鬼は無理矢理閉じ込められ、もがき苦しんでいた。木蓮はそのまま柱と柱の間でもがく鬼を刀で斬り伏せる。鬼は霊体でありながらも他の鬼と同じように塵となって消え、木蓮はそれを確認してから刀を鞘に納めた。
「ふう……」
木蓮は額の汗を手の甲で拭った。舞はゆったりとした動きのように見えて、素早く動くのとは別の筋肉を使う。祭りのときなどに龍神に捧げる舞も、終わった頃には汗が滲むことが多い。このまま禊のために直接龍神の滝まで行くのがいいだろうと思ったそのとき、目の前が暗闇に包まれ、木蓮はその場に膝を突いた。
「っ……何、これ」
下腹部に何か重いものが蟠っているように感じる。そしてそれは黒く細い枝のようなものを伸ばし、木蓮の内側に広がっていくようだった。
「あ、ぅ……ぐ……っ」
内臓を無数の棘で刺されているような痛みと熱を感じる。木蓮は腹を押さえてその場でうずくまった。鬼は倒したはずだ。霊体だったから血を浴びることもなく、鬼の攻撃もほとんど躱している。それなのにどうして呪いに苛まれているのか。木蓮は自分の霊力で呪いが広がるのを押し留めながら、先程までの戦闘を反芻する。そして一つの答えに辿り着いた。
「向こうも、あの舞で術を使ったってことか……」
木蓮がそうしたように、あの鬼も舞の中に術を組み込んでいた。鬼は木蓮の術には気付かなかったが、木蓮も鬼の術に気付くことができなかった。
「ぬかった……!」
鬼の術が内側で木蓮を蝕んでいく。その苦痛と熱は次第に手足の先へと広がっていった。全身を焼き尽くすような熱に木蓮はその場で蹲る。
普通の人間ならば一瞬たりとも耐えられずに鬼と化してしまうほどの強い呪いだ。木蓮の強い霊力がそれを防いでいた。だがそれは耐えることができるからこその苦痛を木蓮に与える。
「う……あぁ……」
しかし木蓮は熱に耐えながら目を閉じた。指先と爪先に霊力を集め、それを体の中心に向けて広げていく。呪いは全身に行き渡る前に押し留める。応急処置でしかないが、そうしなければすぐに呪いに呑まれてしまうのだ。
(何とか耐えられてる……このまま、禊をすれば)
龍神の滝は強い浄化の力を宿している。鬼の呪いもそこに行けば多少は浄化できるはずだ。木蓮は力を振り絞り、龍神の滝まで一瞬で移動する縮地術を発動した。
再び目を開くと、そこには清浄な気で溢れた龍神の祠の目の前だった。木蓮は体の中心で暴れ回る熱を抑え込みながら、祠に手を合わせた。
「――極めて汚濁きも……滞無ければ穢とはあらじ……」
祝詞とは、神に奏上する言葉だ。その力を借り受け呪いを鎮めるために、木蓮は時折呻きながらも言葉を紡ぐ。しかし祝詞を全て唱える前に、体の中で熱が膨れ上がり、木蓮の意識は激痛とともに途切れていった。
***
「霊体の鬼に一人で挑むなどと、無謀なことをするからだ」
祠の前の気配を感じながらも、龍神は突き放すように言った。普通ならばとっくに鬼になっている。霊体の鬼に対して、人間が打てる手段は少ない。それでも鬼の舞を妨害する者が複数いれば、木蓮なら無傷で倒すことも出来ただろう。しかし男衆に鬼の妨害を任せれば、再び犠牲が出る可能性もある。木蓮はそれを嫌い、一人で戦うことを選んだのだ。
龍神は木蓮を助けようとは思っていなかった。滝に入って禊をすれば、それである程度呪いは浄化される。完全に消し去ることは出来ないまでも、二日もすれば戦うことは出来るだろう。放っておいても木蓮ならば対処できる。人間の力で出来ることには手出しをしない。龍神はそう決めていた。
このまま無視を決め込んで眠ってしまおう。龍神は龍の姿に転じて目を閉じる。眠ることは龍神にとって最も大切なことの一つであった。しかし暫くして、耐えきれなくなり再び目を開けた。人間の姿に転じ、祠の扉の向こう側を水鏡で覗くと、そこには意識を失って倒れ込む木蓮の姿が映っていた。
「このまま眠ってしまうのには、どうも目覚めが悪いだけだ――」
祠の前で倒れている木蓮を見ながら、龍神は溜息交じりに柏手を打つ。すると龍神の足元を満たす水が揺らめき、幾条もの筋となって、何もない空間へと伸びていった。木蓮がいる場所と龍神のいる場所は同じようで違っている。龍神は祠の中に龍神しか立ち入れない空間を作っているのだ。
水の筋の端が空間の狭間に入って見えなくなる。しかし見えずとも龍神はそれを自らの手足のように操ることが出来た。倒れている木蓮をゆっくりと持ち上げ、そのまま水の筋を自らのもとに引き寄せる。
「ふむ……傷はそれほどないようだな」
問題は呪いの方だ。龍神は水の褥の上に木蓮を横たえた。緋袴は半分水に浸かっている。時折苦しそうに息を吐き出す木蓮を見下ろし、龍神は手に持っていた扇を広げた。水の筋がゆっくりと木蓮に向かっていき、その肌に触れる。その中の幾条かが着物の袷から中に入り込むと、木蓮は微かに声を上げた。
「外側からでは埒が明かないか」
呪いがある場所の近くに水が触れなければ完全な浄化は難しい。水の筋は器用に動き、木蓮の服を寛げていく。その白い肌には鬼化の呪いを受けた証である黒い文様が広がりつつあった。
「――思い通りにはさせぬぞ」
低い声で龍神が呟いたそのとき、木蓮が薄目を開けた。肌をなぞる水の筋に反応してあえかな吐息を漏らす。
「んっ……ぁ、え……?」
木蓮は自分が見覚えのない場所にいることに気が付いたようだ。驚いて周囲を見回す目は澄んだ色をしている。その双眸が静かに佇んでいる龍神の姿を捉えた。
「目を覚ましたか」
「えっと……確か、龍神様の祠のところまで行って……あなたは?」
「吾がその龍神だ」
龍神があっさりと自らの正体を告げると、木蓮は瞠目した。さすがに信じられないだろうか。信じてもらえないのであれば龍の姿になるか、などと龍神が考えていると、木蓮がおずおずと口を開いた。
「えぇと……大水津薙命様……?」
「人の子は吾をそう呼ぶのだったな。その認識で概ね間違ってはいない」
含みのある龍神の言い方に、木蓮は首を傾げた。しかしそれを尋ねる前に体の中心に焼き鏝を当てられているような熱に襲われ、呻き声を上げた。
「無駄話をしている余裕はないようだな。早うその瘴気を浄化せねば、その身は鬼と変じるだろう」
「そう……みたいだね」
「その呪いは其方の内側に巣喰っておる。吾の水であっても、内側に潜らねば完全な浄化は無理だろう」
「っ……じゃあ……」
木蓮の表情が曇った。しかし龍神は内側に潜らねば浄化は不可能と言っただけである。
「話はもっとしっかりと聞くものだ、人の子よ。今から吾の水を其方の中に入れる。さすればその程度の呪いは消し去れよう」
「中って……?」
水に浸かる足下から何かが昇って来ることに木蓮は気付いたようだった。呪いは体の中心から全身に広がっていく。龍神は一瞬眉を顰めるが、木蓮はそれを見ていなかった。
「っ……ぁ、何……?」
脚を這う感触に木蓮は声を上げる。緋袴に隠されたその部分は見ることが出来なかったが、龍神の操る水の筋が木蓮の足の付け根を目指していた。それに気が付いた木蓮は驚いて身をよじる。
「ぇ、あ……だめ、そこは……っ」
「呪いを浄化するには必要なことだ。力を抜いて、吾に委ねよ。痛みはないはずだ」
「でも、そこは誰も入れてはいけないって……!」
龍神は木蓮の言葉に従い、一旦水の動きを止めた。確かに邑の巫には純潔を守らねばならないという掟がある。純潔を破られればその霊力は失われるという。しかしそれは人間達の誤った認識だ。神に仕える者は清くなければならないという決まりを拡大した結果に過ぎない。
だが、今そんなことを木蓮に言っても混乱させるだけだろう。今はその身の浄化が優先だ。
「神である吾がすることで、その身が穢れることはない。安心せよ」
龍神が言うと、木蓮は硬い表情のままで頷いた。その言葉に納得はしたものの、未知の場所に異物が入り込むことには抵抗があるのだろう。龍神はその指よりも細い水の筋をゆっくりと木蓮の秘部に挿入した。
「っ……ん、」
「痛みはあるか?」
「……よく、わからない……っ、う」
「どちらかといえば呪いの痛みの方が強いか。ならばもう少し進めても良さそうだ」
龍神は木蓮の中に細い水の筋をもう一本潜り込ませる。二本の透明な水の触手は木蓮の中をゆっくりと動き、奥を目指した。呪いは胎の中に巣喰うものだ。そこまで直接水を届かせなければならない。
「っ、ぁ……ああ、ん……ッ」
緩やかだが強い、未知の感覚に木蓮は体を震わせた。巫はその身が穢れることがないように、自らを厳しく律して生活している。誰も受け入れたことがない無垢な体。龍神は身じろぎする木蓮を見下ろしながら、水の筋に意識を集中させていた。
「ふむ……やはりここか」
龍神は水を通し、普通では見られない木蓮の体の奥を見ることが出来た。木蓮の胎の中に瘴気を放つ禍々しい紋がある。それが呪いの本体だ。細い途を通り抜けた二本の水の筋がその紋に触れた瞬間、木蓮の体が跳ねた。
「んんっ……ぁ、ぅ……ん……っ」
木蓮は無意識に脚を閉じようとするが、閉じたところで侵入を果たした水の筋は動きを止めることはない。龍神は呪いの紋を消し去るように、そこを何度も執拗になぞった。
「ぁ、ん……っ、ぁ……!」
瘴気が完全に消え去った瞬間、木蓮が体を縮こませる。肩で息をする木蓮の体から、龍神は水の筋をゆっくりと抜いた。水の褥に体を預ける木蓮の頬を水の筋が優しく撫でる。
「これで呪いは浄化された。安心するといい」
「確かに……楽になった、かも……」
木蓮が体を起こす。龍神はその姿を見て小さく溜息を吐いた。
「今回は特別だ。吾は基本的には人の子に肩入れすることはない」
「じゃあ、今日はどうして」
「吾の祠の前で吾が巫が野垂れ死ぬのは目覚めが悪いと思っただけのこと。今後はこのようなことはしない」
「そう……」
「神の力を人の中に入れ過ぎるのは障りがあるのだ。――外までは送り届けてやろう。人の力ではここから出ることは出来ぬからな」
龍神は木蓮の返事を聞くことなく、木蓮の足元に水の龍を生み出す。水の龍の背に乗せられた木蓮はしげしげとその透明な体を見つめていた。
「目は閉じて、それにしっかり捕まっていた方がいい。途中に何がいるかわかったものではないからな」
木蓮は素直に頷いて目を閉じた。その瞬間に水の龍が木蓮を乗せて舞い上がる。刹那のうちに龍は虚空へと消えた。
「戻ってきた……?」
足が地面についたのを感じた木蓮はゆっくりと目を開く。そこには意識を失う前と変わらぬ光景が広がっていた。龍神の祠は何事もなかったかのように沈黙している。しかし体に残った感覚と、木蓮の足元で動き、滝壺に向かう水の流れを見て、先程までの出来事が夢や幻ではなかったことを確信した。
「このままでは、いずれ破綻すると思うが――」
しかし神には人が決めたことを覆すほどの力はない。そして人の世に神が干渉しすぎると良くない結果を招くことも知っていた。龍神にできることといえば、禊のときに気付かれないように手を貸すことくらいであった。
「一人で戦えるほど強いが故、か」
これまでの巫は霊力が高いと言っても男衆と大差ない程度だった。弱い鬼ですら一撃では浄化しきれない。当然男衆の手を借りなければ戦うことすらままならなかった。木蓮は一人で戦えるほどに強いが故に今も孤独な戦いに身を投じることになっているのだ。
「……それにしても、飽きもせずよくもまあこれほど鬼を送ってくるものだ」
龍神は水鏡にもう一つの景色を映し出す。それはどこかの山のようだったが、そこには緑はなく、黒く淀んだ霧に覆われていた。何百年も変わらない景色。水鏡では見ることが出来ないその奥にいるものを、龍神だけが知っていた。
***
「人型だけど、霊体か――」
人型の鬼が一体。しかし、刀で斬りつけると二つに分かれる。そしてすぐに煙のように一つに戻るのだ。実体がないものには捕縛の術も使えない。木蓮は刀を正眼に構えたままで鬼を見つめた。
鬼は水干に緋袴を身につけ、舞うようにして木蓮と距離を取っている。その舞は美しいが、あまり見入ってはならない。鬼の舞に心を奪われれば、簡単に餌食になってしまう。木蓮は暫く思案したのちに、刀を鞘に収めた。
「そっちがそう来るなら」
邑の巫は鬼を討伐する役目を持つが、邑の祭祀を仕切ってもいる。龍神に捧げる舞ならば、眠っていても体が勝手に動く。そして巫の舞はただ美しいだけではなく、それ自体が一つの儀式となっていた。
鬼とはどこから来るものなのか、木蓮をはじめとする邑の人間はその脅威を退けるのに手一杯で、その正体には未だに迫ることができていない。瘴気により生き物などが変質した姿という予想が立てられているが、それが正しいのであれば、目の前にいる鬼はおそらく元々人間だったのだ。美しい舞姿は人間だった頃に身につけたものだろうか。無駄のない所作。ゆったりと動いているように見えて隙はない。
鬼が太刀を抜く。舞の中の自然な動きのようで、確実に木蓮を狙っていた。木蓮はそれを避けながら身を低くし、地面に印をつけた。鬼はまだ木蓮がしようとしていることには気付いていないようだ。優美に見えて、これは命のやりとりだ。鬼の攻撃を躱しながら木蓮は地面に五つの印を描き、刀の柄に手をかけた。
(――今だ!)
鬼が再び木蓮に太刀を向けた瞬間、木蓮がつけた印から細い光が天に向かって伸びた。この細い柱と柱の中にいる間は鬼は霊体でいることはできなくなる。煙を斬ることはできないが、それを器に閉じ込めて、器ごと浄化することは出来る。つまるところ、これは鬼を閉じ込めておくための檻だ。
鬼は無理矢理閉じ込められ、もがき苦しんでいた。木蓮はそのまま柱と柱の間でもがく鬼を刀で斬り伏せる。鬼は霊体でありながらも他の鬼と同じように塵となって消え、木蓮はそれを確認してから刀を鞘に納めた。
「ふう……」
木蓮は額の汗を手の甲で拭った。舞はゆったりとした動きのように見えて、素早く動くのとは別の筋肉を使う。祭りのときなどに龍神に捧げる舞も、終わった頃には汗が滲むことが多い。このまま禊のために直接龍神の滝まで行くのがいいだろうと思ったそのとき、目の前が暗闇に包まれ、木蓮はその場に膝を突いた。
「っ……何、これ」
下腹部に何か重いものが蟠っているように感じる。そしてそれは黒く細い枝のようなものを伸ばし、木蓮の内側に広がっていくようだった。
「あ、ぅ……ぐ……っ」
内臓を無数の棘で刺されているような痛みと熱を感じる。木蓮は腹を押さえてその場でうずくまった。鬼は倒したはずだ。霊体だったから血を浴びることもなく、鬼の攻撃もほとんど躱している。それなのにどうして呪いに苛まれているのか。木蓮は自分の霊力で呪いが広がるのを押し留めながら、先程までの戦闘を反芻する。そして一つの答えに辿り着いた。
「向こうも、あの舞で術を使ったってことか……」
木蓮がそうしたように、あの鬼も舞の中に術を組み込んでいた。鬼は木蓮の術には気付かなかったが、木蓮も鬼の術に気付くことができなかった。
「ぬかった……!」
鬼の術が内側で木蓮を蝕んでいく。その苦痛と熱は次第に手足の先へと広がっていった。全身を焼き尽くすような熱に木蓮はその場で蹲る。
普通の人間ならば一瞬たりとも耐えられずに鬼と化してしまうほどの強い呪いだ。木蓮の強い霊力がそれを防いでいた。だがそれは耐えることができるからこその苦痛を木蓮に与える。
「う……あぁ……」
しかし木蓮は熱に耐えながら目を閉じた。指先と爪先に霊力を集め、それを体の中心に向けて広げていく。呪いは全身に行き渡る前に押し留める。応急処置でしかないが、そうしなければすぐに呪いに呑まれてしまうのだ。
(何とか耐えられてる……このまま、禊をすれば)
龍神の滝は強い浄化の力を宿している。鬼の呪いもそこに行けば多少は浄化できるはずだ。木蓮は力を振り絞り、龍神の滝まで一瞬で移動する縮地術を発動した。
再び目を開くと、そこには清浄な気で溢れた龍神の祠の目の前だった。木蓮は体の中心で暴れ回る熱を抑え込みながら、祠に手を合わせた。
「――極めて汚濁きも……滞無ければ穢とはあらじ……」
祝詞とは、神に奏上する言葉だ。その力を借り受け呪いを鎮めるために、木蓮は時折呻きながらも言葉を紡ぐ。しかし祝詞を全て唱える前に、体の中で熱が膨れ上がり、木蓮の意識は激痛とともに途切れていった。
***
「霊体の鬼に一人で挑むなどと、無謀なことをするからだ」
祠の前の気配を感じながらも、龍神は突き放すように言った。普通ならばとっくに鬼になっている。霊体の鬼に対して、人間が打てる手段は少ない。それでも鬼の舞を妨害する者が複数いれば、木蓮なら無傷で倒すことも出来ただろう。しかし男衆に鬼の妨害を任せれば、再び犠牲が出る可能性もある。木蓮はそれを嫌い、一人で戦うことを選んだのだ。
龍神は木蓮を助けようとは思っていなかった。滝に入って禊をすれば、それである程度呪いは浄化される。完全に消し去ることは出来ないまでも、二日もすれば戦うことは出来るだろう。放っておいても木蓮ならば対処できる。人間の力で出来ることには手出しをしない。龍神はそう決めていた。
このまま無視を決め込んで眠ってしまおう。龍神は龍の姿に転じて目を閉じる。眠ることは龍神にとって最も大切なことの一つであった。しかし暫くして、耐えきれなくなり再び目を開けた。人間の姿に転じ、祠の扉の向こう側を水鏡で覗くと、そこには意識を失って倒れ込む木蓮の姿が映っていた。
「このまま眠ってしまうのには、どうも目覚めが悪いだけだ――」
祠の前で倒れている木蓮を見ながら、龍神は溜息交じりに柏手を打つ。すると龍神の足元を満たす水が揺らめき、幾条もの筋となって、何もない空間へと伸びていった。木蓮がいる場所と龍神のいる場所は同じようで違っている。龍神は祠の中に龍神しか立ち入れない空間を作っているのだ。
水の筋の端が空間の狭間に入って見えなくなる。しかし見えずとも龍神はそれを自らの手足のように操ることが出来た。倒れている木蓮をゆっくりと持ち上げ、そのまま水の筋を自らのもとに引き寄せる。
「ふむ……傷はそれほどないようだな」
問題は呪いの方だ。龍神は水の褥の上に木蓮を横たえた。緋袴は半分水に浸かっている。時折苦しそうに息を吐き出す木蓮を見下ろし、龍神は手に持っていた扇を広げた。水の筋がゆっくりと木蓮に向かっていき、その肌に触れる。その中の幾条かが着物の袷から中に入り込むと、木蓮は微かに声を上げた。
「外側からでは埒が明かないか」
呪いがある場所の近くに水が触れなければ完全な浄化は難しい。水の筋は器用に動き、木蓮の服を寛げていく。その白い肌には鬼化の呪いを受けた証である黒い文様が広がりつつあった。
「――思い通りにはさせぬぞ」
低い声で龍神が呟いたそのとき、木蓮が薄目を開けた。肌をなぞる水の筋に反応してあえかな吐息を漏らす。
「んっ……ぁ、え……?」
木蓮は自分が見覚えのない場所にいることに気が付いたようだ。驚いて周囲を見回す目は澄んだ色をしている。その双眸が静かに佇んでいる龍神の姿を捉えた。
「目を覚ましたか」
「えっと……確か、龍神様の祠のところまで行って……あなたは?」
「吾がその龍神だ」
龍神があっさりと自らの正体を告げると、木蓮は瞠目した。さすがに信じられないだろうか。信じてもらえないのであれば龍の姿になるか、などと龍神が考えていると、木蓮がおずおずと口を開いた。
「えぇと……大水津薙命様……?」
「人の子は吾をそう呼ぶのだったな。その認識で概ね間違ってはいない」
含みのある龍神の言い方に、木蓮は首を傾げた。しかしそれを尋ねる前に体の中心に焼き鏝を当てられているような熱に襲われ、呻き声を上げた。
「無駄話をしている余裕はないようだな。早うその瘴気を浄化せねば、その身は鬼と変じるだろう」
「そう……みたいだね」
「その呪いは其方の内側に巣喰っておる。吾の水であっても、内側に潜らねば完全な浄化は無理だろう」
「っ……じゃあ……」
木蓮の表情が曇った。しかし龍神は内側に潜らねば浄化は不可能と言っただけである。
「話はもっとしっかりと聞くものだ、人の子よ。今から吾の水を其方の中に入れる。さすればその程度の呪いは消し去れよう」
「中って……?」
水に浸かる足下から何かが昇って来ることに木蓮は気付いたようだった。呪いは体の中心から全身に広がっていく。龍神は一瞬眉を顰めるが、木蓮はそれを見ていなかった。
「っ……ぁ、何……?」
脚を這う感触に木蓮は声を上げる。緋袴に隠されたその部分は見ることが出来なかったが、龍神の操る水の筋が木蓮の足の付け根を目指していた。それに気が付いた木蓮は驚いて身をよじる。
「ぇ、あ……だめ、そこは……っ」
「呪いを浄化するには必要なことだ。力を抜いて、吾に委ねよ。痛みはないはずだ」
「でも、そこは誰も入れてはいけないって……!」
龍神は木蓮の言葉に従い、一旦水の動きを止めた。確かに邑の巫には純潔を守らねばならないという掟がある。純潔を破られればその霊力は失われるという。しかしそれは人間達の誤った認識だ。神に仕える者は清くなければならないという決まりを拡大した結果に過ぎない。
だが、今そんなことを木蓮に言っても混乱させるだけだろう。今はその身の浄化が優先だ。
「神である吾がすることで、その身が穢れることはない。安心せよ」
龍神が言うと、木蓮は硬い表情のままで頷いた。その言葉に納得はしたものの、未知の場所に異物が入り込むことには抵抗があるのだろう。龍神はその指よりも細い水の筋をゆっくりと木蓮の秘部に挿入した。
「っ……ん、」
「痛みはあるか?」
「……よく、わからない……っ、う」
「どちらかといえば呪いの痛みの方が強いか。ならばもう少し進めても良さそうだ」
龍神は木蓮の中に細い水の筋をもう一本潜り込ませる。二本の透明な水の触手は木蓮の中をゆっくりと動き、奥を目指した。呪いは胎の中に巣喰うものだ。そこまで直接水を届かせなければならない。
「っ、ぁ……ああ、ん……ッ」
緩やかだが強い、未知の感覚に木蓮は体を震わせた。巫はその身が穢れることがないように、自らを厳しく律して生活している。誰も受け入れたことがない無垢な体。龍神は身じろぎする木蓮を見下ろしながら、水の筋に意識を集中させていた。
「ふむ……やはりここか」
龍神は水を通し、普通では見られない木蓮の体の奥を見ることが出来た。木蓮の胎の中に瘴気を放つ禍々しい紋がある。それが呪いの本体だ。細い途を通り抜けた二本の水の筋がその紋に触れた瞬間、木蓮の体が跳ねた。
「んんっ……ぁ、ぅ……ん……っ」
木蓮は無意識に脚を閉じようとするが、閉じたところで侵入を果たした水の筋は動きを止めることはない。龍神は呪いの紋を消し去るように、そこを何度も執拗になぞった。
「ぁ、ん……っ、ぁ……!」
瘴気が完全に消え去った瞬間、木蓮が体を縮こませる。肩で息をする木蓮の体から、龍神は水の筋をゆっくりと抜いた。水の褥に体を預ける木蓮の頬を水の筋が優しく撫でる。
「これで呪いは浄化された。安心するといい」
「確かに……楽になった、かも……」
木蓮が体を起こす。龍神はその姿を見て小さく溜息を吐いた。
「今回は特別だ。吾は基本的には人の子に肩入れすることはない」
「じゃあ、今日はどうして」
「吾の祠の前で吾が巫が野垂れ死ぬのは目覚めが悪いと思っただけのこと。今後はこのようなことはしない」
「そう……」
「神の力を人の中に入れ過ぎるのは障りがあるのだ。――外までは送り届けてやろう。人の力ではここから出ることは出来ぬからな」
龍神は木蓮の返事を聞くことなく、木蓮の足元に水の龍を生み出す。水の龍の背に乗せられた木蓮はしげしげとその透明な体を見つめていた。
「目は閉じて、それにしっかり捕まっていた方がいい。途中に何がいるかわかったものではないからな」
木蓮は素直に頷いて目を閉じた。その瞬間に水の龍が木蓮を乗せて舞い上がる。刹那のうちに龍は虚空へと消えた。
「戻ってきた……?」
足が地面についたのを感じた木蓮はゆっくりと目を開く。そこには意識を失う前と変わらぬ光景が広がっていた。龍神の祠は何事もなかったかのように沈黙している。しかし体に残った感覚と、木蓮の足元で動き、滝壺に向かう水の流れを見て、先程までの出来事が夢や幻ではなかったことを確信した。
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