【R18】龍の谷に白木蓮

深山瀬怜

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一・慟哭

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「男衆もかんなぎ様も全員やられた! 鬼が来るぞ!」

 五月蠅い半鐘の音と騒ぐ大人たちの声を聞きながら、少女は母である緑波リョクハの着物の裾をしっかりと掴んでいた。男衆がやられてしまったということは――少女はそれが何を意味するかを理解できる年齢にはなっていたが、考えないようにしていた。夫の死を悟って緑波は嗚咽していた。しかし一刻の猶予もない。邑長むらおさの息子である宿堤スクテが緑波をほとんど引きずるようにして滝へ向かう。そこにはこの邑で古くから祀られている龍神が棲まう社があった。

「龍神様のところまで逃げれば、龍神様がなんとかしてくださる。だから」
「いやぁぁああっ! 私の……私のせいで……!」
「しっかりしろ、緑波! お前が守ってやらねばその子も鬼に食われてしまうぞ!」

 龍神の社は龍の谷と呼ばれるこの邑を出て、山を暫く登ったところにある。男の足であれば苦労せずに辿り着ける場所だが、少女と泣き叫ぶ女を連れて逃げられる距離にはない。

「っ……ここで迎え撃つほかないか……!」

 宿堤が腰に佩いていた太刀を抜く。宿堤は鬼が邑に入らないように食い止める使命を持った男衆たちと比べても遜色ない実力を持っていた。しかし相手は男衆も巫も全滅させるほどの鬼だ。幼い子供と半狂乱の女を庇いながら勝てる自信はなかった。

「――来たか。鬼よ、この邑をお前の好きにはさせぬぞ!」

 少女はそのとき、鬼というものを初めて目にした。それがどういうものなのかは父母からよく聞かされていた。父は長らく男衆を務め、母は先代の巫として鬼と立ち向かっていた。けれどこれまで邑に入り込む前に押しとどめられていたので、その姿を見ることはなかったのだった。
 鬼には様々な姿がある。ある鬼は人間の姿に角と牙を生やしている。別の鬼は巨大な蟲の姿。そのまた別の鬼はその蔓を蠢かせる異形の植物。そして目の前にいる鬼は、小さな蜂の群れのように見えた。

「お前だけでも逃げろ!」

 宿堤は少女に向かって叫ぶ。力を尽くしても分が悪い相手だ。巨体であれば切りつければある程度動きを封じることができる。しかし小さくて数が多いものは巫の力がなければ対処が難しい。緑波の説得は不可能とみた宿堤は、せめて小さな命だけは守りきろうと心を決めていた。

「でも……かあさまが」
「お前の方が足が遅いんだ。なあに、すぐに追いつくさ」

 宿堤は笑みを浮かべる。けれど男衆と巫を殺したその小さな鬼の群れの向こうに別のものを見つけ、宿堤は顔を引きつらせた。宿堤は唇を噛み、少女の目を閉じさせる。

「いいか、ここから真っ直ぐ走れば龍神様の社がある。いいと言われるまで決して目を開けるな」

 まだ幼い少女にそれを見せるわけにはいかない。宿堤に促され、少女は目を閉じて、動かない足を必死で動かそうとする。

那久弥ナグヤ様!」

 しかし耳朶を打った母の声に少女は思わず目を開いてしまった。それは紛れもなく父の名だったからだ。緑波は小さな鬼の群れなど気にせずに走り出してしまう。宿堤はそれを必死で引き留めようとするが、緑波はそれを強い力で振り払った。
 けれど緑波が目指した愛する者の姿は、既に変わり果てていた。体中を這う黒く醜い模様。そして大きく伸びた牙と角。それはもはや父ではなく、鬼でしかなかった。けれど愛する者の面影をそこに見てしまったのだろう。緑波は脇目も振らずに父だった鬼の胸に飛び込み、そして――、

「よせ、緑波! そいつはもう……!」

 宿堤が叫ぶが、時既に遅しであった。
 鬼の鋭い爪が伸び、緑波の体を串刺しにする。母の背中に滲む赤が少女の視界を埋め尽くしていた。鬼はそのまま緑波の体からその手を抜いた。鬼の手には赤黒い何かが握られている。それが母の心の臓であることに気付いた少女は叫び声を上げようとした。しかし喉が凍り付き、声らしい声は漏れることがなかった。
 鬼は取り出した心の臓にかぶりつく。人の心臓は鬼の好物だ。そこに最も霊力が宿っているからだ。先代の巫であった緑波はその力の多くを失ってはいたが、それでも並の人間よりは高い霊力を有していた。
 緑波の心の臓を食みながら鬼がにぃ、と嗤う。少女は目の前の光景を必死で否定しながら後退った。宿堤が少女を庇うように手を広げる。

「どうして……」

 父と母は間違いなく愛し合っていた。昨日までは幸せに暮らしていたのだ。鬼が出たと言われ父が出かけていって数刻で何もかもが壊れてしまった。半狂乱になって父だったものに向かっていった母。その母を鬼の本能で殺し、心の臓を貪り食う父。心臓が軋むような音を立てる。少女は着物の左胸あたりを掴んだまま、喉から血が出るような絶叫をあげた。

 ――その時だった。
 小さな蜂のような鬼たちが一瞬にして消し飛び、その後ろにいた男衆や巫の成れの果てたちも、その場に倒れ込んだ。宿堤は目の前で起こったことが信じられず、泣き叫ぶ少女を振り返る。

「……何てことだ……この力は」

 鬼は人の霊力を糧とするが、それは同時に毒にもなる。その霊力に浄化の力が加わると、鬼の穢れが祓われてしまうのだ。
 少女は無意識にその力を使い、巫と男衆ですら勝てなかった鬼を一気に浄化してしまった。鬼にされてしまった者達の浄化には力が足りなかったが、どのみち彼らはもう手遅れであった。宿堤は少女を宥めるように、その小さな体を抱きしめた。

***

 龍神は長き眠りの中にあった。
 龍とはもとより長く眠るが、龍神はその中でも多くの眠りを必要とした。その場所に根を下ろし、眠ることが、邑を豊かにする清き流れを護ることでもあった。
 しかし強い力を感じ、龍神は眠りから醒めた。
 青みがかった銀色の鱗を持つ龍の姿から、鱗と同じ髪の色を持つ幼い子供の姿へと転じる。龍神の社は水で満たされている。白い手でその水面に触れると、少し離れた邑の様子が水鏡に映し出された。

「……先程のは、この娘の力か」

 まだ幼い少女だ。けれど龍神の目を覚まさせる程の力の奔流を感じた。この邑でも数百年は現れたことのないほどの力の持ち主だ。鬼を一瞬で蹴散らすほどの霊力。しかし少女は自分が何をしたのかもわかってはいないようだった。

「人の身には過ぎた力かもしれぬな」

 龍神はそう呟き、水鏡を消した。
 社の外からは龍神に邑の無事を祈る声が聞こえる。強い鬼の襲来。龍神が手を貸せる範囲はそれほど広くはないが、浄化の水を司る龍神の傍は安全な場所である。邑への侵入を許してしまったから、戦えないものはここに逃げてきたのだろう。

「あまり力を貸してやるわけにはいかないのだがな」

 龍神は呟き、扇で足下の水を軽く薙いだ。これで龍の谷に雨が降り注ぐ。龍神の降らせる雨もまた浄化の力を持っている。鬼は少女の霊力でほとんど倒された。鬼が持ち込んだ瘴気もこの雨で祓われるだろう。

「ああ、龍神様のお恵みが――」
「別に恵んでやっているわけではないのだが」

 聞こえないと知りつつ、外からの声に龍神は応える。今回の雨も気まぐれだ。ただあの少女のことを哀れに思ってしまったからだ。少女に何があったかはわからない。鬼に襲われたのか、親族が鬼に食われたのか。ただ、それまで表に出ていなかった力の箍が外れてしまうほどのことが起きたというのは間違いない。

「一度外れた箍は元には戻らぬ。――長生きは出来ぬだろうな」

 強すぎる霊力を持った人間は大抵が早死にする。その力を活かして戦えば、その戦いの中で命を落とす。戦わないことを選べば、膨大な霊力が居場所をなくしてその体を蝕む。長い生の中で、龍神はそうやって死んでいった者の姿を幾度も見てきた。この少女もそう長くは生きられないだろう。だから哀れに思ったのだ。

「人に情けをかけてはならない――それはわれもわかっておる。けれど雨くらいならいいだろう」

 言い訳めいた言葉を聞く者は誰もいない。けれど言わずにはいられなかった。湖面のように澄んだ青を湛える龍神の瞳には、邑がある龍の谷の更に向こうに聳え立つ黒き山が映っていた。

***

 それから七年の時が過ぎ、少女は齢十七で執り行われる成人の儀を迎えていた。
 邑の中央にある簡素な拝殿に座し、少女――木蓮モクレンは邑の女達が自分に衣装を着せていくのを身じろぎもせずに待っていた。儀式を執り行うのは邑の長の息子であり、木蓮の養父でもある宿堤だ。
 この成人の儀が終われば、木蓮は正式にこの邑の巫となる。既にこれまでの巫とは桁違いの力を有していることが邑中に知れ渡っている。木蓮が巫になることで鬼の襲来の恐怖から解放されるのではないかと噂する者もいた。

(ようやく、この日が来た)

 木蓮はこの日を待ちわびていた。宿堤の下で厳しい修行を積みながら、巫となって鬼と戦う日を心待ちにしていたのだ。巫が不在となっていたこの七年間、繋ぎのために新たに組織された男衆たちもかなり健闘していた。けれど犠牲も多かった。幼さを理由に戦えずにいたこの七年間、木蓮はずっともどかしさを感じていた。

(私なら鬼を完全に滅ぼせるかもしれないと宿堤は言った)

 木蓮の桁外れの霊力と、龍神の加護さえあればそれも可能だというのが宿堤の見立てだった。この邑を流れる清流を守護する龍神は強い浄化の力を持つ。しかし神が鬼を倒すために社から動くことは出来ないという。だから龍神はこの邑に自らの力を込めた武器を与えた。そのいくつかはこれまでの鬼との戦いで損傷し、今残っているのは宿堤の持つ太刀と、これから木蓮が譲り受ける打刀と弓の三つだけだ。

(必ず鬼を滅してみせる)

 男衆だった父は鬼との戦いの最中に呪いを受け、自らも鬼となった。
 かつて巫だった母は父と結ばれることによってその力を失った。次の巫が既に見つかっていたこともそうだが、宿堤の話では愛し合う二人をどうしても止められなかったのだという。それだけ母の愛は深く、父を失ったとわかった瞬間に半狂乱になってしまうほどだった。
 鬼だとわかっていたのに父に駆け寄った母の姿を、それを無残に殺した父だった鬼の姿を今でも覚えている。
 復讐心と、力を持つ者の使命感。それが木蓮を突き動かしていた。目的のためならどんな厳しい修行にも耐えられた。霊力を高めるための数々の制限も受け入れた。この成人の儀が終われば、ようやく鬼と戦うことが出来るのだ。

(私に力を与えてください、龍神様――)

 龍神に願うのはそれだけだった。
 鬼を倒すことが出来ればそれでいい。霊力はまたの名を神通力といい、強い者は文字通り神と通じる力を持つという。龍神の浄化の力は鬼を倒すには不可欠だ。
 儀式が終わりにさしかかり、木蓮は宿堤の手から刀を受け取った。無銘の刀だが、龍の力が込められているという。手に持った刀の清浄な冷たさに木蓮は少し驚いた。これまでもこの刀を借りたことはある。成人の儀を迎えたらすぐに戦えるように武器に慣れる必要があったのだ。けれどそのときとは違う重みがあった。

「少しの間、滝壺の社の方に置いていたのだ。冷たく感じるのはそのせいだろう。そしてお前がそれを感じ取れる力を持っているという証でもある」
「宿堤様――」
「必ずや、お前の宿願を遂げてみせろ」
「はい」

 養父であり、師匠でもある宿堤に向かい、木蓮は深く頷いた。
 木蓮は刀を佩き、再びその場に跪いた。もうすぐ儀式が終わる。しかしその厳かな雰囲気を切り裂くように半鐘の音が鳴り響いた。
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